第8頁 まるで別人のようだ




“不思議な人だなぁ”




 頬杖を付いて、ボーっと松野くんを目で追う。彼は自分の席へ移動しながら、友人の声にカラカラと笑っていた。



「こらぁ。騒いでいるのは誰ですか? 朝読書中のはずですよ」




 ガラリと教室の戸が開いて、担任の木村先生が入りしなに不機嫌な声を上げた。未だ自分の席に着いていない松野くんを確認すると、はぁとため息を吐いた。




蒼唯あおい〜……遅刻者は、職員室に寄って入室許可証を貰う約束のはずですよ」

「先生! 俺は遅刻してないから! ギリギリ朝読書前に滑り込んでるんです! なぁ!」

「ええ、先生。蒼唯は意気地が無いので、ギリッギリのほぼアウトみたいなセーフで教室に滑り込んでましたよ」




 松野くんの友人の証言に、先生はもう一度はぁーと溜め息を吐いて、額に手を当てて項垂れた。




「全く見過ごせないけれど、時間ギリギリでも教室に入れていたのなら、今回は見逃したげようか……」

「もう少し余裕を持って登校します」

「そうなさい。10分前行動」

「蒼唯に余裕を持った行動は無理だな。いっつもギリギリで生きてるからな。テストとか」

「お前が言えた義理かよ!」



 教室はいつも通り賑やかで、静かに朝読書という雰囲気では全然無かったけれど、そんなクラスの光景も微笑ましく思えた。

 やっと席に着いて一息ついた松野くんを眺めながら思う。昨日の放課後は、松野くんに恋したかもしれないなんて思って、馬鹿みたいに涙まで出てきて……今考えてみても、あの時の私のテンションはおかしかった。一晩寝て、落ち着きを取り戻したのか、松野くんの姿を見ても、昨日ほど胸が苦しくなったり、突然泣きたくなるような事はなかった。それでも、松野くんが今日も学校に来ているという、只それだけの事が私は本当に嬉しくて、また心が浮き足立つような心地になるのだ。


 友達と笑い合う彼を頬杖付いて眺めながら、ほぼ形だけになっていた読みかけの文庫本を握る手に少しだけ力を入れた。【さくらえび】の事、早くお礼と感想を一言だけでも良いから伝えたかった。けれど、いつもと違う場所というだけで緊張してしまって、声を掛けられなかった。意気地無しは、松野くんではなく、私の方だ。昨日の今日という事もあってか、休み時間も全然本に集中出来なくて、松野くんばかりを目で追ってしまう。







“話掛けちゃおうかな……”







 そう思って彼に2歩も近付くと、今度は周りの目が気になり始めてくるりと向きを変えてしまう。


 もし……もし、松野くんが教室では話したくないと思っていたら……。嫌な顔をされてしまったら、私は絶対に立ち直れない。そんなリスクを背負わなくても場所が図書室なら確実に彼は、私とお喋りしてくれる訳だし、それに……。






—————またね、高橋さん






 頭の中で松野くんの声を反芻する。彼は昨日、「またね」と言ってくれたのだからと、自分に言い訳をして、私は今日の放課後も図書室は行こうと心に決めた。

 帰りのSHRが終わって、私が帰りに支度をしているとのぞみちゃんが私に声を掛けて来た。




香絵かえ! 今日帰りさ、遊びに行かない?」

「きょ、今日?」

「うん! あ……今日は無理? 遊びたかったんだけど」

「今日は……ちょっと……」

「そっかぁ……残念。じゃあ、明日はどう?」

「明日なら! ……————」

「蒼唯! 帰ろうぜ!」





 希ちゃんと話している最中だったが、松野くんの名前が耳に飛び込んできて、私は意識も視線もそっちに持って行かれてしまった。




「今日、部活休みだろ?」

「うん。けど、永井先生の所に寄らないと。寄ってからでいい?」

「それは、勿論」

「蒼唯! 原! 牛丼食い行こうぜ!」

「いいよー」

「俺は、ラーメンの気分だったんだがなぁ……」



「——————……え! 香絵!」

「え!?」

「どうしたの?」






 希ちゃんに呼ばれて、漸く意識が帰ってくる。返事をしている途中でよそ見をしていた私に、希ちゃんは訝しげに眉を寄せて「大丈夫?」と心配してくれた。




「体調悪い?」

「そ、そんな事は」



 それから、私のよそ見していた先へ視線を投げ、松野くんと原くんと坂口くんの背中を見つけたらしい。希ちゃんは、キョトンとして首を捻った。




「ん?蒼唯と原と……坂口?」






 ドキーッと心臓が縮み上がる心地がして、私は慌てて話を戻した。





「えっと、あの、明日! 明日、遊んでもらえる?」

「うん……。いいけど」






 希ちゃんは、まだ納得していないようで、返事に覇気がない。そして、私と松野くんの背中を交互に見て興味を無くしたのか、「まぁいいか」と小さく息を吐いた。





「うん! じゃあ、明日ね!」

「そ、それじゃあね!」

「うん、バイバーイ」




 希ちゃんの背中に手を振って、教室を出ていくのを見送って、教室内に松野くんの姿を探してみる。けれど、松野くんも原くんも坂口くんも、もう何処にも居なかった。





“帰っちゃった……のか……”





 心の中で事実を確認するように呟いた。




「高橋さん、じゃあね!」

「……あ、じゃあね」




 クラスメートがどんどん教室から出ていく中で、私はストンッと自分の席に腰を下ろした。胸中が寒々として、冷えるような気がした。


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