第18話 別れ・1
浜ヶ崎と出会ってから7日目を迎えた、朝6時。
リビングには既に身支度を終えた五人が集まっていた。
浜ヶ崎はソファで春にミルクをあげ、龍二は朝ご飯を作り、吟は洗濯機を回している。
白の無地のロンTに淡い色のジーパンを履いた松野は、ソファの端でアイスコーヒーを飲みながら、生活音に耳を傾ける。
最初はこの三人が視界に居るだけで、とても緊張したのに。今は誰が何をしていても気にならないのだから不思議だ。
――はぁ~…。寝起きのコーヒーって最高やな。
香ばしい豆の香りに目を細めながら、ズズッ…と啜る。すると、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。止まらない振動に、松野は慌ててグラスをテーブルに置く。
誰かから連絡がくるなんて珍しい。もしかして、また――と、少し緊張しながらスマートフォンを取り出す。
「……」
松野は画面に表示された名前を確認すると、震えるスマートフォンをソファに伏せた。
「…そうや、布団も片付けないかんな」
松野はパン!と膝を叩いて立ち上がる。
「そんなん、吟にやらせるけど」
「あ~、ええよええよ」
春を抱えたまま目線だけを向ける浜ヶ崎に、頭を振って歩き出す。明らかに動揺している後ろ姿とソファの上に置かれたスマートフォンを浜ヶ崎は交互に見る。
――そういや、この前の朝の様子が変だった時も、スマホ気にしてたな…。
あの時も、松野が何も言わないのでそっとしておいたが――もしかしたら、誰かから連絡が来て、動揺していたのかもしれない。
「……」
相手は誰なんだろう…と、モヤモヤする。でも、今日で別れる訳だし。手助けもできないのに、下手に首を突っ込まない方が良いに決まっている。
「は~…」
なんや、スッキリせえへんなぁ…と憂いで溜め息を吐く父親を、春は哺乳瓶を咥えながら見つめる。そして紅葉のような掌をパッと開くと、哺乳瓶を支えるごつい薬指を強く握った。
「!」
驚いた浜ヶ崎が、春に目を向ける。すると、くりくりお目目が真剣に父親を見つめ返していた。
「…なんや、いっちょ前に気にしてくれてるんか?」
フフッと笑いながら小さなおでこに額を寄せる。それが面白かったのか、春もフフッと笑いだす。こうやってまだ何にも染まっていない無垢な赤ちゃんを見ていると、自分が欲に塗れた世界で生きているのを忘れてしまう。可愛い可愛い、夏子の忘れ形見。
――こいつが大きくなるまで、死ぬわけにはいかんな。
正直あまり、自信はない。いつ命が狙われてもおかしくないから。春だってそうだ。不穏な噂が流れている今、いつ敵対組織に攫われてもおかしくない。だから、早く春の護衛を用意しないと。
――吟が漸く、春を抱っこできるようになったけど、なぁ…。
吟は自分の護衛だし…それに、春が懐ける人じゃないと――と考えて、パッと松野の顔が浮かんだ。
「……俺までそんな事考えたら、あかんやろ」
浜ヶ崎は瞳を揺らしながら自嘲する。
三人に散々「松野を巻き込むな」と言っているくせに、情けない。「な~」と春に同意を求めると、春が空になった哺乳瓶を口から離し、どこか覇気のない父親の頬に手を添える。
――…もしかして、慰めてくれてるんか?
浜ヶ崎の目がウルッと輝く。すると、春はニコッと微笑み、勢い良く浜ヶ崎の頬を抓った。
「!?いーたい痛い痛い痛い痛い!」
「!!親父、大丈夫ですか!?」
叫び声に驚いた龍二が急いで浜ヶ崎に駆け寄る。
――ああっ!親父の頬がちぎられそうになってる!
歯を食いしばって痛みに耐える浜ヶ崎の頬を、春はニコニコと笑いながら容赦なく抓っている。龍二はあたふたしながらも、春に向かって下からそ~っと手を差し出す。
「ぼ、坊ちゃーん…お手々離しましょ~…」
春が怖がらないように少し高めの声を出し、ぎこちない笑顔で笑いかける。その不審な笑みを、春は訝し気に観察する。「いてててて!」と浜ヶ崎の叫びが止まらぬ中、龍二は冷や汗を掻きつつも、春にニコーッと笑い続ける。すると、龍二の祈りが通じたのか、小さな掌がパッと頬から離れた。
「!」
「はぁ~~!こいつ、ほんま…。ありがとな、龍二…」
「い、いえ…」
龍二は軽く頭を下げると、スタスタとキッチンへ戻っていく。
春の手を離すことに成功したにも関わらず、龍二の表情は硬い。渋く細められた瞳は、行き場のなくなった掌を見つめていた。
――恥ずかし…。
春に手を伸ばした、あの時。もしかしたら、自分の方に来てくれるかも…なんて、淡い期待を抱いてしまった。
「はぁ…」と小さな溜め息が零れる。
――でも…近付いても嫌がられなかっただけマシか…。
怪訝な顔はされたものの、叩かれたりはしなかった。それだけでも、大きな進歩かもしれない。
龍二は掌を合わせて揉む。いつか仲良くなれたら良いな、と思いながら。
ベランダでは松野の洗濯物だけが、風に吹かれて気持ち良さそうにそよいでいる。ハンガーストッパーはいつの間にか五人分に増えており、使われていないストッパー達が、寂しそうに物干し竿に並んでいる。
この大量のストッパーを見るたびに、浜ヶ崎達の事を思い出してしまいそうだな…と、ぼんやり思いながら、松野はソファからベランダを見つめる。
――…あ、明日から俺が全部家事やらなあかんのか。
この一週間、毎日吟が家を綺麗にしてくれていた。折角、吟のおかげで汚部屋じゃなくなったのだから、ちゃんと維持していかないといけない――と、考える松野の脳裏に、ふと疑問が浮かび上がる。
――…余った時間、何すればええんやろ…。
大人一人分の家事なんて、あっという間に終わるはず。そうしたら、何をして過ごせば良いんだろう。
「……」
松野の目が、ソファにポツンと置かれているスマートフォンに向く。一時間前から放置されているそれを、松野はジッと見つめる。
――どうしよ…また、意味もなくスマホやテレビばっかり見ちゃったら…。
そして、そのまま抜け出せなくなってしまったらどうしよう。昼夜を問わず、取りつかれたように画面を見る――あの日々に戻ってしまったら、どうしよう。
「…それはあかん」
自分に言い聞かせるように、ポツリと呟く。
しかし、静かに湧き出た不安は水面に広がるようにじわじわと胸を占めていく。
やっと外に出られるようになったのに…また外出するのが怖くなってしまったらどうしよう――と想像して、ゾワッと背中に鳥肌が立つ。その瞬間、ポンと肩に手を置かれ、松野は「おわぁっ!」と叫び声を上げた。
「えっ…なんかごめん」
「あっ、おっ…雪か…」
勢い良く振り向いた松野は、ビックリしている見慣れた顔を見て「はぁ~~…」と胸を撫で下ろした。お化けを見たかのような松野の驚きっぷりに、雪はフフッと笑いだす。
「おはよ」
「おはよう。…今日は朝飯食べに来たんやな」
「うん。今日で皆帰っちゃうし、暫く一緒にご飯食べられなくなっちゃうから」
スタイルの良さが際立つベージュの半袖のタートルネックとスキニージーンズを身に纏った雪は、ソファの後ろやリビングの端を「あれ~?」と言いながらキョロキョロと見渡す。
「春は?」
「あぁ、春ならさっきうんち漏らしてもうたから、吟と浜ヶ崎が着替えやらなんやらしてるわ」
春は寝冷えして、お腹が少し緩くなってしまったようだ。いつうんちをしたのか分からないが、クサいと気付いた時にはロンパースに薄茶色の染みができていた。
「ふぅん」と頷く雪の後ろでパタパタと音がする。さらりとしたセミロングを耳にかけながら振り返った雪は、父親に抱っこされているキラキラのお目目を発見すると満面の笑みで走り寄った。
「春~~!」
「おはようさん」
「お嬢、おはようございやす!」
「おはよ。ねぇ、春抱っこさせて~」
蕩けた声でそう言うと、春の両脇に手を差し込み、浜ヶ崎から受け取る。
肩に抱き寄せると、赤ちゃんの甘い香りや可愛らしい元気な心臓の鼓動、小さくて温かな体温が直接伝わってくる。
「あ~~~、寂しい。春と暫く会えないのかぁ…」
大切な宝物を守るように春を抱きしめる雪に、「いや、お前絶対次の週末帰って来るやろ」と浜ヶ崎は半笑いで言う。
「うん。行くに決まってんじゃん」
「じゃあそん時に、この春の服洗濯して持ってきてくれへん?新幹線にうんこ付いた服持ってくのもあれやし」
ビニール袋に入れた、水洗いしただけの春の服を雪に渡す。「わかったー」と言って受け取る二人のやりとりを、松野は良いなぁと思いながら横目で見る。
自分以外は、またみんなすぐに会える。この温もりの中に、いつでも入れる。
――…そう言えば、母ちゃんどうしてるかな…。
自分にとって唯一の家族。ずっと連絡できていないけど、今どうしているだろう。
報道当時は自分の事で精一杯で、母と向き合えなかった。でも…今なら電話できそうな気がする。電話をしたら、「心配かけて!」と怒られるかもしれないけど。延々と怒られ続けるかもしれないけど、それでも良い。無性に母と話がしたい。
「ご飯の準備できやしたよ~」
箸を並べ終わった吟が、皆に向かって元気に親指を立てる。食卓に並んでいるのは炊き立ての白ご飯と卵焼きに焼き鮭、ほうれん草のお浸しと熱々の玉ねぎとわかめのお味噌汁。
「おいしそ~」
雪は湯気が立つご飯を眺めて、嬉しそうに手を叩く。そして、テレビの前に置かれていたバウンサーをテーブルまで引っ張ってくると、春を乗せ、その横に座った。他の四人も床に座っていき、皆で両手を合わせて目を瞑る。
五人でご飯を共にする最後の「いただきます」が、明るくリビングに響いた。
時間が過ぎるのはあっという間だ。
皆で他愛のない会話をしながら食事を終え、片付けをする。松野と浜ヶ崎と雪はコーヒーを飲みつつ、春とぬいぐるみで遊んであげて。その間に吟と龍二が帰り支度を整えて――と、過ごしている内に、気付けば9時50分になっていた。
「…あいつら5分前には着くし、そろそろ行くか」
壁掛け時計を見た浜ヶ崎は、膝を叩いて立ち上がる。
「はい」
「へい」
頷きながら立ち上がる龍二と吟。その顔には寂しさが滲んでいる。名残惜しそうな二人の背中に、雪がそっと手を添える。
――寂しいよね。悲しいよね。私達とこんなにすぐ打ち解けて、受け入れてくれる人…中々居ないもんね。
「…見送るよ」
「へい…」
目の端を赤くする吟と丸まった龍二の背を、雪は優しく叩く。
二人は沢山の赤ちゃん用品を両肩両手に抱えて靴を履く。身軽な雪が玄関の扉を開けて、折り畳んでいたベビーカーを通路で開く。その上に浜ヶ崎が春を下ろすと、しっかりとベルトを締め、猫のぬいぐるみを渡した。
「これ…さっき春が座ってたベビーチェア」
「おお。ありがとさん」
リビングに残されていたベビーチェアを、松野が紙袋に入れて浜ヶ崎に差し出す。他に忘れ物はないかな…と、家の中を歩いて回りながら、松野は段々と実感する別れに鼻の奥をツンとさせる。いかんいかん…と鼻を擦るが、簡素になった部屋たちも「寂しい」と言っているように見えてしまう。
――大丈夫。寂しいのは今だけや。
出会ったタイミングのせいで、より寂しく感じるだけ。大抵の事は時間が解決するから、大丈夫。きっと、大丈夫。いつか良い思い出に変わるだろう。
「サングラスとか、かけんでええんか?」
変装をせず玄関に戻ってきた松野に、浜ヶ崎は声をかける。
「おお。ちょっとの間だけやし、良いかなと思って」
「…まぁ、お前が良いなら良いけど…。…ほな行こか」
手短に別れをすませないとな…と考えながら、浜ヶ崎は歩き出す。
松野も靴を履き、鍵を閉めると皆の背を追いかけた。
龍二が開けてくれているエレベーターに乗り込み、右上を見る。ぼやけそうになる視界の中、表示される階数がどんどん下がっていき、ふわっと体が浮くような感覚と共に1階に着く。
ゆっくりとエレベーターの扉が開く。
思えば、ここから始まった。
俯いていた自分が、雪が居る事に気付かずぶつかってしまった。
あの時はただただ恐怖しかなかったのに、まさか一緒に暮らす事になるなんて、思いもよらなかった。
皆静かにエレベーターを出る。
広々としたエントランスに大理石を叩く靴音と、ベビーカーの車輪の音が響く。
後は最後の挨拶をするだけ。
そう思っていた五人の後ろ姿に、「待ってください!」と叫び声がかけられた。
「?」
驚いた五人が振り返る。
声の主を見た松野は「あっ」と口を開いた。
「…?誰っすか?あのおっさん」
「……知らん」
眉を顰める吟に、浜ヶ崎も怪訝な顔で首を傾げる。
50代くらいの長身でスラッとしたスーツ姿の男性。エントランスのソファから慌てて立ち上がり、眼鏡の奥で瞳を揺らす挙動不審な男を龍二は目を凝らして見つめる。
「…もしかして、週刊誌の記者か?」
「!!」
訝しむように言う龍二に、浜ヶ崎と吟、雪が一斉に男へ視線を向ける。
「マジかよ…こんなところまで来やがって…!」
吟はギリッと奥歯を鳴らし、拳を握り締める。ぶん殴ってやる…!と勇んで歩き出した吟の腕を、松野が強く掴んで止めた。
「吟」
「止めないでください!ああいう奴は一発かまさないと…」
「ちゃうねん」
「何が違うんすか!?」
苛立つ吟が、声を荒げながら松野に顔を寄せる。その迫力に、松野はグッと声を詰まらせる。言いづらそうに彷徨う視線を、吟は鼻息を荒げて追いかける。松野は「あいつは…」とおどおどしながら呟くと、ゆっくりと顔を男へ向けた。
「あいつは…俺が勤めてた会社の副社長や」
そう言って、「あ…もう社長か」と自虐的に笑う。
皆が「えっ!」と驚く中、雪はハッと息を呑む。
――何で会社の人が、ここに…?もしかして…怒りに来た…?
会社の評判を落とすような記事が出て、怒っているのかもしれない。自分のせいで、松野が…いや、自分も怒られるかもしれない…と、雪は緊張して身構える。
皆の視線を集める中、男――佐々木は、松野を真っすぐ見つめたまま歩み寄る。
「松野さん」
「…お、おお…。久しぶりやな、佐々木」
相変わらず感情の読めない瞳を見ながら、たどたどしく挨拶をする。
最後に会ってから一ヵ月。久々に見る佐々木は、目の下にクマができ、頬が少しこけている。常にピシッとセットされていた前髪は崩れ、シャツにも皺が寄っている。こんなに頼りなさそうな佐々木を見るのは始めてだ。
――俺のせいやな…。
記事のせいで風評被害が出ていたり、その対応で忙しくさせてしまっているのだろう。
気まずそうに俯く松野に、佐々木は僅かに目を見開いた。
「関西弁…」
「…え?」
「いや……。あの、どうして電話に出てくれなかったんですか?この前も…今日の朝もかけたのに」
「!あっ、えっと…それは…」
何と説明しよう…と、狼狽える松野。その後ろ姿を見て、浜ヶ崎はピンとくる。
――そうか…朝の電話は会社からだったんか…。
成る程、松野が動揺するわけだ。
松野はパンクしそうな頭を動かしながら、何とか言葉を捻り出す。
「その…勘違い、してて…」
「勘違い?」
「……えぇっと…」
“実は会社で問題が起きたから、助けてもらいたくて電話が来たと思いました。”――なんて、恥ずかしくて言えない。
もごもごと歯切れの悪い松野を見て、佐々木は気付く。こういう時の松野は、自分が何か悪い事をしてしまって、上手く切り出せないでいるパターンのやつだ…と。
佐々木は眼鏡のブリッジを中指で押し上げて、慎重に口を開く。
「…松野さん、あの記事は本当ですか?」
「えっ?」
「反社と仲が良いという記事です」
“反社”という言葉を強調して、鋭い切れ長の目を浜ヶ崎達に向ける。不躾な佐々木の視線に、龍二と吟がスッ…と目を細めた。事実そうだとしても、馬鹿にしたように言われるのは気分が良くない。チッ!と大きく舌打ちした吟の背を、浜ヶ崎は宥めるように叩く。
「反社、って…そんな言い方…。意外と皆良い奴なんやで」
ハハッと笑いながら庇う松野。その笑顔を見た瞬間、佐々木は怒りを滲ませた表情で松野の肩を掴んだ。
「何言ってるんですか!?反社ですよ!?しかも、日本で有名なヤクザ!良い人なわけないじゃないですか!」
「ちょっ、佐々木!ここエントランスなんやから…」
「松野さんは騙されやすいからカモにされてるんですよ!こいつらはそういうのが得意なんですよ!?」
「!!おいテメェ!黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって!!」
額に青筋を立てた吟が、荷物を乱雑に置き、浜ヶ崎の手を振り切ってズカズカと佐々木に寄っていく。
「何が違うんですか?実際、人からお金を騙しとったりしますよね?」
肩を怒らせて睨み上げる吟を、佐々木は冷めた目で見下ろす。
「テメェ…!」
「すまんっ!佐々木!…俺のせいで会社にまた迷惑がかかったんやろ?だから電話してきたんやろ?本当にすまん!」
今にも飛びかかりそうな吟を背で遮り、松野は頭を下げる。あの佐々木が怒鳴っている。また、自分のせいで…しかも、浜ヶ崎達にまで嫌な思いをさせてしまった。
嫌だ。しなくても良い争いはしないで欲しい。何とか止めたい――と、必死に下げる後頭部を見て、佐々木はハッとする。
「それは、そうですが…」
怒っていた姿から一変、佐々木は急にしどろもどろになり、口籠る。不審に思った松野が顔を上げると、佐々木は伏し目がちに唇を噛んでいる。
「…会社に、何かあったんか?」
「……」
珍しく強張った顔をする佐々木を見て、松野の脳裏に不安が過ぎる。
もしかして、自分のせいで取り返しのつかない事になってしまったのか?例えば、倒産、とか――。
ゴクッと唾を呑み、佐々木の言葉を待つ。
佐々木は、焦りの色を見せる松野をジッと見つめると、意を決したように息を吸った。
「……実は…松野さん、に、戻ってきてもらいたいん、です…」
力なく吐きだす息と共に、佐々木は言う。
「……えっ?」
――「戻ってきてもらいたい」…?二度と関わるな、じゃなくて…?
松野は言葉の意味を理解できず、呆然とする。驚いたのは松野だけではない。浜ヶ崎も龍二も雪も、目を瞠って佐々木を見ている。
しかし、松野の後ろで黙って話を聞いていた吟は、眉間に皺を寄せると
「はぁぁぁ~~~~~~~!?」
と叫びながら松野を押しのけた。
強い憎しみをぶつけるような吟の視線に、佐々木は不快そうに眉根を寄せる。
「あんたらが松野さんを勝手に辞めさせたんだろ!?都合のいい事ばっか言ってんじゃねぇよ!」
「…部外者は黙っていてもらえますか?」
ツンとした態度でそっぽを向く。お前は眼中にない――と暗に告げる佐々木の反応に、吟の怒りはさらに燃えていく。
「部外者じゃねぇし!もう家族みてぇなもんだし!」
「家族?…松野さんと一緒に居る歴なら、私の方が長いと思いますが」
「!!それはそうかもしんねぇけどっ…!テメェ、知らねぇだろ!松野さんがクビになってから…やつれて、どんだけヒデェ姿になってたか…!」
初めて松野の家に上がって、マスクに隠れた顔を見た時。ワイドショーで見ていたにこやかな仏顔の松野が、生気がなく、げっそりして無精ひげだらけになっていた――あの衝撃が忘れられない。
「あんたらが追いつめたくせに…!今更虫が良すぎ…」
「私たちが好きで松野さんを解雇したと思いますか!?皆最初は!松野さんの人柄に惚れて…自分たちが一生懸命サポートしようと思ってやってたんですよ!でも…松野さんは経営戦略や書類絡みの仕事は全部人任せだし…スケジュールも自分で管理できないし!何度も
「うわ…」
“美人局”と聞いた瞬間、雪はドン引きして肩を竦める。美人局に引っかかる男なんて阿呆じゃない?…と考えて、あ、そう言えば松野は「付き合ってると思ってた」と勘違いしてしまうタイプなんだっけか…と納得する。
「あっ、あのっ、あれやろ、週刊誌の記事を何回も揉み消したって言ってたもんな…本当に申し訳なかっ…」
「それだけじゃないですよ!」
「えっ」
勢い良く遮る佐々木に、松野は思わず目を丸くする。他にも何かまだ迷惑かけてたっけ?と冷や汗を流す松野の目の前で、佐々木は指を折って数えていく。
「融資詐欺に、オレオレ詐欺、ポンジスキームに不動産詐欺」
「えっ」
「あらゆる詐欺に引っかかりそうになるのを、私達は何度何度も止めてきました。…貴方達みたいな反社のせいで、沢山迷惑を被ってきたんですよ」
ギロッと吟を睨むと、糸目が一瞬怯み、瞬きを繰り返す。
――まぁ、松野なら簡単に引っかかるやろな…。
「疑う」という言葉を知らなそうな奴だからな…と、浜ヶ崎は鼻で笑う。
だが、当の本人は思い当たる節がないようで、口に手を当て、首を傾げている。
「そんなん、あったか…?」
一生懸命過去の思い出を遡る。でも、特に大損した記憶はない。
だって、何かを契約する時は逐一佐々木や他の役員に相談するように言われていたから――。
「…へっ!?もしかして、毎回相談せなあかんかった、あれ…そう言う事やったん!?」
松野はギョッと目を丸くして、佐々木に問いかける。すると、佐々木は苦悶の表情で俯いていく。それが肯定なのだと理解し、松野はあんぐりと口を開いた。
――あ、ああいう話…詐欺ばっかりやったんか…。
全く気付かなかった。寧ろ、色んな人が善意でお得な情報を教えてくれているのに、何で「ダメだ」って言うんだろう…と疑問に思っていた。
衝撃で固まっている松野を見て、やはり理解していなかったのか…と、佐々木は息を吐く。
「…仕事だけでも大変なのに、松野さんのプライベートや仕事とは関係ない事まで気にかけなきゃいけない毎日に耐えられなくて、貴方をクビにして…漸く楽になれると思ったのに…」
そう言って口を噤むと、感情の波を沈めるように佐々木は目を瞑る。ゆっくりと現れた瞳は僅かに揺れており、松野はまた衝撃を受ける。
――…佐々木が、泣きそうになってる?
感情も表情も崩れない佐々木が、怒りだけでなく悲しみも露わにするなんて。長年一緒に居たはずなのに、今日だけで新たな佐々木の一面を沢山見ている。それが不思議で、新鮮で、思わず佐々木を見つめてしまう。
「……取引先の社長たちが、貴方じゃないとダメだって言うんです」
自分に向けられる視線を見つめ返しながら、佐々木は声を震わせる。
「相手に好条件でしかない提案をしても…『君は利益しか考えてないだろ』とか『もっと大切なことがあるだろう』って言われて、次の段階に進めないんです」
「……」
悔しさを滲ませる佐々木の言葉を聞いて、松野は取引先の社長たちがどんな風に言ったのか、すぐに想像ができた。
「佐々木君は…頭は切れるけど、ちょっと数字ばかりを追いすぎじゃないかい?」
重要な取引先との会議や会食で。淡々と展望を語る佐々木を見て、色んな社長たちにそう言われた。
「経営の素質は認めるが、人を動かすにはもっと大切にしないといけない事がある。それを彼は分かっていない」――と、忠告されたこともある。
その言葉を聞いて、松野も「確かにそうだよな」と思った。
佐々木は無表情故に相手に熱量が伝わりにくいし、冷めていると勘違いされやすい。それに加えて最短で結果を出す為に効率の良さを重視するので、現場に苦労がかかっても当たり前だと思うタイプだ。
でも、それが悪い事だと松野は思わなかった。
普通は熟考したり、二の足を踏みそうな状況でも、躊躇なく選ぶ判断力は皆が持てるものじゃない。事実、圧倒的経営センスがある佐々木に憧れる社員も多かった。
それなら、佐々木の良い所は生かして、足りない部分を自分が補う――相手とのクッション役になれば良いと思った。
――そうか…俺が居なくなって、クッションになれるような人がおらんくなったんか…。
もしかしたら、自分がやってきた事は良くなかったのかもしれない――と、松野は胸を痛める。
「…『松野社長ならよくゴルフやスキーに付き合ってくれたのに』とも言われて…」
そう言って目線も声も落とす佐々木に、松野は「そ…それは佐々木のせいやない!」と慌てて言う。
「ああいう人達って、ゴルフ大好きやん?ほら、工場とか地方の店舗を視察すると、近くにゴルフ場とかあるから。どうしても『行きましょー!』ってなってまうねん」
「…工場、の…視察?」
松野が言う通り、郊外には筋トレグッズや食品を作るための工場が多数ある。よくゴルフをしていた社長たちも、そういった工場の社長が多い。でも、視察は部下がする仕事であり、社長が行くなんて、余程の事がない限りしないものだ。
――社長たちと、ただ遊びに行ってただけじゃないのか…?
と、戸惑う佐々木に松野は明るく笑う。
「おお、そうや。こっちが協力してもらってる事が多いやん?だから感謝も込めて挨拶に行ったり、実際どんな感じか話聞いたり…」
「そんなの、部下がやってるのに…っ!松野さんも行ってたなんて、私たちは知らな…」
「いやいや、皆がちゃんとやってくれてたのは知っとるよ!俺はあくまでオマケみたいなもんでさ…。ちょっと違うやん。従業員さんたち、社長が直々に鼓舞しに来るってなると、テンション上がるかな~って思って、差し入れ持って…。まぁ、『恥ずかしいから内緒にしてほしい』とは言うたけど」
「なっ、何で教えてくれなかったんですか!?」
「えぇ?…だから、恥ずかしいやん。大した事してないのに、武勇伝みたいに言うの…。一応行く時に『誰々さんに会ってくる』って報告してたし、それで予定があるんだって分かるし、ええかな~って思って」
「いや、確かに言ってましたけど…」
まさか、松野が仕事をしていると思わなかった。どうせ、また遊び歩いているんだろう…と勝手に決めつけて、詳しく聞くことさえしなかった。
――…ああ、そうだった…。この人は、何よりも人を大切にする人だった。
昔、都外の店舗のスタッフ同士で揉め事が起こった時も、車で片道2時間かかるにも関わらず、直接お店に行って仲裁していた。
佐々木は懐かしい松野の姿を思い出し、目を細める。
会社が大きくなるにつれて、悩むことも増えて。それに比例して、松野は難しい話は避けるようになって、外出する事が増えて。
店舗を見に行くのも人脈を広げるのも良いけど、経営にも逃げずに向き合ってくれよ…と、ずっと思っていた。二人で作った会社なのに、どうして…と、ずっとずっと悲しかった。
でも、松野は松野なりに会社の為にできる事をやっていたのだ。
それを知ろうともせず、どうせ…と決めつけて、口を閉ざしていったのは自分。
松野とどんどん距離が開いたのは、自分のせいでもあるんだ――と、佐々木は気付く。
「他の社長さんと移動する時は、いつもあっちが会社まで来てくれてたからな。どこに行ってるか、佐々木たちはよう分からんかったよな」
「…それだけ、信頼されていたんですね」
「いやぁ、皆話がしたいだけやろ。俺、取引先の社長たちの中じゃ若い方やったし。…ほら、歳とってくると、若い人と話したがるやん。俺、相槌得意やから、皆楽しそうにずーっと喋っててな…。帰ってからも、『いつなら空いてる?』ってしょっちゅう連絡してきて…ハハッ。あ~、懐かしいなぁ」
ハッハッハと笑う松野に、佐々木もふと頬を緩める。
二人の間にあった張り詰めた空気が消えている。
そう感じた浜ヶ崎は小声で「行くぞ」と呟いた。
きっと、松野は会社に戻ることになるだろう。
浜ヶ崎も龍二も雪も。二人を見て、そう思った。
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