第15頁 潮騒2




 私は、白く霞がかった空の下、船着場で向かい合う2人の姿を思い浮かべた。自分の容姿に自信がない千代子さんは、自分の想い人である新治くんに「自分は、そんなに醜いか?」と尋ねたのだ。





——————新治さん、あたし、そんなに醜い?


——————え?


——————あたしの顔、そんなに醜い?




 新治くんの抱く、“美しい初江さん”への恋心を知りつつ、暁闇ぎょうあんがその醜さを隠して、少しでも綺麗に見えないものかと願い、怖くて怖くて今まで誰にも聞けなかった事を問うた彼女の心情は、想像に余りある。とてもじゃないが、全てを察する事は出来ないだろう。




——————なあに、美しいがな



——————美しいがな!





 新治くんがそう言った時、千代子さんがその言葉を聞いた時、千代子さんと一緒に私も救われた。そんな気がしたのだ。




「コンプレックスを人に受け止めて貰えるのって凄い事だもの。それも好きな人から受け止めてもらった上で『あなたは十分素敵だ』なんて言われたら、生きてて良かったって本気で思っちゃう」




 私は、松野くんと初めて図書室で言葉を交わした時の事を思い出した。【野菊の墓】の話は、誰にもした事が無かった。【人間失格】なんかと違って、読んだ事のある人なんて、私の周りには居なかったし、薦めた所で本当に読んでくれるような奇特な人は、早々居るはずもない。

 好きなのだ、面白いのだと言った所で「はいはい」と流されるだけだった。それはまるで、声を掛けても振り向いてもらえなかった時のようだ、と思った。意地悪された訳でもないのに、寂しさがいつも胸に巣食っている。私は、自分の好きな物について他人に話すのが怖くなっていた。

 けれど、あの日はそうはならなかった。寂しくて、悲しい私の宝物を松野くんは、さも当然と言わんばかりに拾い上げてくれた。自信もなく、纏まりもない酷い感想で【野菊の墓】を薦めた私に「好きなんだね」と優しく微笑んでくれた。


 その瞬間、私がどれ程嬉しく、どれ程安堵したのかを彼は知らない。



 この気持ちを伝えたいような気もするが、余りにも一方的な話なものだから、うっかり伝えて引かれても嫌だなぁと思うと、大事に胸の内にしまっておくのが良い気がした。そんな所も自分は、陰気な人間だなぁと自嘲してしまう。





「俺も分かるよ」




 物思いに耽っていた所を松野くんの声が私を現実に引き戻した。



「否定されないって、すげー心が軽くなる。肯定してもらった瞬間に『あ、大丈夫かもしれない』って気がしてくるんだよね」



 松野くんは何処か遠くを見るような目で、私の座っているのとは反対側へ視線を流していた。



「自分にとっては、足の竦むような事も、相手は難なく飛び越えて、手を差し出してくれるような感じ? 泣けるくらい嬉しいよ」




 切なくも幸せそうな笑みを口元に浮かべる様は、遥か昔を思い出しているようにも見えた。

 彼は今、誰を思い浮かべているのだろうかと考えたら、また胸がギューッと苦しくなって、泣いてしまいそうな心地がした。




「本にはさ、新治は急いでいたから、千代子の質問にも即答だったって書いてあるけど……」



 松野くんが手元にある本のページを捲りながら続ける。



「深く考えてないって言ったって、そんな咄嗟にお世辞が言えるほど、新治は器用じゃないもんな」

「テキトーに答えたとかじゃなくて、彼にとっては、至極当然の事だったから、何も考えずにああやって答えたんだろうね」

「即答したってところが味噌だよな。即答じゃなかったら、きっと千代子は傷付いたろう。うん……やっぱり新治は格好良い! なんか分かんないけど、格好良い」



 そう言うと、松野くんは椅子の背もたれに寄り掛かりながら、顎を天井へ向けた。



「完敗だよ〜」



 冗談めかしてそう言う彼に釣られて、私も笑う。すると、私の笑いは彼の本意じゃなかったのか、何処か拗ねたような声が帰ってきた。




「えー?高橋さん、ガチ笑い?」

「だって、……くふふふふ、松野くん何と勝負してるのって思っちゃって」

「それって最初っから、勝負になってないって事ー?酷いよ〜」

「ご、ごめん! でも違くて」

「違わないでしょ〜?まぁ、実際新治は格好良いから、しょうがないんだけど」



 唇を尖らせて、松野くんが私をジトリと見ていた。そんな彼の目に私がギクリと肩を震わせて固まると、今度は松野くんが耐えかねた様に噴き出した。




「ふはっ!ごめん、脅かしすぎちゃったな」




 松野くんがケタケタと身体を震わせて笑うのを見ながら、私はそんなに変な顔をしていたのだろうか……と思わず自分の頬を撫でた。




「お、驚いちゃった……」

「うん、ごめん」





 悪戯っぽい笑顔を浮かべた松野くんにドキリとした。その顔は、何処か可愛らしくて、私は自分の内側から込み上げてくる何かを堪えるように、唇をキュッと横一文字に結んだ。そうしなければ何かがまろび出そうだったのだ。

 そんな事は露程も知らない彼は、椅子に座り直すと思い出したように尋ねてくる。




「そういえば【潮騒】は、誰も死なないの?」

「うん、死なないよ」

「あー、良かったー」




 そう言って彼は、自分の胸に手を置くと、はぁーと息を吐いた。

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