第7頁 Fall in...




 図書室に響いた声に固まる。言葉にし難い感情が、体の中をぐるぐると駆け回る。そして目頭が熱くなった。





「……また明日、松野くん」





 やっと出た声は、少し掠れて変な声だった。引き戸を開けて廊下へ一歩踏み出した。後ろ手に戸をしっかりと閉め切り、もう一歩足を前に出して、私はその場にしゃがみ込んだ。

 蹲って慌てて両手で顔を隠したのは、熱くなった目から一滴の水分が溢れ落ちたからだ。溢れた水は、その一滴だけだと思っていたが、掌で隠された事に安堵したせいか、ぽろぽろと次々に溢れ始めてしまう。悲しい事なんて一つも無かったはずなのに溢れたコレに私はひどく動揺した。


 このコントロールの出来ない感情は何だろう? 

 自問してもすぐに答えは出ないが、頭の中でチラチラとある単語が見え隠れする。それを敢えて見ないまま、整理を付けようとしても「もしかして?」「まさか?」と思考は其方へと引きずられていく。例えそれを認めたとして、私の知っている“それ”とは明らかに違っていた。私はこんなに苦しいくらいに胸が締め付けられる物を知らない。今まで生きてきた中で見聞きし、想像したそれ等とは、明らかに違う。


 こんなの知らない。こんなのは、違う。


 何度も何度も否定して、自ら頭を混乱させようとしてみても、心はちゃんと分かってしまっているのだった。そう、落ちたのだ。

 それは、何かで例えられるように『鈴が転がる音』も『風が吹き抜ける』事もなく、『時が止まるような感覚』もなかったけれど、私は確かに“恋に落ちたのだ”と、そう思った。






















 さて、恋に落ちたなんて作家のように表現しても、平凡な女子高生である私は、立ち上がって歩かなければ家には帰れないのだ。

 あの後、ある程度落ち着いたところで、私は帰路へと着いたのだった。勿論、書店に寄って帰るのだという目的も忘れていない。そうして立ち寄った書店にさくらももこのエッセイは、当たり前に置いてあった。当然分かっていた事だが、見つけた時は飛び上がるほど嬉しかった。


 何も考えず、ズラリと並んださくらももこのエッセイの中から【さくらえび】を手に取る。堪えきれず笑みが溢れた。上機嫌の私は、【さくらえび】をしっかりと持って、もう一度、目の前の文庫本へ視線を戻した。




“松野くんが読んだもう一冊は、どれだったんだろう……?”





 他のエッセイを手に取って表紙を眺めてみるが、当然分かるはずがない。


 本のジャケ買いは、インスピレーションが大切だと思っている。本を出してはしまってを繰り返す中で、何となく手が止まった。特別な理由がある訳ではなく、正しくインスピレーションだった。その一冊を掴んで引っ張り出す。




“【さくら日和】か……”





 表紙は、桜の花とうさぎと女の子の描かれた可愛らしい物だった。表紙のイラストも気に入って、これだ!思った時、私は嬉しさで緩む頬を制御出来なかった。側から見れば、私は大層気味が悪かったと思うが、上機嫌の今の私にはそんな事はどうでも良かった。【さくらえび】と【さくら日和】の2冊を手に書店のレジへと向かった。




 翌日、私は昨日の上機嫌を引きずっていた。文字通り、るんるん気分で登校していたのだ。

 昨日、書店から真っ直ぐ家に帰ると早速【さくらえび】を読み始めた。他のエッセイストの物を読んだ事が無いので比較は出来ないが、さくらももこのエッセイは、1話1話が短くて、とても読みやすかった。小さい頃にテレビで【ちびまる子ちゃん】を観ていたので、父ヒロシやお母さんの顔や会話がまるでアニメのように頭の中で再生されたのも大きかったと思う。

 読み始めたら、止まらない。松野くんの言う通り、じわじわと笑いが込み上げてきて面白かった。特に私のお気に入りは、【父ヒロシインタビュー】というお話。まるちゃん(さくらももこ先生)が父のヒロシにインタビューをしているだけの話なのだが、そこは流石にヒロシ。じわるのだ。

 本当に楽しいエッセイだったから、サクサク読めてしまったが、私も学生である以上、宿題を片付けて、ある程度の時間でベッドに入らなければならない。でないと翌日寝坊をしてしまう。という訳で、1日で読破とはいかなかったが、それでも半分以上読んでいたので「残りは学校で」と浮かれ気味のまま、眠りについたのだった。

 そんな浮つく心を翌日へ持ち越して、教室へ来た訳だが、私は真っ先に松野くんの姿を探した。教室には大部分の生徒が、既に登校していたが彼の席は空のままだ。





“松野くん、まだ来てないのか……”





 それまで空を飛んでしまうのではないかと思う程に浮ついていた私の心は、しゅるしゅると小さく萎んでいくようだった。よく言えば漸く落ち着きを取り戻したと言える。

 どのみち、松野くんが教室に居たとしても、自分から声を掛けに行く勇気があったかは謎である……というか、そんな勇気は無いだろう。彼が居ようが居まいが、気にしたってしょうがないと分かっているのに、彼が居ないとどうにもつまらない。私は息を吐きながら肩の力を抜いて、黙って自分の席へ着いたのだった。





 結局、松野くんは先生が来る数分前に教室へ滑り込むようにして入ってきた。




蒼唯あおいの意気地無し〜!」

「お前は遅刻も満足に出来んのか!」

「んなもん出来るか!」




 友達から飛んでくる野次に、今日も元気に返事をする松野くん。そんな彼の姿に私は、やっぱり図書室で話している時とは、何処か雰囲気が違うような気がしてしまう。実際、一対一で話す時は、もっとこう……上手い言葉が見つからないが違うのだ。



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