第3章

第31頁 まだ熱を覚えている






 一週間経っても、手が異常なまでに熱を持っている気がする。


 私は、自分の手をぼんやりと見下ろしていた。あの日から、私は松野くんと口を利いていない。テストが返却され、点数があまり良くなかったらしい彼は、夏休みまでの間、各教科の補習を受けるのだ。私は補習を免れたので、2学期になるまで教室で松野くんを眺めるだけになりそうだ。

 松野くんの様子が可笑しかった一週間前のあの日。繋いだ手はどちらともなく、ゆっくり離れて、私達は暫く、向かい合ったまま沈黙していた。


 先に沈黙に耐えられなかったのは、私の方だった。





——————……




「ま、松野くん」

「ん?」

「あの……さっき『僕には美しい秘密がある』って」




 私がそう言うと、松野くんは恥ずかしそうにはにかんだ。




「ははは、やっぱり高橋さんは知ってるか〜」




 すっかりいつもの調子の松野くんに内心「分かってないですよ、私……」と言う。私の胸の内など、分かるはずもない松野くんは続ける。




「キザだけど、格好良いじゃない? ラインハルトの台詞」




 彼の口から出てきた名前は、初めて聞いた物だった。




「松野くん、私……何の台詞か分かってないです」




 正直に言えば、松野くんが目を丸くして「え!?」と驚きの声を上げる。分からな事が申し訳なく思えて、私は小さく「ごめんなさい」と言った。




「そんな! 謝らないで! 【みずうみ】って作品の台詞なんだよ。ドイツ人作家が書いてる」

「私、日本の小説はよく読むんだけど……海外の小説は、読んだ事がほぼ無くて……」

「え! そうなの!?読んでそうなのに」

「海外のって難しそうで……」

「全然大丈夫だよ! 俺が何となくでも読めてるもん! ……多分?」




 最後に小さく「多分」と付け加えた松野くんは、自信が無くなったのか、頬を赤くして気まずそうに唇を尖らせた。



「でも……松野くんって小説は、あまり読まないと思っていたので、ちょっとびっくりです」

「ああ〜、正確には高橋さんの思ってる通りだね。小説はあまり読まないな」

「じゃあ、何を……」

「なんつーの? 戯曲? なんか、台本みたいなやつばっか読んでたの」

「戯曲……? 泉鏡花とか?」

「それは、読んだ事ないな。俺が読んだのは、シェイクスピアとオスカー・ワイルド!」

「い……意外……」

「えー? 何それ」



 私の反応に不服そうな顔をしている。



「シェイクスピアって、所謂古典だよね? エッセイとは真逆なイメージだから。どうしてシェイクスピアを?」

「単に家に本があったからだよ」

「お父さんか、お母さんが好きなの?」

「んー、聞いた事ないから分かんないや。どっちかが読んでるのも見た事ないし」

「そっかぁ」

「高橋さんは、シェイクスピアは読む?」

「ううん。私、シェイクスピアは【ロミオとジュリエット】と【ハムレット】しか知らないな」

「確かにその2つは、代名詞って感じだよね」

「あとは、何があるのか……」

「俺も家にあった6作しか読んだ事ないけど、40作くらい芝居を書いてたらしいよ」

「よ、40作!? ……そ、それって多いの? 少ないの? 相場が分からない……」

「俺も分からない」





 松野くんは、へらぁっと表情筋を緩めるように笑った。




「シェイクスピアは、本で読むより舞台でちゃんと芝居を観た方が面白いかもしれないね。登場人物が滅茶苦茶多いから、顔と名前を一致させるのに、文字より映像の方が分かりやすいんだよね。高橋さん、去年の文化祭で演劇部が多目的ホールを使って一日三公演、全部違う演目を上演してたんだけど、観た?」

「演劇部オリジナルのやつを観たよ」

「そっちかー。別の時間枠で【ハムレット】をやってたんだ。この人誰だっけ?とかもないし、内容に集中出来た」

「シェイクスピアって面白い?」

「うーん……俺は、可もなく不可もなくって感じかな。でも当時は、めっちゃウケたらしいね。イギリスっぽいよ〜。ネタが稚拙な下ネタとかでね、皮肉っぽいところもね」




 私は、彼の言葉に首を傾げた。下ネタとイギリスが私には、全然ピンと来なかったのだ。




「イギリスって下品なの?」

「下品だよー。向こうのクレイアニメとかも、小学生が好きそうな下ネタ多くない?」

「英国紳士って言葉が」

「そう言うけど……でも、シェイクスピアは下ネタだってガンガン使ってるよ? こっちはかなり直接的でビビるし。まぁまぁ下ネタの面白さ、馬鹿馬鹿しさは世界共通だって話さ」

「なんで、う⚪︎こってあんなに面白いんだろうね」

「そう! そういう事!」




 嬉々として言うと、松野くんは急に改まって、コホンと一つ咳払いをした。



「話が脱線してしまいましたが、もし高橋さんがシェイクスピアに興味があるなら、演劇か映画をオススメするよ」






……——————










 そんな話をしたのを最後に、松野くんは補習になったのだ。




 教室での私達は、本当に相変わらずで、目が合う事はほとんど無く話す事もない。松野くんは、今日も友人達に弄られながら、楽しそうに過ごしている。1週間前は、何か悩んでいる様子だったけれど、教室での姿からは、そんな空気は微塵も感じ取れなかった。もう解決したのかな……? していたらいいなと思った。

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