第5頁 野菊の墓


◇ ◇




 図書室で松野くんと話してから、1週間が経とうとしていた。

 クラスでの松野くんは相変わらずで、教室で本を開く様子はない。彼が私に対して何か反応を示す事もなく、あの日の気安い松野くんは何だったのかと、私ばかりが彼を目で追ってしまう。お陰で授業どころか、友達とのお喋りにも全く集中出来ないという始末。


 教室での松野くんは、常に誰かが隣に居て、私がおいそれと声を掛けられるような雰囲気では無く、ただ彼を眺めるだけの日々。それでも私は、あの日のお喋りが何とも恋しくて、もう少しお話ししてみたくて仕方がなかった。だからだろう……————





“来てしまった! 図書室!”





 放課後の図書室で、私は誰に言うでもなく、自分自身に宣言する。SHRを終えてすぐ、私の足は図書室へと向いていた。

 部活開始直前の図書室は、いつも通り生徒が何人かうろちょろしていて、人の出入りも多かった。私も普段は、サッと選んでサッと借りてサッと帰るので、図書室ここがどれくらいで空き始めるのか、全く把握出来ないのだが……。とにかく今日は、帰るつもりは毛頭無い。本棚に所狭しと収められている本の中から1冊、暇の潰せそうな本を選び、図書室の中央にある長テーブルに座った。





“彼が来るまで、帰らないぞ”






 また誰に言うでもなく宣言して、持ってきて本の表紙を開いた。今日、松野くんが図書室へ来る確証はなかったけれど、居ても立っても居られなかったのだ。

 生徒が慌ただしく行き来する中、席に着いて本のページを捲る。時節、本から目を上げて、生徒達の中に松野くんの姿を探した。そんな事をしているから当然だが、開いた本の内容なんて、全く入ってこない。話に集中出来ないので、ページもなかなか進まない。そして、目当ての彼も一向に現れなかった。

 段々と陽が傾いているのを見て、時間が経っている事を知る。図書室の中のオレンジ色が濃くなっていくにつれ、生徒の数も減っていった。とうとう図書室には、私と司書室に待機している先生の2人きりになった。それでも松野くんは現れない。この様子では、もう松野くんは来ないのだろうか……と思って、気持ちが随分萎む気がした。そんな自分を変だなと思いながら、窓から差し込む強い西陽が温かく感じて欠伸をした。静かさに重くなる瞼を擦る。





“帰ろうか……”




 迷いはしたが、腰を上げる気にならず、数分をぼーっと過ごした。帰ったところでする事も無い。今日は図書室が閉まるまで居座ろうと思い直し、読みかけの本へ集中し直す。そうし直したはずだったが、私はいつの間にか寝こけてしまったのだった。









 意識が眠りの世界から浮上した時には、図書室の中のオレンジ色は、より一層濃くなっていた。自分がどれくらい寝ていたのかという考えに思い当たると、慌てて長テーブルに凭れていた上体を起こす。その時バタついた脚が、膝で長テーブルを蹴り上げたようで、ガタンと大きな音が響いた。






「『民さんはそんなに野菊が好き……道理で、どうやら民さんは、野菊の様な人だ』」






 その声は、すぐ後ろから聞こえてきた。






“これ、【野菊の墓】の政夫の台詞……”







 知った台詞に驚いて、後ろを振り返ると、私と背中合わせに座っていた松野くんが悪戯っぽい笑顔で、肩越しに此方を見ていた。突然、目の前に現れた待ち人に自分は未だ眠っていて、夢を見ているのだろうか?と呆けてしまう。頭が空っぽになってしまって、何も浮かばない。






「ま……松野くん……」




 やっとの思いで、取り敢えず目に見えている物を脳が認識する様に彼の名前を呟くと、段々と思考がはっきりしてくる。目の端で、松野くんの体越しに見知った表紙を見つけて、呼吸を忘れた。それが【野菊の墓】だと理解した瞬間、胸から喉へ熱いものが迫り上がってくる。足元からチリチリとした震えが駆け上がり、堪らない気持ちになった。





“松野くん、本当に読んでくれたんだ……”





 何と表現して良いか分からないソレをグッと飲み込んだ。言葉にしたいのに出来ないもどかしさに切なくなる。


 そんな私の心情など知りもしない松野くんは、快活そうな笑みを浮かべたまま、少し椅子を引いて、身体を此方へ向けようとする。





「薦めてくれた本、面白かったよ」




 身体を半分ほど此方へ向けたところで、彼はそう言った。さっきまで切なさから言葉すら見つからないとヤキモキしていた私だったが、「面白かったよ」の一言に飛び付いた。




「ほ、ほんと?」

「うん。言ってた通り、すっげぇ綺麗な話だったね。正直、政夫にモヤモヤする所もあったけど、考えてみれば15歳だもんなぁって」





 明るく笑った松野くんが嬉しくて、また話せた事も嬉しくて、私はいつもより陽気になってしまう。





「そうだね。15歳って中学3年生だもん」

「中3かぁ〜。しかも初恋……ままならないよな」



“初恋……”





 初恋すら未だにしたことのない私には、初恋もその後の恋も一緒じゃないのかと思ってしまうのだが、それを此処で口に出すほど、私も恥知らずではないのだ。




「俺もこんな純粋な時があったのかなぁ……」



 視線を斜め上に投げて、考える様に言う松野くんに乗っかる。



「あったでしょう? だって中3だよ?」

「俺、こう見えて結構おませさんだったんだよ?」




 まるで幼子のような癖の少ない、艶っとした黒髪にあどけなさの残る無邪気な笑顔をついさっきまで晒しておいて、この人は何を言っているやら。



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