千歳の虚を満たすもの(ちとせのうつろをみたすもの)

ぎん

<弐>桃莱国

第6話 皇太子

 次の日の早朝、昨日と同じ隊を率いてガイアンが迎えにやてきた。シディアンは眠い目を擦りながらも彼等を出迎えた。

(眠い……)

 明日が来るのが怖いと言ったウェイリーのために、シディアンは朝まで側にいることを約束した。ところが何を勘違いしたのかウェイリーは牀榻の端に座ったシディアンを引き寄せると背中越しに抱きかかえ、そのまま眠ってしまった。背中越しとはいえ抱きかかえられたシディアンは、ウェイリーの寝息が首にかかってそれどころではない。ぐっすりと眠るウェイリーを尻目に一晩中目が冴え渡り眠れなかったのである。

 計画の内であったなら恐ろしい、無意識ならばもっと恐ろしい。

 それでも一日待たせておいて「眠い」とは言えず、必死で目をこじ開けてシディアンはガイアンたちを迎えた。門を開け一歩進み出ると拱手礼のまま二人を待っている兵士たちと数人の官吏、そして彼等の先頭にガイアンがいる。

「お迎えに上げりました。医仙様」

「ご苦労」

 淡緑色の袍をを靡かせ身軽な出で立ちのシディアンが、ヒラリと袖を振り歩き出し、次いでウェイリーがそのあとにつく。桃莱国へ戻ることもあり、ウェイリーの装いはシディアンから借りたものではなく桃莱国の官服だ。シディアンの荷物は彼が背負う背架の中で、官服に背架という不釣り合いさが少々滑稽にも見える。

「そうだ。出立の前に返事を聞こうか」

 シディアンはガイアンに向き直ると尋ねた。彼の言う『返事』とは桃莱国へ行く条件として、シディアンが昨日彼に提示した内容についての返事のことだ。ガイアンは宰相に目くばせをする。咳払いののち、宰相はシディアンの前に進み出た。

「太子殿下の勅を伝える。『医仙が桃莱国皇城に滞在中は、常に梨衛豊(リー・ウェイリー)を従者として側に滞在させること。薬を調合するための場所を提供すること。不足の薬剤は全力で手配することを、ここに約束する』」

「太子殿下の勅、有り難く」

 シディアンは膝をつき恭しく勅を受け取った。


    *


 仙源郷の入り口で豪勢な馬車に乗り、シディアンたちは出立した。桃莱国の都城へは半日ほどで辿り着き賑やかな街路をやはり馬車で緩やかに走り抜ける。シディアンとウェイリーは賑やかな城下の喧騒を聞きながら、ときに耳を傾け、ときに語らいながら皇城へと向かった。

 意外だったのは、ウェイリーが城下のことについて殆どといっていいほど何も知らなかったこと。彼は皇城をみだりに出ることはできず、人生の殆どを城の中で過ごしていたようだ。これでは後宮の者たちと変わらない。そのような環境でよく仙源郷へ来たものだと言ったところ、止むを得ず無断で飛び出したのだと言われさすがにに呆れてしまった。

「よく罰を受けなかったな」

「皇城に戻ったあとで受けるかもしれませんね、ははは……」

 それだけ太子のことで切羽詰まっていたのだろうが、外の世界を殆ど知らぬのならなおのこと、よくまあ仙源郷まで無事に辿り着けたものだ。ガイアンたちはウェイリーのことを『使者』だと言ったが、蓋を開けてみれば使者でもなんでもなく……勝手に飛び出しただけだったのだ。恐らくあの場で『使者』と言ったのは、ウェイリーの立場が悪くならぬようにと、彼らが考えて決めたのだろう。

 皇城へ続く巨大な門を通り抜けると大勢の官吏たちが一斉に彼等を出迎える。儀仗を持った兵は通路の脇に並び立ち、そのあいだをシディアンたちは馬車で走り抜けた。

「立派なものだな」

 馬車を降りたシディアンとウェイリーは、ガイアンと宰相のサンファ(三法)に案内されて奥の回廊へと進んでゆく。仰ぎ見た豪奢な門には龍と鳳凰が彫られている。華美ではあるが悪趣味なほどの贅沢というわけではない。通りを馬車で進んでいたときも同様で、内城に住む民たちが貧困に喘ぐほど苦しめられてはおらず、むしろ楽しそうな笑い声ばかり聞こえてきた。つまり、崩御した天子は贅沢を極めるわけではなく、それなりに良き政を行っていた、ということだろうか。

 気づけばすっかり人も減り、遠くを歩く兵士や官吏たちの姿がまばらに見えている。

「城下はずいぶんと賑わっていたようだ。皇城を見ても贅沢を尽くした様子もなく、民は重税に喘いでもいない。崩御された皇帝はずいぶん真っ当な政を執っておられたのだな」

「ははは……そうですね、民にとってはそれなりに良い天子であらせられたかと」

 率直な感想を零したシディアンの言葉になぜかサンファは言葉を濁す。彼は壮年よりはやや若く、地位からすれば相当若くして今の地位に出世したことになる。馬車の中でさらりと聞いた話だが、科挙を首席で合格した彼は驚くほどの速さで昇進し、たまたま前宰相が落馬で急死してしまい、棚ぼた式に宰相の地位収まってしまったのだという。それゆえずいぶんと他の官吏たちには恨まれたそうだ。しかし、どうやら彼の心中には皇帝に対して複雑な感情があるらしい。それでも次の皇帝を選び即位させようというのだから大したものだ。

「何か思うところでも?」

「とんでもない!」

 慌てて首を振ったサンファにガイアンが困ったような顔をする。藪蛇だったかと話題を変えようとしたとき、今度はガイアンが口を開いた。

「国に対して真摯に向き合っておられた一方で、自分にも他人にも厳しい方でしたのでそういった重責もあって早世されてしまったのでしょう」

「それほど惜しい人物であったか」

 ならばなぜ、太子の帝位継承のときは伝承に縋ってまで仙源郷までやってきたのだろうか。本当に亡き皇帝を惜しいと思うなら、まず彼が臥せったときに動こうとしなかったのか。

 そんなシディアンの内心に気づいたのか、ガイアンは肩を竦める。

「――まあ、民はともかく陛下にお仕えする役人たちにとっては、ある意味ほっとしたかもしれませんね」

「それは?」

 問いかけにガイアンは振り返ることなく、そして答えることもなかった。――ただ、背後から見た彼の表情は微かに笑っていたように思う。

「そやつが医仙とやらか?」

 突如鋭い声が響く。ウェイリーはシディアンの前に立ち、サンファはおろおろしながら声の主に頭を下げる。ガイアンは小さく溜め息を突くと、声の方向に体を向け、そして跪拝した。

「慎王殿下。もしやわざわざ自ら医仙様のお出迎えをするために、遠路はるばる来られたのですか?」

 ピクリと慎王の眉が上げる。

「誰が医者如きのために出迎えなどするものか。俺は単にどんな大嘘つきがやってくるのか、この目で確かめてやりたかっただけよ。……大ぼら吹きなら速攻首を刎ねてやるつもりでな」

 そう言うと慎王は手に持った剣を鞘から抜き放ち、シディアンの首元に突きつけた。シディアンの前に立っていたウェイリーすらあっいうかすれ声を上げただけで、身動き一つ取ることができない。

 なるほど、この男が戦好き、血を見るのが好きな第二皇子か――シディアンには、先ほどガイアンが溜め息をついた理由がよく分かった。

「慎王殿下。医仙様は太子殿下の病を治すため、お招きしたのです。どうかお止めくださいますよう……」

「口を慎め、サンファ。宰相如きが皇子に口出しをして良いと思っているのか?」

「そ、そのようなことは……」

 血の気の多い皇子を諫めることができるものは、この場にはいないようだ。いや下手をすれば皇帝亡きあと、この厄介な皇子に物申すことができる者は、もう存在しないのかもしれない。

(こうなれば力ずくでこの皇子を黙らせるしかないな)

 この場で剣など持ち出されてはかなわない。厄介事には巻き込まれたくなかったが、思えばすでに皇城で継承争いに巻き込まれいるのだ。

「慎王殿下、どうか剣をお収めください」

 声を発したのはウェイリーだった。あざ笑うような目で慎王がウェイリーを見る。

「黙れ、奴婢同然の側仕え風情が。口答えしようなど無礼千万」

「無礼を承知でお願いしております。私は陛下に帝位継承を見届けるよう、使命を託された身です。泰王殿下のご病気を診ていただくために、責任を持って医仙様をお連れしなければなりません。どうか医仙様を傷つけるのはお止めください」

「ふん。俺を脅す気か? 貴様は兄上に帝位を継がせたいだけだろう」

 鋭い目で慎王がウェイリーを睨んだ。シディアンに突きつけられていた切っ先が、ウェイリーの首へと向かう。それでもウェイリーはたじろがず、真っ直ぐに慎王を見つめ返した。普段の穏やかな雰囲気とは打って変わって、力強いウェイリーの視線。仙源郷での頼りない彼の姿からは想像もつかぬ、力強い姿だった。

「元より泰王殿下は立太子されているのですから、本来帝位を継ぐのは当然のこと。それでも敢えて慎王殿下も帝位継承に名乗りを上げるのでしたら……お二方が同じ条件のもとで選ばれるべきであり、慎王殿下と同様に泰王殿下も健やかであるべきでしょう」

 しばらく二人は睨み合っていたが、やがて慎王が「ちっ」という舌打ちとともに剣を鞘に戻す。どうやらウェイリーのほうが今回は勝ったようだ。

「亡き父皇から直々に命じられたからとて、思い上がるなよ。所詮貴様は罪人なのだからな!」

 ウェイリーに言い捨て、慎王は足早に従者たちとともに去っていった。

「とんだ挨拶だ。……あのような男では確かに」

 ――確かに帝位など継がせられるはずもない。そう言おうとしたのだが、慌てたウェイリーに口を塞がれてしまった。

「医仙様、慎王殿下が大変な失礼を……」

「いや、気にしなくていい。あれでも皇子なのだから、そなたが口出しできることでもないのだろう」

 あとからガイアンが、何もできなかったことを詫びてきたが、彼は彼で慎王と折り合いが悪そうだ。あの慎王に対して皮肉を言うほどなのだから、あれ以上何か言おうものなら、あの場で血が流れていたかもしれない。

 それよりも、ウェイリーが矢面に立ってシディアンを守ったことのほうが驚きだった。相手はこともあろうに桃莱国の第二皇子なのだ。ガイアンも、大監であるサンファですら慎王を諫めることができなかった。それなのにウェイリーは、身を挺してシディアンのことを守ったのだ。

(穏やかそうに見えるのに、ずいぶん強く出たものだ)

 一体彼のどこにそのような度胸があったのだろうか。……いや、仙源郷に一人でやって来るくらいだから、決して度胸が無いわけではないのだろうが。

「シディアン様、お怪我はされませんでしたか?」

 気づけばウェイリーの顔が目の前にあった。彼は先ほど慎王が剣を突き付けた際に、シディアンが怪我をしなかったかと心配なのだ。シディアンの首に両手を添え、穴が開かんばかりに首元を凝視している。先ほどの勇ましい表情との落差に思わずシディアンは頬を緩め「大丈夫だ」とウェイリーに告げた。



 それからシディアンは数ある宮殿の一室に通された。

「こちらは貴賓の方々にお使いいただいている客室です。皇城に滞在するあいだはこちらが医仙さまの部屋になります。外には禁衛兵が常駐しておりますので御用があれば何なりとお申し付けください」

 二つの部屋をぶち抜いて繋げたように大きな部屋。家具は全て紅木の素材で揃えられ、至る所に繊細な装飾が彫られている。床帳で覆われた大きな寝台は屋敷の牀榻しょうとうとは大きさも豪華さも雲泥の差だ。

「それから――奥に沐浴の用意がしてあります。身を清めたあとで太子殿下の元へご案内いたしますので、頃合いを見てお迎えに上がります」

 扉に手をかけたところで「くれぐれも医仙様のお世話を頼んだぞ」とウェイリーに言い含め、ガイアンは官吏とともに去っていった。


 壁越しにガイアンの足音が完全に消えたのを確認すると、シディアンは溜め息をつく。簾幕で仕切られた先にあるものを想像し、自然とげんなりとした表情になってしまう。

「太子に会うだけで沐浴か……」

 これでも早朝に沐浴をしてからガイアンたちを出迎えたのだが、彼等はそれでは足りないらしい。

「さあさあ、シディアン様! 沐浴をして太子殿下に会いに行きましょう! 私がお手伝いいたします!」

 憂鬱なシディアンとは正反対に、うきうきとした様子のウェイリーはシディアンの背をぐいぐいと押す。手伝う気満々の気配をウェイリーから感じ取ったシディアンは慌てて背に充てられた彼の手を引き剥がす。

「手伝いは不要だ。今までだって一人でやってきたのだから」

「いけません。ガイアン様からシディアン様のお世話を言い使っておりますし、何よりレイさんからもシディアン様のことを託されていますから!」

「うっ……」

 そう言われると強く出辛い。レイはシディアンたちとは行動を共にせず、今は彼女一人で別行動中だ。厄介なことにそんな彼女がシディアンの世話をウェイリーに託したらしい。おまけにシディアン自身がウェイリーを皇城にいるあいだは側仕えとして世話をさせるように要望したのだから、世話を拒否するというのもおかしな話になってしまう。ただしそれはウェイリーを傍に置き、彼を危険から守るための方便だった。……よもやそれに足元を掬われるとは。

「あれは……君を傍に置くための理由として言っただけだ。君は天子を見定めるという大役を仰せつかっていて、いつ身に危険が及ぶとも知れない。だから本当の側仕えのように世話を焼く必要は……」

 シディアンにとってウェイリーは守るべき存在であり、彼に本当の側仕えをさせるつもりはなく、そのことを彼に伝えようとしただけだった。

「では……では、シディアン様は私のために?」

 訊ねるウェイリーの声が震えている。仮にその通りだとしても改めて単刀直入に聞かれるのは少々照れくさい。仕方なくシディアンはふてぶてしく言い募る。

「……他に理由があるか。君は私が助けたのだから、無駄に命を散らすようなことはさせたくない。君の役目が無事に終わるよう、私も最後まで付き合うつもりだ」

 言い切ったあとで何気なくウェイリーの表情を見ようと視線を向けたシディアンは驚いた。目を潤ませたウェイリーが突進してきたからだ。

「シディアン様ぁぁぁ! わ、私は嬉しいです!!」

「うわっ!?」

 飛び掛かられた勢いでウェイリーとともに寝台に押し倒されたシディアンは、慌ててウェイリーを押しのける。

「ここは仙源郷の屋敷ではないのだぞ!? 勢いで飛びつくのはやめなさい! 早く太子殿下の所に行くのだろう!?」

「はっ……! も、申しわけありません! つい感動のあまり……」

 言ってから仙源郷の屋敷であれば飛びついても良い、というような言い方をしてしまったと気づいたが、幸いウェイリーは気づいていないようなので、そのまま流すことに決めた。今はそれよりも重視しなければならない出来事が目の前に迫っている。

「そ、そうでした! 湯が冷めてしまう前に、沐浴を済ませましょう!」

 いうや否やウェイリーはシディアンを寝台から抱き上げた。驚いたシディアンはウェイリーの首に縋りつき、はたと以前同じような光景を見たことを思い出す。

(これは……私が彼を院子にわに連れて行ったときと同じではないか……!)

 今は立場が逆転し、自分はウェイリーの腕の中にいる。ウェイリーは思う以上に力があるようで、難なくシディアンを持ち上げて歩く。自分はといえば彼の首に縋りつき、ただ運ばれるだけ。自らの置かれた状況に混乱し動揺し、シディアンは赤面した。

「さ! お体を流しますから、服を脱いでください!」

 湯桶の前に立たされ呆然としているあいだにも、ウェイリーの手がシディアンの襟元に伸びてくる。何となく恥じらいを覚え抵抗を試みるも、抵抗するより早く羽織を剥ぎ取られてしまった。恥辱より先に彼の本気の腕力に驚きを隠せない。

(何でそんなにやる気満々なんだ!?)

 あとはもう抵抗もむなしく、ウェイリーに押されるがままシディアンは服を脱がされて湯桶の中に投げ込まれてしまった。


    *


 殆どウェイリーの為すがままにされたあと、シディアンは用意された新しい襦に袖を通した。濡れた髪を丁寧に拭かれ、ようやく支度が調ったのはそれなりに時間が経過したあとだった。

 とはいえ――仮にも会うのは太子。念入りに身だしなみを整えるのならこの程度の時間はゆうにかかるだろうとウェイリーは言っていた。

(意外に肝が据わっているな……)

 あるいは図太い性格なのか。なにせこの皇城は彼が幼い頃から住み慣れた勝手知ったる場所なのだから。

 新しく用意された襦裙は、官服ではないがずいぶんと立派なものであり、絹地で仕立てられた白い交領に白い羽織と、心なしか彼等の思う理想の『医仙様』を体現しているような気がした。回廊を歩くたび蔽膝が風に揺れるので、なんだか落ち着かない。先ほどからずっと皆の視線を感じているのだ。

「皆、噂の医仙様のことを気にしているようですな」

 茶化すように言ったガイアンに苦々しい顔を向けてやったが、生憎振り返ることもしないので気づきもしない。

「迷惑な」

 悔しまぎれにそう言ってやると、ガイアンの背からかみ殺すような笑いが聞こえてきた。先導するガイアンは、振り返ることなく淡々と歩みを進めている。かといって周りには他の官吏たちもいる手前、ウェイリーと他愛のない話をするわけにもゆかず気まずい沈黙が続く。いい加減飽き飽きした頃、ようやくガイアンは止まった。彼の視線の先には二人の男が待っている。

「医仙様、ようこそおいでくださいました。私は太監のモーリア(墨倆)と申します。泰王殿下の幼少よりお世話をしておりました」

 待っていたのは太子の世話役であった太監と、白い髭を蓄えた老人――太子の侍医だった。どうやらこの先は彼等が太子の元へと先導してくれるようだ。二人が歩き始め、ウェイリーに促されたシディアンはちらりと背後を振り返る――が、すでにガイアンは背を向け別の仕事へと向かっていた。忙しい男だが三衙の一つを担う男ともなれば、いかに太子の未来が懸かっているとはいえ、付きっ切りでシディアンたちと共にいることはできないのだろう。

 侍医はカーマ(卡摩)と名乗り、これまでの経緯を歩きながら掻い摘んで話してくれた。

「三月ほど前のことです。少し前から太子殿下が熱を出されて薬を処方していたのですが、数日のうちに起き上がれぬほどの状態になってしまいました。はじめは皇帝陛下も長患いをされておりましたので、同じ病ではないかと疑いました。ですが太子殿下の衰弱してゆく速度は陛下のそれよりもずっと早く、弱りゆく太子殿下のことを陛下に報せるわけにもゆかず……結局陛下は太子殿下の病を知ることなくこの世を去ってゆかれました」

「泰王殿下が臥せていたことを、皇帝陛下はご存じなかったのか」

「皇城とは大きく環境の異なる地方に移ったことが原因で疲れが出たのだと、陛下にはお伝えしました。しかし、聡明な陛下のことですから、きっと薄々察しておられたのだと思います。わざわざ殿下を皇城に呼び戻したのも恐らくは……」

 カーマは首を振り、溜め息をつく。白髪の侍医は、長らく皇帝と太子の下で侍医を務めていたのだろう。それが成すすべもなく皇帝が死に、皆に望まれる太子の命まで危ういともなれば、溜め息一つでは到底足りるまい。

「太子殿下は聡明で優しく誰からも愛され慕われる、まさに理想の君主なのです。幼い頃に亡くされた、母である皇后陛下の願いに応えるよう、日々努力を怠らずここまで成長されました。本当に素晴らしい方です。太子妃殿下の藍宝妃様は健気にも殿下の病が快癒してお帰りになるのを、泰で一人お待ちです。医仙様の御力で何卒……」

 よほど太子のことを敬愛しているのか、心酔するかのように宦官は語り、そして現状を憂い涙を拭う。丸みを帯びた体がより丸く見えるほど背を丸めた太監の後ろ姿が妙に滑稽で、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだように思えた。

「殿下が病で皇城にいると知っているのはどの程度いるのか?」

「殿下については、皇城にいる臣下のみならず市井の民たちもある程度知っているかと。しかし不治の病ではないかということは当然伏せておりますが、それでもどこからか噂は広がって……いっそ公表したほうがまだ良かったと思うほどです」

 民たちは噂好きだ。憶測が憶測を呼び、本来の事実よりも酷い噂が恐らく飛び交っているのだろう。さりとて太子が不治の病などと……これで皇帝が崩御したことまで詳らかになってしまったら、それこそ国は大混乱に陥ってしまうに違いない。

「医仙様、どうか太子殿下をお救いください」

 話にちょうど区切りがつく頃、ようやく回廊を抜け開けた場所に辿り着く。美しい緑に囲まれた庭園には色とりどりの花が咲き誇り、花々の向こうにひときわ立派な宮殿が見える。太監の姿が見えると門衛の兵士たちは一斉に姿勢を正すと巨大な門を数人がかりで開け放った。


 皇城で静養している泰王は、かつて暮らした皇太子宮で今は過ごしているのだという。厳重に衛兵たちが守る扉の先へ、侍医と太監の先導でシディアンたちはその後に付いてゆく。広い部屋に広い寝台。天蓋には絹糸で様々な模様が描かれ、光を通して幻想的な影と光とを作り出す。趣向を凝らした装飾は壁一面に施され、寝台の随所にも美しい透かし彫りが様々な風景を描き出している。

 つまり――一目でこの部屋の人物が高貴な身分の者だと分かる、そのような部屋だった。

「初めてお目にかかります、医仙様。私は桃莱国太子、泰王と申します。このたびは私の病のためにご足労頂き、誠に感謝しております」

 傍に控える痩せた宦官に手を引かれながら、ゆるゆると寝台から立ち上がった青年は緩やかな微笑みを浮かべる。げっそりとやつれた彼の手首は見るからに細く、骨が浮き出しているようだ。首も弱冠を迎えたばかりの若者とは到底思えぬ細さ。誰かが首を掴んだらすぐに手折れてしまいそうな――今にも死にそうな青年だった。

(これは確かに尋常ではない)

 すぐさま彼の様子を見てシディアンは気づいた。そして起き上がるのも難儀な状態であるにもかかわらず、立ち上がりシディアンを出迎えようとした、太子の誠実な人柄に驚く。

(ウェイリーや他の者たちが、彼を皇帝にと考えた気持ちがよく分かる)

 本心で言えば皇族の病を治すことなど、まっぴらごめんだと思っていたシディアンではあったが、彼への偏見を少々改めた。

「太子殿下に拝謁いたします。私は……医仙と呼ばれたのは過去の話。今はシディアンと申すただの隠居。ですがこのたびは太子殿下の病を診るため、参った次第。……どうか私のために無理はせず、楽な姿勢で話をお聞きくださいますよう」

 そう言ってシディアンは宦官に泰王を寝かせるように目線で促す。泰王が横になったのを見届けると、改めて宦官の一人に視線を向けた。

「貴公らが泰王殿下の側仕えであるか?」

「左様でございます。私は太子殿下が幼少の頃よりお世話を仕っております」

 やや小太りの宦官は、シディアンが伝説の医仙であることを信じて疑わず、憧れの眼差しを向けている。確かに医仙本人ではあるものの、こうも熱烈に視線を向けられては気まずくて仕方がない。とにかく気持ちを切り替えねばと咳ばらいをしてシディアンは泰王に向き直った。

「では泰王殿下。脈を診ても宜しいか」

「医仙様のご随意にお願いいたします」

 側仕えの宦官に背を支えられながら泰王が細腕をシディアンに差し出す。肉が削げ骨が浮き出た彼の腕が痛ましく、シディアンは眉を寄せた。

(弱々しいが脈は安定している)

 とはいえ安定しているがゆえの違和感がないわけでもない。カーマが神妙な面持ちで、シディアンのことをじっと見つめている。彼はシディアンがどのような答えを出すかに興味を持っているのだ。

「確かに通常では治癒の難しい病だが西方の国ではすでに治療法が確立されている。そう恐れることはない」

「と、いいますと……!?」

 宦官の声が期待で上擦る。

「太子殿下の病は……そう、ひと月ほどあれば快癒することだろう」

 シディアンの言葉に周囲が大いに湧いた。それはウェイリーとて例外ではない。周りからは口々に「さすがは医仙様」という感嘆の声が聞こえてくる。すっかり治ったようなお祭り騒ぎの様子にシディアンは苦笑した。もちろん治すつもりではあるし、自信をもって治せると言えるのだが。

(やれやれ、まだ何もしていないのに気が早いな)

 実際のところひと月と言ったのは泰王の体力が回復して危険が去るまでの時間を加えている。だから本当は……もっと早く治せるのだ。

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