病める獣
猫本夜永
鬼哭
昔。それこそ神話がまだ人と色濃く繋がっていた時代。
ある街にとても高い塔が作られた。そこには、触れれば全ての言語を翻訳するという本がその時代の人間全ての数収蔵されていた。その本を人々は「世界共通言語」と称し、常にその本は凡ゆる場所へ貸し出されていた。
とはいえ、あるのは世界共通言語だけではなく、別な種類の本もあった。それはたった四冊。それぞれの表紙に、弓と冠、大剣、天秤、霧のようなものと野獣の刻印があり、色も白、赤、黒、青の四色に分けられている。背表紙には一様に馬の形の刻印があった。
馬の形の刻印は、馬の形の枠組みだけで中が抜けている為、それぞれの表紙の色を持った馬のように見えた。
然しながらそれは恐るべき四冊であり、門外不出の本。
だが、ある時一人の魔女がその四冊の本を盗み出し、自らが作った箱に入れて逃げ出してしまった。
彼女の行ったことは大罪であった。何故ならその行為は人類そのものを滅ぼしかねないからである。
魔女は逃げた。逃げて逃げて。
その果てに、暗い暗い森の中で明けの輝きを持つ悪魔と出会う。
魔女はその悪魔にこう言った。
「このままでは人間の命があまりにも短すぎる。あまりにも脆弱すぎる。だが、私のように人間を辞め、人外の身となれる機会など全てに与えられるわけではない」
雫が彼女の頬を伝い、抱え込んだ箱に落ちる。
「私の子は神の火に焼かれた!私の妻は天使に射殺された!!」
涙混じりの金切り声が森に響いた。
「許せない!許せない!許せない!許せない!許せない!!」
悲痛な叫びが木霊する。
「何をしたのか!あの子が!何の罪を犯した!姦通によって成された子だからか!?私達があの子を拾うまで、あの子は道端で蹲っているしかなかったんだぞ!むしろアイツらが救うべき存在なんじゃないのか!?妻だってただ毎日を過ごす善良な無辜の民だ!何が悪徳だ!!アイツらは何も救わない!アイツらは何も見ていない!」
ひときしり吐き出された怨言の後、涙にと怒気に暗く濡れた顔が悪魔に向く。
異様な静けさが辺りを包む。生命溢れる筈の森の中だというのに、動く者はまるで悪魔と魔女の二人だけしか存在しないようだった。
「私の名は……コヘレト。どうか私と契約してほしい」
「そうか……だが、コヘレト」
悪魔は己の胸に手を当てる。
「僕も元は天使だ。まあ、お前達の間で伝わっている事情とは少し違う理由でこうなっているわけだが」
「……いいえ」
「だって貴方は……貴方達は人間の傍に居ると決めたんでしょう?」
「……」
先程までとは違い、魔女の声に僅かながら柔らかさがあった。
「……それは……そう……だが」
悪魔の瞳が揺らいだ。彼は魔女よりも長く生きている。目の前の魔女よりも絶対的な権利を有している。魔女の命は悪魔に握られているも同然の筈のこの状況で。
圧倒的な力がありながら、悪魔は目の前のたった一人の女に動揺していたのである。
そして──
「コヘレト……僕はお前と契約できない」
コヘレトは愕然と目の前の悪魔を見る。震える唇をなんとかこじ開け、彼女は言葉を発する。
「……な……んで」
「契約して力を与えることができないんだ」
「っ!!」
魔女というのは、人間が魔力のある者と契約して成るものである。契約した者は、人間としての体を魔力のある者に渡す取引をすることで人外の体を得るのだ。
「けど、今回は人間を辞めて魔力を自在に扱えるようになる為じゃないわ。それに、複数の魔物との契約なんてよくある話じゃない」
「確かにある。然し、今回はそうじゃない」
「コヘレト。お前の話は聞いている。お前は忌まわしき四冊の本に直接触れたと」
彼女の犯した罪は、古今東西に知れ渡り、既に空高き場や遙か地の底にまでも知れ渡っていた。
悪魔の視線が、今尚魔女に抱えられた箱に移る。「分かってる、もう時間がないのよ……でも」
「いいかコヘレト。よく聞け。その本は強力な呪物でもある。人間という存在に対しての強力な神秘だ。そんなものに、魔女とはいえ元人間のお前が直接触れたならどうなるか……」
「ま……さか」
魔女は漸く気がついた。
それは呪いである。
人間であるならば、人間という存在として生まれたという事実があるならば。今は違うとしても、魂が憶えているならば。
「コヘレト、お前も知っているだろう。その本が何なのか。「人間」にとって忌むべき存在がこの世に器を形作る前に、本として封印しているものだと」
この世には、人間と切り離せないものがある。
「その呪いに侵され過ぎた。いや、人の魂が、ましてたった一人が耐えられるものじゃない。だから私のような上級悪魔でも、お前の魂に入り込む余地がもうないんだ」
悪魔の告げた事実。その言葉には動揺はもうない。あるのは憐憫であった。
魔女はゆっくり瞼を閉じた。
「……そうね。だって「人間を殺戮する権能」そのものだものね」
「でも、まさか魂の記憶にまで干渉してくるなんて」
もう人間じゃないと思っていたのに。その自嘲と共に、魔女は企てを告白する。
「この四冊の本を奪ったのは、私達家族の街を破壊し、私の家族を殺し、跡形もなく焼き払った天使達……いえ、無思考の大罪共を皆殺しにする為よ」
「どうやって?」
「彼らは天使。人間と違って濃密度の魔力……マナで構築されてる。生物としての体があるわけじゃない。貴方だって悪魔になってその体を得たでしょう」
魔女の言った「マナ」とは食物を指す。太平洋諸島で信仰されている神秘と性質は変わらない。単に食物という形をとった神秘である。
「全く、その形が食物なら天使の形以外にして飢えた者に分け与えるぐらい考えないものかしらね。上の方では有り余ってるらしいのに……まあ一度だけ分け与えたらしいけど、それも自分達にとって重要な存在だったからで……いえ話がズレたわね」
「兎に角、この本たちは貴方も言った通りの存在よ。紛れもない呪物。但し、猛威を振るうのは人間に限定される。でもね」
「この本たちが内包する神秘は、彼らも無関係でいられない。天使って要するに人間の監視役なんだもの」
天使にはそれぞれ役割があるが、人間と関わりがある者が大半である。
「大事であればあるほどいい。そうすればその問題を解決する為にまた天使は来るでしょう」
「だから、その時に本は使うつもりだったの。冥府でね」
「……それで僕か」
「そうよ、あの世と繋がりのある貴方と契約したかったのはあの世に私と一緒に天使達を引き摺り込む為」
悪魔には冥府との繋がりがあった。魔女はそれを利用したかったのだ。
「引き摺り込めたとして、本の権能は地上の人間に振るわれるものだろう」
「最初から権能自体はアテにしてないわ。私が求めてたのは冥府の力そものもよ。契約者ならまだしも、冥府という異界に対応する術を彼らは持っていない。そして、この四冊の本は魔力源にするつもりだった。本との契約なんておかしな話だけど」
天使の力はあくまでも地上までのもの。下にあるものは彼らにとって毒沼と同様だった。
「一冊一冊が果てしない魔力を持ってる。私の魂が焼き尽くされる前にあの天使共を焼き尽くす。その算段だったけど……仕方がないわ」
「リヴァイアサンの元へ行く」
「体は保つのか?」
「心配いらないわ。これでも魔女よ。確かに寿命はもう長くはないし、魂も呪いに蝕まれたけど、体自体はどうとでもなるもの」
風が吹き始めた。
「それじゃあ、地獄で会えたら会いましょう。もし私の魂が僅かにでも残っていたなら貴方にあげるわ」
「契約はできないが」
「そうじゃないわよ」
魔女は苦笑した。
「これはお礼よ。少しだけ。本当に少しだけだけど」
彼女の顔は、出会った頃とは明らかに変わっていた。
「貴方と話した時間は私にとって大切なものになったから」
憎しみが、怨みが、彼女を内側から焼いているというのに。
「残念だわ。貴方みたいな悪魔ともっと早く話していたら何か変わったのかしらね」
悪魔は答えなかった。いや、答えられなかった。
魔女が森を抜けて、海の方へ行こうとするのをただ黙って見ていた。
海岸へ魔女が辿り着いた時、一筋の光が彼女の胸を貫いた。
どこから現れたのか長身の男が、倒れ込む彼女をすかさず横抱きにして持ち上げる。
「そう……貴方も人の……形を取るの……」
男は魔女と目を合わせた後、箱に手を伸ばす。
「なら……なんで……」
魔女の手に微かに力が入った。その瞬間。
彼女の胸元から炎が広がり、瞬く間に箱ごと燃えた。それと共に凄まじい咆哮があちこちから轟音となって聞こえてきた。男が燃え盛る炎も気にせず即座に手を伸ばして掴めたのは三冊の本。
青白い灰が風に乗って舞い上がった。
魔女の姿はもうどこにもなく、箱もない。
後に、塔は天使達の手により焼き尽くされ、中の本も全て燃え尽きた。
これにより、世界共通言語は喪失する。
また、程なくして新しい魔物が誕生した。
その魔物の名は「エリニュス・ベリル」。病の形をした吸血鬼である。
その吸血鬼は人間の死体だけに潜り込み、その死体へ受肉する。受肉した後は新たに精神が形成され、一見すると単なる人間にしか見えないという。
病める獣 猫本夜永 @rurineko
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