第2話 魔女と少女(2)


 冷たい空気が喉や肺を刺激する。吐く息は白く濁っていた。


 少女は魔女の家から抜け出して、森を一人で歩いていた。自分がどこを歩いているのかわからなかった。どこに行けばいいかもわからない。


 夜の森は明るく、月明かりが足元を照らしている。けれども木々の奥深くは黒く染っていた。体がひどく痛い。荷馬車から飛び降りたときに打ち付けた肩も、地面を踏むたびに痛みが走る脚も、歩みを進めるほどに痛くなっていく脇腹も、すべてが苦しかった。だが、少女は歩みを止めなかった。行き先がどこかにあるはずだと疑わない足取りで進んでいく。


 ガサリ、と葉を踏む音が聞こえた。


「…………」


 足を止めて音のする方に目を向ける。


 少女に気づかれないようにしているのか、それ以上の音が聞こえない。だが、少女は警戒しながら、一歩後ろに下がる。息を潜めて音のする方を睨めば、木々の陰から出てきたのは一匹の狼だった。


「…………っ」


 少女は身体を強張らせ、一歩後ろに下がる。


 狼は鋭い目で少女を捉えたまま、近づいてくる。牙の見える口からは荒い息がこぼれる。一歩、ニ歩と下がり、耐えられず少女は狼に背を向けて走り出した。


 それが合図にように少女の目の前に複数の狼が現れた。前もふさがれ、少女は思わず足を止めて後ろを振り返った。間近に迫ってくる狼を視界に捉え、少女はギュッと強く目を閉じた。



「――止まりな」


 その声に狼は動きを止めた。少女が振り向けば、そこには魔女が立っていた。魔女は杖を片手に狼たちに近づく。その瞳は鋭く光っており、まるで狼を捕食してしまいそうな恐ろしさがあった。


「アンタたちは賢いはずさ。どちらが格上かわかるね?」


 魔女の低い声に、狼は怯えたように身を小さくする。鋭かった目は弱々しくなり、魔女の機嫌を窺うように泳がせていた。


「行きな」


 魔女の言葉で狼たちは逃げるように走っていく。魔女はそれを一瞥すると、少女の方に近づいた。


 少女は魔女を睨むようにして見る。魔女はその様子に笑みを浮かべる。


「警戒することは大事だ。アンタはまだ生きるつもりなんだね?」


 少女はうなずくこともせずに、睨み続けている。魔女は満足そうにニィと口端を上げると、杖を少女に向けた。


「上等だよ」


 瞬間、少女の身体がふわりと浮く。目をぱちくりとさせる少女を横目に、魔女は杖を箒に変えた。


「アンタ、高いところは大丈夫かい?」


 魔女は少女の返事も聞かずに、箒の上に乗せる。魔女は少女の背を覆うように箒に乗った。魔女の足が地面から離れていく。箒は二人を乗せて、夜の空へと浮かび上がった。


 少女がぎゅっと目を閉じていると、魔女は「目を開けな」と言った。


 言われたとおり目を開けば、星空の中を自分たちは飛んでいた。

 魔女は少女が落ちないように彼女のお腹を片手で支えながら、遠い集落を指差す。


「あそこに村が見えるだろう? アンタが歩いていったのは反対方向だ。アンタの足だったら、半日くらいで着くだろう。次はちゃんと村に向かって歩くんだよ」


 空へ上昇するにつれて、村が少しずつ小さくなっていく。村の向こうには少し大きな街が見えた。魔女はその街を指差す。


「村の奥に街がある。アンタがもし街から来たのなら、そこに向かうんだね。歩いていくこともできるけど、村の人間が毎日、馬で街へ行く。誰かに頼めば、乗せてくれるだろうよ。アンタはどこにでも行けるんだ」


 少女は魔女が指差したところをじっと見たあと、魔女を見上げた。その瞳には怯えの色はなかった。


「…………」


 少女は村から離れた家を指差す。明かりの灯った小さなレンガ造りの家だ。


「ああ。あそこがアタシの住んでいる家さ」


 魔女は家に視線を向けると、皺だらけの目元を細める。家に向かってゆっくりと降下しはじめる。


「……『灯りの家』っていうんだ。あの家はどんな人でも受け入れてくれる。アタシみたいなやつでもね」


 地面に足を付けると、魔女は少女を箒からおろした。家に歩み寄って扉を開く。


「……もし帰る場所がないなら、ここに住めばいい。この家はアンタも受け入れてくれるはずさ」


 家に入れば、温かな空気が身を包んだ。魔女は少女を椅子に座らせる。少女は落ち着かない様子できょろきょろとあたりを見渡す。魔女はその様子を見ながら、台所に立った。温められている鍋の中には湯気を立てたスープが入っている。しばらく食事を取っていない少女が飲むことができるように作った、出汁だけを取った具のないスープだ。


 魔女は少女の前にカップに入ったスープを置いた。いい匂いがふわりと漂う。


「飲みな。その様子だとまともなものを食べていないのだろう?」


 少女は少し警戒しながら、カップを手に取る。冷えた手にはカップが熱かったのだろう。一度手を引っ込めながらも、またカップに手を伸ばす。すんすんと匂いを嗅ぎ、カップにふーっと息を吹きかける。そして、そっと口を付けた。


「…………」


 少女は目を大きく開くと、ゆっくりと味わうようにスープを飲む。スープの温かさに頬を緩ませると、ボロボロと涙を流した。


「っ…………」


 声もなく泣いた少女は泣き出す。そのとき、喋れないのだと悟った。助けを求めることもできず、一人で戦っていたのだろう。


「アンタの居場所をこの家にすればいい」


 魔女は涙が零れる少女の頬を皺だらけの手で拭う。


「まずはお休み。大丈夫。ここはアンタがゆっくり休める場所だよ」


 その言葉を聞いて、少女は魔女の服にしがみついた。肩を揺らして泣く姿に、魔女は何も言わずに背中をトントンと軽く叩いた。


 少女は泣きつかれてしまったようで、魔女の腕の中で眠っていた。


 魔女は仕方なさそうに息を吐く。そして、眉を下げて小さく笑った。


「……人間ってのは、本当に面倒な生き物だね」


 少女は頬を緩ませると魔女の服をぎゅっと握った。



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