KAC20247 タイトル:色覚異常の哲学 お題『色』

マサムネ

色覚異常の哲学

※ここに書かれていることは、基本的にわたしの私見であります。そのためわたしと意見の違う方はいらっしゃるでしょう。また色覚異常の障害の程度についても差があると思いますので、わたし以上にこの障害で苦しんでおられる方がいるかもしれません。そういった方の中には、わたしのこれから語ることに関して、違うと思われる方もいるかもしれません。あくまで一人の当事者の個人的な意見であることをご理解いただけたらと思います。




 わたしは色覚異常です。


 小学校の頃にそのように判定されました。

 当時は赤緑色盲と言われましたが、いまは色弱と呼ぶべきでしょうか。

 あるいは色覚異常、色覚障害を言うべきでしょうか。


 色の付いた水玉模様の中から数字や文字を見つけ出す検査を行って判定されたましたが、新聞記事かネットニュースか何かで、今はそういう検査をしないとういうことを知りました。

 改めて調べてみると、平成十四年に学校保健法が改正され、検査の施行義務がなくなったようです。


 当事者として言います。


 絶対に、検査をすべきです!!


 そうでないと、自分が色覚異常であることに気づかずに過ぎてしまい、大きな災いをもたらすことになります。


 何か人と話がかみ合わない。けれどその原因が分からない。といった事態が起きかねないですし、仕事によっては色覚異常ではなれないものもあったと思います。志してから気づくのが遅いと、気持ちが後戻りできないかもしれません。


 早めに知るべきだと思います。


 ここで、わたしの体験を紹介させていただきたいと思います。


 ネットの情報では、かつては小学校四年生を対象に学校で色覚検査が行われていたとのことだので、わたしが検査をしたのもその頃でしょう。

 色覚異常であるということを検査で知ってから、すぐに何かが変わったかというと、そんなことはありません。

「ふーん、そんな障害があるのか」

 程度にしか感じてはいませんでした。


 しかし、小学校の写生大会を風邪で休んでしまって、宿題として家で課題の絵をかいていた時のことです。


「あれ、どうして木を緑で塗っているの?」


 そう母親に聞かれました。


 わたしは葉っぱを茶色、木の幹を深緑色に塗っていたのです。

 しかし、母親の指摘が何のことを言っているのか、わたしには分かりませんでした。


「え? だってこの色じゃん」


「違うよ。葉っぱが緑で、木の幹が茶色だよ」

 そう言われても、わたしにはそれがおかしくてたまりません。

「それじゃあ色が違う!」

 わたしは頑として譲らず、自分の思うように色を塗りました。


 だってそう見えるんだから。


 高校生くらいまではせいぜいそういったトラブル程度でした。


 赤色を塗ろうとして手に取った絵の具や色鉛筆が茶色であったことは何度もありました。

 そのたびに、「ああそうだった。俺はこの色の見分けがつかないんだった」そう思うのです。

 あと、黄色と思ったら黄緑だったり、逆だったりもしました。

 赤緑色弱と言っても、赤色と緑色の区別がつかないというだけではなく、薄い色の判別がすごくつきにくいし、先の黄緑であったり、紫であったり、中間のような色はよく分かりません(わたし以外の赤緑色弱の人がどうかは正直分かりませんが)。

 何にしろ、その程度の問題であまり苦にしていませんでした。


 しかし、大学生で一人暮らしをしたり、また社会人として暮らしていると、もう少し支障が出てきます。


 自分が灰色だと思って来ていた服がピンク色だったり、

 場所の説明で「クリーム色の壁の家の隣」と言われても分からなかったり、

 会議資料で文字を色分けされても、何色か分からなかったりしました。


 そうなると支障がありましたが、「すいません。わたし色覚異常で色がわかりにくいです」と言えば、そうすれば周りは理解して、配慮してくれました。


 これらの経験からも、色覚異常であることを自分が知り、またそれを周りに伝え、理解してもらうということは非常に大切です。



 結論としては繰り返しになってしまうかもしれませんが、理解を深めるために少し障害について話をしたいと思います。


 わたしは障害について考えるとき、まず背の低い人について考えます。


 背の低い人が、棚の高いところにあるものを取ろうと、背伸びし、手を伸ばしています。

 その時、あなたはどうするでしょうか?

 代わりに取ってあげるか、足台になるものを持ってきてあげるか。

 協力してあげる、手を貸してあげるという点ではそれが正解ではないでしょうか?

 もしかしたら、相手に「自分でやれた! 手伝ってもらわなくてもよかった!」と言われる可能性があったとしても、助けてあげようと思い行動したことは、間違いではないと思います。

 「お前にゃ無理だ」「悔しかったら背を伸ばしてみろ」「背が低いお前が悪い」などとヤジを飛ばすことをからしたらずっと良いことでしょう。


 次に片腕がない人を想像してみましょう。


 片腕がない人が、たくさんの荷物(両手があれば持てる量)をどうやって運ぼうか悩み、困っています。

 その時、あなたはどうするでしょうか?

 代わりに持ってあげるか、袋でも用意して、片手でも持てるように工夫してあげるか。

 協力してあげる、手を貸してあげるという点では、やはり正解ではないでしょうか?

 もしかしたら、相手に「自分でやれた! 手伝ってもらわなくてもよかった!」と言われる可能性があったとしても、助けてあげようと思い行動したことは、間違いではないと思います。

 「お前にゃ無理だ」「悔しかったら手を生やしてみろ」「片腕がないお前が悪い」などとヤジを飛ばすことからしたらずっと良いことでしょう。


 さて、この流れで色覚異常の人を想像してみましょう。


 すると、まず一番最初で躓きます。はたから見て、何でどう困っているのか分からないのです。この障害の厄介なところは、見た目では、どんな障害か分からないところです。

 だから、本人がどう困っているのか表現しなければ、助けようがありません。

 例えば先ほどのように場所の説明で、「クリーム色の壁の家」と言われても色が分からないからどこか分からないと言ってくれれば、別の説明が可能です。

 会議資料の色分けの判別がつきにくいのであれば、赤、青、黄色といった分かりやすい色で分けて、黄色と緑、ピンクと水色などのその人が分かりにくい色は使わなければいいのです。

 しかし、検査もしていなければ、本人は自分の見えている色が人と違うことにすら気づいていません。だから助けを求めることもできないし、周囲もどう助けていいか分からない状況が生まれてしまうのです。


 こう考えても、やはり検査はすべきであると考えます。



 さて、検査すべきであるという点で今まで語ってきましたが、少し話を変えたいと思います。

 障害という点で色覚異常を見た時、わたしはあまりネガティブにとらえるべきではないと思っています。いや、実際困ることがあるのですからネガティブではあるのですけれども。

 しかしながら、色覚異常はわたしに大切なことを教えてくれました。


 それは、

 『自分の見えている世界が正しいとは限らない』

 ということです。


 だって実際違いますからね。

 概念的な話であったとしても、容易に受け入れることが出来ます。


 大学時代に読んだ理系の雑誌にこんな話があったと思います。


――赤いリンゴは本当に赤いのか?——


 うろ覚えの記憶と解釈なので、もしかしたら違う話だったかもしれませんが、わたしの記憶に残っている話は以下のような内容です。


 Aさんが目の前にあるリンゴに対して、「このリンゴは赤い」と言ったとします。

 Bさんもそれを聞いて、「うん、このリンゴは赤いね」と答えたとします。


 さて、このリンゴは本当に赤いのでしょうか?


 例えば、

 Aさんには確かにリンゴが赤く見えていたとします。しかし、Bさんにはリンゴは青く見えていました。それでも、もしBさんが青い色を『赤い』と表現していたとすると、Bさんは青色のことを赤色と言うことになります。

 となると、Bさんにはリンゴは青く見えているのですが、二人の会話では「このリンゴは赤いね」という同意が成り立つのです。


 だから何? と思う人もいるかもしれませんが、意外と重要なことだと思います。


 一つは、実生活上での話をすると、言葉上だけでお互い分かりあったつもりでも、すれ違っていることがあるということです。自分はこういうつもりで言ったのに、相手が違うようにとらえていたということはよくあります。実物を見せて確認したり、より確実と思われる手段を講じていなければ、十分な同意が得られていない可能性があると思います。


 もう一つ、哲学的ことを言えば、見えている世界すべては、真実であると思っていると大間違いで、本当は違うかもしれないと言いうことです。これは考えすぎると恐ろしくなってしまいますが、でも色覚異常の私にとっては、自分の見えている世界の色が、他人とは違うということは常なので、違和感はないのです。少し格好つけて言えば、目に映るものすべては幻と言えます。先のリンゴも結局本当に赤いのかどうかは分からずじまいです。結局AさんとBさんの認識の問題です。


 だから、自分が感じたことを絶対とは思わないし、他人には他人の見え方や感じ方があるということをごく自然に受け入れることが出来ます。

 一方で、自分には世界は自分が見たようにしか見えないのだから、それが真実です。幻でも真実です。自分はこう見えているんだからしょうがないだろという強い思いもあります。しかし、真実でありながら、『それは真実ではない』という可能性を含んでいることも理解しています。

 だからこそ、物事を柔軟に考えたり、多面的に考えたりすることは得意な方ですし、相手がこちらを強く否定するものでなければ、そういう考え方もあるのかと受け入れることも得意です。


 ここまでくると、もう自分という人間の人格形成において、色覚異常であることは、切っても切り離せない事柄であることに気づきます。

 でも、障害ってそういうものじゃないでしょうか?

 障害と一言で言っても、様々なものがあります。生活すること自体が非常に大変になってしまう障害もあれば、命に係わる障害もあるでしょう。見ることも聞くことも話すこともできない状態であれば、わたしの言っていることは綺麗ごとかもしれません。しかし、障害というのは主に治療できずに残るものだと思います。ということはやはり、ずっと付き合っていかなければならないわけだから、間違いなく自分の一要素と言えるわけです。その障害ついて自分が知ること、そして周囲が知ることは、障害を持って生きていくために最も重要なことと思うのです。


 だから、検査で色覚異常の有無を知ることは大切です。

 よくよく調べると、平成28年から希望者に対して学校で実施されるようになったみたいですね。


 検査しなくなった経緯としては、「色覚検査は差別につながる」という意見もあったようですが、それは違います。だったら色覚異常の子を差別してはいけないという教育をすべきでしょう。ちなみにわたしは色覚異常で差別された経験はないです。そんなことを言ったら学力レベルで差別されることのが多いのではないでしょうか。これは順位をつけない方がいい、運動会ではみんなが一位といった悪平等の考え方であるように思います。学力やスポーツの成績をもてはやす癖に、こういったことで容易に差別というと言葉を使う。世間は歪んでいると感じるところです。差なんてあって当然です。みんな違うんですから。

 また、「色覚異常者は生活の中で困っていない」という考えもあったようです。今までわたしの説明で、それもおかしいことは分かっていただけると思います。


 もしも検査をしたことがない方や、わたしの体験談と同じ経験をしていても理由が分からなかった方などいましたら、一度検査をしてみるのはいかがでしょう。今はネットで検索すれば簡単にできそうですよ。


 また、色覚障害だけでなく、他の様々な障害や特徴など、特に自分が困っている自分の要素について向き合って考察してみると、新しい世界が見えてくるかもしれませんよ。


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