第19話 別れ・2

 

「ふぇっ、うー…」


 大人しくぬいぐるみを噛んでいた春が、ジッと座っていることに耐えられずぐずり出す。


「あかん。行こう」

「はい…」


 龍二が小さく頷き、ベビーカーに手を添える。


「吟、行くで」

「……」

「吟!」


 床をジッと見つめたまま、松野の横で立ち尽くしている吟。声をかけても動こうとしない吟に痺れを切らし、浜ヶ崎は溜め息交じりで近づいた。


「吟!新幹線に間に合わなくな…」

「……嫌です」

「あぁ?」


 腕を引っ張られても動じず、吟は床を睨み続ける。


「…嫌です。俺達だって…松野さんが必要です」

「なっ!…お前、わがまま言わんと早く…」

「嫌です!!」


 無理矢理連れてこうとする浜ヶ崎の手を振り払い、吟は叫ぶ。

 顔を上げた吟の鼻先は真っ赤になり、瞳には今にも零れそうな程水膜が張っている。

 唇を噛み締める鬼気迫る吟の姿に、浜ヶ崎は思わずたじろいだ。


「…吟」


 松野が戸惑いながら声をかける。すると、吟の顔がくしゃりと歪み、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。


「松野さんを役立たずって決めつけて、手放したのはっ、そっちなのに…!自業自得なのにっ…!今更戻って来いなんて、虫が良すぎるじゃないっすか!」

「それは…軽率な判断だったと…申し訳なく思ってます」

「ええ、吟!それは俺らが首を突っ込む話やない!」


 目を伏せる佐々木に噛みつきそうな吟を、浜ヶ崎が肩を引っ張って離そうとする。しかし、吟は肩を揺すって再び手を払う。


「松野さんが会社に戻るなんて、絶対嫌っす!!」

「吟!」

「俺だってっ…俺だって!松野さんに来て欲しいっすもん!松野さんからもっと色んな事教えてもらいたいっすもん!俺の事“ダメな奴”って諦めないで接してくれたの、松野さんだけですもん!」

「!」


 涙をまき散らしながら地団駄を踏む吟に、松野はグッと胸が苦しくなる。


 ――…春との接し方も、お風呂の入り方も、料理も…一緒に頑張ったもんな…。


 弱音を吐かない吟を見て、こちらの方が沢山元気や勇気を貰えた。


「…ありがとな、吟」

「やめてください!そんな別れの言葉みたいなん、言わないでください!」


 鼻水を垂れ流しながら、吟は松野の腕を掴む。


「おっ、俺ぇ!松野さんが一緒にいると、心強いんですっ!親父もっ、兄貴も!うぅっ…お嬢も、坊ちゃんも!松野さんといる時は、めっっっちゃ楽しそうでっ…俺っ、俺っ、それがめちゃくちゃ嬉しいんす!」

「!!」


 嗚咽交じりでなりふり構わず訴える吟に、龍二と雪の目がハッと見開く。

 松野と一緒に居る自分達が、とても楽しそう――吟にはそう見えていたんだと知った瞬間、二人の脳裏に松野との一週間の思い出がブワッと駆け巡っていく。


「あっ、あんなに楽しそうな親父達、始めて見ましたもんっ!ずるいっすよ!ねぇ、親父だって松野さんが…」

「ええ加減にせえ!!」


 松野に縋りつく吟の胸倉を浜ヶ崎が勢い良く掴む。

 エントランスに響き渡る怒鳴り声に、ハラハラしながら見守っていたコンシェルジュ達はビクッと震え、偶然帰ってきた住人は事件を見たかのような目で浜ヶ崎を見る。

 しかし、吟は周りを気にせず「うわーん!」と子供のように泣き、駄々をこねる。全身で「嫌だ」と主張する吟を見て、佐々木は戸惑った。大人になってもこんなに暴れる人を見た事がなくて。


「おら!行くぞ!」

「いやだ~~~~!」


 頭を叩かれても引きずられても泣き続ける吟の姿はみっともない。だけど、その必死な姿が自分の気持ちと重なって、雪の視界が滲んでいく。


「…俺も、松野さんに一緒に来てほしいです」

「!?龍二、お前まで…!!」


 只でさえ吟の対応で大変なのに。浜ヶ崎は鬼の形相で龍二を睨む。

 一瞬で空気を支配する、喉元を締め付けられるような迫力。殺気に満ちた視線に龍二は怯みそうになるが、震える唇を開いた。


「俺にも、松野さんと一緒に居る親父は楽しそうに見えます…」

「なっ」

「俺自身も!松野さんが居ると…心強いんです。家事とか坊ちゃんのお世話とか、それだけじゃなくて…本当に、安心するんです。他の誰かじゃなくて…松野さんに、居てほしいんです」


 いつも凛としている龍二の、頼りない声。そして、ツッ…と目尻から流れる涙。


「…おいおいおいおい、勘弁してくれよ…」


 浜ヶ崎組の中でも精神的支柱の龍二。仕事の能力だけでなく、冷静沈着、俯瞰で物事を見られるところに圧倒的信頼を置かれている龍二が、まさか泣き出すなんて。


 ――お前はこっち側で居てくれなあかんやろ…。


 浜ヶ崎はパンクしそうな頭に手を当て、溜め息を吐く。

 どうしたらええねん…と浜ヶ崎が顔を顰める中、雪が「あたしも…」と口を開いた。


「あたしも、松野さんには親父と一緒に居てほしい」

「は!?お前っ…!そんなこと言って、お前らが一緒に居たいだけ…」

「違う!いや、違くないけどっ…親父、松野さんと一緒にいる時、凄く楽しそうなんだもん!!」

「なっ…」


 二人だけでなく、雪にも「松野と一緒だと楽しそう」と言われ、浜ヶ崎は狼狽える。


 ――そりゃ、一緒に居て楽しい楽しくないで言ったら、楽しかったけど…。


 騙し合いをしなくて良い。相手の裏を探らなくて良い。ただ何も考えずに話せる相手は中々居ないから、三人が言う通り、気楽に喋れていたとは思う。でも、ちゃんと一線を引いていたつもりだった。なのに、そんなに素が出てしまっていたのか?皆には「関わりすぎるな」と言って怒ったくせに?


「母さんが亡くなってから…親父、ずっと寂しそうだったけど…松野さんに会って、やっと…心から楽しそうな顔が見れるようになったって思ったのに…このまま、松野さんと別れたら…」


 と言うと、雪は言葉を詰まらせた。泣くまいと必死に堪える雪の悲しみに呼応するように、春が「ぎゃー!」とぐずり出す。


「……」


 一人はわんわんと咽び泣き、一人は静かに涙を流し、一人は涙を堪え、一人は爆発したかのように泣いている。涙と泣き声が混ざったカオスな空間を、住人達は遠巻きに眺めながらヒソヒソと喋り合い、コンシェルジュ達は強張った顔で見ながら警備員を呼ぼうかと話し合っている。

 色んな視線を体中に浴びながら、こうなったのは全て自分のせいだなと浜ヶ崎は思った。


 松野にベビーシッターを頼んだ事も。

 自分がちゃんと松野との線引きができていなかった事も。

 皆に松野が必要だと思わせてしまった事も。

 娘に心配をかけさせてしまっていた事も。


 全部自分が招いた結果だ。

 「だってあの時、本当に春を育てるのが大変で…」と頭の片隅で浮かぶ言い訳を、浜ヶ崎は目頭を押さえて捻り潰す。

 ダメだ。頭の中がごちゃごちゃしすぎて、ちょっと今は何も考えられない。

 力なく俯いていく浜ヶ崎の背中を、松野は何とも言えぬ顔で見つめる。


「…松野さん」


 瞬きを忘れて見入っている松野に、佐々木は声をかける。


「松野さんは、どうしたいですか?」


 「勿論、戻ってきてくれますよね」と、続けて言いたい気持ちをグッと堪えて、松野を見つめる。松野はゆっくりと佐々木に視線を向けると「俺は…」と呟いた。


 ――…俺は、どうしたいんや?


 佐々木に――長年連れ添った相棒に、「会社に戻ってきてほしい」と言われて嬉しかった。

 知り合いの社長たちに、必要だと言ってもらえたのが嬉しかった。

 そして、吟や龍二、雪に必要だと言ってもらえたのも嬉しかった。


「……」


 浜ヶ崎達の事は好きだ。

 でも、浜ヶ崎達について行ったら、確実に普通の生活はできなくなるし、戻れなくなる。

 だったら、また会社に戻った方が良いかもしれない。きっと他の人だってそう思うに違いない――と、考えながら、浜ヶ崎の方に視線を向ける。すると、目がパンパンに腫れた吟と目が合った。

 しゃくりを上げながら捨てられた犬のような眼差しでこちらを見る吟に、松野の鼻の奥がツンと痛む。


「俺達だって…松野さんが必要です」

「俺自身も!松野さんが居ると…心強いんです。坊ちゃんのお世話とか家事とか、それだけじゃなくて…本当に、安心するんです。他の誰かじゃなくて…松野さんに、居てほしいんです」

「あたしも、松野さんには親父と一緒に居てほしい」


 そう言ってくれた三人の言葉や表情、熱量が頭の中で駆け巡り、佐々木に傾きかける松野の心を強く揺さぶる。


 ――もしかして…龍二も雪も…光輝さんじゃなく、俺を必要としてくれてる…と思ってええんかな?

 

 いや、それは流石に思い上がりかもしれない…と自分を咎めながら、どうしたら良いんだ?と、ありったけの思考力をフル稼働させる。が、考えれば考える程頭がこんがらがってしまって、何を優先して決めれば良いのかが分からない。


 ああ。いっその事、どちらとも関わらない方が良いのかもしれない。

 予定通り、一人でひっそりと生きる方が――そんな考えが頭を占めていく中、ふとベランダで一人佇んでいた浜ヶ崎の姿を思い出した。

 光輝や夏子の話をしてくれた時の、浜ヶ崎の寂しそうな横顔。

 そして、去り際に言われた「自分の人生なんやから、自分中心の考えで生きたほうがええ」という言葉が、松野の心にカリッと爪を立てる。


 ――そうや…浜ヶ崎にそう言われたんやった…。


 優柔不断でいつも他人に決断を委ねて生きてきた自分に、“自分の気持ちを大切にすることが大事”だと気付かせてくれた言葉。

 考えが纏まらない今こそ、この言葉を基準にするべきではないだろうか。


 自分がやりたいことは何だろう。

 “損をするから”ではなく。“どっちが喜んでくれるか”ではなく。

 本当に本当に、自分がやりたい事。


 ――…今、俺がやりたい事は…。


 松野は目を伏せ、自分の心に耳を傾けてみる。

 母親に電話をしたい。佐々木の気持ちに応えたい。知り合いの社長達に会いたい――と、思う。

 本当にそう思うけど、それと同時に――いや、それ以上に頭を占めるのは――。


 視線を上げた松野の目に、悲しみに暮れている四人――そして、大泣きしている春が映る。


 ――俺は…皆と、もっと一緒に居たい。


 こんなおじさんに家族のように接してくれる五人と、もっとずっと一緒に居たい。

 まともな判断じゃないのは分かっている。

 だけど、世間体なんてどうでも良いと思うくらい、皆の事が好きになってしまった。

 浜ヶ崎のバカでかい笑い声も、春が無条件にくれる愛も、雪のツンデレなところも、龍二の誠実で組長想いなところも、吟の人懐っこいところも。全てが大切で愛しいと思ってしまうのだ。


 松野の目にうっすらと涙が張っていく。

 光に当たって輝く揺らめきを見て、佐々木は僅かに目を瞠り、全てを悟る。

 目を閉じて、ゆっくりと項垂れる佐々木。その横で、松野は静かに口を開いた。


「…俺、浜ヶ崎達と行くわ」


 春の泣き声が響く中、柔らかな声が四人の耳に届く。


「!」

「えっ…」


 嘘だろう、と驚きの視線を向ける雪と龍二。


「えっ…えっ!?えっ!?」


 吟は呆然とする二人と松野を交互に見ながら、「へっ!?えっ!?」と素っ頓狂な声を繰り返し、忙しなく体を動かす。その動きがまるで捕獲された蟹の様に見えて、松野は思わず吹き出した。


「ははっ。何やねん、その動き」

「えっ!ちょっ、ほ、本当ですか!?松野さん!!」


 吟は最早見えているのか見えていないのか分からない程腫れている糸目を何とか開き、興奮しながら問いかける。

 「嬉しい」と全身で伝えてくる吟の姿に笑みを深くすると、松野は「本当やで」と頷いた。


「ぃやった―――――!!!」


 声高らかに拳を両手に突き上げて、吟は松野に走り寄る。楽しそうにはしゃぐ二人を、龍二と雪は瞬きを忘れて見つめる。


 ――…本当に、松野さんが一緒に居てくれる事になった、ってこと…だよね?


 夢なのかな。…いや、夢じゃない。

 確実に、目の前でこの出来事は起こっている。


「…良かった」


 雪は消え入りそうな声で呟くと、そっと静かに目を伏せる。

 嬉しさと喜びと感謝と安堵と。色んな感情がブワッと体を駆け巡り、泣いてしまいそうになる。それをグッと堪えて目を開ける雪の表情は、肩の荷が下りたようにとても晴れやかだった。

 張り詰めていたものが解けると、気付かなかった事に気付く余裕ができて――。


「あっ!春!ごめん!」


 雪は春がベビーカーで仰け反りながら泣いている事に気付くと、慌ててベルトを外し、抱き寄せた。春が泣いているとは何となく分かっていたけど、目の前の事で精一杯で、あまり耳に入ってこなかった。


「うや―――!!」

「ごめんね。ごめん、春」


 ボス!ボス!と肩に頭突きしてくる春をあやしながら、背中をトントンと叩く。時折ビョイーンとエビぞりして落ちそうになる春を慌てて抱きなおす雪。その隣で、龍二は目頭を押さえながら肩を震わせる。


「……」


 浜ヶ崎は喜ぶ二人の姿を一瞥して、躊躇いがちに振り返った。

 松野にじゃれつく吟と、笑顔で受け入れる松野。そして、俯いたまま佇む佐々木。

 三人を暫し眺めて、浜ヶ崎は大きく息を吸いこむ。


「…松野」

「え?」

「…それ、本気で言ってるんか?」


 目元が緩んだ松野に、浜ヶ崎は真剣な顔で尋ねる。


 もし、本当に松野が付いてきてくれるなら――そう考えて、心が昂る自分が居る。

 だけど、松野は吟や龍二、雪の話に同情して、勢いで言ってしまっただけかもしれない。

 そんな気持ちで――簡単に流されるような気持ちで関わるのはお互いに良くない。

 「断るなら今の内だ」と、浜ヶ崎は強い眼差しで訴える。


「こっち側に来たら、普通には戻れないって言っ…」

「本気やで」


 キッパリと言い切る松野に、浜ヶ崎は驚いて言葉を飲む。

 丸くなる円らな目を真っすぐ見つめ返すと、


「俺、お前と喋るの楽しいねん」


 と言って、松野はニカッと笑った。


「は…」


 思いがけない松野の言葉に、浜ヶ崎はポカンと口を開ける。しかし、子供のように無邪気に笑うおじさんの笑顔に毒気を抜かれ、強張っていた頬が緩んでいく。


 ――何でこいつは、還暦近くにもなって…こんなにキラキラした目ぇしとるんや。


 誹謗中傷や週刊誌のせいで散々な目にあったはずなのに。怒りや憎しみに染まらず、こんなに天真爛漫に笑う。阿呆やなって思うけど…こんな奴だからこそ、居心地が良い。

 浜ヶ崎はニヤッと口角を上げると、


「……そうか。俺もや」


 と言って、嬉しそうに目を細めた。

 ガハハと笑い合う二人は友達のように楽しそうで、佐々木は寂しげに顔を上げる。


「…私の方が先に出会っていて、付き合いも長いのに…。そんなに仲が良いなんて、余程気が合うんですね」


 キリッとした眉を僅かにハの字にして、佐々木は悲しそうに微笑む。その姿が迷子になった幼子のように見えて、松野の胸がチクッと痛んだ。


「仲良さそう、に見えるか…?」


 バツが悪そうな顔をしながら、人差し指で頬を掻く。しょんぼりと肩を落とす松野を見て、


 ――別に、松野さんが落ち込まなくて良いのに…。


 と、佐々木は思わず笑ってしまう。


「ええ。松野さんが関西弁で話してるって事は、素を出せてるって事でしょうしね」

「関西弁?あっ…」


 確かに…と、松野は口元に手を当てる。

 浜ヶ崎に標準語で喋るなと言われたからやめたけど、佐々木との会話は30年以上標準語で喋っていた。


 ――出会った頃の松野さんは、まだ関西弁だったな。


 若き日の松野を思い出し、佐々木は懐かしそうに目を細める。

 「一緒に会社やらへん!?」とグイグイ来る松野の強引さも相俟ってか、関西弁は圧を感じるし、品のない言葉遣いだなぁ…と思ったのを今でも覚えている。

 最初は嫌だった関西弁だが、松野が段々使わなくなっていくと、それはそれで距離ができたようで悲しくて。会社が大きくなるにつれ、互いの呼び方が名前から「佐々木君」と「社長」に変わってしまったのも、本当は寂しいと思っていた。


 ――私はずっと…昔のように、楽しく…たまに言い合いをしながら、松野さんと会社をやりたかったんだな。


 もうこの願いは叶わないけど。せめて、あの時のように、友人みたいな関係に戻れたらと思う。


「…松野さん。昔、私たちが周りからなんと呼ばれていたか覚えていますか?」


 まだ開業間もない頃、松野と佐々木の下の名前を知った人達が、勝手に二人に付けたあだ名。


「…ああ!あったな!あれやろ、“コンビ巌流島”!」


 ピン!と人差し指をたてた松野が、懐かしさに目を輝かせる。


「…何やそのクソダサい名前」


 話に入るつもりはなかったのだが。あまりにもナンセンスなネーミングに、思わず浜ヶ崎はツッコんでしまう。

 呆れ顔の浜ヶ崎を見て、佐々木は「そうですよね」と笑って頷いた。


「松野さんの名前が“武蔵”、私が“小次郎”なので、まとめてそう呼ばれていたんです」

「ほ~ん…随分安直で捻りのない名前やな」


 へッ!と鼻で笑う浜ヶ崎の隣で、話を理解できない吟がキョトンとしている。

 佐々木はフッと笑みを溢すと、改めて松野に体を向けた。


「松野さん…仕事仲間にはなれませんが、またあの時のように…友人に戻ってもらえますか?」


 力みのない穏やかな声と共に、爽やかに笑う佐々木。

 その瞬間、松野の脳裏に19歳の佐々木の姿が浮かんだ。

 スラッとしていて、トレンディ俳優みたいだと思ったあの頃と、今、目の前で笑う佐々木の笑顔が重なる。

 出会ってから37年。二人でがむしゃらに頑張ってきて、色んな事があったけど…本当に色んな事があったけど、佐々木に出会えて良かったと心から思う。佐々木が相棒で良かったと本当に思う。


「おお!当たり前や、小次郎!」


 くしゃりと顔を皺だらけにして笑い、右手を差し出す。

 「小次郎」と呼ばれた響きの懐かしさに、佐々木は一瞬泣きそうになる。しかし、ニコッと笑みを作ると、松野の手を握った。


「ありがとうございます。武蔵さん」


 グッと強く手を握り、小さく振る。

 松野が辞めた後も、拭えない怒りと悲しみで松野への気持ちが切れずにいたが、これで本当に一区切りになる。――そう思ったら、じわじわと涙がこみ上げ始めてしまい、佐々木は慌てて手を離した。


「…では、またいつか」


 軽く頭を下げて、扉に向かって歩き出す。

 その後ろ姿に、松野が「小次郎!」と声をかけた。


「さっき、社長たちが俺じゃないとダメだって言ってた、って言うてたけど…俺はそうは思わへんからな!」

「……」

「いや、人付き合いが上手くできないのは良くないんやけど…。だから、えっと…そう!自分の苦手な部分はな、周りの部下に頼ったらええねん!小次郎は仕事ができるから、一人で大抵の事はできるかもしれんけどっ…知っとるか!?小次郎の事、尊敬してる部下って沢山いるんやで!皆、小次郎に頼られたら嬉しいはずやし…もっと周りに頼ってな!」


 身振り手振りで表現しながら。松野は一生懸命佐々木に伝える。

 黙って背中で受け止めていた佐々木は、静かに深呼吸をすると少しだけ松野を振り返った。


「…今更、社長みたいなこと言わないでくださいよ」

「あっ…。すまん…」


 社長の時は大して助言もサポートもしなかったくせに――と、突き放すように言う佐々木に、松野は申し訳なさそうに下を向く。佐々木は落ち込む松野を暫し見つめると、「冗談ですよ」と言って笑った。

 小さく会釈をして歩き出す佐々木。

 その遠くなっていく背中を、松野は目で追っていく。


 「冗談ですよ」と佐々木は言ったけど、本音だよな…と思う。


 ――俺ってほんま、ダメな社長やったんやな…。


 ズーン…と沈んでいく肩に、浜ヶ崎がポンと手を置く。


「なんや、落ち込んでんのか」

「おお…」

「へッ!一丁前に…そもそもなぁ、お前みたいな頭お花畑な奴に社長が務まる訳ないやろ」

「!」

「もっとできたかも…なんて思う方が烏滸がましいわ!」


 カーッカッカッカ!と馬鹿にしたように笑う浜ヶ崎に、松野は顔を顰めムッとする。

 だけど、浜ヶ崎の言う通りだ。

 過去を振り返り、自分にあの時以上の事ができたか?と考えても、できる自信はない。


「……」


 隣で笑い続ける浜ヶ崎を、チラリと横目で見る。

 一刀両断されたとも感じる厳しい言葉だが、浜ヶ崎なりの不器用な励ましなのかもしれない。

 「は?そんなんちゃうわ。勝手にポジティブに考えすぎや」と言われたら恥ずかしいので、お礼は心の中で言って。

 気持ちが軽くなり、ホッと目尻を下げていると、一人の男性が「あの~…」と恐る恐る声をかけてくる。


「!はい」


 パッと声の方を向く。吟も声の主に顔を向けるが、男を見るなりギョッと目を見開いた。そして、「ヒィッ!」と言いながら、脱兎の如く松野の後ろに隠れる。

 吟がビクビクと恐れる、声をかけてきた男性――それは、マンションの警備員だった。


 ――警備員相手に、何怖がっとんねん…。


 阿呆かコイツ…とイラついた浜ヶ崎が「チッ!!」と大きな舌打ちをする。

 風船が割れたような破裂音に、気弱な警備員はビクッと肩を跳ね上げる。

 コンシェルジュから「人が揉めている」と呼び出された時は、住人同士のいざこざだと思ったのに。まさか、本当にヤバい人達の揉め事だったとは――。

 警備員は威圧的なオーラを放つ浜ヶ崎から目を逸らすと、


「こ、こちらで喧嘩をしている人達がいると聞いたのですが…」


 と、半泣きで松野に尋ねる。

 松野は「喧嘩?」と不思議そうに繰り返し、パッと周りを見渡してみる。


「!!」


 ――えっ、あっ…めっちゃ人居てるやん…!!


 広々としたエントランスの壁を覆うように、老若男女の人々が遠巻きにこちらを見ている。好奇の目を向ける人も居れば、立ち止まる人々を迷惑そうに避けてエレベーターに行く人も居る。

 自分達の事に集中しすぎて、こんなに人が集まってしまっている事に気付かなかった。


「すみません、えらい迷惑かけて…!」

「あの…事件性、は…」

「ないですないです!ご心配おかけしてすみません」


 ペコペコと頭を下げる松野の後ろで、浜ヶ崎が「すんまへーん」と、思ってもないような口ぶりで言う。


「そうですか。まだお話になるようでしたら、通行の妨げになるので、別な場所へご移動して頂いても…」

「はい!勿論です!」


 松野は深く頭を下げると、借りてきた猫のように縮こまっている吟と、しれっとしている浜ヶ崎の背をグイグイと前に押す。ホッ…とあからさまに胸を撫で下ろす警備員に申し訳なさを抱きつつ、松野は龍二と雪の元へ二人を押していく。


「周りの邪魔になってるから、移動しよう!」

「はい」

「うん」

「へい!」

「おー」


 頷いた龍二が荷物を持ちながらベビーカーを押し、雪は泣き疲れてウトウトしている春を抱っこしたまま歩き出す。吟は沢山の鞄を握り締めながら、警備員――正義を押し付けてくる敵と離れられ、「はぁ~…」と安堵の息を吐く。浜ヶ崎は自分達を珍獣のように見る視線にうんざりと溜め息を吐き、松野はその背中を擦って宥めながら、野次馬たちにひたすら頭を下げた。

 ざわつくエントランスを抜けて、外の世界に足を踏み出す。

 その瞬間、温かな突風が六人を出迎える。

 全てを掃うような風の強さに、皆目を細め、フフッと笑う。その表情は暑い日差しに負けないくらい、とても晴れやかだった。 


「…なぁ、こっちに来てくれるって事は、春の世話を頼んでもええ…って、思ってもええんか?」

「勿論!俺で良ければ、春のベビーシッターやるで」

「うわ、めっちゃ助かるわぁ。ありがとな」

「…そう言えば、新幹線の時間、大丈夫か?」

「ああ、時間変更できるから大丈夫や」


 マンションから道路までの道のりを、浜ヶ崎と松野は雑談しながら並んで歩く。

 そして、道路に停まっている如何にも高級そうな黒塗りセダンに向かって浜ヶ崎が手を上げると、運転席から坊主頭の小太りの男が降りてきた。


「待たせてすまんな」

「いえ」


 会釈した男は龍二や吟から荷物を受け取って、トランクルームに詰めていく。


「入らないやつは足元に置くわ」

「分かりました」

「あとな、頼みごとがあんねんけど」


 と言うと、浜ヶ崎は親指を松野に向けた。


「今日明日で、コイツんちの家の荷物をウチの家に運んでくれ」

「!?…えっ、今日!?」

「はい。分かりました」

「えっ!?で、できんの!?」


 当然のように会話をする二人に、松野は目玉が飛び出そうになる。


 ――いや、確かについて行くって言ったけど…。


 何なんだ、このスピード感は。

 梱包は?住民票は?印鑑登録は?水道や電気の解約は?

 引っ越しに必要な事って色々あるけど、どうするつもりなんだ。

 意味が分からない。と顔に書いてある松野を見て、浜ヶ崎は首を傾げる。


「なんや。なんか整理する時間が欲しいんか?」

「いや、そんなんないけど…ほら、引っ越しってめっちゃやる事あるやん…」

「あ~~大丈夫大丈夫。こっちで勝手にやるから」

「え…えぇ…」


 「勝手にやる」ってどういう事だろう。普通、こんなにすぐ引っ越しができる訳がない。もしかして、非合法な手段を使うつもりなのだろうか。


 ――えっ…俺、もう違法に手を染める事になるんか…?


 と想像して、松野はブルッと背筋を震わせる。あからさまに狼狽えている松野を見て、浜ヶ崎は溜め息を吐く。面倒くさそうにパンチパーマをガシガシ掻くと、「あのなぁ」と呆れたように言った。


「さっきの野次馬の中になぁ、何人か動画撮ってた奴おってん」

「えっ!」

「絶対また週刊誌に売られるで。そしたら引っ越しなんてできないくらい騒がしくなるから、さっさと引っ越した方がええと思うんやけど」


 違うか?と鋭い目線で訴えられ、松野はうぐっと言葉を飲む。


「で、でも…非合法なやり方は、俺はちょっと…」

「は!?アホか!ウチが経営してる引っ越し屋使うんや!書類は委任状があれば何とかなるやろ?お前は早くここから離れた方が良いから、こっちが代わりに書類の手続きするっちゅーてんねん!」

「お、おお~!そう言う事かぁ~~!」

「……はぁ~~~…」


 浜ヶ崎は腰に手を当て、かったるそうに天を仰ぐ。

 全くもう。ヤクザだって、やらなきゃいけない手続きはちゃんとやるし、常に違法な道ばかり選んでいる訳でもないのに。


 ――こいつ…ほんまに一緒にやってけんのかな…。


 こんなちょっとの事で不安がっていて、この先大丈夫なのだろうか。


「す、すまん…」


 浜ヶ崎が完全に呆れている。

 半眼、口半開きの状態でボケーっとしている浜ヶ崎に、流石に失礼だったよな…と、松野はおどおどする。その二人の間に、上機嫌な吟がひょこっと顔を出す。


「大丈夫ですよ~!分からない事は俺が教えるんで!」


 親指を立て、ニカッと得意げに言う吟。すると、後ろで聞いていた雪が鼻で笑った。


「吟に教わるのは不安すぎでしょ」

「えぇっ!?」

「松野さん、ウチの中じゃ龍二が一番まともだから、龍二に聞いた方が良いよ」

「えっ!?」

「はい。何でも聞いて下さい」

「えーっ!?」


 ガーン…と落ちこむ吟を見て、雪が楽しそうに笑う。

 松野に両手を広げてくれているような。そんな三人の優しさに触れ、松野もフフッと顔を綻ばせる。


「ありがとう。頼むな」


 嬉しそうに笑う松野を、浜ヶ崎はチラリと横目で見る。


 ――心配やけど…ま、何とかなるか…。


 きっと、他の組員も松野の事は気に入るだろうし。皆が何とかしてくれるだろう――という考えに着地した浜ヶ崎は、首をポキポキと鳴らしながら息を吐く。


「ほな、もう行くわ。雪、春くれ」

「はーい」


 ぐー…と寝息を立てる弟をそっと肩から離し、手を伸ばす父へ慎重に渡す。

 浜ヶ崎は起こさないように優しく腕の中に抱くと、そのまま後部座席の奥へ座った。真ん中に付けられたチャイルドシートに春を乗せ、ベルトを締める。その隣に龍二が座り、吟が助手席に座る。

 浜ヶ崎は龍二に窓を下げさせると、体を屈め、「なあ」と松野に声をかけた。


「明日の朝の新幹線のチケット用意させるから、それでとりあえず新大阪駅に来てくれ。そこに迎え待たせとくから」

「おお」

「引っ越し業者からも、家に行く時間とか連絡させるわ」


 そう言って、浜ヶ崎はスマートフォンを見せる。


 ――あ、そう言えば連絡先交換してたな…。


 結局一度も使わなかったけど、まさか引っ越しで使う事になるとは。

 今もまだ、この怒涛の展開についていけてないが、松野は「分かった」と頷く。


「じゃあ、また明日な」


 浜ヶ崎がニッと口角を上げて笑うと、五人が乗った車は東京駅に向かって走り出した。

 その姿を暫し見送って、雪は松野の腕を突く。


「松野さん、裏口から戻ろ」


 エントランスから移動しても尚、わざわざ外まで付いてきてジロジロとこちらを見ている人達がいる。野次馬のしつこさに驚きつつ、松野は「そやな」と頷くと、二人でコソコソと裏口へ向かった。


「雪はこんな騒ぎになって…引っ越さなくて大丈夫なん?」


 二人で裏口専用のエレベーターを待ちながら、松野は心配そうに尋ねる。しかし、雪は


「あー、勝手に注目されるの慣れてるから、全然大丈夫」


 と、あっけらかんとした表情で言う。


「そ、そっか…」


 流石、浜ヶ崎組組長の娘。

 これに動じないなんて、さぞ色んな経験をしてきたのだろう。


 エレベーターが1階に到着する。

 ドアが開き、二人で乗ると、雪が23階と35階のボタンを押してくれる。松野が「ありがとう」と言うと、雪が「どういたしまして~」と返事をする。その声がとても軽やかで、松野は目を瞬かせた。


「なんや、楽しそうやな」

「えぇ?べっつにー」


 そう言いつつも、雪はニヤニヤと口を動かしている。一体、何故そんなに嬉しそうなんだろう?と松野は不思議だったが、23階に付き、降りた雪が


「…じゃあね。また来週」


 と、手を上げる姿を見て、松野は気付く。

 雪は、松野にまた会えるのをとても楽しみにしてくれているのだ。


「おお。待っとるな」


 嬉しいな…と思いながら、松野も笑顔で手を振り返す。扉が閉まり、再び上がり出したエレベーターの中で、松野はフフッと笑みを溢した。



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明日、残りの2話を投稿いたします。

最後までお付き合いいただけると幸いです。

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