第30頁 みずうみ





「高橋さん?」




 頭上から彼の声が降ってくる。なかなか立ち上がらない私を不思議に思っているのか、語尾が疑問系だった。



 あぁ、自分はどうすればいいんだろう? 彼の呼び声さえも無視して、床に座り込んだ私を松野くんはどう思うだろう……。


 心臓が痛い程、脈打っていた。私の気持ちは、彼にバレてしまっただろうか? 突然、手なんか握ったりして、引かれてしまっていないか、心細くて泣きたくなった。




「……ごめん」





 やっとの思いで、その一言を呟くと、空気が動くのを肌で感じた。




「ごめんじゃないよ。ありがとう」




 すぐ耳元で、松野くんの優しい声がする。耳に掛かる吐息で、彼が私に合わせてしゃがんでいる事が分かった。




「高橋さんに、聞いて欲しい事があるんだ」




 黙ってからの話に耳を傾ける。



「今はまだ、勇気が無くて言えないけれど、覚悟が出来たら話すから……————」




 心なしか、声が震えている。





「もう少し、俺に付き合って……」







 言葉の意味は、よく分からなかった。


 でも、切羽詰まったような声とか、重さを感じる話し方に彼が切実なのが伝わって、私はコクンと頷いた。




「ありがとう。高橋さん」




 また空気が動くのが分かった。今度は頭上から松野くんの声が降ってくる。




「あーあ。『僕には美しい秘密がある』なんて、言ってみたかったなぁ……」




 笑いの混じった声に釣られて顔を上げる。松野くんの発した言葉に興味を惹かれたからだ。何かの台詞だろうか? 尋ねようと思ったが、見上げた先にあった松野くんのいつもみたいな、優しくて明るい笑顔に私は言葉を失った。

 私に向かって差し出される松野くんの手。映画か何かのワンシーンのような完璧な彼に見惚れていた。そんな私の手を掴んで立ち上がらせてくれた松野くんは、照れ笑いを浮かべた。相変わらずの八の字眉毛でも、さっきとは違う。純真な子供のような笑みに釣られて、私も笑った。


 握られた手は熱かったけれど、不思議と心地良く、離したくなかった。松野くんが私の手を握っている事も、全て夢みたいに感じる。


 彼は、どんな言葉でも足らないくらい素敵な人だ。松野くんに笑顔を向けながら、私はやっぱり泣きたくなったのだった。













◇ ◇







——————僕には秘密がある。美しい秘密がある。二年たって僕が帰ってきたら、君にそれを話そうね。









 その台詞を知ったのは、高校2年の夏休み。外より幾らかマシといった程度の冷房が効いている図書館でだった。

 ドイツ人作家、テオドール・シュトルムの【みずうみ】。高1の時の演劇教室で上演されたハムレットに影響されて、シェイクスピアなんかを読み始めていた俺は、作者の名前が外国人だったのと、本がめちゃくちゃ薄かったのをキッカケに、その本を手に取った。



 【みずうみ】は、年老いた学者ラインハルトの若き日の初恋と失恋の物語だ。

 まぁ、俺がそれを知るのは、それから半月程後だったわけだが……。




 結論から言おう。俺は【みずうみ】を読み切れなかった。

 学校へ通う為、故郷を離れたラインハルトの元へ母親から手紙が届く。その手紙が、ラインハルトの幼馴染で初恋の相手であるエリーザベトが近々結婚する事を知らせる物だと知った時、俺は嫌な予感がして、パタン……と本を閉じたのだった。前半での2人のやり取りを読むに、お互いを思い合っていた。そんな2人が結ばれないなんて……。悲しい結末を想像して、最後まで読む気になれなかった。

 でも、あの台詞。ラインハルトが故郷を離れる前にエリーザベトに言った台詞は、妙に印象的で記憶の何処かに残っていたらしい。だから、隠し事を抱えたまま、二進にっち三進さっちも行かない最近の状況で思い出したのだろう。




 どうせ秘密を打ち明けるならば、俺も美しい秘密を打ち明けたかった。俺が高橋さんに持っている秘密は、どう見たって美しい物じゃない。そんな事実を知らず、高橋さんは俺をカムパネルラだと……——歩み寄ろうと努力する人だと言った。

 俺の中にも『尊敬に値する善性』があるのだと言って、優しく笑う。そんな甘い慰めの言葉に泣きたくなった。

 嘘つきのくせに。ずっと酷い裏切りを続けているくせに彼女の優しい言葉に縋りたくなってしまう。彼女の語る、『品行方正な自分』は、『本当の自分』とは似ても似つかないのに、「違うよ」と否定出来なかった。




 なりたい……と思ったのだ。




 彼女が思う、『俺』のようになりたいと思った。性根は……今更どうこう出来る問題なのか、甚だ疑問だが、少しでも近付きたいと思う。



 性根の善さを持った、歩み寄る努力の出来る、勇気も優しさも全部ある人間になりたい。欲張りすぎるか?

 俺の手を包み込むように握った、彼女のでは温かく、その後に俺から掴みに行った彼女の手も、同じように温かった。離したくなかった。ずっと、こうしていたかった。でも、あんなに優しい笑顔で、一点の曇りも疑いも無く、俺の善性を信じられてしまったら、否が応でも努力するしかないじゃないか。




 高橋さんの言う、カムパネルラのように。最後の最後には、勇気を見せなくては。


 ……なれるだろうか? 高橋さんが思う『俺』に。

 堪えられるだろうか? 彼女いなくなった図書室このへやに……。





 色んな物が胸の内をぐるぐるとして、彼女の手を離せないまま、俺は泣きたくなったのだった。





 ……僕には秘密がある。









——————あなたはもう二度といらっしゃらないのね





——————ええ、もう伺いません








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