第2頁 意外な先客
帰宅部の私は、こんな時間まで学校に残っている事は殆どない。だから、校舎のこの静けさにも馴染みがなく、部活中の校舎内は、ここまで静かなものなのかと不思議に感じた。図書室のドアに手を掛けながら息を整える。手に力を込めて、少し横へ引くとカラカラと小さな音を立てて、戸に隙間が開く。
“良かった、まだ開いてる”
「失礼しまーす……」
——————……シーン……
返事はなく、室内は静まり返っていた。あまりに静かなので、少しだけ不安になる。貸出カウンターへ足を向けるが、カウンターにもその奥にある司書室にも誰の姿も見えない。どうしようかと考えるが、図書室の壁に掛かっている時計は、施錠時間まであと5分を切っている事を示していた。5分もないのであれば、少し待っていれば司書の先生が施錠をしに来るだろう。のんびり待とうと貸出カウンターの上に返却する本を置いて、制服のポケットから学生証に挟んである、図書カードを出した。準備は万端。手持ち無沙汰になったので、暇潰しを探してくるりと後ろを振り返る。視線の先、長テーブルが並ぶ奥にある本棚に1人の男子生徒が佇んでいるのを見つけた。彼の視線は、手元の本へ落とされており、集中しているのか、此方に気付いていない様子だった。その男子生徒が見知った顔であると理解した瞬間、私の心臓がバクンッと大きく跳ねた。胸元から発生した大きな衝撃は、私の呼吸を止める程だった。
そこに居たのは、同じクラスの松野くんだった。
同じクラスと言っても、彼について私が知っている事はあまり無い。クラスでの彼の印象は、勉強はあまり得意じゃない。割と毒舌で、キレのよいツッコミに定評があり、クラス公認のツッコミ担当。その割に弄られキャラ。それくらいだ。そんな彼は、休み時間も友達に囲まれて過ごしている事が多いし、教室内で静かにしている私と違って、本を読むタイプには見えない。しかも彼の立っている場所、小説のコーナーだ。100歩譲っても、その2つ隣の棚に並ぶ、スポーツ科学の雑誌がお似合いというもの……。
“小説と松野くん”という意外な組み合わせにドギマギしながらも、静かに目を伏せて本を読む松野くんは、とても様になっていて、かっこいいな……なんて思ってしまったり……。
今まで、あまり共感を得られなかった読書という趣味を共有できるような気がして、お腹に力が入る。そこが少しずつ暖かくなっていくのを感じでいた時、不意に松野くんが視線を上げて此方を見た。
パチっとお互いの目が合って、数秒の沈黙。
「……」
「……」
「……」
「……ま、松野くん、本とか読むんだね」
やっとの思いで絞り出した私の言葉に、彼は引き攣ったような変な笑みを浮かべた。その表情が意図するものが分からない私は、妙な焦りを感じて言い淀む。人見知りな性質からか、今すぐにでも逃げ出したいと震える自分の脚を敢えて前へ進めて、余裕のあるフリをする。
「教室では、本読んでるのを見た事が無かったから」
上手に虚勢を晴れているのか、イマイチ分からないけれど、ニコニコと精一杯の笑顔を作って、一歩、また一歩と彼の方へ足を進めた。緊張で震えそうになっているのを悟られまいと、制服のスカートをギュッと握り込む。
「小説を読むなんて意外だなぁ。何を読んでいるの?」
「あ、えっと……」
どうも歯切れの悪い彼の顔を見つめたまま近づけば、彼はススス……と私から視線を逸らし、少し困ったような顔をした。まるで、知らない人に突然声を掛けられたような反応だ。そこで私は漸く、松野くんが一卵性の三つ子で、兄弟全員がこの学校に通っているという事実を思い出した。
“もしかして、うちのクラスの松野くんじゃない? それとも、私が地味過ぎて、覚えられていないだけ!?”
「あ、あの……
色々な不安を抱えつつ、恐る恐る尋ねると、彼は元々大きな目を更に大きく見開いた。
「いや! 俺、
相変わらず曖昧な笑顔でそう言う。私の記憶の松野くんとは、少しイメージが違う様な気もしたけれど、相手はろくに話した事もない訳だし、本来の彼は、こういう感じなのかもしれない。それよりも、蒼唯くんで合っていた安心感とクラスメートなのに顔を覚えてもらっていない自分の地味さ加減が、私の心を複雑な物にしていた。苦笑いでショックを濁しつつ、諦めずにもう一度、何を読んでいたのか尋ねてみた。
「ああ、これ?」
そう言って、手に持った本の表紙を私に見せてくる。それは、伊藤左千夫の【野菊の墓】だった。
「普段、こういうのは読まないんだけど、なんか目に付いたんだよね」
「【野菊の墓】……」
「読んだ事ある?」
松野くんの問いに私は慌てて頷いた。【野菊の墓】は、人生で初めて読んだ所謂、純文学作品で大好きなのだ。本当に本当に大好きな作品だったから、考えるより先に口が勝手に動いてしまったのだ。
「あ、あの……その本、オススメ」
「そっかー」
わなわなと唇が震えてしまう。松野くんは、そんな私に気付かず、また本へと視線を落とした。
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