第8話 上野公園

 上野恩賜公園の入口付近の広場の中央には噴水があって、そのすぐ後ろに大きな花壇がある。

 穏やかな日和の土曜日の午後、その長方形の花壇の縁には大勢の人々が腰かけていて、会話を交わしたり、スマートフォンをいじったり、思いも思いの方向を眺めていたりする。

 鈴花もその中のひとりで、どこを見るともなしに、卒業から目まぐるしく過ぎていったこの二週間のことをぼんやりと思い浮かべていた。

 桜の季節にはまだ早く、大広場に至るさくら通りの両側の桜並木は開花前だったが、入口に向かってすぐ右手の寒桜はすでに薄桃色の花びらを開き、訪れる人たちがその下でカメラを向けている。

 漫然と座っているのにも飽きて、不忍池まで足を伸ばそうかと鈴花が立ち上がったとき、ふいに声をかけられた。

「あの、もしかして、『Paradise Party』の早瀬鈴花さん・・・?」

 声のした方に振り向くと、そこには年の頃なら六〇過ぎの女性が立っていた。

「ええ、そうですけど・・・ っていうか、もう辞めたんですけどね」

 いささか不機嫌そうに鈴花が応じると、その女性はあわてて頭を下げた。

「ああ、そうでしたね、ごめんなさい。

 わたし、『エターナル・イノセント』の珠夢羅早希たまむら さき と申します。

 はじめまして」

 鈴花はまじまじとその女性を見つめた。

 ベビーピンクのカーディガンにネイビーの細身のスラックスを合わせ、ヒールの低いレッドのパンプスという装いは若々しくはあったけれど、顔立ちや肌のツヤは年齢相応の老いをさらけだしている。

 さらに、本来なら若さの象徴であるような長髪を結わえたポニーテールが、かえって老いを痛々しいまでに際立たせてしまっていた。

 だが、思わず吸い込まれそうな大きな瞳だけはきらきらと輝きを放ち、異様なまでの生命力を誇っている。

 初対面ではあるが、鈴花はこの珠夢羅早希という女性を知っていた。

 世間的な認知はともかく、アイドル業界では、経歴四〇年以上の還暦を過ぎたおばあちゃんアイドルとして広く知れ渡っている。

 それほどの高齢になっても現役を続けていることについては、なにか根深い事情があるというウワサを鈴花は耳にしたことはあるが、それ以上のことは知らない。

 早希はさらに続けて、

「鈴花さん、あなたが卒業されたのはほんとに残念に思ってるんです。

 わたしは以前からあなたに注目してたから」

 予想外の言葉に驚いて、鈴花は聞き返した。

「注目?

 わたしなんかに?」

「ええ」と早希はしっかりとうなずいて、

「ルックスは抜群だし、歌もダンスも上手。

 なのに、なんでブレイクしないんだろうって」

 突然の高評価に意表を突かれ、思わず胸が詰まって鈴花は涙を浮かべそうになった。

「・・・ ありがとうございます。

 そんなことを言ってくれるのは、あなただけです。

 でも、実際のわたしはグループの中の嫌われ者で、裏切者のスパイなんですから」

 鈴花の自虐的な表現には早希は何の反応も示さず、いたって穏やかな表情を崩さない。

 そんな早希と向かい合っているうちに、鈴花は早希ともっと話してみたいという衝動に突き動かされた。

「ねえ、わたしの話を聞いてくれませんか!

 今回の騒動に関係するすべてを!」

 それから、慌てて付け加える。

「もちろん、お時間があれば、ですけど・・・」

 早希はにっこりと微笑んで、

「時間ならいくらでも。

 陽気がいいので、お散歩しているだけですから」

 二人は花壇の縁に腰を下ろし、鈴花はまさしく堰を切ったように一方的にこれまでの経緯を語った。

「・・・というわけなんです。

 だから、さっきも言ったでしょう?

 わたしはゲスくてイヤな人間なんだって。

 あなたに褒めてもらえるような立派なアイドルなんかじゃないんです・・・」

 終始黙って耳を傾けていた早希は、思案するような表情でおもむろにその口を開いた。

「たしかに、今回のあなたの行為はやり過ぎだとは思うけれど・・・

 でも人間なんて、しょせん嫉妬の塊だと思うの。

 その気持ちを具体的な行動に表すかどうかは別として。

 そして、あなたが過剰なふるまいに至ってしまったのは、ある意味で、あなたがあまりにも純粋だったからじゃないかって、わたしはそう思うな」

「純粋?

 このわたしが?」

「ええ、あなたは地元の高校を中退して上京した。

 かなりの覚悟だったと思うわ。

 あなたは純粋にアイドルに憧れていたんでしょう?

 その憧れを持ち続けたまま、あなたは今まで努力してきた。

 だから、運営会社の事情とか、いわゆる『ファンを釣る』っていうファンへの上手な媚びへつらいなんかには興味がなかった。

 そんなことよりも歌やダンスで魅せるのが本来のアイドル。

 今でも、あなたはそんなふうに考えているんじゃないかしら?

 でも、芸能界では、それだけではのし上がれないのも事実。

 そんな世界に馴染もうとしないあなたは、ほんとはとっても真面目で、だからこそ不器用な生き方しかできない。

 わたしはそう思うの。

 今回の行動にしたって、アイドルはファンの気持ちを絶対に裏切ってはいけない、というあなたの正義感の発露なんじゃないかしら。

 あなたは意識せずとも本能的に、あの二人には何か秘密があると悟っていたんじゃないかと」

「それは過大評価です」

 鈴花は気恥しくなって、つっけんどんに返した。

「それに、結果的にあの二人にとってほとんどマイナスはなかったわけだし。

 むしろ、好感度が上がったくらいで」

「そのことなんですけどね」

 早希の口調がいくぶん改まったものになった。

「鈴花さん、あなた、あのカラオケ店での一連の出来事について、なにか変に思ったことはなかったの?」

「変?

 それって、どういう意味ですか?・

 今話した中で、わたし、なにかおかしなことを言いましたっけ?」

「ううん、そういう意味じゃなくって。

 あの二人の行動には不自然なところがあった。

 わたしの言いたいのはそういうことなの」

 鈴花はもう一度、あのときのことを思い返してみた。

「やっぱり、わたしには思い当たることはないです」

「そう、じゃあ、あの二人が一枚上手だったってことになるのかな」

「一枚上手?

 それは一体どういうことなんです?」

 鈴花の質問には直接答えずに、早希は話をつづけた。

「鈴花さん、あなたのカラオケ店での体験を聞いて、真っ先に疑問に思ったことがあるの」

「疑問、ですか?

 というと?」

「ええ、それはね、、ということ」

「会計?」

 鈴花は再度あのときのことを思い起こしてみた。

 そういえば、みれいが入室して以降、閉店時間になって三人がボックスを出てくるまで、誰もボックスを出入りしたことはなかった。

 そして その後、受付のあるロビーでひと悶着あったが、そのときも三人の内でお金を支払った者はなく、鈴花ひとりを残して立ち去っていったのだ。

 それは確かにそうなのだが・・・

「いつ会計を済ませたのか、と言われれば、そもそもお金を払ってはいないですね。

 でも、それほどおかしなことでしょうか。

 おそらくボックスの内線電話で受付に連絡し、後日の会計にしてくれとかなんとかお願いしたんでは?」

「ええ、わたしもそう思う。

 そのこと自体には疑問がない。

 だけど、そうした行動をとったことから導かれる事柄が二つある。

 そうでしょう?」

「会計を後日にできたことからわかること?

 二つ、ですか?」

「そう、このことからわかるのは、一つ目、そういった普通なら無理なことをお願いできるほどあの三人と店員とはかなり親しい関係にあること、そして二つ目、ということ」

「え? それってつまり・・・」

「ええ、そうなの、

 だから、・・・」

「ああ、なるほど・・・」

 今早希に指摘されるまで気づかなかったのが不思議に思われるほど、いたって単純な結論だった。

「でも、いつの時点で尾行に気づいたんでしょうか」

「おそらく店員が伝えたのでしょうね。

 といっても、あなたに最初に応対した、言葉が少したどたどしかったインド系の男性、彼ではなく、あなたが会計を済ませたときの日本人の店員が教えたんでしょう。

 あの三人と親しかったということは、その店員が『Paradise Party』の他のメンバーについて詳しかったとしてもなんら不自然ではないですから」

「でも、あのときのわたしは、普段はかけない眼鏡をかけていて・・・

 あっ、そうかっ」

「ええ、鈴花さんは初回の利用だったので、申込書を記入したということでしたね。

 日本人の店員は、どこかのタイミングでその記載内容を目にし、来店したのがみれいさんや葵さんと同じく『Paradise Party』のメンバーである早瀬鈴花だと知って、なにか不穏なものを感じ取り、急いで内線電話を通じて、あの三人にあなたの来店を教えた。

 流れとしては、そんなところでしょう。

 さて、話を戻すわね。

 あの三人は途中からあなたの尾行に気づいていた。

 とするならば、ここからが決定的に重要なことなんだけど、こうは考えられないかしら?

 んではないか。

 本来の三人の状態は、あなたが目撃したのとは違っていたんではないか。

 だって、そうでしょう?

 あなたの尾行に気づいていながら、あなたが姿を現したときに初めて気づいたようなふりをして逃げるという作戦以外に、何らの策を講じていなかったなんて、ちょっと信じがたい。

 わたしはそう考えるの」

 だが、鈴花は早希の推理にとまどいを隠せない。

「で、でも、高校一年生の葵は年上の彼氏と手をつなぎ、清純キャラのみれいは泥酔して嘔吐する。

 アイドルとしてのイメージを守らければならない二人にとって、これ以上に最悪なことってあるんでしょうか?

 あれが見せかけだったなんて、わたしにはとても信じられません」

 すると早希は、今までの理知的な表情を意地の悪い笑みに一変させた。

「え?」

「二人が行為を取り換えていたとすれば?

 

 それが三人の真の状態だった」

「あっ」

「もう分かったでしょう?

 清純派のみれいに彼氏がいたとすればイメージダウンは計り知れず、男性のファンの多くは失望し彼女のもとを去っていくでしょう。

 十六歳という未成年の葵が飲酒していたのであれば、いわゆるコンプラ違反というのかしら、アイドルを続けていられないばかりではなく、芸能会からも追放されかねない。

 これが、二人が絶対に避けなければならない最悪のシナリオだった・・・」

「・・・」

 鈴花はあまりの驚きに言葉が出てこない。

「だから、次善の策として、あなたが目撃したような状態を装った。

 あなたが見せられたのは、あの二人が事前に用意していた見せかけのストーリーだったというわけ。

 そのストーリーをあなたも信じて疑わなかったし、ファンの方々もそう。

 結果、あの二人は最低限のダメージを負うだけで済んだ・・・」

「ということは、葵が真っ赤な顔をしていたのは・・・」

「ええ、葵さんの顔が赤かったのは、インフルエンザが完治していなかったからではなく、飲酒をしていたから。

 マスクをしたり、あなたの前でうつむいてひと言もしゃべらなかったのは、なにも言い返せなかったからではなく、お酒の匂いをあなたに悟られないため。

 そして、ギタリストとずっと手をつないでいたのは、みれいさんではなく葵さんの彼氏だというウソをあなたに強調するためだったんでしょう。

 一方のみれいさんは、葵さんが飲酒していたという事実からあなたの目をそらすため、アルコールを受けつけない体質にもかかわらず、自分もお酒を飲んだ。

 みれいさんが嘔吐してしまったのは、泥酔したからではなく、飲み慣れていないお酒を飲んだせいなのでしょう。

 みれいさんは、あの日が誕生日だったわね。

 当然、みれいさんは彼氏と過ごしたかったのでしょうし、仲の良い葵さんも交えて深夜のカラオケボックスで三人で楽しんでいた。

 ところが、途中で鈴花さんに尾行されていることに気づき、あわてて必死に知恵を絞った結果が、あなたが目撃した様子だった・・・」

 早希の推理によって、今や鈴花の頭の中にはこれまでとはまったく別の光景が開けていた。

 指摘されてみれば、なるほどと首肯せざるをえない。

 だけど・・・

「でも、あの三人はわたしが背後に回ってから初めて気づいたようなふりをするんじゃなくて、いきなりボックスを飛び出すとかは考えなかったのかな? 

 そしたら運よくわたしから逃げきれたかもしれないのに」

「そうしなかった理由は、あなたが今言ったように、運に任せることをしたくなかったんでしょうね。

 あなたが厳重に見張っていた状態では、いきなり飛び出したところで、あなたの不意をつけるかはわからない。

 それと、なにより、その行動は、あの三人があなたの尾行に気づいていたことを明らかにしてしまうことになり、逃げきることに失敗した場合に見せかけのお芝居をしても、尾行に気づいていたからには見せかけのお芝居なんじゃないかと、あなたに疑惑を持たれることになってしまいますから」

「ということは、わたしの尾行に気づいていながら、わたしのボックスを遠ざけるように店員に指示しなかったことも?」

「ええ、あなたを警戒させたくなかったんでしょうね。

 ボックスを移るようにあなたにお願いすれば、これは絶対何かあるに違いないと、あなたに警戒心を起こさせてしまうでしょうし、今言ったように、なによりあなたの尾行に気づいていたことを暴露してしまうことになるから。

 それよりも、あなたが姿を現したときに初めて気づいたようなふりをし、素早く走り出して逃げ切るという作戦を試し、その作戦が失敗に終わったときには見せかけのお芝居をするという二段構えの作戦を実行したのでしょうね。

 ただ、その一方で、会計を省略するという行為で、実は尾行に気づいていたという事実をさらけ出してしまっています。

 このあたり、急ごしらえの計画ならではの綻びが生じてしまったというところでしょう。

 もっとも、会計の省略という点は、あのどさくさの中で注目されることはないという勝算はあったのでしょうね、実際にそうなりましたし」

「なるほど、そういうことだったんですね」と鈴花は腑に落ちた。

 それにしても、早希に説明されるまで真相に気づかなかった自分が情けない。

「あ~あ、なんで今まで、みんな、こんな単純なウソに気づかなかったんだろう? 

 わたしもだいぶSNS上のファンの反応を追っていましたけど、誰も今早希さんがおっしゃったようなことを言っている人はいなかったし」

 グチにも似た鈴花の疑問にも、早希は答えを用意していた

「ファンという人種は、『推し』を好意的に見ようとする。

 だから、無意識的に正解へと至る思考を封印してきたんじゃないかしら。

 あるいは、真相に気づいていても、SNS上で表明しなかったファンの方もいるかもしれない。

 見たくないものは見ない、あるいは見えない。

 それがファンの本能みたいなもの。

 このことは、鈴花さん、あなたもよくご存じなのでは?」

 そのとおりだと鈴花は思った。

 アイドルにかかわる醜聞はこれまで数知れぬほどあったが、ファンというものは自分への心理的ダメージを最小限に抑えようとする習性がある。

 そして、自分もあの二人にまんまと騙されてしまった。

 ということは、あの二人の秘密を暴きたいと思いながらも、自分もファンと同じ様に、どこかであの二人には隠さなければいけないことなど何もないと信じたかったのだろうか・・・

「鈴花さん、これからどうするの?」

 そう早希に投げかけられ、物思いにふけっていた鈴花は我に返った。

「え? どうするって?」

「今わたしが話したことをあなたが発表すれば、また新しい局面を迎えるかもしれないでしょう?」

 そうか、と鈴花は早希の言葉の意図を瞬時に理解した。

 今度こそ、あの二人を道連れにできるかもしれない、やってみようか!

 だが、数瞬後には、そんな気持ちは跡形もなく消えていた。

 あの人たちはあの人たちで、好き勝手にやればいい。

 そう思った。

 ファンに隠れて、未成年にもかかわらず飲酒をしたり、清純派を装いながら彼氏と付き合う。

 それでも平然としていられる人たちが芸能界でのし上がっていくのだろう。

 わたしの住む世界とあの人たちの住む世界はまるで違うのだ。

「もう、どうでもいいんです、あの二人のことは」

 きっぱりした鈴花の語調に、早希はうなずいて優しく微笑んだ。

 その笑顔を鈴花は胸に刻み込んでから、ふと腕時計を見た。

 もう出発の時間が迫っている。

「早希さん、あなたに会えてよかったです。

 これからもお元気で。

 それじゃあ」

 鈴花は立ち上がり、ボストンバッグを肩に提げて歩き始める。

 そして、鈴花を故郷の青森まで運んでくれる列車の待つ上野駅へと続く、急な階段を足早に下りていった。

(了)

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醜聞 鮎崎浪人 @ayusaki_namihito

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