第28頁 人間失格
キョトンとしながらも、この話題に乗ってくれる彼って、本当に優しいと思う。
「高橋さんは、課題図書にするの?」
「まだ悩んでて。私、初見で感想書くのが苦手だから、毎年読んだ事がある本を読み返して書いてたの。読んだ事ある本が課題図書に入っている時は、そうする時もあるけど……」
「今年の課題図書には、【人間失格】が入ってるらしいよ」
「そうなんだぁ……」
「あれ? あんまり乗り気じゃ無い感じ?」
松野くんは、その大きな目をパチパチと瞬きさせた。
「うん……。【人間失格】……私は辛くて……」
一回読んで懲りてしまったのだ。
「松野くん、【人間失格】読んだよね?」
「うん」
「どうでした?」
「めっちゃ引き込まれた」
「なるほど」
それは、好きな作品だったという意味なのだろうか? 太宰治は、男性人気も高いイメージがある。特に【人間失格】は、有名だ。好きな人は多いだろう。
「正直、俺は小さい頃から口ごたえばかりしてきたし、腹も減るし、イケメンでもないし、
その感覚、少し分かるなと思った。同意も込めて、頷きながら彼の顔を覗き込んだ時、違和感のような物を感じた。話しながら、可笑しそうに笑った松野くんの笑顔がいつもと違うように見えたのだ。
何処か憂いを帯びているような……。瞳の底が笑っていないのに、可笑しそう細められた目や口。笑顔の印象がちぐはぐで、酷く狂気的に感じる。
松野くんと目が合う。
「高橋さん、俺ってどんな奴?」
「は?」
半笑いの松野くんは、突拍子もない質問を私に投げ掛けてきた。先程までは、まだ薄っすらとしていた狂気的な何かが、いよいよ現実味を帯びてきたような気がして、私の背筋がサーっと冷えていく。今日の松野くんは、本格的に様子がおかしい。
「どんな奴って……」
「俺って、どんな奴に見える?」
「ま、松野くんは……————」
明るくて、優しくて……時々知的で、ちょっと抜けている。
私の思い浮かべる松野くん像は、陳腐な言葉ばかりだけれど、沢山あるのに、そのどれ一つも口にする事が出来なかった。半笑いの彼の目は、全然笑っていなくて、「褒め言葉なんて欲しくない」と拒否されているような気がしたからだ。だからと言って、彼の欲しい言葉を私が知っている筈もなく、この窮屈な空間に私の喉は絞まっていき、ヒュッと嫌な音をたてただけだった。
嫌な沈黙が続くうちに松野くんは、いつものように、にへらぁっと笑って自分の頭を軽く叩いた。少しだけ空気が軽くなる。
「ごめん! 変な質問だったし、答え辛いよな」
そんな松野くんを見て、私はある考えに思い至った。
もしかして、彼は【人間失格】の葉蔵のように、私を怖がっているのではないか?と。
これまでずっと、私に合わせてお道化を演じていたのだろうかと、心臓の鼓動が早くなった。彼は、葉蔵の感覚を理解出来ないと否定しつつ、本当は思い当たる部分があるのではないだろか? ……彼は、私と居るのが辛いのだろうか?
真実は一つも分からないのに、私は1人で妄想を膨らめてしまう。考えれば考える程、苦しくなってきて、思わず松野くんから視線を外した。見るからに萎んでいる私に、松野くんが慌てたような声を上げる。聞こえてくる謝罪の声に、いつもの力強さが無いので、私は更に視線を下げてしまった。情けない事に彼を真っ向から見る勇気が持てなかったのだ。掛ける言葉も思い付かなかった。
「えっと……。と、時々居るじゃん? 自分も葉蔵と同じだっていう人達。共感出来るって。葉蔵は、自分の事をおかしいなんて言ってるけど、あんなに、その……外から見て頭も良くて、育ちも良くて、俺には優れた人に思えるから、それよりもその周辺にいる、それこそ俺みたいな“普通”の奴の方がよっぽど怪物か何かに思えちゃって」
松野くんが極力丁寧に伝えようとしてくれているのが分かる。落ち込んでいても、此方を気に掛けてくれる彼の心根が嬉しくて、ちゃんと聞かなくてはと、顔を上げた。
「そんで、自分ってどんな風に見えてんのかな〜? なんて……」
ひたすら悲しそうな顔が視界に飛び込んできて驚いた。そこには、諦めに似た色も浮かんでいて、まるで自分の罪を認めながら、審判の判決を待つ罪人のように見えた。
私の知らない松野くんが、彼の深い所に居る何かが、私の目の前に居た。
上辺で優しくされるのも辛い。真っ向から否定されるのも辛い。こんな自分でも許してくれる人は、居るだろうかと、淡い期待を捨て切れず、ただただ判決を待っている。
そんな風に見えて、松野くんと葉蔵と重なった。
言わなきゃ!と思った。彼が言葉の裏に隠している物が何なのか、皆目検討もつかないけれど、言わなくちゃと思ったのだ。だって、私から見た松野くんは、怪物なんかじゃないもの。ずっと孤立し続けて、最後には心を病んでしまった哀れな葉蔵でもない。
何かしら、言葉を必要としている彼に伝えなければと思ったのだ。
「ま、松野くんは……」
私の声に彼が伏せ気味だった視線をゆっくり上げる。松野くんが私と目を合わせたのを確認して、私も覚悟を決めた。
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