第4話 ティルティの想い

 私の名前はティルティ。前は家名もあったみたいだけど、お母さんが家を追い出される時に一緒に捨てたみたい。


 私はずっと、お母さんと二人きりで生きてきた。


 狭い路地の裏で、目がぎょろぎょろした怖い大人達からひっそりと隠れるように過ごす毎日。


 “しょーかん”ってところで働くお母さんを毎朝見送って、夜遅くに帰ってくるまでずっと一人だったから……毎日が、すごく怖かった。


 食べ物を奪われるなんていつものこと。


 大人に殴られたことも一度や二度じゃないし、子供だってみんな敵しかいなかった。誰も彼も、みんな私から奪うばかりで、抵抗すれば殴られる。


 私に優しくしてくれるのは、世界でただ一人、お母さんだけ。


 この世で信頼出来るのはただ一人、お母さんだけ。


 だから、お母さんさえいれば他に何もいらない。このまま、二人きりで生きて行けたら……そう思ってた。


 でも……お母さんは日に日に痩せ細っていって、どんどん元気がなくなっていった。


 そのせいで、“しょーかん”のお仕事も無くなっちゃったみたいで、毎日のご飯が更に酷いものになっていった。


 カビが生えたパンでもあるだけマシ。誰かが捨てた生ゴミの中から、少しでも食べられそうなものを探して齧る、ドブネズミみたいな生活。


 そんな状態で、お母さんの体調が良くなるわけがない。今にも死にそうなお母さんを見て、私はその日初めて、お母さんとの約束を一つ破った。


 大きなお店で、盗みを働いたのだ。


 初めてやることで、上手くなんていくわけがない。捕まって、ボコボコに殴られて……そんな私を助けようとしたお母さんが、目の前で殺された。


 本当に、あっけないくらい一瞬のことだった。

 殴られてる私を助けようとして、大きな男に飛び掛って……殴り返されて、倒れたお母さんはそのまま動かなくなってしまった。


 地面にゆっくりと広がっていく真っ赤な血の色を、私は一生忘れられないと思う。


 お母さんが死んだショックで呆然としていた私は、その後何があったのか、ぼんやりとしか覚えてない。


 こんなのでもダメになった商品の補填にはなる、とかなんとかで、端金で売り飛ばされて。


 鎖に繋がれ、私が生きてきた路地裏よりも酷い目をした人達に囲まれて。


 もう……何も見たくない。何もしたくない。このまま死んでしまいたい。


 そう思っていたのに、気付けば私は助け出されていた。


 悪い人を捕まえる、貴族の騎士たち。

 そんな彼らに、牢屋の中から引っ張り出されて……気付けば、そんな騎士の中で荷物の整理とかをしていたおじさんに、養子にするって引き取られた。


 もう、どうなろうと私には関係ない。もうお母さんもいない、私に優しくしてくれる人はいない、だから全部、どうでもいい。


 そんな風に思っていた私を……おじさんの子供だっていう男の子が、いきなり抱き締めてきた。


「お前みたいに可愛い妹が出来て、すごく嬉しい。今日からよろしくな、ティルティ」


 真っ黒な髪に、真っ黒な目をしたその子は、私を抱き締めたままそう言った。


 ……貴族は怖い人ばかりだって、お母さんは言っていたはず。


 少しでも失礼な態度を取っただけで怒鳴られて、最悪そのまま殺されるかもしれない悪魔みたいな人ばっかりだって。


 なのに……その子は、私が来て喜んでる。


 こんな……泥だらけで、鼻が曲がりそうなくらい臭くて、私だって進んで触りたいと思わない今の私を、当たり前みたいに抱き締めてる。


 どうしてそんなことするのか、意味が分からない。


 本当は、何を考えてるのかすぐに聞き出したかったけど、ボロボロだった私の体はすぐに限界が来て、そのまま眠ってしまった。


 次に目が覚めた時、見たこともないくらい広くて綺麗な部屋にいて、びっくりするくらいふかふかのベッドに乗っていて、汚れてない新品みたいな服を着せられていて……何だか、怖くなった。


 私をこんな風にして、何がしたいの?

 私にはもう、何も無いのに。


「ティルティ、起きてるか?」


 せめて余計なことをしないようにって、その場でじっとしていると、さっきの男の子が部屋にやって来た。


 名前は……確か、ソルド。私のお兄さんになるって言ってた人。

 なんでも、おやつを持ってきてくれたらしい。


 透明で、ドロっとした、見たこともないお菓子。

 バカになった私の鼻でも分かるくらい、甘くて美味しそうな匂いが漂ってきて、気付いたら口の中が涎でいっぱいになっていた。


 こんなの、生まれて初めて。

 お腹がきゅうって鳴った音、この子に聞かれてないといいけど。


 とりあえず、お腹の音は聞こえなかったのか、ひたすらその……みずあめ? の話をし続けてるけど、全部無視した。


 知らない人から物をもらっちゃダメだって、お母さんから教わったから。


 でも……私が目すら合わせようとしないで拒絶していても、その子は部屋から出ていこうとしない。


 かといってしつこく“みずあめ”を勧めてくるでもなく、なぜかじっと私の傍にいるだけ。


 ……そんな時間に耐えきれなくて、気付けば私の方から話し掛けていた。


 どうして、私なんかに構うの?


 私なんて、何の価値もないのに。


「どうしてって、家族になるなら気にするのは当たり前だろ?」


 そう言われて、私は自分でもびっくりするくらい頭に来た。


 私の家族はお母さんだけ、あなたなんか家族じゃない!


 そう拒絶した私を、その子はそれでも見捨てなかった。

 放っておけないから、助けられたら気分が良いから、そんな風に言って、ずっと私の傍から離れようとしない。


 ……もう、いっそ早く“みずあめ”を食べてしまえば、この子も満足して出ていくかもしれない。


 そう思って、私は半ばひったくるようにして受け取ったそれを、ぱくりと食べた。


 ……あまりにも美味しすぎて、自然と涙が零れてきた。


「ふぅ、ぅ、うぅ……!!」


 こんなに美味しいもの、今まで一度だって食べたことない。


 お母さんは……食べたこと、あったんだろうか。

 生きているうちに……一緒に、食べたかった。


「そうか。好きなだけ食べろよ、もうここには、お前を傷付ける奴なんていないから」


 その言葉を聞いて、私はやっと分かった。


 私は……お母さんさえいればそれでいいなんて、そんなことこれっぽっちも思っていなかったんだ。


 本当は、お父さんが欲しかった。私も、お母さんのことも、悪い人から守ってくれる強いお父さんが。


 本当は、お姉ちゃんが欲しかった。私が辛い時、ずっと一緒にいて慰めてくれる、優しいお姉ちゃんが。


 本当は……お兄ちゃんが欲しかった。寂しい時、こうやってそっと私を撫でて、温かい気持ちにさせてくれる……心から大好きだって言えるお兄ちゃんが。


「うぅ、うぅぅ……!!」


 ずっと欲しかった家族が、今ここにいる喜び。

 ずっと支えてくれていた家族が、今ここにいない悲しみ。

 ずっと私達を苦しめてきた地獄への恨み、お母さんを捨てた“誰か”への憎しみ。


 色んな感情が混ざり合って、自分の気持ちなのに自分でもよく分からないくらいぐちゃぐちゃになってる。


 だけど、今は……今この瞬間だけは。


 新しい“お兄ちゃん”の温かさに甘えて、ただ泣いていたい──


 そんな私の、口にも出さない我儘を、お兄ちゃんはただ黙って叶えてくれて。


 私は我慢出来ずに、自分からお兄ちゃんの胸に縋り付くのだった。

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