第18頁 松野くんのお兄さん





 いつもは、もう少し堂々としているけれど、他人様の体操服を抱えて歩くのは、とても決まり悪かった。しかも相手が松野くんのお兄さんともなると、罪悪感にも似た感情に襲われるのだ。

 それこそ、「盗んだ訳じゃありません! 落とし物なんです!」と声を上げながら歩きたいくらいの心境である。元より私には、そんな奇行に走る勇気も度胸も無いわけで、阿呆みたいな弁明も喉の奥へと仕舞い込んだけれど。


 1組へは、距離にしても時間にしても大した事はない。あっという間の筈だが、私は漸く1組へ到着したと、胸を大きく撫で下ろした。

 深呼吸をしてから、どうやって体操服を松野くんのお兄さんへ渡すか、頭の中でシュミレーションする。私の記憶が正しければ、1組には去年同じクラスだった鴨ちゃんが居たはずだ。まずは、鴨ちゃんに声を掛けて、体操服をお兄さんへ渡してもらおう。これなら、松野くんのお兄さんと顔を合わせなくて済む。松野くんの兄弟に興味が無いと言えば嘘だけれど、挙動不審を晒す未来しか見えない。必要以上に恥をかきたくないのだ。


 シュミレーションも終わり、意を決して閉まっている教室の戸を引く。……引いてみるが開かない。




“……!? 鍵! 閉まってる!”




 そうして目の前の教室へ意識を向ければ、1組はとても静かだった。人の気配がまるで無い。緊張で分からなかったが、この廊下に並ぶ、各教室の中で、1組だけがシン……としていた。という事は、言わずもがな移動教室である。





「……どうしよう」




 大分意気込んで来た事もあり、私はその場にへたり込んでしまいたくなった。この未使用で綺麗な体操服を廊下に置いておく訳にもいかないし、どの教室に移動しているのかも、見当がつかない。休み時間だって、もう終わる。





“これは、出直すしかないだろうか……”





 仕方がない事だと分かっているのに、足を動かす気になれず、引き戸に手を掛けたまま、呆然と立ち尽くしていた時だ。




「何してんの?」




 そんな声がして振り返る。そこには、1人の男子生徒が居て、訝しげに私を見ていた。





「施錠してあるんだけど……。どうしたの?」

「え!? あの、わ、私は、怪しい者ではなくて……」




 私の挙動不審な態度に、更に眉根を寄せた彼に大慌てで手に持っていた松野くんのお兄さんの体操服を差し出した。




「こ、これ! 渡り廊下に落ちてました! 1組の人ですよね!?」

「う、うん」





 私の勢いに押されたのか、彼は一歩後退りながら頷いた。反対に私は一歩、前は足を進める。




「松野くんのお兄さんに渡して下さい!」

「ま、松野くんの?」

「はい! お願いします!」





 捲し立てるように言って、男子生徒へ体操服を押し付け、私は頭を下げると逃げるようにその場から走り去った。




“い、言えた〜”




 極度の緊張から一気に解放されたせいか、じんわりと視界を滲ませながら、5組目掛けて只管走る。





 授業開始5分前、自分の教室の前の廊下に着いた私の手は、ぷるぷると小刻みに震えていた。きっと緊張の後遺症だろう。かなりの大仕事で大変だったけれど、あの体操服は、ちゃんと本人の手元へ戻るだろうと思えば、達成感も一入だ。未だぷるぷると震える手をギュッと抱きしめた。

 そうして、今日覚えた新たな事実である「松野くんのお兄さんの名前は、智翠ちあきくん」を忘れないように、頭の中でもう一度復唱してから、教室内へと戻った。
















◇ ◇






「はぁぁぁぁーん、もう嫌だよ〜……。制服で1人だけグラウンド10周なんて嫌だよぉ」





 男子更衣室の中で、しくしくとクラスメートに泣きついている……俺。




「おい、くっつくなよ! 気色悪ぃなぁ!」

「だってだって! 俺、ちゃんと体操服持って来たもん!」

「下だけな」

「だから! 絶対に上もセットで持ってきたんだってばぁ!」





 今朝、確実に体操服を一式揃えて持ってきたはずなのに、体操服袋の中をどう覗いても体操服(上)が見つからない。もう授業まで時間がないというのに、俺はどうすれば良いんだ!と内心頭を抱えていた。





「もう諦めて、ゴリ山に言いに行けよ」

「嫌だぁぁぁぁ! ゴリ山、怖いもん!」

「でも、授業が始まってからの忘れ物の申告は、ゴリパンチの刑だって言われてんじゃん。絶対、先に言った方がいいって」




 そんな事を言われたって、俺は絶対に忘れ物なんてしていないはずなんだ。それなのに、ゴリ山に怒られたり、ゴリパンチを食らったり、グラウンドを10周したり……嫌に決まっている。





「どうして、うちのクラスの教科担任はゴリ山なんだ! I don't kown! Why!」





 半狂乱で頭を抱えている俺を他所にクラスメートの谷は、呑気な声で「怖ぇーよな、ゴリ山」なんて言っている。





「大体、智翠は10周くらい、あっという間だろう?」

「そういう事じゃない! 10周だぞ? 疲れるじゃないか! 吐いちゃうよ!!」

「はははは、確かに足が速くても、辛いのは一緒かぁ」





 絶望の淵にいる俺は、随分と他人事な態度でつれない谷の腰に手を回して、ギュッと抱き締める。



「このまま2人で、何処までも一緒に行こうか……谷ちゃん」(訳:サボろうか!)

「行かねぇから!」





 俺の渾身のイケボでの囁きに、谷は笑いが止まらないらしかった。そんな谷の腰を抱いたまま揺さぶって、駄々を捏ねていた時だ。




「お前ら何やってんだ? ベタベタくっ付きやがって気持ち悪りー」

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