第二章、日本デスゲームの誕生――裏社会とゲーム

2-1、『BR』の衝撃

これはダメな大人です。

みんな、こんな大人にならないように、気を付けましょう。

――キタノ




 1998年に行われた角川書店主催のホラー専門小説新人賞、第5回日本ホラー小説大賞は、大賞・長編賞・短編賞の全部門で受賞作なしという悲惨な結果に終わっている。デスゲーム史においてこの新人賞の結果がとりわけ重要であるのは、長編部門に応募されて最終候補まで残った作品の中に、キング『死のロングウォーク』に強く影響を受けた、とあるデスゲーム作品が存在するためである。

 最終選考の選考委員を務めたのは、荒俣宏、高橋克彦、林真理子の3名(景山民夫も参加予定であったが、急逝のため不参加となった)。この3名がどのような考えで上記デスゲーム作品を選外としたのかについては既に多くの文章が費やされているが、改めてこの場で簡単に検討しよう。

 まず、いずれの選考委員も「ストーリーや構成、ネタという点では、これが一番うまくできてた」(荒俣)、「小説的な結構ということではいちばんに秀れている」(高橋)、「小説としては、この四編の中でいちばんウマイ」(林)とし、当該作の技量を充分に評価する。

 一方で、その暴力的な内容や、TV番組からのパロディ要素について触れながら、「やっぱりちょっと問題がありすぎる」(荒俣)、「ホラー大賞のためには絶対マイナスだと思う」(高橋)、「こういうことを考えるこの作者自体が嫌い」(林)として、当該作のいわば品性を問題視する発言が目立つ。

 つまり、いずれの委員も本作の小説的技量を評価しつつ、その暴力やパロディ要素などの品性的に劣る(と目された)箇所を問題にして、当該作を選外としたのである。

 かくして当該作は選外となり、それ以外の最終候補作も全て落選するという事態になってしまった。しかしその後、紆余曲折を経、当該作は出版までこぎつけることとなる。一体何が起こったのか。

 まず、角川書店刊行の雑誌『本の旅人』に上記第5回日本ホラー小説大賞の選考過程が掲載され、公開される。続いて、歌人にしてエッセイストの枡野浩一が選考過程を読み、過激な内容のために落選した当該作に興味を持ち、白夜書房刊行の『賞とるマガジン』のコラムにて「……面白そうではないか」と言及する。

 そして、太田出版の編集者である赤田祐一が、コンビニで『賞とるマガジン』を立ち読みして当該作の存在に興味を持つ。赤田は自身が発行人を務める『クイック・ジャパン』にて当該作の作者を尋ね人として告知する。それに知人経由で反応をした作者から赤田は原稿を受け取り、一読の後、即座に出版を決める。このような数奇な経緯の末、当該作は角川書店ではなく、太田出版から刊行に至るのである(後に幻冬舎から文庫化)。

 さて、当該作のタイトルをいい加減、ここで発表することにしよう。そのデスゲーム作品とはすなわち、高見広春の『バトル・ロワイアル』である。


 『バトル・ロワイアル』がいかなる小説作品なのか。あらすじから見ていこう。

 国家社会主義体制が敷かれている極東の島国「大東亜共和国」。共和国では、防衛上の必要のため「プログラム」と称される戦闘シミュレーションが毎年行われていた。その内容は、全国の中学三年生から任意に50クラスを選んで特定エリア内に隔離し、最後の一人になるまで互いに戦わせるというものである。そして今年のプログラムに、香川県城岩町立城岩中学3年B組も選出された。

 管理者である坂持金発に脅しつけられるままクラスメイトを殺害する者。殺し合いをよしとせず自死を選ぶ者。なすすべなく殺される者。そして喜々として殺戮を繰り返す者……プログラムは人の本性を暴き立てていく。そのような中で、3年B組の生徒の一人である七原秋也は、想い人である中川典子を守るべく、途中で協力関係を結んだクラスメイトの川田章吾とともに、プログラムを渡り歩くことになる——。


 本作は、第1章で見たデスゲーム作品と比較して、どのような特徴を見ることができるか。既存作品を踏襲している点と、革新的な点の二つに分けて見ていこう。

 まず既存作品を踏襲している点は、①ディストピアものであること、②戦禍を意識していること、③長大で重厚な描写の3点である。

 ①について、本作は大東亜共和国という、日本が国家社会主義による独裁政治制を採用したことによって誕生した架空の国家を舞台としたディストピアものである。②について、作中でプログラムが実施される目的は、防衛上の必要のためという建前だが、実際は見知った者同士の殺し合いを国民に見せつけることで、人々の団結の意気を削ぎ、革命勢力の発生を未然に防ぐことにある。これは、共和国が強烈な反米国家であるという国際情勢上の理由にも求めることができる。共和国がプログラムで抑制しているのは、革命による国力低下により米国に劣後することなのである。ここに、史実における冷戦期的な、静かな戦禍の兆しを見ることができるだろう。そして③について、香川県城岩町立城岩中学3年B組の生徒42人がいかにしてプログラムを歩み、そして死んでいくかを一人残さず活写している。

 続いて革新的な点を見ていこう。それは、①描写の過激さ、②露骨なパロディ要素、そして③TVショウ的要素の欠落である。

 ①について、これは既存作品を踏襲している点の③の副次的な効果のためでもあるが、生徒の死亡シーンはこれまでのデスゲーム諸作品に比べて克明かつ残虐である。②について、主人公の七原が所属する学級が3年B組であること、そしてプログラムの管理者の名前が坂持金発であること、これは明らかに学園ドラマ「3年B組金八先生」のパロディである。坂持のキャラクターは強烈で、作品終盤まで幾度とその存在感を発揮する。とはいえ、パロディの要素がいたずらに多いというわけではなく、あくまでコメディリリーフとして強烈なパロディキャラクターを1人創造したというバランス感覚があるようにも見受けられる。

 そして最後に、③TVショウ的要素が欠落していること。これは、デスゲーム史を見る上で特筆すべき点である。まず、プログラムの模様は大衆にTV番組などで放送されている訳ではない。マスコミがプログラムの経過を発信するのは、プログラムの全過程が終了した後、生存者が決定してからである。それに、大衆はプログラムの開催を歓迎している訳ではない。作中ではプログラムが開始されてしばらくは反対運動が起きたと述べられている上、先述した通りプログラムの開催意図は人々の団結の意気を削ぐためのものであって、TVショウ的な異形の興行として催されるものではない。

 まとめよう。『バトル・ロワイアル』はディストピア上で描かれる、冷戦期的な静かな戦禍を予感させるデスゲームものである。その長大で重厚な描写力はこれまでのデスゲームものにはない過激な描写を生み、さらにパロディ要素も含む露悪的な側面もある。一方で、これまでのデスゲームものに散見されたTVショウ的な側面はすっかり欠落している。

 なぜ、このような作品が生まれたのだろうか。


 これまでのデスゲームものの多くは、少なからず現実社会の何かを諷刺する精神に基づいていたことを思い起こそう。「闘技場」は当事者同士の真剣な争いがゲームに見える皮肉、「危険の報酬」は大衆の熱狂とプレイヤーの悲劇の非対称、『死のロングウォーク』は共産主義あるいは新自由主義への厳しい視線を込めたポリティカルな視線。――それらを踏まえれば、本作『バトル・ロワイアル』にはそのような社会批評的視座がない、いやさ、そのような社会批評的視座を意図的に排除していることが分かる。

 本作はTVショウを皮肉ることはしない。むしろ金八先生のパロディを押し出して、作品それ自体をTVショウのように見立てる。現に、坂持金発という人物が現れたとき、登場人物たちは誰一人として「あいつ金八じゃね?」などといった疑義を挟んだりはしない。作品世界には「3年B組金八先生」のような作品はおそらく存在しないのだ。ならば、本作に坂持金発などというパロディ的な登場人物が現れるのは、一体誰のためか。それは、作品世界外の読者への、メタレベルのサービスでしかない。

 全体主義的体制下の日本のような国家が舞台なのはどういう訳か。高見は現在の日本の体制に対する皮肉でしかないのではないか。そのような主張も事実とは異なる。高見は、文庫版『バトル・ロワイアル』のあとがきにおいて、現実の日本の体制に不満はあれど、それは作中描かれた米国に対しても同様であるといったことを述べ、相対化を図っている。

 付言するならば、高見は後に刊行された『バトル・ロワイアル』研究書『バトル・ロワイアル・インサイダー』のエピローグにおいて、「なんでこんなものを書こうと?」と訊かれたことに対し、自分の精神分析には興味がないとしながら、「あらゆる場合に重要なのは、そこに物語が"きちんと、まっとうに、りっぱに"存在することであり、そこから僕たちそれぞれがそれぞれに何を受け取るのかということ」だと述べる。また、「暴力衝動でも不感症でも、役に立つならそれを使うだけのこと」だとも述べる。

 つまり、高見にとり、『バトル・ロワイアル』で目指したことは、単に、物語のプロット構築を真摯に行いながら娯楽を提供することであって、それ以上の社会的意義を込めてはいないのである。そして、暴力などの要素も、物語のための素材に過ぎない。物語の舞台にするために(前章で述べた通り、デスゲームを開催する非現実的なフィールドを要請するために)独裁国家を必要とするが、わざわざTVショウへの諷刺の要素などを込めたりはしないのである。これは、人類史を引きながら自らを含む数多くの現実存在に諷刺の矛先を向けた「デス・レース2000年」よりも、娯楽性のみを一途に提供する方針をさらに純化させた態度に見える。

 すなわち、デスゲームものは『バトル・ロワイアル』において、明確に「ゲーム」になったのである。

 今日から見ればそれも頷ける。なんとなれば、最初に本格的に「デスゲーム」と称され、今日の「デスゲーム」というジャンルを流布させる切欠となった作品は、当の『バトル・ロワイアル』なのである。




 ここで少々話を脱線させて、そもそも「デスゲーム」という言葉が本邦でどのように用いられてきたのかを概観しよう。

 以前筆者は「デスゲーム」という語彙について独自に調査を進めたことがある。その結果、今日的な意味でのデスゲーム、すなわち、人の生死が遊戯的な営みに左右される物語のジャンルを指す言葉としての「デスゲーム」は、少なくとも1979年5月の時点で用いられていたことが判明している(詳細は筆者がXにて投稿したポスト群「デスゲームの起源」全3回を参照のこと)。

 とはいえ、この事実は1979年の時点で「デスゲーム」という言葉がメジャーであったということを意味しない。むしろ、90年代後半まで「デスゲーム」は「命の駆け引き」といったような広い意味で用いられていた側面が強い。『死のロングウォーク』が日本語訳されて扶桑社から刊行された1989年以後も、1990年2月の「オール読物」の書籍紹介欄で、当該作のゲーム内容を称して「デスゲーム」という言葉が使われた事例が一件あるのみである。一ジャンルを示す言葉として市民権を得ていたとは言い難い。

 この傾向を覆した作品が、『バトル・ロワイアル』である。

 本作初版の裏表紙に記載されたあらすじには、「ギリギリの状況における、少年、少女たちの絶望的な青春を描いた問答無用、凶悪無比のデッド&ポップなデス・ゲーム小説!」とある。

 「デス・ゲーム小説」という呼称は、本作の帯や文庫化以後のあらすじにもたびたび用いられる。この呼称は、「デスゲーム」のそれまでの用例とは独立に、太田出版編集部によって、キャッチーな宣伝文句として考案されたものと見てほぼ間違いはないだろう。

 著者の高見自身も「デスゲーム」という呼称を意識的に用いていた様子が見受けられる。以下は高見が本作の執筆の経緯について、「ユリイカ」1999年12月号で述べた内容である。


「スティーヴン・キングが書いている、『ロングウォーク』というデスゲーム小説がまず頭にあって、で、あと『金八先生』とでデスゲーム小説を書こうと。ルールはバトルロイヤルでやろうと、それだけのことだったんですけどね。」


 先にも述べたように『死のロングウォーク』が「デスゲーム小説」と頻繁に称されていた形跡は見受けられない。『バトル・ロワイアル』が「デスゲーム小説」とジャンル付けされたために、高見は本作のインスピレーション元である『死のロングウォーク』を改めて「デスゲーム小説」と呼称しようとした、ということであろう。


 「デスゲーム」という呼称は、『バトル・ロワイアル』の宣伝文句として考案され、本作が大ヒットを飛ばすことによって語彙として認知度を向上させるに至った。

 これまでに見てきた通り、『バトル・ロワイアル』は「デスゲーム」の呼び名を生み出し、さらに娯楽性に特化することによってデスゲームもの物語の型を作り出した、デスゲームの草分けとも称することができる作品なのである。

 しかし、「デスゲーム」が市民権を得るまでにはまだ遠い。「デスゲーム」が真に確立されるには、翌年に起こったとあるイベントを待たなければならない。そのイベントとは、「仁義なき戦い」などのメガヒット作を生み出したことでも知られる映画界の大御所、深作欣二監督による劇場版「バトル・ロワイアル」の公開である。




 『バトル・ロワイアル』の刊行後、太田出版に対して本作の映画化オファーは全部で11件あったという。高見はこの11件に対して、映像化に際しての覚書を送付した。この覚書には、原作の忠実な映像化であること、脚本の協議および監修に高見自身も参加することなどが条件に含まれていたという。

 この覚書に対するリアクションとして企画書が送付されてきた4件のうち、高見と編集部の協議の末2件に絞り込み、残った2件から高見自身が深作組を選択した。

 高見はこの選択の理由として、①東映系での配給を予定した全国公開であること、②深作の監督としての腕を信用してのことの2点を挙げているが、それとは別に、深作自身の強い熱意を感じたとも述べている。

 深作はなぜ、本作の映像化を強く希望したのだろうか。


 曰く、深作は原作の帯の惹句「中学生42人皆殺し!?」を読み、かつての戦争体験を想起したのだそうだ。

 太平洋戦争末期、当時水戸の軍需工場に駆り出されていた深作少年は、米軍の艦砲射撃に遭遇したという。幸いにも深作自身は無事であったが、学友や民間人が目の前で砲撃される瞬間を目の当たりにし、さらにバラバラになった遺体をかき集める作業にも従事させられたそうだ。

 この体験からかねてより「人が死ぬ映画を真面目にやらなきゃいかん」という思いを抱いていた深作は、帯の惹句から興味を持った『バトル・ロワイアル』の原作を読み、制作を決意するに至るのである。

 しかしながら興味深い点は、映像化にあたり、深作がとある改変を加えていることである。それは、作品の舞台を、架空の国家である大東亜共和国から、現実の日本に変えている点である。

 深作はこの改変の理由を、先にも紹介した『バトル・ロワイアル・インサイダー』内のインタビューの中で、大東亜共和国などという架空の「どこにあって、どういう国で、どういう歴史を持っている」のかはっきりしない国が舞台では、深作の世代の人間には死や行動様式をビビッドに受け止めることができないからだと語っている。そしてまた、現実のバブル崩壊後の日本に残る、「説明のつかないどす黒い憎悪の渦巻きみたいなもの」を映画の中で表現したいとも語る。

 この改変点から、深作は作中で描かれる暴力や死を通して、一種の現実を瞥見するリアリティを表現したいと考えていたのだと考えられる。

 深作の物語に対するこのスタンスは、先に述べた通り原作者の高見のものとは全く異なる。高見の目的は、物語のプロットを真摯に行いながら娯楽を提供することであり、暴力はその素材としか考えていなかった。一方で深作の目的は、現実の人の死や暴力の重みや負の感情を、娯楽的な要素を通じて観客がビビッドに受け止められる作品を作ることであった。

 高見と深作が通じ合った理由は、言葉を選ばずに言えば、高見のストーリー構築能力の高さや描写力の高さと、暴力という素材選びの偶然性でしかないだろう。深作はインタビューの中で、戦争体験がなければ、高見の作品を落選させた委員と同じことを言ったかもしれないとしながら、また高見の作品には「面白い」部分と「相容れない」部分があるとも述べている。その「相容れない」部分には、先に記した舞台となる国家の扱いについても含まれているだろうし、もっと根本的な、死を「ゲーム」的に扱うという態度についてもそうだっただろう。

 それがうかがえる一端が、作品撮影後に行われたインタビューに現れている。どうやらオーディションに参加してきた子どもたちの中には、生々しい現実感あるバイオレンスの感覚よりも、迫力を欠いたゲーム的な感覚に依存している者が多かったようで、「彼ら自身の中にあるゲーム的な感覚を、なんとかこっちの側に引き寄せられないか、と」と苦慮した様子がうかがえる。


 しかし、果たして劇場版「バトル・ロワイアル」において、深作の目的がどこまで果たされたのかについては疑問が残る。先にも述べたように、高見は映像化のオファーに対し、原作の忠実な映像化であることや、協議や監修に高見自身も参加するという条件を付した覚書を送付している。高見と太田出版編集部の、原作のプロットを守りたいという思いは生半可なものではなかったのである。

 これは筆者の憶測でしかないが、高見の原作プロットを厳守するこの姿勢のために、ストーリーラインの改変をあきらめざるを得ない部分も深作にはあったのではないだろうか。


(……改変と言えば、ゲームの管理者である坂持金発の名前が、演者である北野武の名前に合わせて「キタノ」と改変されている点はあまりに奇妙ではないか? 版権の事情があるのは理解できるが、この改変のせいで、3年B組生徒の北野雪子と、管理者キタノの名字が被るというややこしい事態も発生している。そうまでしてこの改変は必要だったか? 深作は高見の方針に相容れない部分を感じつつも、作品外の観客に対してメタレベルのサービスを提供することには同意していたのか?)


 ともあれ、劇場版「バトル・ロワイアル」は30億円を超える興行収入を生み出し、商業的に成功を収めた。本作は特に西洋の論客によって快く受け入れられ、これにより和製デスゲームものが国際的に存在感を発揮する足掛かりを得ることもできた。

 これは真偽不明の情報であるが、今日多数のユーザーを獲得している「PUBG」や「フォートナイト」、「エーペックスレジェンズ」などのバトルロイヤル系ビデオゲームの発想は、元を辿れば『バトル・ロワイアル』に通じるのだという。これは本稿では検討しきれない問題であるが、非常に興味深いテーマではある。

 新人賞落選という衝撃的な幕開けではあったが、奇妙な偶然から出版、そして映像化に至った『バトル・ロワイアル』は、今日のデスゲームの形を名実ともに確固たるものとして生み出した、デスゲーム史上最も重要な作品なのである。




 高見は、娯楽を提供するためにストーリーラインを真摯に構築することを第一とし、暴力などの要素は物語の素材としてしか扱わない。深作は、娯楽を通じて現実の暴力や死、負の感情の重みをビビッドに表現したい。――そのような両者の思想の違いをすり合わせるような形で、劇場版「バトル・ロワイアル」は誕生したと言えよう。この両者の思想のすり合わせは、映画作品の中に、その後のデスゲームの方向性を決定づける、二つの革新性を生み出したと捉えることもできる。それは、①舞台がディストピアという異世界ではなく、現実の世界となったこと、②ストーリーラインを明確に構築し、純粋に娯楽を提供する態度を保ったこと、である。

 ①は、深作の主張により原作から改変が認められた箇所である。これまでディストピアなどの異世界が主流であったデスゲームものだが、その舞台が現実に変わった。これにより、深作の企図していたリアリティの表現が可能となった。

 ②は、高見の覚書によって改変から守られた箇所である。どのような道具立てであろうと、物語の構築を、"きちんと、まっとうに、りっぱに"行い、その上で娯楽を提供すること。それ以上の、社会批評性や精神分析的な役割は不要であるという立場は、映画の中でも守られたと言えよう。これにより、デスゲームは娯楽性の高いジャンルとして大衆に受け入れられるようになった。

 では、この①と②が、その後のデスゲームの流れにどのような影響を及ぼしたのか。『バトル・ロワイアル』の役目はもはや果たされた。新たな作品を分析することで、その答えに迫りたい。




 次節では、さらに二つの作品を補助線として、日本デスゲームが黎明期にどのような路線を採用したのかについて、改めて答えを出そう。

 まず一つ目の作品。『バトル・ロワイアル』から数年遡り、デスゲームという語彙がまだ市民権を得ていない頃、ギャンブルものという別ジャンルから派生してきた、究極のギャンブル漫画。うだつの上がらない主人公は、希望エスポワールと名付けられた船に乗り込み、命を懸けたゲームに挑む。

 そして二つ目の作品。『バトル・ロワイアル』を落選させたあの日本ホラー小説大賞で、かつて大賞を受賞した作者が、後に角川ホラー文庫のレーベルから世に出した、ソリッドシチュエーション的なデスゲーム作品。失職した主人公は、食い扶持を求めてバイトに応募したものの、呼び出された先で昏睡、拉致される。目が覚めると、そこは深紅色クリムゾンの奇岩が連なる、異様な世界であった。

 希望エスポワールの船と、深紅色クリムゾンの迷宮から始まるデスゲーム。日本デスゲームが独自の路線を辿る道しるべを、この二作品から読み解いていこう。




【参考文献】

映画「バトル・ロワイアル」深作欣二監督(2000)

高見広春・「バトル・ロワイアル」制作委員会監修『バトル・ロワイアル・インサイダー』太田出版(2000)

高見広春『バトル・ロワイアル 上・下』幻冬舎(2002)

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