1-5 洞窟の贄⑤

 伊織は全力で駆け出した。音叉を握りしめ、逃げ惑うロッティの元へ。


「来ちゃダメ伊織、危ないっ!」


 特攻する伊織に気付いた竜は、大口を開けてかぶりつこうとする。

 伊織が音叉を振るうと、ロッティの出した炎弾より遥かに大きい炎の球が生成され、竜の鼻っ面にぶち当たった。

 不意を突かれ大きくのけ反る竜。その隙に、ロッティの手を取り引き寄せた。

 驚く金髪少女に、伊織は早口で訴える。


召喚魔導サモンスタイルの呪文を教えて! 音叉の中にいるショパンを引きずりだせば、あいつに勝てるんだよね!?」

「伊織……あなたどうやって」

「いいから早く!」


 伊織の真剣な様子に何かを察したロッティは、魔導の呪文を紡ぎだす。


「……音を導き閉じこめられし魔導の音叉よ、御身が主の調べを、しばし解き放て」

「音を導き閉じこめられし魔導の音叉よ、御身が主の調べをしばし解き放て」


 一字一句違えず、復唱する。


「来たれ魔導士、伊織の名と身において」

「来たれ魔導士イオリ・タレイシの名と身において」


 名はさっきのロッティに倣い、フルネームとして。


「演じよショパン、『革命』を、よっ!」


 ここだ――伊織は頭をフル回転させ、ショパンの知識を引っ張り出す。


 ロッティの手順に問題がないとすれば、最後の文言が失敗に繋がったはずだった。なぜならショパンは、彼が遺した練習曲のほとんどに副題を付けていないから。

 『革命』という愛称も死後命名されただけで、ショパンはこの曲がそう呼ばれている事を知らない。


 一八三〇年、故郷ポーランド・ワルシャワで起きた十一月蜂起。当時オーストリアのウィーンに滞在していたショパンは、ロシアに対抗するポーランド革命運動に参加できない苛立ちを、ピアノにぶつけて作曲した。


 だからショパン。僕が君に伝えるべきは――。


「演じよピアノの詩人、フレデリック・フランソワ・ショパン。ピアノ練習曲エチュードハ短調Op.10-12……友人フランツ・リストに捧げた曲。ワルシャワの絶望をピアノにぶちまけた――『革命』の旋律となりて!」


 刹那、背中に人の気配を感じた。振り返るまでもなく、背後の人影は伊織の横に並び立つ。

 赤茶色の癖毛とハシバミ色の瞳を持つピアノの詩人ショパンは、まるで幽霊のように全身が透けていて、ゆらゆら宙に浮かんでいた。


 続いてガンと、意識が激しく揺さぶられ、誰かが頭の中に入ってくる。

 その衝撃で手にした音叉を落としそうになり、伊織は自分の右手を見た。

 視界の端で並び立つショパンも、同じポーズで右手を見つめている。


 いや……もう目の前の手が自分の右手なのかショパンの右手なのか、分からない。

 視覚、触覚、聴覚……意識さえも、伊織と幻影ショパンは共有していた。

 その奇妙な感覚に驚くも、伊織は薄っすら思い出してきた。


 この感じ、初めてじゃない。

 そうだ、あの時は五感の共有どころか意識のほとんどを奪われていた。だから記憶が曖昧で……。でも今は違う。目の前の光景を四つの目ではっきり見通せている。


 伊織は伊織であると同時にピアノの詩人、フレデリック・フランソワ・ショパンなのだ。


 そう認識した瞬間、ロッティに音叉を投げ渡していた。

 同時に、幻影ショパンの目の前に半透明の鍵盤が現れて、二人は当然のように両手をかざす――が。


 伊織は弾かれたように左手を引いてしまう。

 隣のショパンも、同じく左手を引いている。


 ダメだ。

 やめてくれ。

 僕はもう、ピアノが弾けないんだ!


 ――大丈夫、君は弾けるよ。


 隣のショパンが囁いた。いや、自分で言ったのか。

 分からない。もう僕とショパンを区別するものは何もない。

 引いた左手で赤茶けた前髪を払うと、ハシバミ色の瞳で鍵盤を見据え再度両手をかざす。


 ショパンの練習曲エチュードハ短調Op.10-12『革命』が、洞窟内にこだました。


 ショパンのピアノ演奏が始まると、ロッティは真紅のオーラに包まれた。

 激しい旋律をバックに、みなぎるパワーが金髪少女を包み込む。瞬時に全てを理解したロッティは、段違いのスピードで炎竜に飛び込んでいく。


 前肢の爪攻撃を難なく音叉で弾き飛ばすと、高らかに響く標準音Aの音と共に、滾る岩漿がんしょうを音叉に宿す。マグマの塊を携えて、ロッティは巨竜の喉元めがけ大きくジャンプした。


 幻影ショパンと意識を共にする伊織は、宙を踊る自分の両手に驚きを隠せない。

 痛みを感じないからじゃない。怪我する前より遥かに速く、恐ろしいほど正確に、『革命』のエチュードが演奏できているからだ。


 どの出版社の楽譜をあたっても、『革命』に指定されたテンポは四分音符=一六〇。その速さを守って弾けるピアニストの、なんと希少な事か。多くの弾き手は自分の解釈はこうだと言い訳し、テンポの遅い『革命』を弾いている。


 ショパンの音楽はそんな演奏ものじゃない! そう豪語して朝から晩まで練習に明け暮れるものの、理想は遠く及ばない。

 上達よりも歯がゆさばかりが積もり、天才ショパンに嫉妬する日々。


 それがどうだ……ショパンとなって弾く『革命』のピアノは、思い通りの調べを奏でられている。

 速いテンポで弾いても、粒だった音に他の音が一切混じらない。ひとつひとつの音符が生き生きとしっかり鳴って、音の連鎖が連なっていく。

 その旋律が力となり、ロッティの全身に降り注いでいる事も分かる。


 召喚魔導サモンスタイル――顕現した幻影の音楽家が、魔導の音叉を持つ者に特別な力を与える演奏を披露する……これが魔導の奏者、音叉魔導士なのか。


 一方、マグマを携え飛び込んでくるロッティに、炎竜は大口を開け待ち構えていた。

 元々火炎を吐く口だ。召喚魔導サモンスタイルで強化されていようとも、同じ炎なら耐えられる。口腔内で受け止めて、全てを噛み砕いてしまうつもりなのだ。

 ついでとばかりに竜は炎のブレスを吐いた。ロッティは正面からまともに食らってしまう。


 しかし彼女を包み込む『革命』のオーラは炎のブレスを寄せ付けない。

 白い頬をほんのり染めただけで、ロッティは炎の川を逆走し、そのまま竜の口に飛び込んだ。


 丸呑みに口を閉じた炎竜は、鬼気迫る咆哮を上げるとたまらず口を開く。赤黒いマグマと共にロッティを吐き出すと、激しくえずきのたうち回る。


 顔を上げた炎竜の口内は、酷い火傷で爛れてしまっていた。

 慌てて水場に駆け寄り巨体を縮こませる竜に、ロッティは音叉を振りかざす。


「炎竜よ、あなたの故郷に帰りなさい! そして仲間に伝えるのよ。ジェラゾヴェイの森には守護者がいる。炎の竜すら地獄の業火で焼き尽くす、音叉魔導士と共鳴士が、とね」


 少女の慈悲を悟ったか、すっかり戦意を失くした炎竜はよろよろと洞窟入口に引き返すと、翼を広げて夜空に飛び去っていった。

 ショパンと伊織が『革命』を最後まで弾き終わると、幻影と幻の鍵盤は跡形もなく霧散していった。


「伊織~っ!」


 駆け寄るロッティにそのままの勢いで飛び付かれ、受け止めきれなかった身体が大きくふらついた。倒れそうなところを、ロッティが慌てて支えてくれる。


「すごいわ伊織! あなたやっぱり、魔導士だったのね!」

「何の事か、さっぱりだよ……」

「それなら……伊織のピアノ、すっごくカッコよかった! 最高の演奏だったよ!」


 屈託なく笑うロッティに、返す言葉が見つからない。久しぶりに聞く演奏への賞賛に、涙混じりの会釈を浮かべるだけで精いっぱい。そのまま精も根も尽き果てて、へなへなと地面に崩れ落ちてしまう。

 金髪少女の腕の中、安堵と一緒に強烈な眠気が襲ってくる。


 伊織は静かに目を閉じた。

 たちまち頭の中にショパン『別れの曲』が流れ始め、瞼の裏に千里の顔が浮かんでくる。


 ショパンらしい感傷的な旋律と妹の泣き顔は、物哀しくもどこか儚く美しい。

 でもなんだろう。この胸に押し寄せる郷愁の想いは。

 その正体を探ろうにも、疲れ切った身体がショパンと金髪少女の膝枕に抗えるはずもなく。


 伊織はあっけなく、深い眠りの底に落ちていった。

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