第16話 渦巻く夜と朝

 

「えっと…」


 ソファーに座った松野は、戸惑いながら目の前をキョロキョロと見渡した。

 おどおどとする松野の前。テーブルを退かしたスペースに、龍二、雪、浜ヶ崎、吟が神妙な顔で並んで正座をしていた。


 ――「ソファに座ってくれ」って言われたけど…何や、この状況…。


 四人の雰囲気から察するに、何か良からぬ事が起きたんだろうけれど。ああ、怖い。何を言われるんだろう…と、ドギマギする松野を、浜ヶ崎は眉を寄せて見つめる。そして「雪」と呼ぶと、顎をクイッと前後に動かした。静かに頷いた雪は、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。


「……松野さん、これ…知ってる?」

「?」

「昨日の夜、出たみたいなんだけど…」


 そう、躊躇いがちに差し出された画面を、松野は不思議そうに覗きこんだ。

 表示されているのはネットニュースのようだ。でかでかと書かれた記事のタイトルを、目を凝らして見る。その瞬間、松野は「えっ」と声を上げた。


「…“あのお騒がせ社長に、黒い交際発覚”…?」


 文字をなぞる様に読みながら、松野の目がみるみる見開いていく。雪からスマートフォンを受け取り、画面をスクロールしていく。すると、住人によるエントランスでの雪の激怒事件の証言、公園を楽しむ三人の写真、春を抱っこしてクレーンゲームをする松野の写真とその様子が事細かに書かれていた。しかも、“クビにされた本当の理由は会社に反社との繋がりがバレたからでは…!?”なんて憶測で締めくくられている。


「……なんや、これ…」


 ポカンと開いた口から、力のない声が零れ落ちる。

 いつの間に撮られていたのだろう。全く気付かなかった。


「ごめんなさい!」


 呆然とする松野に、雪が床に手を付いて頭を下げる。


「あたしっ…本当は親父に言われてたのに…!松野さんを巻き込むことになるから、仲良くなるなって言われてたのにっ…、あたしが外になんか誘ったせいで、こんな記事が出ちゃって…本当にごめんなさい!」


 床に額を付けて、泣きそうな声で謝る。その隣で、浜ヶ崎も床に手を付き、松野を見上げた。


「…俺のせいや。一般人と関わったらあかんって分かっていながら、自分が楽したくて、お前にベビーシッターを任せたせいで、こんな事になってしまった…。本当に…申し訳ない」


 浜ヶ崎は揺れる松野の瞳を真っすぐ見つめると、深々と頭を下げた。それに続いて、龍二と吟も頭を下げる。


「……」


 床についた4つの頭を見ながら、松野は肩で息を吸う。


 ――やっと、平穏な生活に戻れたと思ったのに…。


 「そうや、お前らのせいや」「お前らが俺に関わってこんかったら、今頃世間は俺の事を忘れていてくれたはずや!」「ただでさえ馬鹿なイメージが付いてるのに、黒いイメージまで付くなんて…どうしてくれんねん」「何でまた、こんな目に…」


 そんな感情が、胸の片隅でじわりと広がる。

 でも、そんな苦しみよりも、目の前の四人が辛そうな表情で頭を下げている事の方が辛い。


 松野は静かに深呼吸をする。


 確かに浜ヶ崎が言う通り、こうなったきっかけは浜ヶ崎にあるかもしれない。だけど、ベビーシッターをやると決めたのは自分だ。雪と春と公園に行くと決めたのも自分。春と散歩をしようと決めたのも、自分。

 自分が決めた事を、もう後悔しない。したくない。人の意見に頼ってばっかりで、“自分”の意思を持っていない人生は、もう送りたくない。


「……大丈夫やで」


 あ、頼りない声になってしまった…と思いながら、松野は言葉を続ける。


「もし、浜ヶ崎達に会ってなかったら…俺、まだ家から一歩も出られなかったかもしれないし」

「……」

「そりゃ、な。また世間に勝手な事言われるんかい!とは、思うけど…うん。皆に出会って良かった事の方が多いから…うん。大丈夫やで」

「……松野」


 腕を組みながら、うんうんと頷く松野。その空元気にも見える姿を、四人は何とも言えぬ表情で見つめる。流れる重苦しい空気に耐えきれず、松野は身振り手振りで話し出す。


「それに、ほら!浜ヶ崎に言うたやん!俺、実家とか田舎~…に?引っ越そうかなって思ってるって!」

「…おう」

「だから、上手い事こっそり引っ越せば、記者も追っては…」

「えっ、松野さん、引っ越しするんっすか!?」


 目を丸くした吟が、松野の話を遮る。


「え?お、おぉ…」


 何故かとても驚いている吟に、松野は戸惑いながらも頷く。すると、吟はパアァッと顔を輝かせ、四つん這いで松野に歩み寄った。


「じゃあ、うちの組に来れば良いじゃないっすか!」


 膝に置かれた松野の手を、吟がギュッと掴んで揺する。


「……えっ?」

「だって、行き先が決まってる訳じゃないんですよね?」

「そ、そうやけど…」

「坊ちゃんの事も好きですよね?ってか、大好きですよね!?」


 ガシガシと松野の手を揺らしながら、吟は嬉しそうに松野を見上げる。


「そう…やな…」


 否定はできない。だって、春はとても可愛い。懐いてくれるのも、成長を間近で目にできるのも、嬉しくって堪らない。

 松野はふと視線を左に向ける。すると、吟の言葉にハッとした雪と龍二が、期待の孕んだ瞳で自分を見ている事に気が付いた。二人とも固唾を飲んで松野の返事を待っている。

 きっと、浜ヶ崎組に来てほしいんだろう。

 でも、それは自分に光輝さんを重ねているからで――。


「何言っとるんじゃお前ぇ!」

「いてぇっ!」


 浜ヶ崎はスパァン!と吟の頭を勢い良く叩く。


「松野は俺らと関わったからこんな事になっとるんやぞ!?これ以上事を大きくしてどないすんねん!!」

「いてぇっ!へ、へい…すいやせん…!」


 スパァン!と再び頭を叩かれ、吟は痛みで涙目になりながら後ろに下がる。


「松野」


 視線を彷徨わせて狼狽える松野に、浜ヶ崎は声をかける。


「吟が言った事は気にすんな。お前は争いごとのない、平和な場所で暮らしてくれ」


 「な」と念を押す瞳は真っすぐで。松野はギュッ…と苦しくなる胸に手を添えると、小さく頷いた。視界の端で、雪と龍二が静かに息を吐いて落胆する。その反応が、嬉しいけど嬉しくない。

 松野は胸元を擦りながら、雪の言葉を思い出す。

 このニュースは「昨日の夜に出た」と言っていた。

 という事は、夜中に佐々木が電話をかけてきたのは、この件について聞く為だったのだろう。


 ――辞めた後も迷惑かけて…めっちゃ怒ってるやろうなぁ…。


 何が“困った時だけ連絡するのは都合が良すぎる”だ。会社の一大事の原因を作っているのは自分なのに。傲慢すぎて、恥ずかしい。


「松野…引っ越す時は俺に言ってくれ」

「え?」

「引っ越し業者に頼むと、どこに引っ越したか漏れる可能性があるからな。俺らは人に見つからんよう移動するのが、得意やから。誰にも何にも邪魔されずに引っ越したかったら、言うてくれ」

「…おぉ。分かった」


 所謂夜逃げが得意だと浜ヶ崎は暗に伝えているが、感情と頭がぐちゃぐちゃすぎて、何の疑問も浮かばない。

 目線を落とし、ただ頷くだけの松野を、浜ヶ崎は目を細めて見つめる。そして膝を叩いて立ち上がると、壁掛け時計に視線を向けた。


「あかん…もう18時になる。春の風呂入れるで」

「あ…俺、風呂沸かしてきます…」

「おう。龍二は?今から冷蔵庫ん中にあるもんで飯作れそうか?…というか、作ってくれ。どこで誰が見張ってるか分からんから、材料買いに行けんし」

「…はい」

「雪も風呂入ってこい。19時には飯にするからな」

「うん…」


 気落ちしている三人に、浜ヶ崎は指示を出していく。「さっさと動け!」と言いたいところだが、自分が起こした問題だという事、そして三人の気持ちを慮ると、今回ばかりは強く言えない。


「ほらほら、ボケーっとしてたら、あっちゅーまに時間が過ぎるで~!」


 パンパン!と手を叩き、のっそりと立ち上がる三人の背を押す。重たい背中を押しながら、浜ヶ崎は首を伸ばしてソファの後ろを覗いた。そこには、昨日のように隠れてぬいぐるみと会話をしている春がいる。

 今は楽しく過ごしているが、大阪に戻ったらこんなにのんびりとは暮らせない。

 最近、他の組が何か良からぬことを企んでいるという話をよく聞くからだ。

 とりあえず、大阪に戻ったら早急に春に護衛をつけないといけない。ああ、でもその前に、まずは今日一日をスムーズに終えないと――。


 ――はぁ~…考える事いっぱいや…。


 浜ヶ崎は目頭を揉むと、人知れず大きな溜め息を吐いた。



 その日の夕食は、お通夜のような雰囲気だった。

 ただただ黙って食事をし、それぞれがやるべき事だけをして、就寝する。

 他愛もない会話や笑顔のない、ギクシャクとした時間は朝を迎えても続く。

 雪は朝ご飯の時間になっても来なかったが、誰も指摘しなかった。浜ヶ崎と龍二は外で記者が張り込んでいる事を危惧して、外出の予定をキャンセルした。今は二人でゲストルームに籠り、リモート会議をしている。


「あ~…外行かないってなると暇っすわ~」


 ソファに大股で座る吟が、怠そうに口を動かす。ボケーっと前に向けられた糸目は、大好きなぬいぐるみと一緒にテレビを見る春の後ろ姿を、ただ意味もなく見つめている。その隣で足を組む松野も、特にやる事がなく。ボケーっとテレビを見ながら、ふと頭に浮かんだ疑問を口にする。


「…龍二は仕事のサポート役?なんよな?吟って二人が仕事の話してる間、いつも何やってるん?」

「あ~…俺は護衛なんで、ずっと二人の後ろで立ってます」

「…そんなに危ない相手と仕事してるんか?」

「うーん…大きく括ると相手も同じ組の仲間なんですけどね。笑顔の裏で何考えてるか分かんない奴ばっかなんで」

「こわっ…油断できん世界やな」

「ははっ。傍から見たらそうっすよね~」


 頭の後ろで手を組んで、吟がヘラヘラと笑う。しかし、徐に前屈みになると、沈んだ顔でポツリと呟く。


「は~…。明日は大阪に戻るのか~…」


 テレビで陽気に踊っているキャラクター達とは対照的な、落ち込んだ声。「はぁ~~…」と力なく吐かれる息に耳を傾けながら、松野は深い皺が刻まれた首を撫でる。


「……」


 吟が言う通り、明日になったら皆とはさようならだ。


 ――それなのに、こんな雰囲気のまま別れてもええんか…?


 そんな考えが、松野の胸をチクッと刺激する。折角仲良くなれたのに、松野の記事が出たせいで、皆必要以上に松野と距離を縮めないようにしている。線引きは確かに必要だ。でも、どうせ明日別れるのに、あと一日だけ線を引いたって意味はないんじゃないだろうか。

 それに、余所余所しい雰囲気が漂いすぎて、自分の家とは思えない程居心地が悪い。


 ――…とは言え、浜ヶ崎から「気を遣わんでええやん」とも言えないだろうし。


 松野は暫し思案すると、パン!と勢い良く両膝を叩いた。

 「……よしっ!」と言って立ち上がる松野を、吟がキョトンとした顔で見上げる。


「吟!」

「へい」


 ふん!と鼻息を出す松野は何故か気合い満々だ。


「今やってる会議って、何時に終わるんや?」

「えっと…昼前に終わるって言ってたんで、あと40分くらいですかね?」


 チラリと壁掛け時計に視線を向けて、吟が首を傾げる。すると、松野は


「40分か。…吟、手伝ってほしい事があるんやけど…一緒にやってくれへん?」


 と、目を瞬かせる吟に笑いかけた。




「…なんじゃこれ」


 長い会議を終えて部屋から出てきた浜ヶ崎は、テーブルの上でモクモクと煙を上げる鉄板を見て顔を顰めた。


「もんじゃ焼きやで!美味そうやろ!」


 二つの大きなヘラを両手に持った松野が、浜ヶ崎と龍二に笑顔を向ける。

 昔、会社の忘年会のビンゴ大会で当たった大きなホットプレート。一人で使う気にはなれず、パントリーの棚の奥でずっと埃をかぶっていたのだが。長年の時を経て、漸く日の目を見る日が来た。

 とっとくもんやな~…なんて上機嫌になりながら、ヘラを器用に使って鉄板の上で材料を混ぜる。シャキシャキしていたキャベツや天かすが、熱されて、液と混ざって、どんどんドロドロになっていく。


「…こんなんゲロやん…」


 浜ヶ崎は「うげぇ」と喉を鳴らす。

 茶色いドロッとしたその様は、飲み過ぎた時に口から出てくるソレのようだ。


「はっはっはっ。食べた事ないんか?」

「食うわけないやろこんなもん!」

「俺も昔はそう思ってたんやけどな~。食べたら意外と美味いねん!ほら、ええ匂いやろ?」


 そう松野に笑顔で言われ、浜ヶ崎の鼻がピクッと動く。すると、ジュワ~~と水分が弾ける音と共に、焼けた肉の脂や出汁の香りがフワッと鼻腔を通っていく。


「……」

「な?美味しそうやろ?」


 ムッとしつつもゴクリと唾を呑みこむ浜ヶ崎に、松野は「ははは」と笑う。


「ちゃんと一人一本ずつヘラがあるんっすよ~!凄いっすよね!」


 洗った四本の小さいヘラを布巾で拭きながら、吟がキッチンからやってくる。テーブルに並べたお皿の上に、小さいヘラをウキウキで置いていく。お祭りではしゃぐ子供のような吟を見たら拒否できず。浜ヶ崎は喉元まで出かかった「でも…」という言葉を仕方なく呑みこんだ。


「……はぁ、一回くらい食ってみるか…」


 パンチパーマをガシガシと掻きながら、テーブルに着く。その周りに皆が着席していき、春のベビーチェアもテーブルに寄せる。テレビの電源をパッと消すと、春が「やう!」と怒りの声を上げた。


「すまんすまん。でも、春も一回ご飯食べよう。吟、キッチンで冷ましてるやつ持ってきてくれ」

「へい!」

「ばー!ぶー!」

「あ~~!待ってくれ、春!」


 身を捩って椅子から逃げ出そうとする春を、松野は肩を擦って宥める。


「どうぞ!」

「ありがとう!」


 走って持ってきた吟から小皿を受け取ると、松野は春におかゆが見えるように少し傾けた。


「ほら、春!春が大好きなおかゆや!」

「!!あう!」


 白いトロトロのお山を見て、険しかった春の目がハートになる。


「ほ?春のおかゆの量増えとんな」

「そうやで。最初は小匙1やったけど、今は小匙4や」


 「な~」と春に笑いかけながら、小さなお口にスプーンを運ぶ。すると、口に到着する前に、春がガブッとスプーンにパクついた。


「ほ~~、ええ食べっぷりやん」

「おお、順調や。ほら、春は俺に任せて、焦げる前にもんじゃ焼き食うてみ」

「ん?……おぉ…」


 目線で促された浜ヶ崎は、仕方なく鉄板に目を向ける。中々食欲の湧かない見た目だが…せっかく作ってくれたし、食べてみるか――と、浜ヶ崎は腹を括る。


「いただきます」


 目を瞑り、手を合わせる浜ヶ崎に続いて、龍二と吟も「いただきます」と手を合わせる。そして各々が小さいヘラを手に持つ。が――。


「…食べ方がよう分からんのやけど…」


 目の前でジュ~~!と音を立てるもんじゃ焼きを見ながら、浜ヶ崎はボソッと呟く。


「俺!松野さんに教えてもらったんで分かりやす!え~っと、このヘラでこうして…」


 と言うと、吟はグツグツと沸騰するもんじゃの端の部分をヘラで掬って、口に運ぶ。


「!?ぅあっちぃいい!でもうんめぇ!!」


 熱々のまま食べたせいで、舌が一瞬で火傷する。だが、しょっぱさと色んな具から出た旨味が、ガツンと空きっ腹を刺激する。


「ほ~…そのまま食えばええんか」

「おぉ。あと好みでな、掬った部分を少し焼いても美味いんやで」


 春におかゆをあげながら、松野は顔だけを浜ヶ崎に向ける。“少し焼く?”と疑問に思いつつも、浜ヶ崎はとりあえずヘラでもんじゃ焼きを掬ってみる。それを暫し見つめていると、松野が「それをひっくり返して、鉄板に少し押し付けるんや」と教える。


「ほぉ…」


 言われた通りにひっくり返し、鉄板で焼いてみる。数秒して持ち上げると、ドロドロだった部分が少し焦げ、茶色い膜ができていた。


「……」


 本当においしいのか?と訝しみながらも、フーフーと息を吹きかけ、食べてみる。その瞬間、強烈な旨味が口の中に広がり、浜ヶ崎はギョッと目を見開いた。


「……うまい」

「そやろ!?意外と美味いねん!」


 思わず零れ出たような「うまい」に、松野は嬉しそうに目尻の皺を深くする。静かに味わう浜ヶ崎を見て、龍二も一口食べてみる。


「!うまい…」


 正直、龍二ももんじゃ焼きに良いイメージが無かった。まるで、生焼けのお好み焼きのように見えて。でも、食べたら想像と全然違った。当たり前だけど、お好み焼きとは全くの別物。こんなに味が濃いんだ…とか、焦げたところが意外と美味しい…とか、色んな発見で目が丸くなっていく。


「また東京来たら、月島行くのも良いっすね!」

「…まぁ、そやな」


 ハフハフと熱さを逃がしながら、吟が嬉々として言う。それに控えめに頷く松野と、その隣で黙々と食べ進める龍二。


 ――準備大変やったけど、喜んでもらえて良かった~。


 悪くない三人の反応に、松野はホッと安堵する。


「あう~!」


 ニコニコで離乳食を食べる春が、松野の手をギュッと握ってくる。それにニコリと笑い返して、松野は春の頭を撫でた。


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