第19頁 遭遇




 辛辣な言葉に横を向けば、まだ制服姿の飯田が俺達2人を見て、眉根を寄せていた。




智翠ちあきが体育をふけたいんだと」

「はぁぁぁぁ!?」




 谷の言葉に飯田は慄くと、信じられないという顔で、俺を見る。




「んな事したら、ゴリ山に半殺しにされかねねぇよ! 智翠お前……気でも狂ったんか!?」

「半殺しは嫌だけどー……」

「というか、飯田っちも着替えないと。何してたんだ?」

「教室の施錠をしてやってたんだろうが!」

「あ、お前今日、日直か」

「それで思い出した。智翠、ほれ」




 そう言って、飯田が俺の鼻先に突き付けたのは、何度探しても見つからなかった体操服(上)だった。




「ほわぁ〜!!」



 真ん中にちゃんと俺の名前が書いてある。正に探し求めた体操服だった。俺がそれを飯田から受け取ると奴はさっさと制服を脱ぎ始めた。その横顔に向かって尋ねる。




「飯田、これ……何処に!? お前が拾ってくれたの!?」

「拾ったのは俺じゃねーよ。別のクラスの女子だ。因みに、落ちてたのは渡り廊下だと」

「智翠、良かったね」

「全くだ。ちゃーんと感謝しろ」

「ほんっと助かった……。飯田〜、何組の子だった?」

「さぁ」

「さぁ? じゃあ、お礼言えないじゃん」

「うるせー。見かけた事くらいあるけど、クラスまで知らねーよ」

「名前は?」

「知らん」

「飯田っち、役に立たね〜」

「自力で探しな」

「顔も見てないのにか?」




 未だ食い下がる俺に、飯田は一瞥くれて「早くしないとゴリ山にどやされんぞ」と冷たく言った。

 渋々ではあるが、飯田の言う通り俺も着替え始める。遅刻しても怒られちゃうし。兎にも角にも、誰か分からないが、助かった。雑に制服を脱ぎ捨てて、体操服に腕を通す。




「智翠〜置いていくぞ〜?」

「待ってよ〜。俺だって急いでんじゃん」




 俺は、わたわたと着替えてグラウンドへと向かった。




 体操服を届けてくれた女の子は、一体誰だったのだろう。

 飯田が“別のクラスの女子”って言った時、高橋さんの顔が一瞬チラついたけど、「そんな事ある訳ないよ」と、すぐにその考えは打ち消した。







 放課後、特に用事のない俺は、真っ直ぐ昇降口を目指していた。今日は火曜日だから、高橋さんとの読書会はお休み。

 部活も、最後の大会で予選落ちしたし、実質引退だから、態々部室に顔を出さなくてもお咎めは無い。


 俺が所属していたのは、速記部という所謂生産部と呼ばれる部活だ。俺自体に速記への熱意は無く、部活もサボりがちな3年間だった。サボって何してたかって、図書室や図書館でこそこそしていた訳だ。

 今日は特に行く当ても約束も無いのだと思うと、溜め息が出た。さっさと家に帰る事も、気まぐれに近所の図書館に行くのも、1人で学校の図書室で過ごすのも、この数年間当たり前だったのに、高橋さんと図書室で逢引きするようになってからは、彼女と話さない火曜日と金曜日は退屈だ。そう思える共通の趣味を持つ知人の存在を喜ぶべきか、危機感を持つべきか悩みながら、今日は帰宅後に近所の図書館にでも行って、【潮騒】を読み切ってしまおうと決めた。


 昇降口は多くの生徒で賑わっている。その中に紛れて、下駄箱からスニーカーを出し、上靴と入れ替えていると、廊下の奥から「はぁ!? なんでー!?」なんて、女子生徒の声が聞こえて来た。何とも大袈裟で、大きな声だったし、その声に俺は聞き覚えがあった。興味を惹かれて、下駄箱から顔を出し、そちらを見やる。


 下駄箱の陰からチラッと見えたのは、俺の想像していた顔ではなく、高橋さんの姿だった。俺はひっくり返るみたいに慌てて頭を引っ込めて、身を隠した。そんな俺を2組の連中がクスクス笑って、横を通り過ぎて行く。




 5組の下駄箱とは少し距離があるから、高橋さんの声はあまり聞こえない。さっきの声といい、今も断片的に聞こえて来るのは高橋さんの声ではなかった。

 そーっと移動して、昇降口側から覗くと、高橋さんともう2人の女子生徒が3人並んで靴を履いている。どうも聞き覚えのある声だと思ったら、高橋さんと一緒に居るのは、1年の時に同じクラスだった平井希と大森千鶴だった。この2人とは特に仲が良かった訳でもないが、挨拶も談笑もする、可もなく不可もなくといった関係性だ。クラスが別れてからは、態々会話をしたりという事はなかったけれど、平井はマイペースで物言いがハッキリしている印象だし、高橋さんと仲が良いのは意外だった。大森の方は、基本的に元気で明るい子だったと記憶している。


 3人に気付かれないように様子を伺っていると、高橋さんの表情が、図書室で見ている時より、曇っているように見えた。心なしか、少し寂しそうな笑みを浮かべて何かを話している。内容が聞き取れやしないかと耳を澄ませてみても、周りが煩くて高橋さんの声は、最後まで聞こえなかった。



「もう、全然分かんない! なんで!?」



 肝心の高橋さんの声は一つも聞こえないのに、一緒にいる大森のどうでもいいようか返答ばかりが耳につく。こいつの声はよく通るなーなんて、いっそ感心すらしている間も、高橋さんが何かを答える度に大森は、その馬鹿デカい声でもって、彼女に反論している様子だった。



「というか、この話って意味無くない? 止めようよー。ムキになる事でもないし」





 その時だ。それまで寂しそうではあったが、穏やかな様子だった高橋さんの肩がビクッと揺れて、途端に何かに怯えたように表情を強張らせた。


 初めて見る顔だった。話の内容なんか聞かなくても、これだけは分かった。

 高橋さんは今、傷付いた。



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