第9頁 君を待っていたのだと、貴方は言う





 松野くんが友達と帰ったという事は、きっと今日は図書室で、どんなに待っていても彼が来る事はないだろう。

 約束をしていた訳ではない。私が勝手に図書室で話をしようと思っていただけで、松野くんには、松野くんの都合があって当然だ。そんな当たり前の事を失念していた私の方が変なんだと自分に言い聞かせても、どうにも気持ちは晴れない。それくらい彼と話したかったのだと思い至ると、今度は恥ずかしさが込み上げてきた。照れではなく、完全なる羞恥の方である。

 そもそも同じクラスで生活しているのに、人見知りとか何とか言って、声を掛けられずにいた自分が一番変で、一番悪い。ここはスッパリと諦めるしかないのだ。

 頭ではそう理解しているのに、どうしても面白くない私は、このまま真っ直ぐ家に帰る気になれず、教室に居残って、読みかけだった【さくらえび】を読む事にした。幸い、教室には何人かの生徒が居残っていたので、時間ギリギリまで教室の施錠は待ってくれるだろう。

 

 教室の施錠時間は、図書室の様に時間がハッキリと決まっていないらしい。吹奏楽部等がパート練習で各教室を使用する場合もあるからだろうと思っているが、先生によっても違うようだった。部活で使用していない場合は、平均して施錠時間より早く締められるのが殆んどだが、暇を潰すには十分だった。



 結果2時間位だろうか? そのくらいの時間、私は自分の先でゆっくり読書を楽しめた。

 丁度【さくらえび】の最後に収録されている巻末付録Q&Aを読み始めた頃だった。先生が「施錠するから、教室から出て下さい」と言いに来たのだ。教室に残っていた私とその他数人は、急か急かと言われた通りに教室を出るしか無かった。廊下に取り残された私達は、何となくお互いの顔を見合って、苦笑いを浮かべ「また明日ね」と挨拶をして別れた。もう行くところもないし、【さくらえび】も読めたし、私も大人しく帰る事に決めた。




 下駄箱で靴を履き替え、正門へ向かう。その途中、南特別棟の1階にある図書室がどうしても気になってしまった私は、3年生の昇降口から南特別棟を通って、正門へ向かう事にした。そちら側を通るのは遠回りなのだが、後に予定が詰まっている訳でもない。自分の心の赴くまま……いや、足の赴くまま、考える事を放棄して歩いた。

 


 南特別棟の上には家庭科室や調理室、多目的ホールなんかが在るのだが、私達生徒は滅多に足を運ばない。授業でもあまり使わない教室が揃っているからだ。

 多分、友達の何人かに南特別棟に何があるか尋ねてみても、大概の人が分からないと答えるだろう。私だって、南特別棟の1階に図書室があるから何となく知っているだけだ。昇降口を出て最短距離で正門へ向かうのとは反対方向、中庭を通って南特別棟へと歩いて行った。遠巻きに見る図書室は、相変わらず誰もいないようだった。




“司書室に先生は居るのだろうか? 居なさそうだなぁ……”




 なんて思いながら近付く。図書室の窓まで、あと数メートルという所まで近づいた時、図書室の中を人影が横切った。

 本棚から本を持ってきて、あの長テーブルに座ったのだろう。その人影の横顔を見て、私は息が止まるような思いがした。


 「あ」と思った時には身体が勝手に動いていた。何も考えず、ただ勢いに任せて走る。外からも生徒が入れるようになっている、勝手口みたいな扉を勢いに任せて、バーン!と開けて、転がるように室内へ飛び込むと、ローファーを脱ぎ捨てた。かろうじて働いた理性が来客用のスリッパへ手を伸ばし、床へと放った。



 図書室の中は、昨日と同じようにオレンジ色に染まっていた。静かな空間に、私の履くスリッパの床を擦る音だけが五月蝿く響いている。

 逸る気持ちを抑えられず、早足に進んで、長テーブルが並んでいる所へ顔を覗かせると、傾いた陽の光で髪を黄金色に輝かせた松野くんが、ゆっくりと此方を振り返った。




“……なんで?”



 疑問ばかりが頭を埋め尽くしていく。言いたい事がある気がするのに、沢山の疑問で散らかった私の頭は、言いたい事を見つけられずにいた。

 何も言えない私は、走ったせいで荒くなった呼吸を黙って整えているだけ。そんな私を見て、松野くんがニコッと笑う。




「今日は、もう来ないかと思った!」




 快活な声音で、愉快そうな顔で笑われて、私の胸に締め付けられたような痛みが走る。切ないのに嬉しいような、泣きたくなるようなざわつきで、唇が震える。




「なんで……」

「へ?」




 若干震えた私の声が聞き取り辛かったらしい松野くんが、キョトンとして聞き返す。私は一度、小さく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせようと試みる。




「松野くん、今日はもう帰ったんじゃ……」

「あ……うーん……」




 私は教室で、松野くんが友達と一緒に帰るところを確かに見たのだ。牛丼を食べようとか、そんな話までしていたのに、何故彼は1人で、放課後の図書室にいるのだろう?

 松野くんは暫く考えるように黙っていた。そして、「でもまぁ、今はここにいるよね……」と何とも言い難い、曖昧な言い方をすると苦笑した。曖昧な言い方ではあるけれど、確かに現在ここにいるという事は、結果的に彼は帰らなかったという事だ。火を見るよりも明らかな事を質問してしまったと分かって、自分は何て馬鹿な質問をしたんだろうと恥ずかしくなった。




「そ、そうだよね」

「うん!」

「私、松野くんは帰ったのかと思ってたから——」

「昨日、高橋さんが『また明日ね』って言ってたから——」





 2人の声が重なった。自分の声が重なっていても、彼の口から紡がれた、とんでもない言葉を私は聞き逃さなかった。昨日、私が「明日ね」って言ってたから……だから、待っていたのだと、私にはそう聞こえてならなかった。聞こえてしまえば、真実が如何あれ、私は堪らない気持ちになる。なんで、なんで、とまた疑問の波に押し流されてしまいそうだった。


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