第5話 混濁
妻の精神科医はかつてこう言った。
一切が過ぎていくのを待つしかないのだと――
それはずいぶん悠長な構えであるように、僕には思われた。
僕たちはいますぐにでも救われたかった。
妻はときどき発作に襲われる。
まるで、ヒロキが生きているかのように振る舞い、その姿を探すのだ。
それはヒロキが姿を消して最初にむかえた夜の妻の姿をしのばせる。
妻は川の土手で見つかった。
最も恐れた事態にはなっていなかった。
彼女は寝巻きにコートをはおった姿で川べりの雪の上に腰を下ろしていた。
「ヒロキったらどこに行ったのかしら? あなたのお店にいるかと思ったんだけど、一緒じゃないの?」
僕の顔を見るなり妻は言った。
「一緒じゃないよ」
僕は言った
「いまから警察に行きましょう。探してもらうの」
「僕が電話をかけておいたよ」
僕が嘘をつくと、妻は安心したような顔をした。
僕は店に電話して、堂川さんに少し早い閉店作業をしてもらうことにした。
『きょうはたくさん人が来て大変でしたよ』堂川さんは言った。『ストックも空っぽ! あのいぶりがっこドーナツですら売り切れですよ!』
その埋め合わせはどこかですると約束して、電話を切った。
「これ何かしら? あちこちにならんでいるけれど」
いならぶ
「お祭りの準備だよ。夜になるとここに一斉に火を放つんだ」
「ふうん」
家に着くと、暖房に火を入れ、湯を沸かした。コーヒーを作った。それから作り置きのドーナツを二人で食べた。
「別れて暮さないか」僕は言った。「その、君が実家に戻るというのは。そのほうが君の健康にはいいんじゃないかと思う」
話を切り出したのは、妻がひと眠りして、僕が夕食の用意を終えた後のこと。
妻は僕を見すえて何ひとつ言わなかった。
「――何か聞こえない?」
妻は言った。
ドン、ドンと小さな花火のような音がどこかから響いてきたのだ。
窓の外からだ。
僕は窓に行き、ロールカーテンを上げた。
その瞬間、妻が「ああっ」と小さな叫び声をあげた。
部屋の中に飛び込んできたのは万灯祭の光景だった。
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