第29頁 私には、そんな人




「松野くんは、カムパネルラ」

「……へ……」




 私言葉に松野くんは、目をぱちぱちと瞬かせた。





「怪物でも、葉蔵でもなくて、私にはカムパネルラ」

「そ……それは、何?」

「【銀河鉄道の夜】の登場人物で、主人公の友達なの」

「ごめん。俺、知らないや」




 松野くんは、空気が抜けたような声で言った。薄っすらと戸惑いも滲んでいる。



「賢くて、優しくて、勇気があるの」

「それは……どこの世界の俺?」






 彼の心底不思議そうな声に私は吹き出した。確かに、賢くて優しいけれど、物語冒頭のカムパネルラは、どちらかと言えば控えめな性格をしていた。教室での様子や、私と話している時に見せる、彼のあまり物怖じしない明るい話し方を思えば、全く似ていないような気もした。

 納得いかない様子の松野くんが小首を傾げる。その仕草が説明を求められているように感じられて、私は暫く考えてから、自分の考えを整理するようにゆっくりと言葉を紡いでいった。




「主人公とカムパネルラは、親友同士なんだけど、主人公側の事情で疎遠になってしまうの。カムパネルラは、賢くて優しいけれど、多分気の強い性格の子じゃないんだよね。主人公を気に掛けているのに声も掛けられない。主人公が同級生に揶揄われてる時も、止めには入れないんだ」

「あれ? それって……勇気ないじゃん!」

「いや、あるの! 実際にはちゃんとある!」





 盛大に眉を歪めている松野くんに掌を向ける。松野くんは、私の制止に「ふー」と息を吐くと顎に左手を添えて考える。



「高橋さんには、俺って気弱に見えてるのか……。意外だったな」

「いや〜、そうじゃなくて……」

「しかも意気地無しか。……うん、ある意味的を得ている」

「言ってない、言ってない!」




 慌てて否定しても松野くんは、苦笑いを返すだけで、私の否定は全く取り合っていない様子だ。



「カムパネルラは……」





 私は、心にふつふつと浮いてくる言葉を素直に音にした。




「カムパネルラは、本当に優しくて……だからこそ、気が弱く見えたんだと思ってるの。その優しさが主人公を傷付けていた事も、また事実だけれど、それでも彼には尊敬に値する“善性”がある。松野くんにもそんな所があるの」

「俺は、善人じゃないよ」

「善人の定義って難しいよね。状況によっては、プレッシャーを与える言葉だし。これが松野くんのプレッシャーにならないと良いんだけど……。善人じゃなくても、松野くんは、いつも歩み寄ろうと努力してくれる。それも息するようにね。だから、気付いてないかもしれないけど……私は、そんな所が尊い事だなって思うの。そういうところを尊敬してる」

「…………」





 松野くんは何も言わなかった。きっと納得はしてくれないだろう。松野くんが何を思い詰めて、そんなに辛そうな顔をしているのか、私には分からない。彼が何故、自分のをそんなにもおぞましい物だと思ってしまったのか分からないけれど、あの日……5月の終わりの図書室で、私は確かに、彼の言葉に、“善性”に救われた。

 私を嘲笑う事も邪険にする事もせず、『寄り添う』を選択してくれた、あの心根を“善性”と呼ばずに何と呼べばいいのか……。



「だから、私にとってはカムパネルラ」




 皆から愛されて、いつも人に囲まれている松野くんは、私とって、嬉しくて遠くて、好きなのに寂しくて、やっぱりカムパネルラのようだと思った。

 私を見つめる彼は、眉を八の字に下げて、泣きたいような顔をした。そんな彼の表情に私は、胸が焦げ付くような、恋しいような、泣いてしまいたいような気持ちになった。

 本当に泣いてしまわないように息を大きく吸って、目を意識的に大きく開く。恋しさともどかしさと切なさと、それから今までに感じた事の無いような優しい気持ちで一杯になる。


 抱えきれない思いで、訳が分からなくなっちゃったんだと思う。気が付いたら私は、長テーブルの上に無造作に置かれた松野くんの手を両手で包むように握っていた。





「何でもない事のように、優しい選択をしてくれる。……私には、そんな人」





 確かめるようにもう一度言うと、松野くんは八の字眉毛のまま、笑み崩れた。



 それは、初めて見る笑顔だった。もし、松野くんが何かのキッカケで、自分を否定的に見てしまっているなら、私の心が彼にもっと伝わったらいいのに。

 私にとって、松野くんがどれ程大きな存在か、感謝しているか。






 お互い、暫くの間見つめ合っていたけれど、徐々に正気を取り戻し始めると、自分から握りにいったにも拘らず、彼の手の温もりが恥ずかしくなってきた。彼の頬が段々と赤くなり始めると、私は事の重大さに気付いて、慌てて彼の手を離す。より恥ずかしい事に、その勢いで椅子から転げ落ちた。




「え!? 高橋さん、大丈夫!?」




 松野くんの声が聞こえて、私は余計に恥ずかしくなる。

 余りのみっともなさに堪らず、両手で顔を隠して、暫く動かずにいると、松野くんが駆け寄ってくるのが足音で分かった。






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