第8話 過去

 客室に戻ったシディアンは、外衣を寝台に放り投げどっかりと椅子に腰掛けた。気ままな森暮らしに堅苦しい場所は、肩が凝って仕方ない。

「ウェイリー。茶を頼めるか」

「はい! お任せを」

 先ほどまでの青い顔が、打って変わって華やかな笑顔へと変わった。嬉しそうにせわしなく動き続ける彼の後ろ姿は、結い上げた髪が上下する。それがまるで尻尾を振る犬のように見え、思わずシディアンは目を細め彼が茶を用意する姿を目で追った。

「先ほど南鳳省の餅茶を頂いたのでちょうど良かったです。医仙……シディアン様へぜひにと将軍が仰って……すぐ削ってお出ししますね!」

 南鳳省といえば茶の名産地で有名であった。シディアンがまだ俗世にいた頃から知っている話であるから、長い年月を隔てても変わらぬ存在というのは不思議なものだ。

 そして側仕えではないと豪語したにもかかわらず、ウェイリーにレイの代わりをさせていることに気づき苦笑する。

 シディアンは周囲に二人以外の気配がないことを確認し懐から小さな香炉を取り出した。もちろんただの香炉ではなく――力を秘めた特製の香炉だ。この香炉はシディアンが霊力を注がぬ限りただの香炉でしかなく、入城の際に所持品の確認も全て恙なく済ませている。卓子の上に香炉を置いたとき、ちょうどウェイリーが茶を持って戻ってきたところだった。

「香の準備をなさいますか?」

「必要ない。これは香炉に見せかけた音を遮る道具だ」

「音を、ですか?」

「そうだ。あからさまに術を施すわけにはゆかぬからな。この香炉に霊力を流せば周囲の音を一次的に遮ることができる」

「なぜそのようなことを……?」

 もちろんそれは尋ね辛いことを聞くため、なのだが正直に答えては決まりが悪い。理由の中で一番もっともらしいものを頭の中に浮かべながらシディアンは頷いた。すでにこの生活に慣れ切った彼には、シディアンがここまで警戒する理由など分かろうはずもない。

「亡き皇帝のことを話すにも、監視の目があっては明け透けに話すこともできまい。太子殿下の病を治すためには国にとって都合の悪い話をしなければならない可能性もある。我々自身を守るためにはこういったことも必要なのだ」

「確かに、その通りですね……。皇帝陛下の在位中は、誰かが悪口でも言おうものなら即処刑など日常茶飯事でしたから……」

 ぽろりと零したウェイリーの言葉にシディアンは耳を傾ける。

「即処刑? 先ほどガイアンも言及を避けていたようだったが、率直なところ、皇帝はどのような人物であったのか?」

 そうですね、とウェイリーは言葉を探す。

「皇帝陛下は立派な方でしたが、誰も信じない方でした。陛下は幼い頃に心から信頼した人物に毒殺されかけたことがあり、以後は誰一人信じることができなくなってしまったと聞きました。どれほど忠臣であっても疑いありと見るや真偽も確かめずに切り捨てるのです。初めは皆もそんな陛下に対して、諫め進言することもあったそうですが、反逆者と看做されて全員処刑されてしまいました」

 信頼していたからこそ裏切られたときの衝撃と憎しみが深くなる。それゆえの厳しさであったのなら、死んだ皇帝はとても憐れで孤独な人間だ。

「それでガイアンは『民はともかく陛下にお仕えする役人たちにとっては』と言ったのか」

「で、ですがっ! 陛下は決して冷酷な方ではありません。陛下は私にとてもよくしてくださいました。陛下がおられなければ、私は生きてはいなかったでしょうから……」

 ウェイリーの言葉がちくりとシディアンの胸に刺さる。先ほど官吏や宦官たちが噂していた下賤な言葉の数々を思い出したからだ。彼と皇帝とは一体どのような間柄だったのだろうか。

(誰も信じられない男が、なぜウェイリーに……?)

 幾つかの可能性を考えかけて、それを振り払う。

「それは……。どういった意味か聞いても構わないか」

 言葉を選びながらシディアンが口にした言葉に、ウェイリーがハッとする。そしてすぐに先ほどの表での出来事だと気づき顔色を変えた。

「ちがッ……あの話は全部嘘です! いえ、私が陛下に恩情をかけていただいたのは事実ですが、ですが皆が噂するような疚しいことは、天に誓って何一つありません! その、わ、私が体を重ねたのはシディアン様ただ一人で……ほ、本当です! 私の初めての方はシディアン様だけで……!」

「うっ、げほげほっ!」

 突然矛先を向けられたシディアンは、飲みかけの茶を喉に詰まらせて咳き込んだ。驚いたウェイリーが駆け寄って背中を摩ってくれる。しかし心の内はそれどころではなく、動揺と恥ずかしさで問いたいこともすっかり頭から飛んでしまった。確かに、気にならなかったかといえば嘘になる。気にならないふうを装ってはいたものの、正直にいえばかなり気にしていたのだ。

「申しわけありません! 熱かったですか!?」

「ち、ちが……。なんでもない。少しむせただけだ」

 慌てて取り繕いながらシディアンは胸を摩った。

「その。君の言いたいことはよく分かった。私から見た君はとても真面目な人間であるし、皆が言うような関係など嘘であると理解している」

「で、ではっ! 信じてくださるの……ですか?」

 ウェイリーの眦にはうっすらと涙が浮かんでいる。よほど今の言葉に感激したのか、頬を赤くしながらシディアンの両手を握った。

(そんな初々しい発言と必死の弁明、どう見ても手練れのわけがない)

 照れ隠しで顔を逸らしながら、ウェイリーの思うままに手を握らせる。

「恥じらうな。こっちまで恥ずかしくなる」

 本当に恥ずかしがっているのは自分自身。その事実は見て見ぬ振りをしてシディアンはウェイリーに語る。

「初めてについての話はさておき――君の置かれた立場は確かに奇妙なものだ。例えば、もしも陛下が君のことを気に入っていたのなら何かしらの地位を与えてもいいはずだ。にもかかわらず、陛下は君にそれを与えなかった。君は一体、どういった経緯で彼の側仕えとなったのだ?」

 しばらくの沈黙。

「……シディアン様には、以前私は家族と離れて暮らしているとお話しましたよね」

「確か奕碁えききのときにそう話していたな」

「はい」

 目を伏せ口を引き結んだウェイリーは、握りしめた自分の拳に手のひらを重ね、体を震わせる。

(迷っているのか)

 よほど言い辛いのだろう。シディアンは座ったままウェイリーの手を引き寄せると、彼の手のひらを撫でた。ずいぶん力を入れていたのか、握っていた拳には爪痕がついている。

「大丈夫だ。何を聞いても驚かない」

「私が、下賤の者でも……許してくださいますか?」

 彼からそのような言葉が出てきたのは予想外だった。さりとて一目を恐れ、隠遁生活を数百年続ける自分となんの差があろうか。シディアンは柔らかい視線をウェイリーに向けた。

「許すも許さぬも……私は君の地位に興味があるわけではない。そして君のこれまでに、どのようなことがあろうと――仙源郷で共に過ごした朗らかな君が、私の知る君であるし、それは変わることはない」

 桃莱国に来てからというもの、ウェイリーの表情は苦しそうなものばかり。仙源郷で二人とレイの三人で過ごした頃の屈託のない笑顔を見せたウェイリーの姿を想い、憐憫の念も湧く。

「私の家族は……いえ、私の祖父は御史大夫として、皇帝陛下にお仕えしておりましたが、謀反の疑いを掛けられ族誅に処されました」

 官吏の地位に詳しくはないが、御史大夫といえば宰相とそう変わらぬ地位のはず。そして族誅といえば大罪を犯した者――例えば、謀反を企てたものに対して行われる非常に重い刑罰だ。しかも処されるのは当人や関係者のみならず、一族全体に及ぶ。今さらながら彼が『罪人の癖に』と呼ばれた意味を知り、彼の心中を想いシディアンは顔を顰めた。


 ――ウェイリーは語る。

 武器を持った兵士たちが、両親と兄弟たちを拘束するために屋敷に押し寄せた。彼は五人兄弟の一番下の弟で、当時はまだ族誅すら理解できぬほんの子供だった。それでも愛する両親と兄たちを救おうと、彼は皇帝の前に飛び出した。

『どうかわたしの大切な家族の命をお救いください! どのような罰も受けます!』

 他愛ない子供の言葉。一族全てが誅されるというときに、幼い子供が『罰を受けるから家族を助けて』と言ったところで一体なんの意味があっただろうか。周りの者たちはそう思ったに違いない。

「当時の私は幼く、族誅がどのようなものかも知りませんでした。ただ、そのときは必死で家族を助けたい一心で……皇帝陛下の存在がどのようなものかも知らずに陛下の前に飛び出して、よく兵士たちに殺されなかったものだと思います」

 語りながらウェイリーは苦笑した。

「けれど陛下は、私の言葉に耳を傾けてくださいました。そして私と二つの約束をする代わりに家族の命を助け、流刑にすると言ってくださったのです」

「二つ?」

「はい。一つはシディアン様もご存じの、『次に即位すべき天子たる人物を見定め、立会人となる』という約束。もう一つは――陛下の命が潰えるときまで誠意を持って陛下の傍でお仕えしたら、私の家族を故郷に戻してくださるという約束です」

 陛下の命が尽きるとき――すでに先帝は崩御し、一つの約束は果たしたことになるだろう。つまりウェイリーは、五つの頃からただひたすらに流刑にされた家族を救うため皇帝に仕え、今度は新しい皇帝に泰王を即位させるため、そして仙源郷までやってきたのだ。

「皇帝を恨んではいないのか? 恐らく御史大夫殿は無実であったのだろう?」

「もちろん無実です! ただ……陛下が人を信じられなくなったことにも理由があって、ですから私は誰を恨めばいいのか……分かりません」

「優し過ぎるな、君は」

「そんなことはありません。……誰も信じることができないのは、とても辛いことです。家族を奪われた憤りは消えることはありません。ですが私は長いあいだ陛下のお傍でお仕えして、陛下の孤独を見てきました。周りから真摯な思いを向けられても信じることができない、それはどれほど不幸なことでしょうか」

 その考えはあまりにも好意的過ぎる、とは言いたかった。家族を奪われたというのに、それでもウェイリーはなお皇帝に寄り添おうとする。彼の献身さと真っ直ぐさに半ば呆れ、毒気を抜かれてしまった。

 この青年には本当に敵わない――眉尻を下げシディアンは首を振る。対するウェイリーは言い終えたあと僅かに表情を曇らせ俯いた。

「……ですが、いかに謀反であっても祖父はすでに処され家族は流刑。私は陛下との約束を果たすために、側仕えとして皇城に留められただけの奴婢。皆が私を罪人と呼ぶのはそういった理由があったからなのです」

「それでも君は、陛下を恨まぬのだな」

「私は陛下よりはまだ幸せだと思っておりますから」

「君の現状の、何がそこまで幸せだというのだ?」

 微笑むウェイリーの理由が分からず、シディアンは目を丸くした。先ほどの話を、どこからどう聞いても幸せとは思えなかったから。けれどウェイリーはシディアンに嫣然とした微笑みを向ける。

「仰ったではないですか。これまでの私がなんであろうと、仙源郷で共に過ごした私が、貴方の知る私であると。想いを傾けた方が言ってくださったのですから、これ以上の幸せはありません」

 シディアンは驚き、戸惑い、彼になんと答えてよいか分からずにしばらく動くことができなかった。


    *


 夕餉が届けられたのは、それからしばらく経った頃。宦官と兵士たちが二人の滞在する客室へとやってきた。事前にウェイリーがシディアンの好みを伝えていたのか、肉を使った料理は一つもない。どの料理も手が込んでいて美味しそうに見える。

(それでも……)

 それでも仙源郷でウェイリーの作ってくれた食事が懐かしい。つい先日のことであるはずなのに、それが酷く遠い日の出来事のように思えた。感傷に浸るシディアンとは真逆に、ウェイリーはなぜかやる気に満ちている。彼は目の前に出された夕餉の数々を前にして、

「私は陛下の毒見役も担当しておりました! 安心してお任せください!」

 と豪語した。自分の立場を全く分かっていないウェイリーに溜め息をつきながらシディアンは箸を取る。

「君の言葉は有り難い。しかし私の毒見よりもまず君自身のことを考えなさい。私は曲がりなりにも医仙と呼ばれているのだから、毒を食らったとて全く効果はない。私が毒見をするから、君はそのあとで食べなさい」

「で、ですが!」

 医仙だから毒は無効だというのは少々雑な言い方だ。しかし細かく説明するのもきりがない。これ以上言うなとばかりに、シディアンはウェイリーに額に人差し指をぴたりと当てる。言い返そうとしたウェイリーはウッと言葉を詰まらせ、不服そうにシディアンの顔を見た。

「私の側仕えとしての役目を忠実に守ろうとしていることも理解している。だが君が陛下と交わした約束はとてつもなく重大なものだ。もし万が一にも君を邪魔に思う者がいるとしたら、私以上に君の命のほうが危ないだろう」

「私の命などちっぽけなものです。死んだとて誰も困りはしないでしょう」

「私が困る」

 溜め息交じりにシディアンが言った、たった一つの言葉。それだけでウェイリーの表情は一瞬にして明るくなった。

(宦官と兵士がいる手前……気まずいのだが……)

 仙源郷の屋敷のように抱き着いてきたらどうしようかと思ったが、さすがにウェイリーも弁えていたようだ。ひときわ瞳を輝かせた以上のことは何も起きなかった。


    *


 ――眠れない。

 鼻先まで引き上げた布団をずらし、シディアンは静かに息を吐く。夜はすでに深く、皆はすでに寝入っているのだろう。静寂の中、更夫の声と竹筒を叩く音だけが遠くで響く。

 シディアンが皇城に滞在するあいだの場所として与えられた客室には、大きな寝台が一台と牀榻しょうとうが一台ある。当然ながら寝台がシディアンに、牀榻しょうとうがウェイリーが寝るようにとの意図で置かれているものだ。部屋の隅には、ウェイリーが眠る牀榻しょうとうがある。けれど灯りもない状態では牀榻しょうとうの微かな輪郭を見つけることしかできない。

(彼はもう、眠ったのだろうか)

 急に彼の顔が見たくなり、シディアンはそろりと寝台から足を降ろす。微かな月明かりを頼りにして、素足のままウェイリーの元へと歩き出した。夜闇に目も慣れてきたせいか、灯りがなくともウェイリーが横たわる姿を見ることができる。それでもはっきりと表情までは見えず、牀榻しょうとうの脇に屈むと静かにシディアンはウェイリーに顔を寄せた。安らかな彼の寝顔、そして小さく規則的な呼吸音が微かに耳に届く。

 皇城にやってきてまだ一日しか経っていないというのに、沢山のことがあり過ぎた。覚悟を決めて桃莱国へやってきたつもりであったが、それでも彼が思う以上に肉体的にも精神的にも疲れている。お陰でウェイリーに尋ねようと思ったことの半分もまだ聞けてはいない。

 ――君はその約束を皇帝が守ると、本当に信じているのか?

 ウェイリーから皇帝とのあいだに交わされた約束を聞かされたとき、喉元まで出かかった言葉。彼が傷つき困るだけだと思い、シディアンは言うのを躊躇った。族誅という処分は非常に重い。謀反の疑いともなれば真実がどうあれ子供の言葉一つで簡単に処分を変えることはないだろう。恐らくウェイリーの両親や兄弟は流刑の地で殺されているのではないだろうか。皇帝がなぜウェイリーと約束を交わしたのか、側仕えとしたのか、理由は全く分からない。もしかすると、ほんの戯れだったのかもしれない。しかし幼い頃から皇帝との約束を信じ、彼が死んでもなお約束を守るために尽くすウェイリーのことを思えば、それについて言及することは憚られる。

「っ……!」

 不意に手を握られたシディアンは、咄嗟に牀榻しょうとうから離れようとした――が、屈んだまま手を握られたため、思うように立ち上がることはできなかった。暗がりで黒い眼がシディアンを見ている。

「しでぃあん、さま?」

 失敗した、ウェイリーが目覚めてしまったのだ。牀榻しょうとうの脇に屈みこみ、側仕えの寝顔に顔を近づけた怪しい男。咄嗟に自分の置かれた状況を鑑みて、シディアンは顔から火が出るほど羞恥の思いに駆られた。

「誤解だ! ね、眠れなくて……君は寝ているのか気になっただけで……」

 上手い言い訳も思いつかず、あとは幾つか弁明の言葉を並べ立てたものの、結局ぐだぐだと言葉にならない言葉で終わってしまう。けれどウェイリーは肩を震わせ笑い声を堪えている。居たたまれ無に無理やり立ち上がろうとすると、今度はぐいと力任せに引き寄せられた。踏みとどまることもできずにシディアンはウェイリーの上に倒れ込み、今度は布団越しに抱きしめられた。


「申しわけありません、目を開けたらシディアン様がいるなんて嬉しくて……。どうかお許しを」

 白湯をシディアンの前に置いたウェイリーは、まだ笑いを堪えながら言った。この言葉に喜んでいいのか否定したほうがいいのか悩みあぐね、「ははは」という乾いた笑いしか出てこない。二人ともすっかり目が覚めてしまい、ウェイリーがそれならと白湯を沸かしてくれたのだ。

 外に光が漏れぬよう、灯燭は一つだけ。卓子の上には音を消す香炉を据える。シディアンはウェイリーの手渡してくれた白湯を少しずつ口に含む。喉を伝って落ちる温かさが、じわりと広がって心まで温まるように感じられる。

 先ほどは恥ずかしくて死ぬかと思ったけれど、二人きりの静かな時間も悪くない。

「いや……少し安心した」

「はい?」

 言葉の意図するところが測りかねたのか、ウェイリーは呆けた表情でシディアンを見る。

「皇城内では周りの目もあって仙源郷での生活と同じようにはいかぬだろうが……。二人だけのときは、やはり君は君なのだと思ってな」

 皇城内でのウェイリーの立場は特殊であり、しかも周りから決して良くは思われていない。それなのに彼の背負った役目は途方もなく重要だ。シディアンとともにいるときでさえ彼のことを悪く言う言葉が周りから絶えることはなかった。シディアンは太子を救うために招かれた存在であり、ウェイリーは地位もないのにシディアンの指名を受けて側仕えに収まっている。きっとシディアンが思う以上に肩身の狭い思いを今もしているのだろう。

「一つ……尋ねても良いか?」

「何なりと」

 穏やかな声でウェイリーは答える。少し顔が赤いのは灯燭の灯りのせいだろうか。

「夕餉の前に言ったこと――『想いを傾けた方』というのは、君にとってどこまでのものだと期待してよいのだ?」

「どこまで、ですか? ええと……」

 考えるウェイリーは顎に指を添え、視線を虚空へと向ける。視線が逸れた隙にシディアンは素早くウェイリーに近づくと彼の唇に己の唇を重ねた。

「!?」

 ウェイリーの瞳が見開かれる。正直――殆ど本能で体が動いてしまったのだ。逃げ出したい気持ちを抑え、シディアンはウェイリーのことを見据えた。真っ赤な顔のウェイリーが、固まったままシディアンを見ている。

奕碁えききの報酬のとき。また今度口付けても良いかと君は尋ねたな。……私から口付けるのは、迷惑か?」

「と、とんでもない! 迷惑だなんてそんな。むしろ私のような者が……」

 言いかけてウェイリーはハッと顔を上げた。シディアンは悠然と微笑み、彼のために用意していた答えを口にする。

「仙源郷で共に過ごした君が、私にとっての君であり、君の置かれた立場がどのようなものであれど、私は、私の知る君を信じる」

 夢心地のような表情のウェイリーに、シディアンはもう一つ言葉を繋ぐ。

「だから……二人だけのときは仙源郷のときのままの、朗らかで自由な君でいて欲しい。私に遠慮はしないでくれ。レイはいないが――」

 シディアンは最後まで言うことができなかった。ウェイリーの唇が触れ、包むように優しく抱きしめられたからだ。ウェイリーはすぐに唇を離すと、目を細めてはにかんだ。

 これが彼の答えなのだ――そう感じて、シディアンはウェイリーに向かって微笑み返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る