第14頁 潮騒



「前に調べた事あるの。全部、ウィキとかネットの情報だから、どこまで本当か分からないけど」

「いや、本当にありがとう。そういう話が聞けて嬉しい」

「え?」



 キョトンとする私に、松野くんがニッと歯を見せて笑った。



「そういう、時代背景とか作者の話とか、今まで自分で調べるしか知る事が出来なかったから、他人とそういう話が出来るの嬉しい」



 ぶわっと体中の血管が一気に広がったようだ。これがスタジオジブリのアニメーションだったなら、髪の毛が逆立っている。それくらいの激流を体内で感じた。中の奥がツーンとして、顔も目の奥も、全てが熱い。




“ヤバい! これは本当にヤバい!!”



 私は松野くんに悟られないように、慌ててそっぽを向いて、私の顔が見えてしまわないようにしたが、そんな怪しい動きをすれば、むしろ余計に目を引くのは当然だ。例に漏れず、松野くんも驚きの声を上げるのだった。



「えぇ!? 何!? なんで!」




 ガタッと椅子が引かれて立ち上がった音がする。

 こんな泣きそうになっている顔を見られたくなくて、松野くんへ向かって、私は手のひらを突き出した。



「いいの! 今! タイムです!!」

「え……え……? ごめん、俺、なんか変な事言った?」




 またガタリと音がした。その音で、彼が椅子に座り直した事を察した私は、スーハーと深い呼吸を一つして、声が震えてしまわない様に、気をしっかりも持ち直す。




「これは、照れ隠し!」

「……」




 ……多分、脳が普段通りにちゃんと機能していたなら、この発言の恥ずかしさにも気付けたのかもしれない。誤魔化すにしても、もっと上手いやり方があった事だろう。しかし、毛を逆立てて、顔を赤くして、涙ぐんでいるのを必死に隠している今の私には、そんな事を気に掛ける余裕はなかった。

 しばらくの沈黙の後、松野くんが「ぷっ」と噴き出したのを合図に、ケタケタと笑い始めた。未だ顔を向けられずにいる私に向かって、一頻り笑った松野くんは、優しい声音で話しかけてきた。




「高橋さんって、素直だ」

「へ?」




 まさか、そんな事を言われるだなんて思っていなかった私は、さっきまであんなに必死になって、隠していた顔の事も忘れて、松野くんを振り返った。けれど、松野くんと目が合う事はなかった。彼は既に手元の【潮騒】へ視線を落とし、読書を再開していたからだ。



「俺は、また読書致します故、存分に照れてどうぞ」




 語尾に音符でも付きそうな朗らかな声に、思わず眉根を寄せた。



「い、意地悪!」



 私の声に視線だけをチラリと投げて寄越して、松野くんは目元や口元を綻ばせながら、黙って読書を続けるのだった。まるでふやけるような優しい笑みに、また顔が熱くなってしまって、これでは本当に困ると思い、私も手元の本へ集中し直した。





 陽の傾きが強くなって、図書室全体がオレンジに染まり始めた頃だ。あれからどのくらい読書をしていたのかと時計に目をやると、1時間近く経っていた。

 同じ頃に松野くんも集中力が切れたのか、彼は本をテーブルへと置いて、肩甲骨を縮めながら、大きく伸びをした。それを不躾に眺めていたので、目を開けた彼と、パチリと目が合ってしまい気まずさからお互い笑い合う。




「集中力、切れちゃったね」



 そう声を掛けると、彼も「そうだね」と同意した。





「ねぇ松野くん、潮騒の印象的なシーンはどこ?」

「まだ読み終わってないけど、今んとこは……新治と初江が未遂になるところ……あ、変な意味じゃないよ?」




 彼が真顔で、そんな補足をするから、逆に私の方が恥ずかしい。





「あとはね、初江が安夫に襲われかけたと……こ……って、変な意味じゃないからね!」

「わ、分かったから……」




 正直、変な意味じゃないから、なぜそんなようなシーンばかりピックアップしてるの?とツッコミたくはあったが、それも気恥ずかしくて、私は全てを飲み込んだ。




「いや、本当にさ! あの新治と初江が焚き火を挟んで向かい合うシーンとか、本当に描写が綺麗でリアルで凄くて、情景がありありと浮かんできて!」

「うん、うん」




 いつもより顔を赤つつ、凄い勢いで言い募る。勿論、松野くんの言わんとしている事は、私にも分かる。本当に繊細で、リアルな情景描写が、そこには在るのだ。

 そう、「一線を越えるのか? 越えないのか?」という理性のぐらつき、戸惑い。相手に魅せられていく感覚。読者の私達の理性までぐらつかせるような……そんなシーンなのだ。それくらい素晴らしい場面なのだが、『初江と安夫のシーン』とセットで並べられてしまうと、ちょっぴりセクシーなシーンが印象に残ったと言われているようにしか聞こえないのだった。




「えっと……」

「……」

「……」




 2人の間に微妙な沈黙が続いている。すると、顔だけでなく、首や耳まで赤くした松野くんが長テーブルにゴンッとおでこをぶつけて、突っ伏した。そして、消え入りそうな声で「正直者ですみません……」と言った。私も「お気に無さらず」と返したけれど、顔に熱が集中していくのが、自分で分かった。松野くんは松野くんで、耳から煙でも出るんじゃないかと思う程、赤くなってしまっていて、可哀想になった。

 彼は暫くの間、テーブルに突っ伏したまま固まっていたけれど、思い切ったように頭を持ち上げて、やけに明るい声で「高橋さんの好きなシーンは?」と尋ねてきた。空気を変えようと苦心している彼に水を差さないように、私も動揺を隠して答える。




「私は、ラストシーンかな」

「それは……まだ、読んでないです」

「あとは……新治くんが千代子さんに、『美しいがな』って言うところ」

「あー……あ! そこは読んだよ!」



 記憶の中から、件のシーンを思い出したらしい彼の顔からは、もう幾らか赤みが引いていた。




「綺麗なシーンだよね」

「うん。とっても好き。新治くんて、本当に素敵な人」



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