第7話 噂話

 泰王の病は一か月で治る――その知らせで皇城内は歓喜で溢れ、沸き立った。泰王に明日も来ることを伝え皇太子宮を辞したあと、シディアンは今後の治療方針をカーマと話し合い、官医局へ赴くことにした。

「しかし、まさか側妃様まで皇城に来ていたとはさすがに思いませんでしたね……」

 皇太子宮での出来事を思い出したのか、ウェイリーがぶるりと身を震わせる。診察を終えたあとに出会ったのは泰王の側妃、翠妃であった。緑琉璃色の上衣に楊桃色の襦裙を風に揺らしながら、艶やかな微笑みを浮かべた女性。一目で高貴な身分だと分かる出で立ちにもかかわらず、皇太子宮から出てきたシディアンたちの前に、人目も憚らず彼女は姿を現した。

 太子妃ですら泰国にいるはずなのに、どうして側妃が皇城まで出向いてきたのか、その真意は分からない。しかし少なくとも太子自身は、側妃が自分を追いかけて皇城までやってきたことに感激しているようだ。

『医仙様。泰王殿下の病は治る、というのは誠でございましょうか?』

 初めは側妃の存在など知らぬから、『一体誰なんだ』という顔で彼女を見てしまった。慌ててカーマが「太子殿下の側妃様ですよ」と教えてくれたので、不躾な態度を取らずに済んだようなもの。

『無論、治療さえ行えば治らぬ病ではない。私に任せていただければ』

 突然現れた側妃の存在に驚きつつも答えたシディアンの言葉に、彼女は袖で顔を覆いながら人目も憚らずに涙を零した。健気さを演じるかのように振る舞う彼女には、どこか男をとらえて離さぬ妖艶さを感じさせる。事実、皇太子の世話をしていた宦官でさえ彼女の様子を気にかけているものが少なくはなかった。……気のせいでなければであるが。

(太子妃との仲がどれほどのものかは分からぬが……。正妃を差し置いて皇城まで追いかけてくるとは大胆な)

 皇帝がもしも健在であったなら、そのような振る舞いは許されぬことであったろう。高貴な人物が移動するには護衛や世話役など、沢山の人間が付いて行くことになるわけで、移動のための費用も馬鹿にならぬはず。最終的に移動にる費用が、税という形で徴収されることになるわけで、たかだか太子の身を案じた程度の理由で、側妃が独断で押しかけていい話ではないのだ。

(随分と、まあ。大した女子であるな……)

 サンファの話では――翠妃は慎国で一番大きな商家の娘で、慎王の催した宴席で泰王が見初めたという。対する太子妃は隣国の姫君であったが、幼い頃より泰王の許嫁として教育を受けてきたそうだ。太子と太子妃、二人の仲はたいそう評判で、いかに泰王が見初めたとはいえ商家の娘と生粋の姫君とでは、やはり差は歴然だ。恐らく彼女は、太子妃と張り合っているつもりなのではないだろうか。――そうだとしても、そうでなかったとしても、実に関わり合いたくないものだ。シディアンはうんざりした顔で、痩せた宦官と共に皇太子宮へと戻ってゆく翠妃を目で追った。


 官医局ではカーマが先回りして彼等に説明をしておいてくれたのか、話が拗れることもなく準備は順調に進んだ。シディアンは必要な薬を伝え、できるだけ急ぎ揃えて貰うよう手筈を整えた。なにせ何も手を打たなければ、泰王に残された時間はそう多くない。それでも今日すぐでは薬の手配が整わぬため、治療自体は明朝から始めることになる。シディアンにできるのは太子の病を治すことだけ。全ての用事を済ませたあと、シディアンとウェイリーはガイアンの待つ場所へ向かうことにした。待ち合わせる場所は、先刻ガイアンと別れた場所。

「疲れた……」

 肩を揉みながら歩くシディアンを見て、ウェイリーはくすくすと笑っている。官医局でカーマは、シディアンが引くほど真剣な眼差しで話に耳を傾け、何故か太子の病に関係のない、薬や病に関する質問を幾つも投げかけてきたのだ。仕方が無いので質問に答えてやると、これまた引くほど真剣に一字一句を書き留めている。聞けば彼は代々医者の家に生まれたが、代々語り継がれた『医仙』の伝説を幼い頃よりずっと聞かされ、憧れ続けていたのだそうだ。

(そんな大層な人間ではないというのに……)

 頑なに桃莱国へ来ることを拒絶していた身としては、そこまで憧れられると申し訳なくなってしまう。何度か『自分はそのような偉い存在ではない』と彼を諭したが、白髪の老人に子供のような輝く瞳で「医仙様は我々の希望であり永遠に目指し続ける存在です!」と熱く語られてしまった。

「私の伝説を語り継いだ者たちに、今すぐ止めるように懇願したい……」

 都城では自分のことが歴史書に書かれているというし、誰が好き好んで嫌われ者のことを語り継ごうと思うのだろう。嫌がらせなら頼むから今すぐ止めて欲しい。しかし、ウェイリーの考えは違うようだ。

「皆、シディアン様の行動に感謝し、後世に残していきたいと思ったからこそ、語り継いでいるのだと思いますよ」

 そのようなこと、あるはずがない――。

 ウェイリーの真っ直ぐな言葉はとてもありがたい。しかし現実はそうではないのだということを、シディアンは知っている。深い傷がじくじくと痛むように、過去の記憶はシディアンを苛むのだった。

(それにしても……)

 歩きながらシディアンは奇妙な感覚を覚えた。遠くから皆がシディアンのことを見てヒソヒソと何やら話をしている。彼等の話題の先はシディアンではなくウェイリーのようだ。

『あの男妾野郎、今度は医仙様に取り入る気なのか?』

『罪人の癖になんと身の程知らずな』

『皇帝陛下に色仕掛けで取り入った恥知らず!』

『お情けで生かされた身でなんとまあ……』

『誰か、医仙様に教えて差し上げればいいのに……あいつは罪人の癖に皇帝陛下に取り入って今の地位を得たんだ……ってな!』

 常人より聴覚は優れているがゆえに嫌でも彼等の話はシディアンの耳に入ってくる。彼等はよほどウェイリーに対し何某か思うことがあるようだ。先ほどから聞こえてくるのは、どれも嘲弄や軽侮な言葉ばかり。悪意というものは恐ろしい。淀んだ言葉というものは、刃を向けた以外の相手すら傷つけるほどの力があるのだ。

(しかし……彼等はウェイリーのことを、皇帝の男妾と言っているのか?)

 ウェイリーと出会ってからのあれこれを振り返っても、欠片すら同意できる者ではない――が、それでも彼等の侮蔑の言葉は僅かにシディアンを不安にさせた。

『彼は亡き皇帝陛下の側仕えをしておりました。彼は皇城内でも少々特殊な立ち位置におりまして、武官でも文官でもありませんし宦官でもございません。しかし亡き皇帝陛下より生前直々に賜った重要な役目があります』

 ガイアンの語った言葉に対する意味。そのときは少し妙だと思ったくらいで、しかし改めて考えるとますます違和感が増してくる。そもそも皇帝の側仕えだというのに官職のない男。にもかかわらず皇帝より直々に役目を賜っている。

 しかも役目というのが、あろうことか『次に即位すべき天子たる人物を見定め、立会人となる使命』なのだから尋常な話ではない。一人の男に負わせていい責務ではないし、本気で亡き皇帝がウェイリーを心から信頼し、周りのことを何一つ考えずにそのような判断を下したのなら、『狂ったか色ボケしたのか』と思われても仕方がないことだろう。

 皆が彼と皇帝とのあいだに何かあったのではないかと、疑いの目で見るのも無理はないと思うし、シディアンとて心の内はさざ波が立つのを止められない。さりとて下賤な噂話を信じるわけではないが――ウェイリー自身の口から『そうではない』とはっきり聞きたいという気持ちは少しある。

 先ほどからウェイリーに向けられる視線は、嘲り見下すようなものばかりだが、恐らく妬みや嫉妬からくる感情も含まれているのだろう。

 結局その場で何か言い出すこともできず、しばらく二人は無言で歩いていた。しかし不意にウェイリーのことが心配になり、シディアンは振り返る。思った以上に遠い場所を彼は歩いていた。その表情は硬く顔色は青い。どうやら彼にも周囲の言葉は届いていたようだ。

「……気にするな」

 小声でシディアンはウェイリーに囁くと、彼の背に手を当て再び歩き始める。口さがない連中の言うことなど気にしても意味がない。本当に気になるならば、彼に直接尋ねればよいのだ。

「よう。ずいぶんと大口を叩いたそうだな。医仙様」

 聞き知った声が耳に刺さる。反射的に身構えようとしたところ、先にウェイリーがシディアンの前に進み出た。

「おいおい、皇帝陛下の男妾様。仮にも俺は、お前のご主人様の息子だぞ? そんな目で見ていいと思っているのか?」

 慎王の言葉を聞いた瞬間に、ウェイリーの表情がさっと青ざめる。怒りを滲ませながら、それでも慎王から目を背けて俯いた。立場的には第二皇子である慎王のほうが圧倒的に上だ。一時の感情で怒りを向けることはできなかったのだろう。

「慎王殿下におかれましてはご機嫌麗しく」

「麗しくないね」

 言うや否や、慎王の剣がシディアンの首筋に当てられた。彼と会うのは二度目だが、二度とも剣を向けられている。

 ――これでは先が思いやられるな。

 溜め息をつき、シディアンは慎王を見た。彼の瞳の奥に潜む微かな暴君の光が、嫌でも過去の陰鬱な記憶が呼び起こされる。同時に過去の恐怖に思考を支配され、シディアンの身体は固まったまま動けなくなった。もちろん、表情にはおくびにも出さないが。

「チッ、皆に余計なこと言いやがって! お陰で泰王が帝位を継ぐ話ばかり皆がしてるじゃないか!」

 不意に、誰かがシディアンの手を握った。

「恐れながら、殿下。まだ泰王殿下の病は、これから治療を始めるのですよ」

 手を握ったのはウェイリーだった。慎王からは見えないよう手を後ろに回している。彼の手は震えていたが、それでも慎王に向かって顔を上げ、はっきりとした言葉を口にした。

「周りの言動に振り回されるのは天子の器ではございません。慎王殿下もご自分が帝位を継ぐべきだとお考えならば、医仙様に八つ当たりするのではなく――ご自分の実力を臣下にお示しになるのが最良かと存じます」

「……生意気な。その首要らぬと見える」

「生意気でも、それが真実ではないでしょうか。私を斬りたいのでしたらお好きになさってください。ただし私の命は――陛下の物です」

 二人は暫し睨み合ったあと、慎王が引き下がる形で決着がついた。

「慎王殿下。そのような度量の小さいことばかりなされては、殿下を慕う者の心すら離れてしまいますよ?」

 皮肉交じりのガイアンの言葉。慎王が去った理由は他でもない、ガイアンが慎王の行いを見かねて言い咎めたからだ。普段は頑なな慎王も、泰王の快癒が現実的となってきた今、自分を推挙してくれている者たちを減らしたくはなかったようだ。結局彼は捨て台詞を残し、その場を去っていった。舌打ちを残しつつも、危害を加えられなかっただけ幸いだろう。彼が来てくれなかったらウェイリーに危害が及んでいたかもしれない。そう思うと背筋がうすら寒くなるし、彼が無事であったことにシディアンはほっと胸を撫でおろした。


 ――慎国は巨大な国境に隣接した土地であり、常に敵国からの襲撃に備える必要があるそうだ。慎国を支える軍事力は、他の諸侯王に比べても群を抜いており、その最たるところが桃莱国最強と謳われる水軍にある。慎には巨大な運河があり、都城や各地への物資の運搬が頻繁に行われ、移動手段も豊富だ。慎の兵士たちは、騎馬はもちろんのこと操舵や水上の戦闘も得意としており、まさに北方の要となっている。慎王は二十そこそこの若さでありながら、既に二度ほど襲撃を跳ねのけている。

 確かに残虐な面も否めないが、もっとも危険な土地において戦いを好み死をも恐れぬ彼の度胸と実力は頼もしいもので、それゆえ必ずしも慎に住む民の評判も悪くはないそうだ。国を治める手腕はないが、代わりに守り攻める才能はずば抜けている――一部の者たちが慎王を皇帝にと推す理由も分からなくもない。

 とガイアンは歩きながら話してくれた。

「確かに慎王殿下の実力は素晴らしいものです。私と剣を交えても殿下は互角かそれ以上。将軍であれば、これほど頼もしい人物はおりません。……それでも、皇帝となれば、失礼ながら殿下はやはりその器ではないと思うのです」

 そして泰王の病は治る――という話は、あの場にいなかったガイアンにすらもう届いていたようだ。先ほど別れたときと打って変わって彼の表情が明るかった。

「帝位を継ぐ方は、やはり泰王殿下が相応しいと私は思っております。医仙様、太子殿下のことをくれぐれもお願いいたします」

「無論、任せて欲しい」

 二つ返事で頷いたシディアンにガイアンがふっと表情を緩める。出会いから強引であったし、この男の頭の中は国のこと、太子のことしかなく他人への気遣いなどという言葉は無縁だと思っていた。しかし彼の表情が和らいだのを見るに、国と太子のことが頭を占有しているのは真実として、彼もまた『医仙』という一条の光に必死で縋った、一人の人間だったのだと気づく。

(それだけ国を憂い、太子のことを想っていたのか)

 先ほどの人々から溢れた歓喜の声は泰王の人となりをよく反映している。あれほど慕われ心配されている泰王だからこそ、皆は必死で動いたのだから。


「夜間は私はおりませんが、宮殿には宿衛兵がおりますので夜間も絶えず医仙様をお守りいたします。もし何かあればすぐにでもお知らせください」

「感謝する」

 シディアンたちを客室まで送ったガイアンは、そう言い残して去っていった。夜と言うにはまだ少し早い時間だが、彼も彼で多忙なのだろう。恐らくこれ以降は何か起きない限りは戻ってこない、という意味合いだったのだとシディアンは理解した。

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