第10頁 さくらえび



 一応、「また明日ね」というのは、次の日もクラスで絶対、顔を合わせるだろうと思って言った事だったのだが、松野くんは違う意味に取ったようだ。



“私を気に掛けてくれていた……!”




 また胸の内側から胃にかけて、ぐるぐると巡る物がある。苛立ちに似たソレに、私は昨日と同じように泣いてしまいたくなった。

 図書室ここで泣いてしまう訳にはいかない。しかも、こんな風にイライラしたって、松野くんには全く関係ないのだからと、自分を落ち着かせる。

 2度、深呼吸を繰り返した。効果はあったようで、落ち着きを取り戻すと松野くんが今日も図書室にいてくれた事や私を気に掛けてくれた事を素直に嬉しいと思えるようになった。


 ぎゅー……と苦しくなる胸に「泣くもんか!」と強がりを言う。油断するとすぐに泣きたくなってしまうのだ。そんな自分を叱咤して、もう一度深呼吸をした。メソメソするより大事なことがある。今朝からずっと彼に言いたかったことがあるのだ。



「あのね! 【さくらえび】読んだよ」

「へ!? もう!?」

「う、うん!」




 素っ頓狂な声を上げて、とても驚く松野くんの勢いに押されるが、力強く頷く。




「はや〜っ」




 口も目も大きく開けた松野くんを見て、引かれやしないかしら?と弱気になったが、たまには自分の方からお礼を言おうと決意して、勇気を振り絞る。





「私、どうしても読みたくなっちゃって、昨日の帰り道で書店に寄ったの」

「寄ったの!? わざわざ寄ってくれたの!?」

「は……はい!」

「……わぁ……なんか、嬉しい!」




 傾いて強くなる陽の光が反射して、松野くんは瞳をキラキラと輝かせながら、本当に嬉しそうに破顔した。その破壊力たるや、私まで釣られて嬉しくなってしまった。

 さっきまでの弱気や勇気は何処はやら……。調子に乗った口がペラペラと良く回る。




「お家に帰って読んでみたら、面白くて止まらなくなっちゃって」

「本当? 面白かった?」

「うん、とっても!」

「良かったー」

「さっきまで教室で読んでたの。エッセイて、面白いんだね。私は、今まで授業以外で読んだことなかったから」

「え。もう読み終わったの?」

「うん」

「はやっ!」




 松野くんは、さっきと同じように口も目も大きく開いたけれど、さっき感じた不安は、もう感じなかった。




「だって、止まんなくなっちゃったんだもの! 1話1話も短いでしょ? だから読みやすくて」

「そうなんだよ。俺が読んだのは、中学の時だったんだけど、【さくらえび】はエッセイの取っ掛かりになった本なんだ。小説と同じに、エッセイも書き方が作者によって違うから好みは別れるけど、さくらももこは、初心者でも読みやすいなぁって思った」





 ニコニコと笑った松野くんは、私が立っているのを見て自分の横の椅子を引いた。



「荷物、置く? もう帰る?」

「あ……お、置きます!」




 パタパタとスリッパを鳴らしながら、松野くんの隣へと駆けて行く。心臓の鼓動が耳に大きく響いて、まるで脳みそが脈打っているみたいだ。





「あのね、」

「うん」

「あの、さくらももこ先生は、もう一冊買ってみたの。そっちは、まだ読んでないんだけど……」

「ほぉ〜、何買ったの?」




 緊張のせいで、カッチカチになって隣に座っている私に気付いていないらしい彼は、此方をにこやかに見つめて、穏やかにに頷き、私の話に耳を傾けてくれる。




「【さくら日和】」

「へぇ、そっちも楽しく読めるといいね。【さくらえび】は、楽しく読めたんだもんね」

「うん! 松野くんが前に読んだって言ってたもう一冊も一緒?」

「んー? 違ったと思うなぁ。タイトルは忘れちゃったんだけど、さくら何とかじゃなかった気がする」

「そっか。書店には、いっぱい種類があってね、松野くんが読んだのは、どれだったんだろうって考えながら見てたの。でも、どれを選んでも、きっと面白いんだろうね」




 そう言って笑ったら、松野くんはほんの一瞬だけ、驚いたような顔をして、また優しげに微笑んだ。




「もう一冊も面白かったら教えてね。俺も久しぶりにさくらももこ作品、読みたくなったから」

「うん!」



 彼とのお喋りが嬉しくて、楽しくて、元気よく頷いてしまう。すぐに子供みたいでみっともなかったかなと反省して、少し声のトーンを抑えて「うん……」と言い直した。それが面白かったようで、松野くんはフッと吹き出すと、ケタケタと肩を震わせるように笑う。笑われた私は、何だか決まりが悪くて、少し目線を下げた。


 下げた先で目に入ったのは、テーブルの上に並べられている4冊の本だった。松野くんの前に並べられたそれは、表紙が一つも被らないように綺麗に一列に置かれていて、じっと凝視してしまう。



「……松野くん、今度は何を読んでるの?」




 長テーブルに整列する4冊の文庫本について尋ねる。彼は笑うのをやめて「へ?」と間の抜けた声を出した後、私の視線の先を追ってから合点がいったように「あぁ」と言った。



「えっとね、【野菊の墓】を読んでから、あの時代の小説に興味が湧いて、他にも挑戦してみようと思ったんだけどさ……どっから始めようか決められなくって」

「沢山あるもんね。名作がさ」

「それもあるけど、なんて言うか……ちょっとね、緊張しちゃって」




 そう言って、人差し指で頬を掻いた。その仕草は何処か照れ臭そうにも見えた。



「緊張……ですか?」

「うん。だって、ずっと敬遠してたジャンルだし! 緊張というか、ドキドキワクワク? でもやっぱり最後まで読み切れるか不安〜! ……みたいな」

「それちょっと分かる。読み切れなかった時って、挫折を感じてブルーになる」




 テーブルに並べられた4冊は、【人間失格】【走れメロス】【斜陽】【潮騒】




「候補は、この4つ?」

「そう! 厳正なる精査の結果、生き残った4作品でございます」

「……太宰……多いね」




 敢えてなのか、4冊のうち3冊が太宰治の作品で、何故かそこに三島由紀夫が1冊だけ混じっている。


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