2-2、板子一枚下

勝ちもせず生きようとすることが、そもそも論外なのだ。

――利根川幸雄



 劇場版「バトル・ロワイアル」の誕生によって「デスゲーム」は名実ともに確立されるに至った。そして、高見広春と深作欣二の思想のすり合わせにより、以下のような特徴を持つ作品となった。すなわち、


①舞台がディストピアという異世界ではなく、現実の世界となったこと

②ストーリーラインを明確に構築し、純粋に娯楽を提供する態度を保ったこと


 この方向性が、初期日本デスゲームの特徴を決定し、後のデスゲーム史に長く影響を与え続けることとなる。本節では二つの作品を補助線として、初期日本デスゲームの特徴を改めて検討していく。


 一つ目の作品は、福本伸行による漫画作品「賭博黙示録カイジ」である。

 定職にも就かず自堕落な日々を過ごしていた青年・伊藤カイジは、バイト先の後輩の借金の連帯保証人となったことを切欠に多額の債務を背負わされることになってしまう。闇金業者の遠藤の勧めに乗るまま、カイジは豪華客船・エスポワール号に乗船し、狂気と策略が渦巻くギャンブル「限定ジャンケン」に挑む。そしてそれは、ギャンブルを企画した巨大企業体「帝愛グループ」との闘いの幕開けでもあった――。


 本作は、週刊マガジンにて1996年から現在まで連載され続けている長寿漫画シリーズ「カイジ」の第一部にあたる。『バトル・ロワイアル』刊行から遡ること3年前、米国由来のデスゲーム本流が形になる以前から、日本には特異点的にデスゲームが発生していたことになる。尤も、本作は福本がそれまで手掛けてきた「天」や「銀と金」といった、阿佐田哲也『麻雀放浪記』を源流とするギャンブルものの蓄積が結実した作品であり、デスゲームの要素はギャンブルものの余波として誕生したと見るべきであろう。

 また同シリーズは「ごくせん」シリーズなども手掛けた佐藤東弥監督によって2009年の「カイジ 人生逆転ゲーム」から始まる一連のシリーズとして映画化されており(劇場版「バトル・ロワイアル」で主演を務めた藤原竜也と相棒ポジションを演じた山本太郎が、本作ではそれぞれ主人公と敵キャラとして共演している点は興味深い)、本邦において最も知名度のあるデスゲームもののうちの一つだと言える。

 さて、本作の特徴は二点である。①現代社会の競争主義的側面を表現に多分に盛り込んだ作風であること。そして②デスゲームの舞台が異世界などではなく、現実世界の裏社会に属する領域であること。

 順に説明しよう。①について、「カイジ」の世界では、社会のレールから落伍したいわゆる「落ちこぼれ」的な人間が、主に金銭的な事情からギャンブルの世界に足を踏み入れていく。そしてそのような人間は、作中、時にゲームの主催者側に嘲笑されるように、時に彼ら自身の自虐から「クズ」や「ゴミ」と称される。本作序盤の強敵として登場する帝愛グループの重役、利根川幸雄は、ゲームの参加者となった債務者たちに向け、以下のように語る。


「おまえらはシャバでの闘いに負けに負けて今ここにいる 折り紙付きのクズだ

今日はそのクズを集めた最終戦

ここでまた負ける奴… そんな奴の運命などオレはもう知らんよ

そんな奴はもう本当にどうしようもない」


 そして事実、ゲームに負けた彼らは、劣悪な環境での長期間の強制労働や、高所からの転落死などの悲惨な末路を辿る。そんな彼らの有り様を、観客である富裕層らが見つめてほくそ笑む。「カイジ」は、社会から落伍した「クズ」や「ゴミ」が、一抹の望みをかけて、文字通り命をかけて、富裕層のために用立てられたデスゲームに臨む様を描いた作品なのである。

 そして、②について。そのようなデスゲームが開催される舞台は、ディストピアなどといった異世界ではなく、現代社会の裏社会に属する領域なのだ。帝愛グループの会長である兵藤ひょうどう和尊かずたかは世界中の富裕層や政治家とコネクションを結んでいるため、帝愛のゲーム開催に警察が介入したり、マスコミに帝愛の悪行が表沙汰にされたりすることはない。帝愛は何らの制約を受けることなく、低コストな労働力の確保や興行、あるいはVIPたちの見世物とするためにデスゲームを開催し続けるのである。

 「1-2、舞台はディストピア」でも述べたように、デスゲームものにおいては、常識的に考えて現実世界でデスゲームの開催が容認される筈はないため、非現実的なフィールドを構築して、その中に物語空間を隔離した上でデスゲームを開催しなければならない。米国の「危険の報酬」や「デス・レース2000年」、『死のロングウォーク』などの一連のデスゲームものは、作品の舞台をディストピアという異世界にすることでこの課題を解決していた。

 一方、「カイジ」においては違う。作品の舞台は明確に現代の日本であり、民主的な政治体制と経済秩序のもと成り立つ現実世界である。現代日本で開催されるデスゲームという非常識な設定を可能にさせてしまう舞台装置が、帝愛なのだ。言うなれば、「カイジ」は物語空間を隔離する非現実的なフィールドに異世界を採用せず、帝愛が知ろしめす「裏社会」を採用したのである。


 以上見てきたように、「カイジ」は、現実社会の競争主義をデスゲームに擬した(擬そうと試みた?)作品である。

 一度社会のレールから落伍すれば、たちまち世間は自分たちに牙を剥く。その波の中を苦しみながらも辛うじて生きていけるのは、カイジのようにギャンブルの才覚を持ち、自ら果敢にデスゲームに飛び込んでいける天性の博徒くらいだ。

 カイジのような博徒ならば、時に、格下の人間を見下し、自身の圧倒的優位を疑わない人間に対して奴隷の一刺しを加えることができる。先に触れた利根川は、カードゲーム「Eカード」を用いてのカイジとの死闘に敗れる。利根川の敗因となったのは、何よりも、エリートである自分が格下のクズに負ける筈がないという奢りであった。

 しかし、競争社会においては、クズだろうとエリートだろうと、負けた者には苛烈なペナルティが与えられる。利根川は敗北したことに対する誠意ある謝罪を示すため、焼けた鉄板の上での10秒間の土下座、「焼き土下座」を兵藤に強要される。

 カイジは鉄板の上で呻きながら土下座を続ける利根川を見て涙を流す。それは、利根川も兵藤という巨悪に使い捨てられるコマに過ぎなかったことを知ったことによる悔恨の涙か、あるいは、あまりにも過酷な競争社会の縮図を見たことによる悲哀の涙か。それはカイジ本人にもわからない。


「なんだっ……!? なんの涙だっ……!?」




 もう一作デスゲームものを概観しよう。角川ホラー文庫から1999年に(『バトル・ロワイアル』と同年!)刊行された貴志祐介による長編小説『クリムゾンの迷宮』である。

 勤めていた会社の破綻によって社宅を追い出された藤木芳彦は、食い扶持を求めてバイトに応募したものの、呼び出された先で昏睡、拉致される。目が覚めると、そこは大空の下、深紅の奇岩が連なる、異様な世界であった。藤木は、目が覚めた場所の近くにいた同じ立場だという女性、大友藍と行動を共にしながら、手近にあったゲーム機に記された内容に従い、深紅色の迷宮からの脱出を試みる。探索を続けるうち、迷宮には他にも拉致されてきた者が何人もいることが分かった。やがて彼らは、主催者の思惑によって、血で血を洗う凄惨なゲームの駒となっていく――。

 奇しくも、作者の貴志祐介は日本ホラー小説大賞で高見が酷くこき下ろされた前年、1997年に開催された同賞の第4回において、長編小説『黒い家』で大賞を受賞している。『クリムゾンの迷宮』が角川ホラー文庫より刊行されたのもその縁からであろう。

 本作は、「カイジ」と同様、①現代社会の競争主義的側面を表現に多分に盛り込み、②現実世界の裏社会に属する領域が舞台であるデスゲームものである。

 順番が前後するが、まずは舞台について説明しよう。当初、深紅色の迷宮は、藤木に配られたゲーム機端末に表示されたメッセージから「火星」であると伝えられる。しかし、その後藤木が入手した情報によれば、迷宮の正体はオーストラリア大陸北西部、西オーストラリア州キンバリー地区に存在する、バングル・バングル国立公園である。

 なぜ藤木たちはバングル・バングルに拉致されたのか。それは、ストーリー性あるスナッフ・ビデオ、言うなればスナッフ・ピクチャーの役者として選ばれたためである。バングル・バングルに拉致された者たちの一部は、ゲーム主催者の誘導によって薬物を摂取することとなり、飢餓感を植え付けられるだけでなく、極度に好戦的な性格の怪物――食屍鬼グールとなっていく。食屍鬼と化した彼らは、他のプレイヤーを襲い始める。言うまでもなく、食するためである。

 このスナッフ・ピクチャーの企画を考えた者は、作中では明確に描写されてはいないものの、マフィアなどの裏社会に潜む存在であることが示唆されている。やはり、ゲームの舞台は現実の裏社会なのである。

 では、現代社会の競争主義的側面の表現はどうか。藤木はこのゲームの特徴を、ゼロサム・ゲームではないかと思考する。ゼロサム・ゲームとは現代経済学で頻繁に用いられる理論、ゲーム理論の用語であり、いわば利得の総量がプラスマイナスで必ずゼロとなるため、プレイヤーが勝者と敗者とに明確に分けられるゲームを意味する。反対に、利得の総量がプラスであることもあり得るためにプレイヤーが全員勝者となり得るゲームは、ノンゼロサム・ゲームと言う。


「ほとんどのスポーツや、囲碁、将棋なんかは、典型的なゼロサム・ゲームだし、入学試験や出世競争なんかもそうだ。有限の資源を奪い合っているという観点からすると、人間社会の活動はほとんど、その範疇かもしれない」


 つまり藤木は、現在自身が直面しているデスゲームと人間社会の活動を、ゼロサム・ゲームという同じカテゴリーに分類しようとしているのである。というのも理由がある。藤木にとって、人生とはデスゲームのように無慈悲な競争なのである。

 あらすじで述べたように、藤木は拉致される直前、勤め先の破綻によって社宅を追われ、ホームレスとして過ごしていた。以下は、そのような経験をして得た思いを、藤木が大友に吐露するシーンからの引用である。


「エリートサラリーマンだと思っていた自分と、それまでは見下していたホームレスとの間には、実は薄皮一枚しかなかった。それが実感としてわかったとたん、どうしていいのかわからなくなった。それまでは堅固な床の上に立っていると思っていたのに、実際には、昔の漁師みたいなもんで、板子一枚隔てた下は地獄だったんだよ」


 もはや多くを語る必要はないだろう。『クリムゾンの迷宮』もまた、「カイジ」と同様、社会のレールから落伍した者が直面するデスゲームを描いた作品である。

 しかし、この藤木の一連の言葉に、何やら諦念めいた感情を読み取ることもできる。藤木はその後、ある意味では愚直にゲームの誘導に従っていく。尤もゲームの主催者たちの影がほとんど見えない状況ではそれもやむを得ないのかもしれないが、それだけには留まらない、ある種の無力感のようなものが漂っている。

 藤木は得られた情報を駆使して飢えを凌ぎ、食屍鬼と化したプレイヤーとの闘いを生き延び、見事にゲームを生き延びていく。貴志の巧みな筆致により、その様は手に汗握るものとして活写されていく。しかし、結局、その全てが主催者たちの掌の上であることには変わりがない。

 カイジが兵藤になす術がなかったのと同様、藤木は、主催者たちになす術がない。




 付言しておかねばなるまい。カイジも藤木も、ゲームを主催した者たちへの怒りを忘れた訳ではない。そのことは作中において明示されている。しかしながら、作品の結末は、彼らが主催者側への復讐を誓うところで幕切れとなる。つまり、彼らの怒りはゲームの終了とともに宙づりになるのだ(「カイジ」は完結していないが、現在続く「24億脱出編」のあまりに緩やかな進行は宙づりでなくてなんだろう)。

 格差のある構造も、板子一枚下が地獄であることも知っている。しかし、その構造を覆すところまでは作品に不必要である。カイジの手に汗握る心理戦と、藤木の血で血を洗う闘いは、娯楽として優れていた。では、その後は? 主催者への意趣返し、構造に対する異議申し立ては? その過程がゲーム的に映えるのであれば別であろうが、そうでなければ、別にいらないだろう。

 ある意味、これは高見の思想の最も静かな体現ではなかっただろうか。物語は純粋に娯楽を提供するためのものである。ストーリーラインが煩雑となり、娯楽要素が薄れるくらいであれば、構造への義憤、社会への不満などは、不必要なのだ。


(カイジが兵藤和尊に仕掛けたゲーム、「ティッシュ箱くじ引き」は、確かに構造への異議申し立てだろう。しかし、これが描かれたのは、つまるところ、ゲームとして映えたから、ただその一点のみということか?)


 劇場版「バトル・ロワイアル」に続編があることを知っている者がどれだけ存在するだろうか。深作欣二の遺作となった「バトル・ロワイアルII 鎮魂歌」は、反戦的なメッセージを隠すことなく表現した作品である。

 しかし、ありていに言って、そのストーリーラインは混迷を極めている。当初デスゲームもののようにして開始された物語は、ペナルティ装置として生徒たちに装着した首輪が中盤から解除されることによって無効化され、感情主導のギミック性を排した作劇が終盤まで続けられる。

 この混迷は、深作欣二自身がほんの1シーンしか撮影することが叶わず他界し、残りの制作を息子の深作健太が担ったことによるものであろうか。それは、資料が少なく、本稿では判断をすることができない。

 ともあれ、デスゲーム史論を標榜する本稿の意地をかけて明言しよう。「バトル・ロワイアルII 鎮魂歌」はデスゲームものではない。反戦のメッセージを臆さず隠した点は、また別の評価軸によって判断されれば良い。だが、娯楽性を排してまで社会的メッセージの比重を高めた本作の姿勢は、ストーリーラインの明確な構築を目指した高見の思想と、それに立脚して今日まで続いてきたデスゲーム史の血脈からはあまりに遠く隔たっている。

 劇場版「バトル・ロワイアル」、「カイジ」、『クリムゾンの迷宮』に共通する、①競争的な現実社会を表現に反映している点、②それでもなお純粋な娯楽の提供にこだわる点、その二点のバランスこそが、初期日本デスゲームを決定づけた特徴ではなかろうか。




 さて、ここまで日本の初期デスゲームを見てくると、米国のデスゲームが現実世界の「戦禍とTVショウ」を、異世界を舞台としたSF的思弁によって現実を逆照射することで諷刺する「戯画」として誕生したのに対し、初期の日本デスゲームではむしろ、競争的な現実社会の「縮図」としてデスゲームという素材を採用してきたように見えてならない。

 板子一枚下は地獄という競争社会を表現するためには、強烈に戯画化された異世界からの逆照射などという中途半端な方法では不十分だった。だからこそ、初期日本デスゲームものは、その舞台に、間違いなく現実世界にある日の当たらない場所、裏社会を採用し、そこに普段は板子一枚下に隠されている地獄を見出していったのである。

 この点において、深作は非常に明敏であった。再び深作の弁を引用するならば、「どこにあって、どういう国で、どういう歴史を持っている」のかはっきりしない場所が舞台では、「説明のつかないどす黒い憎悪の渦巻きみたいなもの」をビビッドに表現することはできなかった。こうして、ディストピア的な米国産デスゲームに対し、裏社会的な初期日本産デスゲームの方向性が誕生したのである。

 しかしこの方向性すらも、今日から見たデスゲームものとしては一面的でしかない。初期日本デスゲームの方向性は、やがて来るもう一つの波に塗りつぶされ、また新たな色合いを見せるようになる。次章以降は、そのもう一つの波について検討していこう。




 本章の内容をまとめよう。

 キングの『死のロングウォーク』に影響を受けて物された高見広春の『バトル・ロワイアル』は、新人賞の選考委員に散々にこき下ろされる憂き目に遭うものの、刊行されるや否や大ヒットを飛ばすようになった。その後深作欣二による映画化によって国際的な大ヒットを飛ばし、和製デスゲームものが存在感を発揮する切欠にもなった。

 そして、物語の構築を明確に行った上で純粋に娯楽を提供したいという高見の思想と、娯楽を通じて現実の暴力や死、負の感情の重みをビビッドに表現したいという深作の思想は、劇場版「バトル・ロワイアル」においてすり合わされ、やがて現実世界を舞台としつつ、純粋な娯楽を提供するという方向性を初期日本デスゲームにおいて決定づけた。

 『バトル・ロワイアル』刊行前後の「賭博黙示録カイジ」や『クリムゾンの迷宮』は、その二つの方向性をさらに補強する作品群であった。初期日本デスゲームは、現実社会の競争性を表現において重視しつつ、娯楽性を忘れることはない。

 そのため、米国産デスゲームのように、物語空間を隔離する非現実的なフィールドとしてディストピアという異世界を採用せず、現実世界の裏社会を採用していった。初期日本デスゲームは、ディストピア的な米国のデスゲームに対し、裏社会的な性格を持つものとなっていったのである。




 板子一枚下は地獄、と藤木は言った。では、その板子の下に落ちるのはなぜか。本節で紹介した作品群では、その原因は社会からの落伍であった。板子の喩えを継承するならば、不注意のため船から落ちたために地獄を見ることになった、といったところであろうか。

 では、その板子が、さながら回転扉であったら? それも、誰か特定の人間が動かす回転扉ではなく、船幽霊のような超常的存在がくるくると戯れに反転させてしまうような、不条理な魔術めいた回転扉であったら? 扉の回転に巻き込まれ、全く突然に地獄に落ち込む人生。急転直下のデスゲーム。

 板子の回転を可能にさせたのは、一体どのような想像力か。先を急ぎたいが、まずはその想像力の根源を探るために、ある一作を挟もう。それは、今や懐かしいディストピアもののデスゲーム作品である。


 西暦3000年。舞台は「日本王国」。日本王国の国王は、自身が代々受け継いできた姓と同じ苗字を持つ者が、国中に大勢いることに面白からぬものを感じていた。やがて国王は、自身と同じ苗字を持つ者の抹殺を企てるようになる。悪しき想像力のたくましい国王が考え出したその方法とは、すなわち、「鬼ごっこ」であった。

 補足しよう。その国王は第150代目。通称"馬鹿王"。姓は佐藤といった。

 一枚の板子を軽々回転させる想像力。それは、自費出版を経て口コミで評判を得た、このような作品から始まるのである。




【参考文献】

福本伸行「賭博黙示録カイジ」講談社(1996)他同シリーズ作品

貴志祐介『クリムゾンの迷宮』角川書店(1999)

高見広春・「バトル・ロワイアル」制作委員会監修『バトル・ロワイアル・インサイダー』太田出版(2000)

映画「バトル・ロワイアルII 鎮魂歌」深作欣二/深作健太監督(2003)

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日本デスゲーム史論――非・遊びの系譜 真梨邑マーリット @maritcthulhu

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