第37話 二人にしか分からないこと

 姫崎は唇から煙草を離し、右腕を斎藤の肩へ回す。斎藤は胸から刀を引き抜いた。小さい身長では、その腕を回しきることは出来なかった。


「愛してる」


 手から離れた導火線と、斎藤が姫崎を支える手、主の血を纏った刀が地についたのは、同時だった。


 胸から、血が湧きだす。俺の手を伝い、広がってゆく。

「さっさと去ね」

 誰とも目を合わせず、言った。中込の動揺が伝わってくるようだった。京を横抱きにし、周囲の視線から隠そうと路地へ歩く。人混みは俺たちを避け、流れた。

 中込は一炉かそのあたりが好きにするだろう。それは、どうでもいいことだった。


 姫崎が思っていたように、斎藤は姫崎を刺した。そこに一切の迷いはない。後悔もない。判断の正誤も、求められない。


「おい、おっさん。京が死んだんだ、もうこいつらは関係ねえ。…10秒で視界から消えろ。さもなくば、殺してやる」

 不味い、この男、殺す気だ。黒鉄るかは人を殺さないんじゃないのか。嫌だ嫌だ嫌だ。逃げなければ。

 急いで駆け出す。もつれそうになる足を必死に動かした。どうして斎藤さんは姫崎京子を斬れるんだ。おかしいだろ。あの斎藤さんが、唯一信を置いた女だぞ。ありえないありえないありえない。


 二人は、姫崎と斎藤は、常識など知らない。常識などに囚われない。


 走り疲れ、足が止まる。呼吸と共に、後悔や自責の念は吐き出された。

 いいじゃないか。姫崎京子が死んだ。それは俺たちの目的だったじゃないか。そうだ、こうするための計画だったことにしよう。奴らにも、確実に効いた。八朔にも、そう言うんだ。私は成し遂げた!


 京子ちゃんが、刺された。ううん、命を懸けてくれた。なら、私はどうするべきか。助けなければ。

 急いで二人の後を追う。血痕が導いてくれた。

「斎藤さん!」

 髪を纏め、しゃがみこむ彼に声を掛ける。

「心臓と重要な血管は避けた。できるか」

 既に止血を行っていた。まだ、脈もある。

「…やります。貴方と京子ちゃんへの、御礼です」

 脱がせた背中から美しい女性と目が合う。神々しささえある、穏やかな表情の女性からは鬼の角のようなものが生えていた。これが言っていた入れ墨か。一瞬手を止めそうになるも、処置を続ける。その様子に斎藤さんは気づいた。

「京子や剣士の身体は傷だらけだ。それを分かりにくくする為にその入れ墨はある」

 羽織を脱ぎながら続けた。

「頼んだのは俺だが、あんたみたいな同じくらいの娘に見られるのが嫌だと。あんまり触れないでやってくれ」

 私にしか聞こえない声で、そう頼んだ。普段の斎藤さんとは似つかなかった。

 朱現さん達も合流する。簡単に、京子ちゃんはまだ生きている、手当次第で助かることを告げた。僅かに安堵が広がる。

「相手側には京が死んだことにした方が都合がいいだろう。応急処置だけしたら、道場で様子を見よう」

 巴さんは、とても悲しそうだった。


 蘭巴。維新志士の父となる。子を失ったことは一度二度ではない。それは本当に、数え切れないほど。

 でも、娘がいる、只の父親だ。今、この時代なら姫崎がとった行動を咎められる。仲間が死んだら、涙を流せる。


 流石、と表現すべきか。斎藤さんが刺した傷は場所を考えると明らかに出血が少なかった。刀も、京子ちゃんが手入れしていたおかげで、感染症の可能性は低いと考えられる。

 でも、恐らく肺に傷が入っている。相当な痛みを伴って、意識がないのだろう。ふと気づくと、彼女の横には主を心配する猫が二匹いた。血だまりを踏んで、足の毛は赤く染まっている。

「るか、家まで走って、今から言うもの準備させて」

「おう、任せろ」

「手が空いている人は馴染みの薬屋に声を掛けて、荷物を運ぶのを手伝って」

「俺が行く!林檎、薬屋の場所分かるだろ」

「ええ」

 神くんが手を挙げた。他の者は至家へ向かう。

「斎藤さん、ひとまず処置はしました。一度、道場へ移動しましょう」

「ああ」

 京子ちゃんを花のように抱え上げたこの人は、どういう人なんだろうか。でも、それは京子ちゃんにしか分からないような、そんな気がした。彼女は羽織で守られていた。

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