喰字 作:四賀 湍瀬

 その美しい男が私の文字を吞み干すのに、十秒とかからなかった。

 四月のまだ冷える夕の気配に包み込まれているにもかかわらず、私は、高熱にうなされているときのような強い眩暈を感じながら部室の窓から中を覗いていた。珍しく我らが文藝部の部室に明かりがついているので誰がいるのだろうと見に来てしまったのが、運の尽きだったのかもしれない。そこで見知らぬ背の高い男が、立ったまま私の小説――昨年の文学フリマに出店したときに刷った、表紙に「本田泉奈」と私の筆名が印字されている、二万字足らずの小さな本――を、粉薬でも飲むように優雅に傾けているのを見てしまった瞬間、雷撃のような快感と高揚感に包まれ、動けなくなってしまったのだ。柔らかく癖のついた焦げ茶の髪、細いアンダーリムの眼鏡の影で長い睫毛に縁どられた瞳は見えない。一見奇抜なパッチワークデニムシャツはその腕の細さを強調して、ミロのヴィーナスも欠けてこその美しさ、かえってその派手な「欠け」が彼の彫刻めいた美貌を完全なものにしていた。筋張った手に支えられた文庫本が彼の唇から離されて、私はようやく倒れこむように部室に入った。男はその音に驚いてこちらを見る。やっと見えた瞳は吸い込まれそうな黒で、それで私は確信した。

「君……。『喰字鬼』、だよね?」



 私が部室に乱入――ここはそもそも私たち文藝部員の根城なので「乱入」というもおかしな話だが――してから十分。しばらく地面に頭をこすりつけていた、「飯塚光」と名乗ったその彼は、ようやくパイプ椅子に腰かけてくれた。それでもまだ飯塚は恐縮して、大型犬が怒られているみたいにその高い背を小さく小さくしていた。

「本当にごめんなさい、喰べてしまって。文藝部入りたくて、見学に来たんですけど。どうしても喰字欲がおさまらなくって、美味しそうな文字の匂いがして、つい」

「大丈夫だよ、幸い、喰べたの私の本だけみたいだったし。……ちょうど喰字期だったのかな?」

 部室に常備していた私の秘蔵のおやつを彼に出しながら笑ってみせた。机の下では、正直まだ脚ががくがくしている。

 ――喰字鬼。文字を喰らう鬼。鬼とは書くが、実際の生態、身体の構造などは――普通の人間から突然変異的に生まれる存在であるため――、人間とほぼ変わらない。ただ一つ違うのは、人間に食欲や睡眠欲などがあるように、彼らには『喰字欲』があるということ。読書好きの人間なら、舐めまわすように読書をしたことのある人もいるだろう。彼ら喰字鬼は生まれつきその欲求が強すぎるあまりに、実際に文字を喰らってしまう生き物なのである。

 昔こそその強い喰字欲のために喰字鬼による傷害事件などがよく起こっていたようだが、今は喰字欲の抑制剤も開発され滅多なトラブルは起きない。しかし月に一度ある喰字期には、しばしば抑制剤が効かないほど欲求が大きくなり、今回のようにうっかり喰べてしまう、ということもある。そう高校のころの教科書の知識を思い出しながら問えば、彼は一つこくん、と頷いた。

「別に、本当にそんなに気にしなくていいよ。それよりさ」

 教科書では習ったが、実際に会ったことはなかった存在を前にして、私は興奮を抑えきれなかった。いや、それは建前だ。

「……私の文字、美味しかった?」

 あんなに美しい光景に、自分の書いた文章が選ばれたということが、私を何より悦ばせていた。初めて身体を重ねた後に自分たちの相性を尋ねるように、私の唇は秘かな歓喜と怯えで震えて落ち着かなかった。その問いかけに彼はばっと顔をあげ、ぱあと輝かせた。

「ええ、とっても! 本当に甘美でやわらかくて、するすると喉を通っていく……。こんなに甘い文字は初めてです!」

 己の文章が肯定的に受け取られたという悦びが、私の身体を甘く貫いた。というのも、ここ文藝部においても、多くの書き手は結局自分自身が書く文章にしか根本的に興味がない。深刻な読み手不足で、私は飢えていた。そうだろう、いくら魂込めて書いても読まれないんじゃ、虚空にうち捨てたラブレターだから!

「ね、ねえ。まだ、お腹空いてたりしない?」

「え?」

 どうか拒絶しないでくれと祈る手も声も震える。初対面の先輩にこんなふうに迫られたら怖いし困るだろうと思いながらも、かけられた魅了がどうしたって解けない。

「君にまだ、私の書いた文字を喰べてほしいんだ」



 私の持ってくるあらゆる小説に、あの人好きのする笑顔で「この文字は、なんだかとっても爽やかですね!」だとか、「胸が締め付けられるような、切ない甘酸っぱい文字だ……。せんぱい、こんなのも書けるんですね」なんて、感想を述べてくれる彼に、私が惚れ込むのにそう時間はかからなかった。そして、その想いを伝えてしまいたいと思うようになるまでにも。

 手紙・・を書こう。私は思った。喰字鬼の彼に文藝部員の私が想いを渡すのに、これ以上良い手段はなかった。初めはかなり短いものにしようと思っていたが、文藝部の活動で走らせるのに慣れた筆が、そう簡単にとまるはずもなかった。

 紙の束を見て、彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに破顔した。形の良い眉がくっと下がって、彫刻めいた美貌が一転親しみやすい顔に変わる。この瞬間、私はまた彼に見惚れる。喰字鬼は見目麗しいものが多いとは言うが、つらい喰字期が彼らに課されているのはその美しさに女神が嫉妬したからだと言われても信じ込んでしまうほど、彼の顔は完成されていた。紙束を粉薬を飲むときのように折って、彼がそっと目を伏せれば、何もしていないだろうにしっかり上がったボリュームのある睫毛がカツン、と薄い眼鏡に当たる。そのまま流し込むように上向けば、普段は――その中性的な容姿をよりそう見せるように――ほとんど見えない喉仏が顕になる。私は彼の横で、それが静かに上下するのに見入っていた。静寂に私の息だけが荒いが、それもすぐに終わる。彼はいつだって、私の文章を十秒足らずで呑み干すから。彼がそっと目を開いて私を見て、「ずっと見てたんですか、恥ずかしいじゃないですか」と笑った。

「びっくりした。初めて読んだときもせんぱいの文字は甘い甘いと思ったけれど、今回のは格別甘い。とろとろしたハイミルクチョコレート……、をさらにミルクで溶かして砂糖加えたホットチョコレート。ふふ、お水が欲しくなりますが、嫌いじゃない」

 その優しい声が、私を浮遊感で包む。こころなしか彼の声も甘いような気がして、拒絶されなかったことに安堵した私はより強欲になってしまう。このいつだって私を甘く蕩けさせてくれる彫刻を、自分のものにしてしまいたいと願ってしまう。

「……それで、ごめん、急かしてもいいのかな。どうしてももう今、君の返事が聞きたくて仕方がないんだ」

「――返事?」

「……え?」

 彼がその大型犬のような目をきょとんとさせるので、私も固まってしまう。私が困ってしまったと見て彼は慌てて、あの人好きのする笑みを浮かべて。私に無邪気に問いかけた。

「ごめんなさい、せんぱい。さっきの小説・・、何が書いてあったんですか?」

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