第17話 吟、挑戦する
ご飯を食べた後、また部屋へ向かう二人を見送って、松野はキッチンで洗い物を始めた。
皆が使ったヘラやお皿を手際よく洗い、水切り籠に入れていく。そして、まっさらになったシンクの中にゆっくりと鉄板を入れた。
「よいしょ…」
手を伸ばしてキッチンペーパーを一枚とる。先に残りかすを取ってしまおう――と思ったのだが、皆が綺麗に食べてくれたのであまり汚れていない。それよりも、こびりついた焦げを落とすのが大変そうだなぁ…と、松野は悩む。
――この頑固そうな塊のやつ、ヘラで擦ったら鉄板傷つくんかな…。
ガリッ…と爪でひっかいてみると、爪の隙間に黒い塊が入ってくる。しかも、松野の攻撃なんて効かないぞと言うかのように、どーんとそこに居座っている。これは落とすのに時間がかかりそうだ…と、気合を入れると、春のオムツ交換を終えた吟がやってきた。
「松野さん、手伝いやす!」
ワイシャツの袖を捲りながら、吟はシンクを覗きこむ。
「いや~、これ大変そうやから俺がやるわ」
「余裕っすよ!俺、掃除は得意なんで!」
ニカッと笑う吟を見て、松野もフッと笑みを溢す。
「…じゃあ、お願いしようかな」
「へい!」
吟はグッと親指を立てると、松野からスポンジを受け取った。松野は手についていた泡を流し、タオルで拭く。
「あ、春!…は、大丈夫やな」
静かなリビングに視線を向けると、春はバウンサーにゆったりと背を預けながら、大好きな動画を見つめている。大きなお目目は半分閉じかけており、今にも寝てしまいそうだ。
松野は壁にくっ付いたタオル掛けから食器拭き用の布巾を取ると、水切り籠に置いた食器を拭き始めた。キュッキュッとお皿を拭き、天板に重ねて置いていく。自分が洗ったお皿が綺麗に光っているのを見ると、とても気持ちが良い。今度は小さいヘラを取り、キュッキュッと拭いていく。すると、スポンジを小刻みに動かしながら、吟が
「焼きそばじゃ怒られるかなぁ~…」
と、独り言を呟いた。
「吟が夜ご飯作るんか?」
「あ~~…うーん…何か交渉?が大変みたいで、もしかしたら終わるのが夜近くなるかもって言ってたんで…俺が作った方が良いよなぁ~…とは思うんですけど…」
「焼きそばしか作れないんか」
「そうなんすよぉ~…絶対親父に『またコレか』って言われますわ…」
ガリッガリッと力強く鉄板を擦りながら、吟は大きな溜め息を吐く。
松野と会った初日、飄々とした顔で皆に焼きそばを振る舞っていた吟だったが、実は焼きそばしか作れないことをとても気にしていた。
皆、既に飽きているのは分かっている。
本当は他の料理に挑戦したい。だけど、何度も挑戦した結果ボヤ騒ぎを起こしてしまった自分には、何もできないんじゃないかと思ってしまう。
焼きそばは、全ての食材を薄切りにだけすれば良く、肉さえ焼けていれば、多少野菜がシャキシャキしすぎていても問題がない。尚且つ、付属の調味粉をかければ味が決まる。こんなに作りやすい料理、他にあるだろうか。
ム…と下唇を出し、難しい顔をする吟。その横顔に、松野が気軽に話しかける。
「じゃあ…簡単に作れそうなやつ、一緒に作ってみるか?」
「えっ、一緒に!?良いんっすか!?」
「おお。今日覚えたら、次から一人でも作れるやろ?」
「!でも…俺、本当に下手なんで…教えてもらっても、ちゃんとできるかどうか…」
吟の眉毛がしょんぼりと下がる。
思い出すのは、兄貴達の怒った顔。折角料理を教えてくれても上手くできず、何度がっかりさせたことか。
自信が持てず、吟は「うーん…」と首を捻ったまま、ガシガシと鉄板を擦る。
「大丈夫大丈夫。俺でも作れるぐらい、簡単やから」
「…って言っても、松野さん、玉子焼きもお味噌汁も作れるじゃないっすか」
自分なんかとはレベルが違う。そう言いたそうな吟を一瞥して、松野は拭き終えたヘラを引き出しにしまう。布巾をタオル掛けに戻し、松野はパントリーへ向かう。そして、ガサゴソと棚を探ると、黄色い横長の箱を持って戻ってきた。
「吟、これならどうや?」
「?…えっ?あっ!それ、俺が買っておいた…!」
「そうそう。カレールーや」
泡のついた指で箱を指す吟に、松野はニカッと明るく笑う。
みんな大好き、カレーライス。初心者が必ずと言って良い程挑戦する料理だ。
「…でも、俺、作ったことありますよ?」
勿論、結果は大失敗。
野菜は芯が残ったまま。でも鍋底には強烈な焦げ。そしてその焦げが取れず、結局鍋を捨てる事になる――という、最悪の事態が起こってしまった。
「大丈夫!料理が下手でも失敗しないコツがあんねん」
「え~~っ!ほんまですか!?」
「ほんまやで~」
得意げに頷く松野に、吟は興奮して鼻息を荒げる。
「春寝てるみたいやし、洗い物終わったら早速やってみよか」
「へい!」
吟は大きく頷くと、残りの焦げを落とすべく、ニッコニコで鉄板を擦り始めた。嬉しそうな姿を見て、松野も嬉しそうに目尻を下げる。ピカピカのお皿を食器棚に戻し、冷蔵庫から必要な材料を取り出していく。吟が料理をしやすいように。そして、別れてからも一人でカレーが作れるように。自分ができる事はしてあげよう――と、松野は思った。
19時過ぎ。5時間以上に渡る4組合同会議を終え、浜ヶ崎と龍二は海のように深い息を吐いた。小さなローテーブルに置いてリモート会議をしていたので、下を向き過ぎて首が痛い。浜ヶ崎はゆっくりと上を向いてみる。
「う゛あ゛ぁぁぁぁ…」
ビリビリと痺れるような痛みが首に走り、潰れた声が喉から出る。ギュッと目を瞑り痛みに耐える浜ヶ崎の横で、龍二は親指で眉頭のツボを押していく。
「…話が纏まって良かったですね」
「いやも~、あんなん最初の方に纏まってたやろ…。なのに、ちんたらちんたら話伸ばしたり、どーでもいい事ツッコんだりしやがって…クソ爺共め…」
昔の功績だけで今の地位に居座っている、頭の働かなくなった三人の爺さん達。お飾りで座っているだけなのに、自分は今も慕われていると勘違いしているからタチが悪い。しかも的外れな事ばっかり言ってくるので腹が立ち、何度もテーブルをひっくり返しそうになった。
「あー…腹減ったなぁ…」
脱力しきった浜ヶ崎のお腹から、「ぐるるる~…」と音が鳴る。
――もんじゃ焼きって、美味いけどあんまり腹に溜まらないんやな…。
溜め息を吐きながら首を傾けると、ビキッ!と鋭い痛みが走る。
「う゛っ!」
あ、やばい。攣ったかも。
浜ヶ崎は「イテテ…」と顔を歪める。
悲しいかな。嘗ては“日本三大狂犬の一人”と言われ恐れられた自分が、首を傾けただけで痛みに悶絶するなんて。
――さっきの爺さんたちの事、酷く言うてる場合じゃないかもな…。
あの場所に行くのも、時間の問題かもしれない。「ぐ、うぬ……」と苦しそうに呟きながら、優しく首筋を擦る。すると、同じようにゲッソリとした龍二がクンクンと鼻を動かした。
「…なんか、カレーの匂いしますね」
食欲をそそる香辛料の香りが、微かに鼻腔を擽る。
「ほんまや!松野が作ったんかな?」
「ありがたいですね」
匂いに誘われるように立ち上がった二人は、スマートフォンをスラックスのポケットに入れると、フラフラと廊下を進んでいく。リビングに近付けば近づく程、濃くなっていくカレーの匂い。
ああ、早く食べたい…と、生唾を呑みこむ二人。その飢えた目が、自然とキッチンへ向く。
「ええ匂いがするの~」
「あっ、お疲れ様です!」
コンロの前にでお玉を持つ吟が、満面の笑みで大きな鍋をかき混ぜている。
「カレー久しぶりやな~。松野が作ってくれたんか?」
止まらない腹の虫を手で押さえながら、浜ヶ崎は吟の隣に並ぶ。ホカホカの湯気が漂うカレーの中には、一口サイズの鶏肉と少し小さめの野菜がふんだんに入っている。「うまそうやなー」と呟いた浜ヶ崎の言葉に、吟はパアッと目を輝かせた。
「あっ、あの!これ、作ったの俺なんっす!!」
「えっ!?」
「なっ、ほんまか!?」
ギョッと目を見開く二人に、吟は「へい!」と得意げに頷く。龍二はポカンと口を開けたままズンズンと歩き、浜ヶ崎と吟の隙間から顔を出して、鍋の中を覗き込む。
「…お前、カレー作って鍋ダメにしたくせに…ちゃんとカレーになっとるやん…」
驚愕。
そんな表現がぴったりと似合うような龍二を見て、吟はとっても嬉しくなる。
「へい!松野さんに教えてもらったんです!」
吟は人差し指を立てると、松野から聞いたコツを話し始めた。「野菜は先にレンジでチンしておくと良い」「肉は最初からしっかり焼こうとしなくても、煮てる間に火が通るから大丈夫」「沸騰したら、火力は落とした方が良い。その方が焦げつかない」――等、嬉々として話す吟に、浜ヶ崎は感心したように頷く。その一方で、龍二はとても困惑していた。
松野が教えたポイントは、料理をする人からすればごく普通の知識であり、わざわざ口にするような事ではないと思っていたからだ。
――そうか…吟は今まで料理してこなかったんやから、知らんのは当たり前か…。
吟に作り方を教えた事はあるが「それは細かく!」とか「火落とせ!」とか「20分煮こめ」とか、端的にしか教えなかった。
本当は、もっともっと嚙み砕いて説明するべきだったのだ。
「兄貴!これで俺もカレー作れるようになりやしたよ!」
「……おお」
「しかも!ルーを変えれば、ハヤシライスもシチューもビーフシチューも作れるって松野さんが言ってたんっすよ!凄くないっすか!?」
「……そうやな」
希望に満ちた表情ではしゃぐ吟から、龍二はそっと目を逸らす。
そう言えば、まだパソコンの使い方が分からなかった自分に、光輝はコマンドキーの意味から丁寧に教えてくれたっけ。
――コイツが料理が下手なままだったのは、俺の教え方が下手だったせいもあるんやな…。
吟は阿呆だし理解力が乏しいので、話しているとイライラするが…だからと言って適当に接せず、光輝や松野のようにちゃんと向き合わないといけなかったんだな…と、龍二は反省する。
「そういや松野は?」
「坊ちゃんとお風呂入ってやす!そろそろ上がってくると思うんっすけど…」
「風呂?お前、今日は一緒に入らんかったんか」
「へい!初めて上手にカレーができたので、その…嬉しくて、ずっと見てたくなっちゃったというか…」
「ほ~」
デヘヘ…と照れて笑う吟に、浜ヶ崎は半笑いで「阿呆みたいな理由やな」と心の中でツッコむ。と同時に、パタパタとスリッパが床を叩く音が聞こえてきた。
「お風呂上がったで~」
上下グレーのスウェットを着た松野が、頬っぺが真っ赤になった春を抱っこしてやってくる。さっぱりしてご機嫌な春は、お目目を瞬かせながら口をもぐもぐさせている。その仕草に気付いた吟は、テーブルに置いていたマグをすかさず取りにいく。
「坊ちゃん、お茶ですよ~」
花束を差し出す様に、下からそっと渡す。只でさえ細い糸目が消えそうな程、穏やかな笑みで春を見つめる。すると、春は小さな両手を躊躇いなくマグに伸ばしただけでなく、ニコッと吟に笑いかけた。
「!!坊ちゃん~!」
パッと開いた糸目が、喜びでうるうると輝き始める。
――やった…!絶対、坊ちゃんと距離が縮まってる…!
「ぃよっしゃ~!」
「あっはっは。良かったな、吟」
ガッツポーズをして悶絶する吟に、松野は思わず笑い声を上げる。
浜ヶ崎と龍二にも同意を求めようとした松野は、二人の姿を見た瞬間、「うわっ」と体を仰け反らせた。
「…なんや、二人ともえらい老け込んだな…」
「あ~、もうめっちゃ疲れたし腹減ったわ」
「…確かにずっと部屋に籠ってたもんな。よっしゃ、急いでご飯にしようか」
松野は一人頷くと、チューチューとストローを吸う春をゆっくりとバウンサーの上に下ろす。落ちないようにベルトを留めて、春が好きな動画をテレビで流すと、足早にキッチンへ向かった。
「手伝います」
「ありがとう。助かるわ~」
テーブル布巾を持った龍二にお礼を言って、キッチンの引き出しからスプーンや箸を取り出す。ピカピカになったテーブルにカトラリーや小皿を並べながら、松野はソファに座る浜ヶ崎に顔を向けた。
「あっ、そや!知っとる?今日のカレー吟が作ったんやで!」
「おお。聞いた聞いた。松野が教えてくれたんやって?」
「教えたって言っても、大したことしてないで。俺は口で言うただけで、切ったのも煮たのも全部吟だもん。なぁ?」
松野は首を伸ばし、食器棚から大きなお皿を出す吟に問いかける。すると、吟は恥ずかしそうに頭を掻きながら
「へへっ…まぁ、一応…」
と笑った。
浜ヶ崎は陽気に足をばたつかせる春の頭を撫でつつ、ニヤッと口角を上げる。
「さっき雪に言うといたで。吟がカレー作ったって。そしたら『食べに行く』って言うとったわ」
「えっ!」
「じゃあ雪の分も準備しないとやな~」
「ちょっ、あっ、えぇ…。お嬢、味に厳しいから緊張しますわ…」
ウッキウキだった吟の顔が段々強張っていく。
夏子が料理上手であり、且つ、幼少期から一流のお店でしか外食していない雪は、とても舌が肥えている。口に合わないと瞬く間に無表情になるのだが、その黙って食べる姿は「マズイ!」と怒りながら食べる兄貴達よりも怖い時がある。
ふぅ~…と緊張の息を吐きながら、5枚の大きなお皿をキッチンの天板に乗せる。その瞬間、ピンポーンとチャイムが鳴り、吟はビクッと跳ね上がった。
駆け足で玄関に向かい、鍵を開ける松野。すると、ニヤニヤと楽しそうに笑う雪が、「おじゃましま~す」と言って入ってきた。父親の連絡を受けて飛び出して来たらしい。だぼだぼの黒いTシャツと黒いハーフパンツのポケットにスマートフォンと鍵だけを突っ込んだ状態で、吟の元までスキップで向かう。
「ね~凄いじゃん!吟がカレー作ったの?鍋焦げなかった?」
「多分、大丈夫、です…」
肘でツンツンと脇腹をつついてくる雪に、吟はぎこちなく笑って返す。
「雪すまん、冷蔵庫にサラダ入ってるから出してくれるか?」
松野は炊飯器を吟が並べたお皿の横に移動させ、蓋を開ける。雪は「は~い」と答えると、冷蔵庫から沢山のレタスと輪切りのキュウリ、ミニトマトが乗ったサラダを取り出した。鼻歌を歌いながらリビングへ運ぶ雪とげっそりする吟を交互に見て、松野はお皿にお米を盛り始める。
「そんなに緊張せんでも大丈夫やって。一緒に味見したやろ?」
「へい…」
「ほら、折角吟が作ったんやから、吟がカレーよそい」
「これ、浜ヶ崎の分」と言い、松野がお皿を差し出す。お皿には右側にだけこんもりとお米が盛られている。吟はキュッと口端を結んで受け取ると、お玉を握り、慎重にカレーを注いだ。
――…皆、美味いって言ってくれるかな…。言ってくれると良いなぁ~…。
人数分のカレーをよそいながら、吟はドキドキと胸を高鳴らせる。丁寧に、大切に5つのカレーを盛り付けて、緊張の面持ちでテーブルに運ぶ。その間に、松野はテキパキと春のミルクを作る。
「テレビ消すか」
食事の準備が整ってきたのを見て、浜ヶ崎はリモコンのボタンを押す。
「あう!」
「春、飯や飯」
真っ暗になった画面を見て怒る春を、浜ヶ崎はバウンサーごと移動させる。春は無理矢理父親の隣に置かれて不満そうだったが、松野がミルクを持ってきた途端、興奮気味に「ちょうだい」と手をにぎにぎし始めた。必死な春に微笑んで、松野が哺乳瓶を手渡す。春は「あ!あ!」と言いながら受け取ると、バクッと哺乳瓶を咥えて飲み始めた。
「ほな、食べようか」
浜ヶ崎が声をかけ、それぞれが適当な場所に座っていく。
「いただきます」
手を合わせ、目を瞑る浜ヶ崎。それに続いて、他の四人も目を瞑り「いただきます」と言って頭を下げる。カチャカチャとスプーンを持つ音が聞こえる中、吟はソッと目を開ける。
「……」
どうしても皆の反応が気になってしまい、手を合わせたまま皆の様子をキョロキョロと窺う。
細い糸目が、一番先にスプーンを口に運んでいく浜ヶ崎をジッと見つめる。
どうかな。大丈夫かな――と、バクッバクッと騒ぐ鼓動の音がピークに達した時、浜ヶ崎は
「ん!うまい!!」
と言って、満足そうに頷いた。
「!!」
「あ~!普通に美味しいじゃん」
「うん!美味いで、吟!」
もぐもぐと口を動かす雪や松野も、親指を立ててにこやかに笑う。
――お、俺の料理が、美味しいって言ってもらえた…!
まさか、こんな日が来るなんて。胸いっぱいに広がる感動で、吟の涙腺が爆発しそうになる。しかし、「あっ!」と目を見開くと、黙ってカレーを食べている龍二に顔を向けた。
「兄貴!」
「…」
「どうっすか?カレー…。う、上手くできてますか!?」
受験合格を祈る生徒のように、手を組んで固唾を呑む吟。その視線の圧に龍二は一瞬顔を顰めるが、口の中のカレーを飲み込むと、観念したように頷いた。
「…ああ。美味い」
「!!ぃやった――――――!!」
「うるさいのぉ、お前は…」
両手の拳を思いっきり天に突き上げる吟に、浜ヶ崎は溜め息交じりに悪態を吐く。
そんな呆れ顔の浜ヶ崎を見て、松野は笑いながら吟に声をかける。
「吟も温かいうちに食べた方がええで」
「へい!……う、うめ~~~~!!」
「だからうるさいっちゅーの!!」
目玉が飛び出るくらいのオーバーリアクションで騒ぐ吟の頭を、浜ヶ崎はペシッ!と叩く。だが、感動の余韻に浸る吟には全く効かないようで、「うめぇ!食える!俺が作ったカレーなのに!」と言いながらバクバクとカレーをかきこんでいく。そしてあっという間に平らげると、ティッシュで口の周りを拭き、松野の顔を真っすぐ見つめた。
「松野さん!」
「ん?」
「松野さんが教えてくれなかったら、きっと俺、焼きそばしか作れないままでした!ありがとうございやした!」
ガバッと頭を下げて、ガバッと顔を上げる。弧を描く吟の目はうっすらと濡れており、松野は嬉しいような、恥ずかしいような、擽ったい気持ちになる。
「そんな、俺は別に大したこと…」
と、言いかけて、ぼやっと視界が滲み始める。勝手に溢れようとする涙に戸惑いながら、松野はすかさずカレーを口に含んだ。どんどんカレーを食べながら、誤魔化すように「上手くできて良かったな」と言う。
「へい!…あ、坊ちゃんもご飯終わったみたいですわ」
哺乳瓶を上に掲げて、「もうないよ」とアピールする春。
吟の意識が自分から逸れたことに、松野は心底ホッとした。もしあのまま感謝の言葉を続けられていたら、自分もよく分からないまま涙が零れていただろう。
立ち上がった吟を視界の端で捉えつつ、何てことないようにサラダを小皿に盛る。松野がバリッバリッと新鮮な野菜を噛む中、吟は優しい声で
「坊ちゃん、ゲップしましょうね~」
と、春に語りかけ、ゆっくりと抱き上げる。たどたどしい動きで春の顎を自分の肩に乗せ、ポンポンと軽く背中を叩く。暫く叩き続けていると、耳元でゲフッと音がした。「一仕事終えた…」と満足そうな春の顔を、浜ヶ崎はサラダを頬張りながら見上げる。
「…ウトウトしてるから、そろそろ寝るかもしれんな」
「!じゃあ、俺このまま抱っこしときます」
吟は小声でそう言うと、静かにリビングを離れた。薄暗い廊下の端から端を行ったり来たりしながら、自分に凭れ掛かる小さな背中を優しく撫でる。
春はほっといても寝るので、あのままバウンサーに戻しても良かったのだが。
――親父に抱っこされてウトウトしてる坊ちゃん、超気持ち良さそうにしてるからな~。
多分、春は抱っこされて眠るのが好きなのだ。
大阪に戻れば、浜ヶ崎は昼夜問わず忙しい日々をおくる事になる。だから、自分が春を寝かしつけできるようになって、あっちに行っても春が寂しい思いをしないようにしてあげたい。
「ぅ~~…」
「寝ましょうね~」
額に汗をかきながら、春の背中をトントンする吟。その真剣な姿を見て、雪が感慨深そうに頷いた。
「すごいね~吟。あんな事もできるようになったんだ…」
以前は近寄るだけでも暴れられていたのに。春を抱えるひょろっとした背中が、とても頼もしく見える。
「ありがとね、松野さん」
「…えっ?」
急に名前を呼ばれ、松野は傾けていたコップを戻す。「俺?」とキョトンとした顔で雪を見ると、凛々しい目元が柔らかく細まる。
「うん。吟が春と仲良くなれたのは、松野さんのおかげでしょ」
「…そう、かな…」
「そうだよ」
うんうんと何度も頷く雪を見て、またもやうっすらと涙が浮かび上がる。松野は慌ててコップを口に付けると、麦茶をゴクッゴクッと喉に流し込んでいく。
「…おい、そんなに一気に飲むと咽るで」
「グッ!ゴホッ!」
「わっ!大丈夫?」
「ほらな~」
「松野さん、大丈夫ですか!?」
口に手を当て咳き込む松野に、龍二がティッシュを数枚取る。差し出されたティッシュをペコペコと頭を下げて受け取りながら、松野は「は~~…」と息を吐いた。結局零れてしまった涙を拭きつつ、雪からもらった言葉を噛み締める。
「松野さんのおかげ」――吟もそう言ってくれていたが…もし、本当に自分が吟の役に立てたなら…そうだったら、嬉しいな――と、とても思う。
「坊ちゃん、すぐに寝やしたよ~」
肩に凭れたままぐっすり眠る春を、揺らさないようにそーっと歩いて連れてくる。額に浮かんだ汗の粒が、達成感に満ちた吟の頬をキラリと流れ落ちた。
「おっ!お前~!やるやん!」
「すごーい!」
「良かったなぁ」
浜ヶ崎と雪、松野が手を叩いて口々に褒める。すると、龍二が床に手を付き立ち上がった。
「…部屋からベビーベッド持ってくるわ」
聞こえるか聞こえないかくらいの声でボソッと言うと、自分が食べた食器を下げ、ゲストルームに向かっていく。
「…あいつ…」
浜ヶ崎は目を丸くして、龍二のガタイの良い背中を見つめる。
龍二が自分から吟の手伝いを買って出るなんて、初めての事だ。
彼が変わったのも、きっと――。
浜ヶ崎はニヤッと笑って松野を見る。
「?な、なんや…?」
「べっつにー」
クククッと喉の奥を震わせる浜ヶ崎に怯えつつ、松野はクエスチョンマークを頭に浮かべる。
5人の間には、もう昨日のようなギクシャクした雰囲気は残っていない。
また家族のような――いや、家族とも違う、深くて温かい絆を感じる空気が溢れていた。
「明日何時にここ出るんだっけ?」
父娘で仲良くソファの真ん中に座りながら。意味もなくゴリラのぬいぐるみを鷲掴みして眺めている父に、雪が問いかける。
「ん?何時やっけ…。吟!…は、風呂か。龍二!」
「はい」
キッチンで松野と食器洗いをしている龍二に、浜ヶ崎は首を伸ばして呼びかける。
「高田んとこの奴が来るの、何時やったっけ?」
「10時です」
「やって」
「10時か…明日土曜日だし、見送りしよっかな」
スマートフォンを弄りながら、もぞもぞと体育座りをする雪。当然のように言われた言葉に、ぬいぐるみをポンポンと上に投げていた手が止まった。
「おー…まぁ、休みなんやから、無理せんでええで」
「ゆっくりしてればええやん」と言いながらも、口元は僅かに緩んでいる。娘が見送ってくれると思わなかったらしい。嬉しさを隠すように再びぬいぐるみを投げていると、食器を拭き終えた松野が、「よっこいしょ」とソファの端――浜ヶ崎の隣に座った。
「明日、俺も見送るわ」
「…はっ!?」
平然と言う松野に、浜ヶ崎の声が思わず裏返る。浜ヶ崎は前のめりになって、松野の顔を覗き込む。
「いやいやいや…ええって。明日、地下の駐車場じゃなくてマンションの前に迎えに来てもらう予定やねん。そこでパッと乗り込む予定やし、それに…」
どこに記者がいるか分からないのに。一緒に外に出たら、また写真を撮られてしまうのでは――そう案ずる浜ヶ崎に松野はヘラッと笑う。
「全然ええよ。最後はやっぱ…ほら、ちゃんと挨拶したいやん」
「えぇ…」
浜ヶ崎は腕を組むと、ニコニコしている松野から視線を逸らした。
自分たちが悪く言われる事には慣れているので、新たな記事が出たところでなんとも思わないが。松野はそれで、良いのだろうか。明日は休日で、人通りも増えるのに。
――記事が出た時、あんなに落ち込んでたやんか…。
こちらの話が耳に届いていないくらい、呆然としていたくせに。また同じことが繰り返されても大丈夫なのか?…と、考え込む浜ヶ崎を見て、松野は右手を振った。
「あっ、やめた方がええならやめるけど」
「!違う、俺は……」
「?」
「…いや、まぁ…うん。別に、お前がええならええわ…」
「おお。じゃ、俺も見送りするわ」
まるで、「明日遊ぼう」と子供が言うような軽さで松野は言うけれど。
もどかしい気持ちが広がるように、丸い鼻の穴がプクッと膨らむ。
――あ~~…こいつが何考えてんのか、よう分からん…。
目を細めて一人で悶々としていると、雪がスマートフォンをポケットにしまい、ソファから立ち上がった。
「…もう21時半だし、あたし帰るね」
「おお。はよ寝ろよ」
「はいはい。松野さんも龍二もおやすみ」
肩を竦めながら雪が二人に声をかける。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
優しく微笑む二人に雪も微笑むと、「じゃ」と言って玄関に向かっていった。浜ヶ崎はのっそりと立ち上がり、その後ろを追いかける。そして、
「おやすみ」
と、綺麗な笑顔で言う娘を見て、少し切ない気持ちになった。
明日になったら、雪とも暫しのお別れになる。
――ま、週末はしょっちゅう大阪に戻ってくるけどな。
子供の成長は喜ばしい事だ――なんて言ったら、夏子に「みっちゃんは殆ど子育て手伝ってくれなかったでしょ!」と怒られそうだが。
雪が去った玄関の扉の鍵を閉め、「フフッ」と人知れず笑う。頭の中で夏子の小言をBGMにしながら、浜ヶ崎はリビングに戻った。
「松野、俺らも風呂入ったら寝るわ」
ソファでボケーっとしている松野に、いつも通りの声をかけて。
「おお。…俺もそろそろ寝るかな」
チラリと時計を見た松野が、欠伸をしながら立ち上がる。そこにお風呂から上がった吟もやってきて。
「先に寝るな。おやすみ」
と松野が三人に言うと、皆が「おやすみ」と口にした。
特別な何かが起こる訳でもなく、こうして最後の夜は終わっていった。
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