第15話 松野、散歩する・2
「ギャッハッハッハ!!今日はいちだんと派手にやられたのぉ~!」
お風呂で濡れて萎れたソフトモヒカンを、浜ヶ崎が楽しそうにペンッと叩く。ソファに座り、肩をしょんぼりと落とす吟の頬には、猫の爪で引っかかれたような無数の傷がまたできていた。
「春は容赦ないな~~。さすが俺の息子や!ガッハッハ!」
「……」
手でバシバシと膝を叩いて笑う浜ヶ崎に、吟は返事をする気力もなくソファの隅に移動する。そっと首を伸ばして、ソファの横を覗いてみる。お風呂から上がった春は、再び定位置に戻り、麦茶を飲みながらぬいぐるみとのハッピータイムを楽しんでいた。
――は~~~…今日の朝までは、俺とも一緒に遊んでくれてたのに…。
ここ数日の幸せをしみじみと思い出しながら、歯を食いしばって春の頭を見つめる。
すると、妙な気配を察知した春がバッと顔を上げた。悲哀に満ちた吟に焦点を合わせると、赤子とは思えぬ鋭いメンチを切り「あー!!」と叫ぶ。
「!?」
春の明らかな拒絶を見て、吟の表情は瞬く間に絶望に変わった。
「…うぅっ…」
はっきりとした言葉じゃなくても分かる。
春は「見るんじゃねぇ!」と言っている。
――せ、折角仲良くなってきたのに…っ。
吟の瞳が悲しみで滲んでも、春の視線は「あっち行けよ」と突き放すように冷たい。吟はグッ…と唇を嚙み締めると、震える足でソファの真ん中まで後ずさりをし、膝を立てて座った。
「うっ…うぅっ…」
立てた膝に顔を埋め、グスッ…グスッ…と鼻を鳴らし始める。
「え…何やってんの?吟」
ソファの上でダンゴムシのように縮こまる吟を、自分の家でお風呂を済ませてやってきた雪が不思議そうに見つめる。ラフな黒いTシャツとネイビーのサテン生地の長ズボンを履き、腕を組む雪。その後ろを、脱衣所の片づけを終えた松野が通りかかる。
「松野さん。何で吟泣いてんの?」
「えっ?あ~…吟な、風呂で盛大に春に引っかかれてん…」
「え!また!?ウケる!」
「全然ウケませんよ!」
両手を叩いて爆笑する雪に、吟は顔を上げて反論する。
鼻水を垂らし、ウサギのように真っ赤になった目が痛々しい――と、胸を痛める松野。しかし浜ヶ崎親子は吟の泣き姿がツボなのか、父親はゲラゲラと笑いながら腕を組み、雪は「ヒィヒィ」と声を上げながらお腹を擦っている。
「も~…吟が悪い訳じゃないのに…そんなに笑ったら、可哀想やろ…」
きっと今、吟は天国から地獄に突き落とされた気分に違いないのに。
松野は吟の側に寄り、肩をポンポンと叩く。すると、吟の糸目がぐしゃっと潰れ、涙と鼻水が盛大に溢れ出す。
「松野さ~~~~~~ん」
「ほら吟、鼻垂れとるで」
漫画のようにビッチャビチャに顔を濡らす吟に、松野はテーブルからティッシュを数枚とり、手渡す。その温かい気遣いに、吟はさらに涙を爆発させる。ゴシゴシと腕で涙を拭い、受け取ったティッシュでチーン!と勢い良く鼻をかむ。それを何度か繰り返し、漸く涙が落ち着いてきた時、フライパンをコンロに置いた龍二がキッチンから声をかけた。
「おい、吟。料理できたから運べ」
「うぅ…グスッ…あい!」
大きく頷く吟を見て、松野や雪も一緒にキッチンへ向かう。
三人で食器を運び、出来立ての美味しそうな料理でテーブルを埋めていく。準備が整い席に着いた五人は
「ほな、食べようか」
と切り出した浜ヶ崎と共に手を合わせる。
「いただきます」と頭を下げて、食事が始まる。いつもは食事中にあまり会話をしないが、今日はとても賑やかだった。と言うか、雪がずっとペラペラと喋っていた。昨日、皆とご飯を食べられなかったのが余程寂しかったのだろう。普段なら「静かに食べろ!」と怒る浜ヶ崎も、静かに相槌を打ってあげている。
時折笑いが起きながら、時折吟が頭を叩かれながら。
楽しく食卓を囲む姿は一つの家族のようだった。
その幸せな空気に包まれたまま21時を迎え、各々の寝室に向かっていく。
布団に潜り込んだ松野は目を擦りながらスマートフォンでアラームをセットする。そして枕の横に静かに置くと、そのまま力尽きるように瞼を閉じた。
スゥ…と寝息を立てる松野の眠りは深く。
顔の横でブルブルとスマートフォンが鳴り続けても、目を覚ますことは無かった。
春のお世話をするようになってから、5日目の朝。
今日も今日とて朝早くからスーツに着替えてパソコンを見ていた浜ヶ崎は、リビングにやってきた松野の顔を見るなり、「おはよう」と言いかけた口を噤んだ。
「おはよ~」
「……」
「?おはよう」
ジーパンの後ろポケットにスマートフォンをしまいながら、松野は神妙な面持ちの浜ヶ崎を見つめ返す。
「……」
浜ヶ崎は少し弛んだ顎を擦ると、徐に口を開いた。
「…松野」
「?」
「お前、何かあったな」
「!!」
首を傾け、目を細める。見透かすようなその視線にごつい肩がビクッと震えた。
「何かあった?」ではなく「あったな」という断定的な言い方に、松野はゴクリと喉を鳴らす。
――何でバレたんやろう…。
松野は戸惑う指先で、ソッと後ろのポケットを撫でる。
今朝はスマートフォンのアラームで目を覚ました松野。
寝ぼけ眼でスヌーズを止めた松野だったが、画面を見た瞬間、一気に眠気が吹き飛んだ。
画面に表示されている着信履歴に、佐々木の名前が13回も連なっていたからだ。
プライベート用のスマートフォンに――しかも、頻繁に連絡をしてくるなんて、きっと会社で何かがあったに違いない。
どうしよう。かけ直すべきだろうか…と松野は悩んだが、
――でも、俺もう社長やないし…。
と、頭を振ると、見なかったことにすると決めた。
正直、今も胸がモヤモヤしている。もしかしたら会社の一大事なのかもしれない。でも、自分を切ったのはあっちだし…困った時だけ連絡するのは都合が良すぎる。…いや、プライベート用にかけてきたのだ。もしや、古い友人に何かあったのかもしれない。
グルグルと答えの出ない問答が頭を巡る。
だけど、こんなことをずっと考えていたって仕方ない。
気にするのはやめよう。浜ヶ崎は目ざといから、動揺を悟られないように振る舞わないと――と、気を付けていたつもりだった。
――やっぱり、浜ヶ崎に隠し事は無理か…。
人の観察力がズバ抜けている。誤魔化したって、すぐにバレるだろう。でも――
「…大丈夫や。何もないで」
松野はニカッと笑うと、キッチンへ向かった。
背中に視線を感じながらも、松野は平静を装って冷蔵庫を開ける。
きっと、怪しまれているに違いない。だけど、浜ヶ崎に変な心配をかけさせたくない。それに、これ以上、考えても仕方のない事を気にする自分で居たくない。
『もっと自分中心の考えで生きたほうがええんちゃうん?』
深夜のベランダで浜ヶ崎が言っていた言葉。まだ完全に理解できたわけではないけれど、“周りではなく、自分の気持ちを一番大切にする”という事が、あの言葉に繋がっている気がする。
もう還暦近くのおじさんが、今更何を言っているんだと笑われるかもしれないが。
浜ヶ崎達と出会ってから、少しずつ前向きになっている自分の変化を大切にしていきたいと、松野は思う。
「おはようございま~す。坊ちゃんも起きましたよ~」
「ばぶー」
「おはようございます」
身支度を終えた三人もゲストルームからやってくる。
「おはようさん」
「おはよう」
二人が挨拶をすると、龍二は律儀に頭を下げる。その隣で、吟に抱っこされながら口にツッコんだ拳を噛む春を見て、松野はアイスコーヒーを飲もうとする手を止めた。
「春、お腹空いてそうやな。ミルク作るわ」
「あっ、ありがとうございやす!じゃあ俺はこのパンパンのオムツを交換しやすね」
「おお」
春のお尻を指す吟に頷いて、消毒済みの哺乳瓶と粉ミルク缶を手前に置く。手際よく準備をする松野を、浜ヶ崎はチラリと横目で見る。
「……」
絶対に松野は何かを隠している。その違和感が見ていて気持ち悪いのだが、本人が言いたくないなら仕方ない。
浜ヶ崎は溜め息を吐くと、龍二を手招きして、パソコンを指差した。
「なぁ、お前はこれどう思う?」
「…この情報が確かなら、うちの組も――」
小声でぼそぼそと話し始める二人。顔を寄せあって話している時は、一般人が聞いてはいけない話をしている時。そして、話が長くなる時だ。
――今日は龍二が朝食作るのは無理そうやな…。
そう判断した松野は、人肌に冷めたミルクを吟に預け、簡単な朝食を作り始める。
「坊ちゃんご飯ですよ~」
優しい声で語りかけながら、吟はソファに座って春を横抱きし、ミルクをあげる。凄い勢いで飲んでいく春を見守って、飲み終わったらゲップをさせて、ぬいぐるみを渡して――。
そうこうしているうちにあっという間に時は過ぎ、「おはよ~」と、Tシャツとダメージジーンズをおしゃれに着こなした雪がやってきた。
キッチンに立つ松野と、お皿に乗る綺麗な玉子焼きを見て大喜びする雪に笑いながら、松野は「できたで~」と皆に声をかける。
五人で朝ご飯を食べ、食後の談笑を少しだけして、浜ヶ崎達は仕事と学校に向かう準備をする。
「夕方には帰ってくるわ」
と、手を上げる浜ヶ崎に
「気を付けてな」
と、松野も手を上げる。
皆の背中を見送って、松野は静かに玄関の扉を閉めた。
カチャン…と鍵をかけながら、さて、今日は何をしようかと考える。春はリビングでぬいぐるみとラブラブ中。十分楽しそうだけど、少しは外の空気を吸わせてあげたいし――。腕を組んで、右斜め上を見上げる。そして「あっ」と声を上げると、松野はウォークインクローゼットに向かった。
――そや、コンビニ…コンビニに行ってみよう!
浜ヶ崎達と初めて会った日に、本当は行くはずだった、あのコンビニ。
あの時は外に出るのがとても怖かったけど、一昨日、昨日を乗り越えた今の自分なら、もう一人で買いに行ける。
――あの日のリベンジマッチや!
一度勇気を出して決めてしまえば、気持ちはどんどん高揚していく。
唐揚げ弁当買おうかな。とんかつ弁当も良いな。スパゲッティも良いな――と、色んなお弁当を思い浮かべながら、軽い足取りでウォークインクローゼットの扉を開ける。おなじみのデカめのサングラスにバケットハット、マスクをした松野は、大きな鏡をジッと見る。そして満足気に頷くと、リビングに戻り、マザーズバッグにお出かけ用グッズを詰め込んだ。玄関へ向かい、壁に立てかけていたベビーカーを開き、荷物を椅子の下のネットに乗せる。
「春~、買い物行くで~」
「あう」
ぬいぐるみに夢中な春を、ぬいぐるみごと抱っこする。
そっとベビーカーに乗せてベルトをすると、「どこに行くの?」と言いたそうに春が松野を見ていた。
「ちょっとだけ、散歩付き合ってな~」
松野は微笑みながら小さな頭を指先で撫でる。
春がぬいぐるみを抱っこしているので、正面から見ると、ベビーカーに乗っているのが赤子なのかぬいぐるみなのか分からない状態になってしまう。苦しくないかな?と松野は心配したが、春は大好きなキャラクターとお出かけできるのが嬉しいようで、「きゃ~~!」と終始騒いでいた。
そして、松野はあんなに行き渋っていたのが嘘のように、難なく買い物を済ませる事ができた。
ついでに家の隣の公園で、春とお散歩なんかして。
充実感と達成感で満たされた松野は満面の笑みで帰宅する。
ああ、早く皆に言いたい。
今日も一人で外に行けたと。コンビニに行って、店員さんと会話ができたと。
褒めてくれるかな。…いや、「それがなんやねん」って、また浜ヶ崎に呆れられるかな。
そんな妄想をしながら、松野は春と皆の帰りを待つ。
しかし、夕方になり、雪と共に家に戻ってきた浜ヶ崎達の表情は強張っていて――。
「…松野、話がある」
深刻な浜ヶ崎の声に、松野は緩んでいた口元を固く結んだ。
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