第2章

第13頁 背景なんて知らずとも


◇ ◇




 制服の指定が夏服に変わって数日。着慣れた夏服に袖を通すのも今年で最後になる。そう思うとなんだか寂しい。


 木曜日の放課後、私は図書室の長テーブルに腰掛けて、人を待っている。生徒のいなくなった図書室の静かさにも慣れ始めた。遠くから運動部の掛け声や吹奏楽部のチューニングの音が聞こえてくる。そんな中で、私は黙って本のページを捲る。すると、ガラガラと図書室の戸を開く音がして、私の斜め前の椅子が引かれる。手元から目を上げると、そこには私の待ち侘びた人がいた。彼は目が合うと、ニコッと笑って自分も読書を始めた。

 私と松野くん。たったそれだけで、私の胸は高鳴るのだ。









「三島由紀夫ってさー……」




 2人して黙って本を読んでいると、松野くんは唐突に切り出した。それはもうお約束のような物で、司書の先生が図書室を出て行く頃、読書の時間は、ちょっとしたお喋りの時間に変わる。私は、松野くんに相槌をうって、続きを待った。




「戦時中?の時に、腹切りした人でしょう?」

「そう。三島事件だね。でも戦時中じゃなくて、戦後だったような……? 憲法改正って事で起きた事件だったと思うんだよね」

「そっかー。あれ? 軍人だっけ?」

「ううん、小説家だよ」

「そりゃそうか。阿呆な事聞いちゃった……。あの、そういう話を聞いてるとさ、凄い勇ましい人じゃん? 漢!って感じじゃん?」

「うん」

「この本を書いたとは思えないよ」



それは、とんでもない偏見だと思わなくもないが、彼の言いたい事は、私にもよーく分かってしまったのだった。




「繊細だよね。【潮騒】って」

「そう。繊細なんだよ」




松野くんはそう言うと、ページを捲ってまた本に集中し始めた。私も手元の本に視線を戻す。


 静かさの中で、紙の擦れる音や衣擦れの音が時節響いている。生まれてこの17年間、読書は1人きりで楽しむ物だったけれど、2人で同じ空間で本を読むのも、なかなかに心地が良かった。読書の途中でぽつりと話しかけられる度、煩わしさが募るものと思いきや、そうでもない。心に浮上する感想や気持ちを相手にすぐ伝えられるというのは、そう悪くなかった。少なくとも私には、合っていたようだった。そのまま10分、20分と時間が経つと、松野くんは唐突に話しだすのだ。




「これさ、文章や話は繊細だけど、主人公は本当に男前っつーか、格好良い」

「新治くん? なんか武骨な? ザ・硬派な日本男児って感じだよね」

「うん。あ、でも新治だけじゃなくて、初江も芯の強い女の子だったな、そういえば」

「そうだね」

「三島由紀夫って、この2人みたいな人だったのかな……」




本から視線を上げる事なく、松野くんは呟くように言った。松野くんの呟きに胸がザワリとする。

 作者がどんな人で、どんな人生を歩んできたのか、それは作者が作品に込めたメッセージの外側にある事で、本来作品を読む上では、無くてもいい情報なのだ。



——————どうして、そんな事が気になるの?




 いつかの誰かの声を思い出して、腹の底が冷える様な気がした。




「俺は、その三島事件の事もよく知らないんだけどね。俺の爺ちゃんがテレビで観たぞって、前に言ってたよ」



 松野くんの声が、思考の海に沈みかけた私を引き上げた。彼の視線は、相変わらず手元に向けられていて、此方を見てはいない。それにホッとした。



「そん時は、三島由紀夫の事も知らなかったから、幕末でもないのに切腹なんて、狂ってるなーとしか思ってなかったけど……」

「……三島はね、日本が戦争に負けて……その、色々変わったじゃない? 私も勉強してないから、ふんわりとしか知らないんだけど……」



松野くんが手元へ下げていた視線を私へと向けた。



「軍隊も持たなくなったでしょ? 自衛隊になった」

「名前変わっただけじゃないの?」

「変わっただけだと思うけど……でも殴られないと殴れないって、国家規模だと凄く怖い事なんじゃないかな? 確か、それで自衛隊に?乗り込んだったんだと……」

「へぇ〜。そこで演説?」

「うん。でも、あまり聞いては貰えなかったみたい……。野次とかヘリコプターの音とか、現場はとにかく騒がしかったんだって。それで、20分くらい演説して……自害って流れだったようです」

「……そう……」




松野くんは、小さくそう言うと、本を閉じて、もう一度私へ視線を向けた。



「どうして自衛隊に乗り込んで行ったの?」

「えー……と、たしか……自衛隊にクーデターを起こさせようと……って、それはあまりに言葉が悪いな。新しくなった憲法に異議を唱えていて、自衛隊はその当事者なのだから、お前達が立ち上がらずにどうする!的な事で演説したはず」

「そうなんだ」

「この事件は、海外でもニュースになったみたいなんだ。どんな報道だったのかは、知らないけど。もしかしたら、これが理由で、ハラキリって海外でも有名なのかもね」

「ふーん……。命を懸けたのに、話を聞いてもらえないなんてな……」



松野くんは小さな声で呟く様に言ってから、今度は声のトーンを幾らか上げた。



「でも、高橋さん詳しいね」



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