第44頁 文豪たちに倣う
「別の人の訳も探してみようかな!」
「邦訳と言えばさ、昔は『好き』とか『愛してる』って言葉を使うのは、リアリティに欠ける? ……情緒がない……? みたいな理由で『I love you』を訳す時は、別の言葉を使ったんだって。もっと日本人らしい言葉」
「へぇ、そうなんだ。でもさ、『I love you』って『愛してる』以外に何て訳すの? 日本人らしいって?」
「夏目漱石が教え子に例を挙げた訳は、『月が綺麗ですね』で……」
「はあ? そ、それじゃあ、分からないよ」
「二葉亭四迷がツルゲーネフの……何だっけ……」
「【初恋】?」
「それじゃないやつ……。駄目だ。忘れちゃった……。その、何かを訳した時が『死んでもいいわ』」
「……いや……いやいやいやいやいや、わっかんない」
松野くんは、真顔で両手をブンブン左右に振っている。
「いやいや〜、『好き』で良くない? シンプル イズ ベストで良くない?」
「でも素敵じゃない?」
「絶対伝わらないでしょう! 突然『月が綺麗ですね』なんて、『は?』って返されるでしょう!」
「伝わらなくて良いのでは?」
「はあ!? 告白の意味よ!」
「そ、そっか……! でも、昔の話だから! 明治とかの話だから」
「そっか……そうだよね。はあ〜、何か変に恥ずかしくて、汗かいた」
松野くんがTシャツの襟を引っ張って、手をハタハタと扇ぎ、服の中に風を入れていた。決まり悪そうに歪めた口元と気持ち赤みを増した頬が、彼の心情を物語っている。
「でも、女子としては憧れるけどな……」
「えー? マジすか? ハードル高いよ」
「やっぱり、そう?」
私も決まり悪くて、苦笑いで誤魔化した。松野くんは「月が綺麗ですね」が相当むず痒かったようで、頬を染めて、口を歪めたまま、両腕をしきりに摩っている。彼の言うようにシンプルに「好き」と一言、伝えられるのも素敵だけれど、世間一般で言う「月が綺麗ですね」に対して「死んでもいいわ」と返すという、後世に出来た一連の流れは、2人だけに分かる秘密の言葉みたいで、ロマンチックだと思う。一部で定番のやり取りという事は、既に秘密でも何でもないけれど……。
「ち……因みになんですけど……」
声に釣られて、松野くんへ注意を向けると、彼の視線は斜め下へ流しながら、口籠もっていた。
「高橋さんだったら、何て訳すの?」
「え……」
思ってもみなかった質問に面食らう。そんな事、今まで考えた事も無かった。ポカーンと固まってしまうが、実際には頭をフル回転させていて、知恵熱でも出そうな勢いである。今日一日、頭を使いっぱなしで、そろそろ限界だ。それを物語るように考えても考えても私の頭の中には、あの大好きな台詞しか浮かばなかった。
「私は……やっぱり『貴女は、野菊のような人だ』ですよ」
「……政夫……」
松野くんは、そう呟くと小さく笑い、頬杖をついて私を眺めた。送られてくる視線も彼の表情もニヤリという効果音のよく似合う、何処か意地悪を企むような物だった。
「好きだねぇ、本当に」
相変わらずニヤニヤと揶揄うような表情で言われて、私も恥ずかしくなってくる。自分でも芸がないとは思うけれど、仕方がない。だって、【野菊の墓】が好きなんだもの。
「でも、高橋さんらしいね。高橋さんっぽい!」
「松野くん……面白がってない? 馬鹿にしてない?」
「そんな! しないよ! 夢見る少女だなぁ……とは思うけどね」
「や、やっぱり! 引くよね……そりゃ」
「違うよ!? 夢見る少女だと思うけど、高橋さんはそれで良いよ。それは高橋さんの良いところだと思うよ、俺」
それは、誤魔化されているのか、褒められているのか……。恥ずかしさと情けなさで、一杯一杯の私には、判断がつかなかった。でも松野くんの笑顔は、初めて学校の図書室で会った時の“全てを肯定してくれるような笑顔”だった気がして、どうしても期待してしまう。
——————それは、高橋さんの良いところだと思うよ、俺
それが彼の本心でありますようにって……。
「ま、まま、松野くんは!?」
「え?」
「松野くんが訳すなら、何?」
「え!? 良いじゃん『愛してる』で! 俺は、漱石先生に怒られても『愛してる』って訳すよ!」
「そうかもしれないけど、せっかくだし……ね?」
「もー、理由が滅茶苦茶だよ」
そう言いつつも松野くんは、「うーん……」と唸りながら、訳を考えてくれた。彼の唸り声を聞きながら、30秒が経過しただろうか。勿論、正しい時間など分からないけれど。
彼は恥ずかしそうに口を曲げたり、頬を膨らませたりした後、やっとその重々しい口を開いた。
「えっと……『す……少し……歩きませんか』……とか……?」
彼は、ちらっと目だけで私の顔色を伺うと耳まで赤くして、顔を引き攣らせた。
「やっぱ無理! 俺、センス無いし、全然『好き』が伝わんない!」
「……良い」
松野くんは、相当恥ずかしかったのか、慌てふためいて全力で否定していた。彼とは反対に私は、感動と高揚感で顔が熱くなっていた。
「良い! 素敵だよ、松野くん!」
——————少し、歩きませんか
それは、私にとって、とても松野くんらしい『I love you』だと思った。
「その訳、私は良いと思う! 大好きだから、少しでも長く一緒に居たい的な事でしょう? いじらしい〜!」
無意識に私は、両手を胸の前で組み、身を乗り出していた。そんな私の反応に松野くんがたじろいだ。ギョッとしたように目をまん丸くして、さっきよりもっともっと顔を赤くすると、テーブルにおでこをぶつけるようにして突っ伏した。少しくぐもって、今にも消え入りそうな声が目の前の彼から聞こえる。
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