第32頁 接触






 松野くんとは席も離れているし、教室内も賑やかなので、彼の話し声は聞こえない。友人の輪の中で、図書室ではあまり見ない、眉を顰めるような表情。きっと憎らしいツッコミかディスりをしているのだろうなぁ……なんて想像して、1人で笑う。


「ご機嫌さんね」



 声の主を追って横を向くと希ちゃんがニヤニヤと含みのある笑顔で私を見ていた。



「え!?」

「香絵が見てたのは、坂口かな? 蒼唯あおいかな?」

「み、見てない!」

「見てたでしょう」



 希ちゃんが私の目を覗き込む様にジーと見つめてくる。胸の内を見透かされそうな気がしてたじろぐと、希ちゃんはニコリと笑って見せた。




「うん、蒼唯だね」

「へ!?」




 どうして分かったのだろうと私が考えている内に、自分で導き出した答えを確信したらしい希ちゃんが「蒼唯ー!」と松野くんに声を掛けた。




「え? ……俺?」

「そうだよ、貴方。蒼唯でしょ? ちょっと来て」


“待って、待って待って!? 何で松野くんを呼ぶの!?”




 松野くんが少々怪訝そうに首を傾げながら、こちらへ歩いてくる。




「え? ……え!?」

「落ち着きなって」




 動揺から、分かりやすく狼狽える私を希ちゃんが静かに宥める。

 落ち着けた言われたって、そんなの無理に決まっている。希ちゃんは、ワタワタと慌てる私を見て苦笑いを浮かべると、改めて松野くんに手招きをする。



“どうしよう! 松野くんがこっちに来るよ!?”




 松野くんは、私の席の前でピタリと立ち止まった。恐る恐る視線を上げて、彼を見る。松野くんは、少し緊張しているような面持ちで、私と希ちゃんを順番に見た。



「……どうかした?」





 少し堅さのある響きだ。どうやら本当に緊張しているらしい。一方、希ちゃんは普段と変わらぬ堂々とした態度でハッキリと言葉を発する。




「香絵がね、蒼唯に話したい事があるって」

「は……」

「へ……?」






 希ちゃんのこの発言に、私も松野くんも豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていただろう。此方は、驚きのあまり動く事もできなかったが、当の希ちゃんはそんな事はお構いなしに「ほら」と言って、私を肘でつつくのだ。

教室で松野くんと対峙するのは、これが初めての事で、目があっちへこっちへ泳ぎまくっているのが自分で分かった。まともに松野くんの目を見られない。




「えっと……」




 ダラダラと汗もかいている気がするが、この場から逃げる言い訳も何も思い付かない。これはもう、彼に何かを言うしかないと腹を括る。いつまでもみっともなく狼狽えているわけにもいかないのだ。


 私は一度、ぎゅっと目を瞑って自分に言い聞かせる。


“松野くんとは、もう何度も言葉を交わしているのだから、大丈夫だ”




 頑張れ頑張れと自分に声援を送って目を開ける。それでも彼の目をしっかり見返す事は出来ず、視線は彼の口元までに留まった。





「あの、補習……が、頑張って、ね……」

「え……。う、うんっ!」




 思っていたより全然小さくて、妙に上擦った声が出てしまった。松野くんも驚いたのか、普段より少しだけ、声が上擦っていた。私は恥ずかしさで堪らなくなって、「用事を思い出した」なんて下手な嘘を吐いて、逃げるようにその場を去ったのだった。



 早足に廊下を進んで、開いた窓のヘリに倒れ込むように腕へ顔を埋める。

 一つ深呼吸をして顔を上げた。窓の外の景色を眺める。7月だけど、今日は昨日より風が冷たくて気持ちが良い。さっきかいた冷や汗も一役買っていると思われる。緊張で熱の上がった頬を優しく冷ましてくれる。遂に松野くんと図書室以外の場所で話してしまったんだと感慨に耽っていた。



“場所が違うってだけで、こんなに緊張するのか……”




 未だに心臓はバクバクと痛い。場所が教室というだけで、こんなに緊張するのに、今までどうやって2人きりで過ごしてきたのか……自分が不思議である。




「香絵!」




 名を呼ばれて振り返ると希ちゃんが笑顔で近付いてくる。




「こんな所に居たのね」




 私の隣に並んで、窓の外を見ながら、希ちゃんは髪を靡かせた。






「ねぇ、香絵……ずっと聞きたかったんだけど、香絵は蒼唯の事……————」

「の、希ちゃん! お願い」

「え……?」

「あの……あのね、気持ちが落ち着いたら、ちゃんと話すから。だから……」




 松野くんへの気持ちは、とうの昔に理解っているけれど、今ここで口に出してしまうと、それは酷く陳腐で、間抜けな物になってしまうような気がした。胸の内に秘めているこの瞬間、その気持ちは本当に綺麗で尊い物なのだ。私には、まだそれを他の人に話す準備が出来ていないから、余裕も勇気もないから、口に出したらガラクタみたいに思えてしまう。それは嫌だった。焦ったり、嫌になって逃げたりしたくないのだ。これは、大切にしたい。




「……」

「……」




 沈黙が続いた。

 いつまでも黙ったままの希ちゃんに不安になって、彼女の顔を覗くと、眉を八の字にして、口を窄めた様な顔をしていた。



「の、希ちゃん?」

「何よ、も〜う! 可愛いなぁ! お前等!」

「はい!?」

「待ちます待ちます! でも、ちゃんと話してね? こっちは、応援したくて、うずうずしてるんだから」




 そう言うと希ちゃんは、私の頭を撫でる。少し照れ臭かったけれど、私の気持ちを尊重してくれた事が嬉しくて、多分私はすっごく変な顔で笑っていたと思う。



「ありがとう!」




 素直にお礼を伝えれば、希ちゃんは嬉しそうな顔をして、私の首へ腕を回しぎゅーっと抱きしめた。




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