第1章:静かなる日常の終わり

セリオステンの片隅に、ひっそりと佇む孤児院があった。石造りの質素な建物は、周囲の喧騒から隔絶されたかのように静かで、ただ時折、子供たちの笑い声だけが辺りに響いていた。


その孤児院で暮らす14歳の少女、リーリア。物心ついた頃からこの場所で育てられてきた彼女にとって、ここは家族のようであり、かけがえのない日常があった。


「リーリア、起きなさい。朝ごはんの時間よ」

優しい声が、まどろみから少女を呼び覚ました。薄紫がかった瞳を開けると、そこには孤児院長のフランシスの温和な顔があった。


銀色に輝く長い髭を撫でながら、フランシスは少女に微笑みかける。

「ほら、支度をしておいで。今日も良い一日になりますように」


少女は伸びをすると、木製の椅子に掛けられた質素なリネンのワンピースに袖を通した。小さな窓から差し込む朝日が、リーリアの栗色の髪を金色に染めている。


「おはようございます、フランシス先生。今日は何の日ですか?」

「ああ、そうだね。今日は...そう、今日はみんなでハーブ園の手入れをする日だったね」

フランシスは優しく微笑むと、リーリアの頭を撫でた。


リーリアは嬉しそうに頷くと、フランシスの手を取って部屋を後にした。

廊下を歩きながら、二人は今日の予定を話し合う。


「あとは、図書室の整理もしないとね。リーリアは本が好きだから、楽しみにしていたんじゃないかな?」

「はい!先生が次に読むのにおすすめの本を選んでくれるんですよね?」

「もちろん。リーリアのために、特別な一冊を選んでおくからね」


食堂に着くと、他の孤児院の子供たちが既に集まっていた。

リーリアは友人たちと笑顔で挨拶を交わし、いつもの席につく。

質素ながらも温かな朝食を囲みながら、みんなはわいわいと一日の計画を立てていた。


「ねえねえ、今日のお昼ごはんは何だと思う?」

隣に座る少年が、わくわくした様子で尋ねる。

「きっとフランシス先生が畑で採ってきた野菜を使うんだよ。前に話してたもん」

リーリアが答えると、少年は嬉しそうに手を叩いた。

「やった!先生の作る野菜スープ、大好きなんだ。リーリア、楽しみだね」

「うん、とっても」


朝食が終わると、子供たちはさっそく役割分担をし、孤児院の日常が始まった。

中庭の掃除や洗濯物干し、ハーブ園の世話に、図書室の整理。

みんなで協力しながら、一つ一つの仕事をこなしていく。

時折、フランシスが子供たちの様子を見に来ては、優しい言葉をかけてくれる。


「リーリア、ちょっとこっちにおいで」

ハーブ園の手入れを終えたリーリアに、フランシスが呼びかけた。

「なあに、先生?」

「ほら、これを見て。このハーブ、知ってるかい?」

フランシスが差し出したのは、ひときわ強い芳香を放つ一束のハーブだった。


「確か...ローズマリーですよね。料理に使ったり、お茶にしたり...」

「そうだね。でも、ローズマリーはそれだけじゃない。昔から、魔除けのお守りとしても使われてきたんだ」

フランシスはそう言うと、ローズマリーの小枝をリーリアの髪に挿した。

「リーリアを、いつも守っていられるように。ローズマリーの加護があるといいね」


リーリアは嬉しそうにローズマリーに触れると、フランシスに抱きついた。

「ありがとうございます、先生。私、先生に教えてもらったこと、全部大切にします」

「リーリアなら、きっとそうしてくれると信じているよ。さ、お昼ごはんの時間だ。みんなで食べようか」

フランシスに手を引かれ、リーリアは笑顔で頷いた。


そうして、平和な一日が過ぎていく。

夕食を終えた子供たちは、それぞれの部屋に戻り、就寝の時間を迎える。

リーリアもベッドに潜り込むと、フランシスに言われたとおり、ローズマリーの小枝を枕の下に忍ばせた。

「おやすみなさい、フランシス先生。また明日」

そう呟いて、リーリアは静かに目を閉じた。


しかし、その平和な眠りを破ったのは、夜明け前の轟音だった。

リーリアは飛び起きると、思わず耳を塞いだ。

「何の音...?」

窓の外を見やると、空が真っ赤に染まっていた。黒煙が大地を覆い、建物が次々と炎に包まれている。


「まさか...サングリンドールが、私たちを...」

部屋に駆け込んできたフランシスの声は震え、その表情は一瞬で青ざめた。

「先生、どうしたんですか?何が起きているの?」

リーリアは恐る恐る尋ねたが、返事の代わりに、彼女の手を引くフランシスの力強い握りが返ってきた。


「リーリア、聞いて。今すぐここを離れるんだ。私はできる限りの時間を稼ぐから」

「でも、先生も一緒に...」

「だめだ!私はもう歳だ。君にはまだ生きる時間がある。ほら、これを...」


そう言って、フランシスはリーリアの手に、古びた杖を握らせた。

「これは...?」

「君を守ってくれる。さあ、早く行くんだ」


リーリアは涙を振り払うと、必死でフランシスを見上げた。

「先生、ありがとう。私、絶対に生きて...」

「わかっている。君なら必ずやり遂げてくれる。さあ、行け!」


フランシスに背中を押され、リーリアは重い足取りで部屋を後にした。

振り返った先には、炎に包まれ始めた孤児院の建物と、倒れたまま動かなくなったフランシスの姿があった。

「先生...」


リーリアは涙を流しながら、握りしめた杖に顔を埋めた。

不意に、フランシスの最期の言葉が脳裏によみがえる。

「混沌が国全土を飲み込もうとしている。グリマルディアのグランバース魔法学院に、君の庇護者がいる... 生き延びて、グランバースに向かうのだ。君だけは、世界の救いだ...」


少女は杖を強く握りしめると、燃え盛る炎に背を向けた。

悲しみを力に変えて、リーリアは走り出す。

かけがえのない日常を失った痛みを胸に、それでも前を向いて、ただひたすらに。


セリオステンを包む惨劇の中で、一人の少女の旅が始まったのだった。

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