第9話 事変

 次の日、朝早く朝餉を終えたシディアンたちは、頃合いを見て治療のために泰王のいる皇太子宮へと赴いた。とはいうものの、シディアンは決して内心穏やかではない。

(昨日は勢いで、とんでもないことをしてしまった……)

 寝不足がたたったのか、魔が差したのか。昨晩は殆ど吸い寄せられるようにウェイリーに口付けてしまった。しかもあろうことか……寝ている彼の傍で寝顔を見た上に、当人に気づかれてしまったのだ。時間が経つにつれ頭が冷えてきて、自分の昨晩の行いに青くなってしまった。

(誰かに知られたら、生きていけない……)

 後悔噬臍、やってしまったことは取り返せない。それでもウェイリーは口付けを返し、シディアンを抱きしめてくれた。ということは、悪い感情は抱いていないと思って良いのだろうか。

 人から恨まれ罵声を浴びせられることは俗世にいた頃に嫌と言うほど経験したが、自分からあのように誰かに対して好意を抱いたことはなかったのだ。だから――ウェイリーがどう思ってくれているのか、自分がどう思っているのか。何もかも自信が持てなくて先ほどから何度も何度も頭の中で『そうではない』『いや、そうに違いない』と昨晩の反省会を繰り返している。

 らしくない。実にらしくない。そうは思うが……仙源郷での最後の日、心を乱されて以来ずっと心が落ち着かない。己の心はどうなのだ、と問えば千々に乱れて本心の一掴みすら得られない。それなら相手はどうなのだ、と問えばこれまた『そうではない』『いや、そうに違いない』の繰り返し。

 口付けまでしたのだから、直接当人に心の内を尋ねればいい。そう思うのだがその一言がすぐに喉から出てこない。

 できることなら今すぐレイを呼び出して、相談に乗って欲しいくらいだ。運悪く彼女には別のことを頼んでいるため、シディアンの個人的な、それもかなり個人的な悩みを聞いて貰う余裕はない。

「シディアン様? 先ほどから顔色が悪いようですが……」

「っ!」

 ハッとして顔を上げると、心配そうにウェイリーが覗き込んでいる。顔の近さに昨晩の思い出が過ぎり、無意識に頬が熱くなった。

「いや……少し考え事をしていただけだから、大丈夫だ」


 内侍省の御薬院でカーマと合流し、処方する薬の材料を一つ一つ確認する。ここで唯一気にすることは毒が入っていないこと、あるいは毒になりうるものが入っていないこと。確認を終えたら材料を一揃い持って、皇太子宮にいる泰王の元を訪れた。

「太子殿下、お加減はいかがですか」

 格子戸から漏れる光に当たりながら、心地良さそうに目を細めた泰王は、シディアンの来訪に気づくと「医仙様、おはようございます」と挨拶を返す。昨日初めて対面したときは、いつ死んでもおかしくないほどに弱々しかった彼であったが、今朝は予想通り幾分か血色が良いようだ。翠妃に背を支えられ体を半分起こした彼の背筋は、昨日に比べて力強く見える。

「それが……医仙様から良い報せを頂いたせいなのか、久しぶりにぐっすりと眠ることができました」

「それは大変喜ばしいこと。太子殿下の前向きな心が、何よりの薬となるでしょう」

 シディアンは宦官や官医たちの前で煎じ薬を作り、毒見もさせた上で泰王に煎じ薬を飲ませた。敢えてそうしたのは、そのほうが皆も安心するだろうと思ったからだ。変に疑われるようなことをして、面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。とはいえ、周りで見守っていた誰一人とて彼のことを疑うことはなかったし、皆が羨望の眼差しでシディアンの一挙一動を見守っていた。

「これから朝夕二度、煎じ薬を作りに参ります。そして薬を飲んだあとは、体力の回復を早めるため、私から殿下に気を送ります」

 泰王の顔色も良好で晴れ晴れとした笑顔を見せたこともあり、皆の気持ちも普段より高揚している。だからシディアンの処方にけちをつける者はいないし、気脈の通りを良くするためと言って泰王の背に触れたとしても、誰一人それに異議を唱える者はいなかった。

「では太子殿下、失礼を」

 シディアンは泰王に背を向けさせると手のひらを当てる。気の巡りが良くなるようにするのはもちろんだが、ついでに少しばかり霊力も送った。というのも体が弱っているときは陰の気に引かれやすく、悪いものが寄り付きやすい。どさくさに紛れてほんの少し太子の体内に霊力を送っておくことで、そういった良くないものを跳ねのけやすくするのだ。

 ――つまり、太子が昨晩よく眠れたのはそのお陰。

「食欲が出たら食事をしても構わぬが、稀飯をさらに柔らかくしたものを少しずつ飲んでいただくのが良いだろう。薬の類は私が来たとき以外は服用せぬよう」

 恙なく診療を終え、「また夕刻に参ります」と泰王の前から辞したシディアンとウェイリーの二人は、客室に戻るべく歩いていた。ふとシディアンが足を止めた。急に止まったがために、歩みを止めることができなかったウェイリーの身体が、シディアンの背中に重なる。鼻先をさすりながら、ウェイリーは問う。

「わ……どうなさったのですか?」

「せっかくの陽気だ。少し散歩でもしないか?」

「散歩? 皇城内を、ですか?」

 怪訝そうな顔をしたウェイリーは、しかしすぐにこやかな表情に戻る。そうですね、せっかくですから花の咲く美しい庭園をご案内します、と歩き始めた。シディアンもすぐにウェイリーのあとに続く。

「庭園にある水亭は、皇帝陛下が貴賓を招待されたときに使う場所ですが、庭園を抜ける通路は我々も通ることが許されているんです。亡き皇后様が愛されたという花も植えられていて、四季折々に美しい花々を沢山咲かせるんですよ!」

 そう語るウェイリーの表情は明るい。

「きっと君のお気に入りの場所なのだな」

「はい! 草花の移り変わりは、時の流れを感じさせてくれます。美しいときも、移ろいゆくときも……。草花の移ろうさまを見て、私も生きていると感じられるのです」

 そんなウェイリーの言葉に、シディアンは思わず胸を詰まらせた。彼がなぜそう思うのか、昨晩の話を聞いたあとでは手に取るように分かったからだ。皇帝の側仕えといっても、なった経緯から考えればさして幸せな暮らしをしていたわけではなかったに違いない。咲く花の美しさではなく、咲き誇り枯れてゆくさまに己の生きる証を感じるとは、なんと儚いことであろうか。

 シディアンの複雑な心境に気づいた様子もなく、ウェイリーは歩きながらあちこち指差してその場所について教えてくれる。あれが官舎である、とかあれが訓練場である、とか。

 ――頼りないようで、機転が利く。

 二人は先ほど訓練場の前を通った。そこには兵士たちに檄を飛ばすガイアンがいた。ウェイリーはそのガイアンに対し、さりげなく視線を送ったのだ。彼は禁軍の中でも兵士たちを束ねる立場にあり、腕も当然ながら一流。これから何が起こるかを察するだけでなく、ウェイリーは兵士たちの中でもっとも信頼できるであろう男に、今の状況を伝えたのだ。

(有り難いが、そう心配することもないのだがな)

 力の大半を失ったとて、シディアンは望まずして仙の端くれなのである。


 辿り着いた庭園は実際本当に美しかった。

「これは、確かに見事だ」

 仙源郷にも花は咲き草木は生い茂り、それこそ規模だけでいえば皇城の比ではない。しかし眼前に広がる広大な湖と咲き誇る睡蓮。青々とした葉に隠れるように湖から伸びる岩山の向こうには、小さな水亭が日の光に照らし出されている。まるで絵画から抜け出したような幻想的な光景に、暫しシディアンも見惚れてしまうほどだった。

「――おっと、いけない。大事なことを忘れるところだった」

 ほんの僅かなあいだではあったが、微かな物音に我に返る。シディアンは躊躇うウェイリーを背後に下がらせながら高らかに叫んだ。

「出てこい。相手をしてやろう」

 葉音とともに黒衣の男たちが姿を現す。彼等の纏う雰囲気に、シディアンは覚えがあった。

(あのときと同じ、か……?)

 それは初めてウェイリーと出会ったとき、彼にとどめを刺さんとしていた黒衣の連中によく似ている。あの場にいた者は逃げ去ってしまったが、よもや皇城で再開するとは。ある程度予想はしていたが、思った以上の早い出会いに思わずシディアンは笑みを漏らす。

「何を笑っている」

「愚かゆえ笑っているのだ。天子の庭園で血を流す気か?」

 びくりと一瞬黒衣の男が身構える。しかしすぐに剣を構え直すとシディアンに向かって飛び掛かってきた。

「悪いが消えて貰うぞ!」

 悪いなどと欠片も思っていないくせに――口の端を持ち上げ、男の振り下ろした剣を二つの指で受け止める。シディアンが僅かの力を指先に込めてやるだけで、薄氷が割れるかの如く剣は砕け散った。

「なっ……!?」

 男は驚き、しかし間髪入れずに残りの黒衣たちが二人へと襲い掛かる。背後にはウェイリーがいる。逡巡ののち、シディアンは一歩踏み出し体を捻った。翻った長袍の裾は、はためきとともに突風を巻き起こす。あわやと風に煽られて男たちは、一人残らず湖の中に落ちてしまった。

「ええっ……?」

 ウェイリーだけが呆然とその光景を見つめている。一瞬の出来事について行けず、何が起こったのかもまだ理解しきれていないのだ。そうして彼がようやく現状を理解し始めた頃、ガイアンがやってきた。

「医仙様!」

 慌てて駆け付けたガイアンに、シディアンは「もう終わった」と告げる。兵士を率いたガイアンはきまり悪そうに頭を掻いた。

「申しわけありません……急いで医仙様たちのあとを追ってきたのですが……」

 彼は決して遅かったわけではないのだ。ただ、シディアンが早すぎただけ。

「いや、ちょうど良かった。黒衣の男が我々を襲った。湖に落ちたはずだから探してみてくれないか」

「湖に、ですか!?」

「まあ、もう逃げてしまったかもしれぬがな」

 驚き半ば呆れたガイアンに、シディアンは肩を竦める。実際のところ逃げてもいいと思っていた。

(それで諦めてくれるなら、それも良い。諦めぬようなら……)

 徹底的にやってやろう。そのために皇城まで来たのだから――シディアンは男たちの落ちた湖を睨みながら、心の中で自分に言い聞かせる。皇城で日の出ているうちから襲い掛かるなど、なりふり構っていられない証拠。これからはもっと用心せねばなるまい。

 あとは頼むと黒衣の始末はガイアンに任せ、再びシディアンはウェイリーとともに客室へと戻ることにした。


    * * *


 ――が、客室に戻ったシディアンとウェイリーは絶句した。

「ずいぶんと手際がいいじゃないか……」

 部屋の中は荒れ放題で、さながら賊が盗みに入ったかのようだ。……いや、実際のところ賊と変わらぬ輩なのかもしれない。すぐに衛兵を呼びつけ、異変に気づいたか問いただしたが、彼等は全く気づかなかったと言う。

 慌てて応援を呼びに走った衛兵たちを尻目に、シディアンは考える。建物の周囲に配置されている衛兵の数は皇太子宮と比べればそう多くはない。しかし少ないかといえば、たかだか医者の部屋に付ける人数としては多いほうだろう。

「可能性は二つ。衛兵が犯人と繋がっているか、犯人が手練れで気づくこともないほど鮮やかであったか」

 どちらの可能性も捨てきれないが、前者の可能性を考えた場合、犯人は皇城内でかなりの権力を持つ人物――太子の病を治療したくない、例えば慎王の息がかかった者の可能性が高い。しかし同時に太子と第二皇子を天秤にかけた場合に、第二皇子を選ぼうとする者はいかほどいるのだろうか。しかも、シディアンは太子の病を治すために呼ばれた医者であり、禁軍の将軍であるガイアンと宰相のサンファが直々に仙源郷まで彼を迎えに来たのだ。もし衛兵が忍び込んだ賊を見逃したとしても、気づかなかったとしても大失態であり罰は免れまい。そのような危険を衛兵が侵すとも考え難かった。

(恐らく、先ほどの襲撃は盗みを働くあいだの時間稼ぎだったのだろうな)

 ふと、シディアンは荒れた部屋にもう一度目を向ける。

「狙うのは命だけだと思っていたが……」

「もしや、何か無くなったものがあったのですか?」

 慌てたウェイリーが心配そうに尋ねたので、シディアンは首を振った。

「いや。必要なものはいつでも持ち歩いている。ここに置いてきたのは必要ないが医者としての演出のために持って来たものだけだ」

「演出……」

「そのようなな顔をするな。必要なものは皇城の中の物で事足りる。それに本当に必要な物は肌身離さず持ち歩いているから盗まれようもない」

 咎めるような表情のウェイリーを諫め、シディアンは格子窓から顔を出す。外の様子を確認したかったからだ。

「ふむ」

 格子戸の向こうには巨大な龍瓜槐が幾つも植わっていて、その隙間から湖を垣間見ることができる。湖に架かる橋を通る者もいるが、龍瓜槐の葉に隠されてこれでは人目にも付きにくい。死んだ皇帝は長らく臥せっていたそうだから、客人を呼ぶこともなかったであろうし、自ずと使われない宮殿は手入れや気配りが行き届いていなかったのだろう。

 シディアンは一つの可能性に気づく。窓から顔を離し、中から様子を見守るウェイリーに振り返った。

「部屋のことは城の者に任せよう。その間に――一つ行きたい場所がある」

シディアンが行きたいと言ったのは、ウェイリーの部屋だった。

「私の、部屋ですか?」

 なぜなのか、理由の分からぬウェイリーが戸惑いの表情を見せる。彼は他の官吏や武官たちとは違い、家を持たず皇城に留め置かれていたはずだ。いくら皇帝の側仕えであり、そうなった事情があるとはいえ、さすがに部屋一つないということはないだろう。――後宮の宮女ですら宿舎を宛がわれているのだから。

「もしや君は、自分の部屋も与えられていないのか?」

 部屋がなければどこで寝るのか。まさか皇帝の……と考えかけて考えるのを止めた。昨晩彼が否定したばかりなのに、つい要らぬことばかりを考えてしまうのはよくないことだ。頭を振って余計な考えを振り払い、シディアンは己に言い聞かせる。そんなシディアンの葛藤は、幸いウェイリーには気づかれなかったようだ。戸惑いながらも彼は「あるにはあります」と気まずげな表情でシディアンに答えた。

「ただ……私に与えられる自由はごく限られた範囲ですから、シディアン様が見て興味を持つような物は何もないとは思いますが……」

「構わぬ。駄目か?」

「駄目ということはありません。……分かりました、せっかくシディアン様が希望してくださったのですから、ご案内します」

 あまり綺麗な部屋でもないので恥ずかしいですが、と取り繕いながらウェイリーは笑う。

 初めに彼が言った通り、ウェイリーの部屋は小さかった。いつでも呼び出せるようにという意図なのか皇帝の寝室に近い場所、しかしそこが本当に部屋なのか怪しいほどには小さい。それでも、一人で一部屋を与えられているというのは、そこまで悪くないともいえる。

「ずいぶんと酷いことになっているな」

 しかし問題は部屋の広さではなく、彼の部屋が凄まじく荒らされているということだ。数少ない彼の持ち物であろう、紙束と僅かな服は地面に散乱し、燭台は粉々に壊されている。箪笥の引き出しは完全に引き出され、床に転がっていた。

「ははは……。まあ、私のことは皆が知っています。罪人で側仕えという奇妙な立ち位置は、皆にとって好ましく思われないのでしょう」

 ウェイリーの反応から見るに、どうやらこういったことは今回が初めてではないらしい。無くなった物はあるかと尋ねると、

「無くなるほど物を持っておりませんので……」

 とばつが悪そうに頭を振る。

「やはり先ほどの黒衣の男たちは、私ではなく君が目的であったと見て間違いないようだな」

「わ、私ですか!?」

 太子を治療されては困る、というセンも考えたが、明らかに太子の病よりよりもウェイリーの命を奪うことを重要視している。仙源郷の入り口で倒れていたときのことと合わせて考えても、この推測に間違いはないだろう。それに、仙源郷から桃莱国へ向かう前日の夜についてもだ。

(彼が帝位継承に関わっているからか? だとしても、あまりにこれは不自然だ)

 あとで彼から直接そのことについて聞くことができれば良いのだが――そう考えつつ、シディアンはウェイリーの肩を叩く。

「詳しい話を聞きたいが、ここで話すのはまずい。あちらの部屋の件もそろそろ落ち着いた頃だろうから、いったん戻ってみようか」


    *


 二人が客室のある宮殿に戻ると、折しもガイアンが部下たちに指示を飛ばしているところだった。彼はシディアンが戻ってきたことに気づくと、慌てて走り寄り「申しわけございません!」と頭を下げた。

「すぐに代わりの部屋を用意させますので……」

「いや、構わぬ」

 即答したシディアンに、ウェイリーとガイアンの「ええっ!?」という驚くの声が被る。

「どのみち、どこにいようが変わらぬだろう。敢えて対策をしようとするなら、衛兵の数でも増やしてくれればそれでいい。入り口はそのままで十分だと思うが、窓に面した場所は死角になりやすく忍び込むのに最適だ」

「しかし、いくらなんでも医仙様は我々が招いた賓客です。さすがに怪しいものが立ち入った部屋に戻っていただくわけには参りません。我々の面子もございますし……」

 それでも言い募るガイアンに向け、シディアンは顔を貸せと手で合図する。

「黒衣の男たちが何者かは分かったか?」

 ガイアンは兵士たちを外で待たせ、二人に中へ入るよう促す。見た目は武骨な男だが将軍だけあって、周囲への注意を忘れない。今すぐ裏手の警備に就くように数人に命じてから客室の戸を閉めた。

「医仙様たちを襲った黒衣の男たちは、湖に落ちたあと泳いでいずこかに逃げ去ったようです。水の落ちた跡を頼りに追いかけましたが、途中で生い茂る草木に阻まれ見失ってしまいました。一部の逃げ遅れた者は捕まえましたが、全員自ら命を絶ちました。念のため皇城の兵士の可能性も鑑みて調べましたが、少なくとも日常的に皇城に出入りする人物の中に該当する者はおりませんでした」

「慎には泳ぎの得意な者が多いと聞くが」

「それは……」

 一瞬ガイアンが躊躇う。

「慎王が治める地域は運河も多く、幼い頃はじめに覚えるのは皆泳ぐことであると聞く。濡れた服で泳ぐのも逃げるのも容易なことではないはずだ。出遅れたとはいえ逃げおおせた者がいるというのなら、恐らくその者は泳ぎに長けているに違いない。――違うか?」

 そして彼がこの短時間で皇城に出入りする人物まで調べたということは、ガイアンもまた慎王が怪しいと疑ってはいるのだ。日常的に出入りする者の中に該当する者がいないということは、日常的に出入りしているわけではない、つまり、外部からやってきた者になら可能性があるということ。――立場上それを口に出すことは容易ではないが。

「私は桃莱国の人間ではない。好きなことを言える立場であるから言ったまで。そなたは口にせずとも構わない」

 ふ、とシディアンは口元を緩める。

「そなたには正直に言うが、あの黒衣の男たちは仙源郷でも二度我々の前に現れている。そのうえ大胆にも皇城内で我々を襲い、あまつさえ部屋に忍び込み盗みを働こうとした。皇城の者でないにしても、どこかしらに繋がりがあるに違いない。――ゆえに、場所を変えようとも相手は現れようと思えばどこにでも現れる。そういうことだ」

 そこまで言うとさすがにガイアンも何も言えず、部屋を変えないことに同意し、衛兵の配置を増やすことを渋々承諾した。

「その代わり、異変があればすぐに我々に報せてください。いかに医仙様が並々ならぬ御力を持つ方であったとしても、招いた客人に害が降りかかるようなことは絶対にあってはなりません。いいですね?」

「分かった、心得る」

 それでも不安なのか、さらに彼は言い募る。

「絶対に、絶対にですよ」

「分かった」

「本当ですね?」

(しつこいな……)

 雄々しい姿とは正反対に、神経質な男だ。ともあれシディアンに何かあれば彼の沽券にも関わること。気にするのも仕方ないのかもしれないが。

「慎王殿下は慎に戻ることなく、皇城に滞在し続けております。どうせ帝位継承者が決まる日も近いのだから、敢えて時間と金を使って帰る必要はない、とのことですが……」

「まあ、そこに反論の余地はないな」

「はい。……それで、先ほどの話についてですが。慎王殿下の動向は謎に包まれております」

「分からなかったのか?」

「はい。なんというか……出かけていたので分からない、と」

「ずいぶんはっきりしない物言いだな」

 ある意味予想の範疇ではあるが、彼なら自分の動向くらい、いくらでも上手く取り繕うことができそうなもの。よほど突発的な事情があったのだろうか、とシディアンは考えるが、すぐに思い当たることはない。結局ガイアンは、シディアンに部屋から押し出されるまで何度も「絶対に」と念を押し続け、去り際にも「どうかゆめゆめ忘れぬようにお願いします」と言って去っていった。

 ――豪快な顔の割に、意外に繊細な男である。

「さて――」

 ようやく部屋に静寂が戻り、シディアンは卓子に目を移す。懐から香炉を取り出すと卓子の上に置いた。しげしげと香炉を見つめて、ウェイリーは尋ねる。

「その音喰いの香炉、先ほどは使わなかったのですね」

「当たり前だ。将軍は信用に足る人物だが、この香炉は彼等に隠して持って来たものであるからな。君と二人のときにしか使わぬつもりだ」

 物言いたげなウェイリーの表情を見てシディアンは、

「もちろん、周囲に潜む者がおらぬこと、外の衛兵に聞かれぬように十分注意を払ったつもりだ」

 と付け加える。部屋荒らしが侵入できたのはシディアンが不在であったので可能だったことであり、彼自身がいたならば誰一人侵入することはできないし、部屋の外から聞き耳を立てることも不可能だ。本来ならば結界を作ることも造作ではないのだが、いかんせん皇城で行うのは憚られる。何より――無駄な不信感を煽りたくはない。

「それより――ウェイリー。この部屋で、何か無くなったものはないか?」

「そうですね……シディアン様の荷物のことで頭が一杯でしたので、はっきりとは。ですが私が持って来たものといえばせいぜい着替えか、シディアン様にと頂いた団茶くらいで、私自身は何も持っておりません」

 シディアンもウェイリーも、大した荷物は持っていない。部屋の中を歩きながらウェイリーが一通り散乱した物を片付けがてらに確認しているが、それとて大した量でもない。その大半が元から部屋に備えられていたものあるし、シディアンに至っては太子の治療のために使う物を持ち歩いていたため、部屋に残した荷物は些細な物くらいだ。荷物を漁ったのは黒衣の男たちの仲間に相違ないと確信しているが、彼等がここまで血眼になって探す物――そして、ここまで探してもなお見つからぬのだとしたら、一体それはなんなのだろうか。

「あの……」

 見つめる視線に気づいたか、ウェイリーがちらりと顔を上げる。

「シディアン様の仰りたいことは分かります。……どうして彼等がここまで執拗に私を狙うのかが知りたいのでしょう?」両手を前で交差させ、言い辛そうにウェイリーは俯く。それでも言葉を発したのは――シディアンに彼を問いただす役目を背負わせるのは、酷だと思ったからだ。

「恐らく、彼等が探しているのは皇帝の証である『玉璽』です」

「ちょ、ちょっと待て!」

 さすがにシディアンも驚き、話を止めずにはいられなかった。玉璽にも様々なものがあるが、彼の言う玉璽と言えば一つしかない。歴々の皇帝がその証として所持していた黄金の玉璽。

(だがしかし、なぜそれを彼が持っているのか!?)

 玉璽は皇帝の証、容易く誰かに預けるような代物ではない。今は亡き皇帝が何を考え、己の手で罪人とした男にその玉璽を託すのか。

「さぞや驚かれたと思います。ですが――私が陛下と帝位を継承する人間を見定める、その役目を拝命したとき、私は玉璽も託されました。このことを知っているのは本当に一握りの皇家の血筋に近い者と側近のみ」

「つまり、やはり君の部屋を荒らし、この部屋を荒らしたのはその秘密を知ることができる者である、ということか」

 頷くウェイリーの姿は弱々しかった。

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