第14話 松野、散歩する・1

 

 降下するマンションのエレベーター。その右上に表示されるフロアの数字を見ながら、松野はソワソワと体を揺する。

 口を開けては「はぁ~~~」と気の抜けた声を出し、また口を開けば「ひぇ~~~~」と、やかんから吹き出る湯気のような声を出す。

 屈強な体付きと大きなサングラスに黒のバケットハットとマスク。そして、体の前に付けられた、違和感満載の抱っこ紐。この姿だけでも十分怪しいのに…奇声を上げる様は、誰がどう見ても不審者だ。しかし、当の本人はそんな事に気付く訳もなく。


 ――…一人で出かけるの、久しぶりやから緊張するなぁ…。


 と、体中に駆け巡るドキドキをこそばゆそうに味わっている。

 まだ外出には少し抵抗がある。だけど、家に籠りっぱなしじゃ自分にも春にも良くない。何より、外に出る勇気をくれた雪の為にも、ちゃんと一人で外に行けるようになりたい。


 エレベーターのスピードが緩やかになり、数字が“1”に変わる。

 静かに開いて行く扉。その隙間から入り込む風に目を細めながら、松野は昂る足取りで一歩を踏み出した。



「……あっつ…」


 目が痛くなりそうな程眩い日差しが、じりじりと肌を焼いていく。春は大丈夫かな…と、クマの帽子の下に隠れた顔を覗きこんでみる。すると、クリクリお目目は興味津々で周りの景色を眺めていた。既におでこにうっすらと汗を掻き始めているのを見ると、あまり長くは外出できなそうだ。

 それに、松野自身、長時間の外出にはまだ不安が残っている。サッと歩いてサッと帰るのが丁度良いかもしれない。


 ――そうや、昨日とは反対の方向に行ってみよう。


 昨日雪と春と行った、マンションの隣の大きな公園。芝生を駆け回る楽しそうな子供達の声に背を向けると、松野は大通りを真っすぐ歩き始めた。


「あっ、春!さっきのヘリコプターあれちゃうん?」

「ばー!」

「でっかいビルばっかりやな~。春」

「ぶ~」

「おっ!ここ、春の姉ちゃんの学校やで~」

「あうー」


 二人は空を見上げながら、時にはベンチに座りながら。ただあてもなく、ひたすら真っすぐ進んでいく――いや、進んでいたつもりだった。


「……あれ、ここどこや?」


 揚げ物の良い匂いがするな~…と、漂う香ばしい匂いに釣られて曲がった細い路地。無事美味しそうなとんかつ屋さんを発見する事は出来たのだが、気付いた時には見た事のない雑居ビルに囲まれていた。


 ――そや…俺、超方向音痴なんやった…。


 会社が軌道に乗ってから数十年。移動は全て運転手が行ってくれていたので、完全に忘れていた。スマートフォンで地図アプリを開きながら歩いても、目的地と反対側に歩いて行く――そんな自分が、何故一人で散歩できると思ってしまったのだろう。


「えっ、ちょっ…どうしよ…」


 家を出てからまだ20分も歩いていない。だから、遠くまでは来ていない。さっきまで居た大通りにさえ戻れれば、ちゃんと家まで帰れるはず。でも、大通りってどっちだろう。


「うわ~~…」


 腰に両手を当てて、ガクッと項垂れる。とりあえず、今の位置を確認しよう…と、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。地図アプリを起動して、自分の位置情報を見てみる。


「?……網目ん中や」


 道路が交差された網目のような場所の真ん中に、赤い丸印が表示されている。どうやら自分はここに居るらしい。

 このままスワイプすれば周辺の地図を確認できることは知っているが、どっちに地図を動かせばいいのか分からないので、マンション名を検索してみる。すると、ギュンッと勢い良く地図が移動し、マンションの場所に赤い丸印が出る。


「えーっと…ほんで、どうするんやったっけ…。あっ!“ルート”か!」


 “ルート”と書かれたボタン。これをタップすれば、ここからマンションまでの道のりが出るはずだ。

 あってるよな?大丈夫だよな?…と、緊張の面持ちで、ボタンをタップする。


「…!!やった!出た!」


 パッと描かれる赤線の誘導ルート。思わず力強いガッツポーズをしながら、松野はホッと胸を撫で下ろした。


 ――良かった~。伊達に何回も迷子になってないからな!


 フン!と何故か満足気に胸を張って、赤い線の道を辿って行く。


「…あっ、こっちちゃうわ」


 自信満々で歩き出したものの、自分の赤い丸印がルートから遠ざかっていることに気付く。恥ずかしそうに小走りで戻った松野は、スマートフォンと周りの景色を照らし合わせながら、慎重に歩き出した。


「ごめんなぁ、春。訳分らんとこ連れて来てもうて」


 大人しく抱っこ紐に収まっている春に、松野は申し訳なさそうに言う。が、反応が返ってこない。


「?」


 松野は帽子で隠れた春の顔を覗き込む。すると、春は松野の胸板にピッタリと頬を付けて、幸せそうに眠っていた。

 お散歩の揺れが気持ち良かったのだろうか。

 天使のような愛らしい寝顔に、松野の目尻が自然と下がる。


 ――はぁ、赤ちゃんって何で無条件に可愛いんやろ…。


 笑みを堪え切れない松野の口が、ニマニマと波を打つ。きっと、今とてもだらしない顔をしているに違いない。


 ――周りから変な人って思われないとええけど。


 マスクで顔が隠れているのは分かっているが、何となく周りを気にしてしまう。人通りも疎らな路地をキョロキョロと見回す。その慌ただしい視線が、ピタリとある物に留まった。


「……!!」


 目を丸くした松野は、周りの事など忘れ、ズンズンとそれに歩み寄る。

 松野が目指すのは、洋服屋や飲食店に囲まれる中、ビルの一階に入っているゲームセンター。そして、道路に面して置かれたクレーンゲーム。

 松野は興奮気味にガラスにへばり付くと、中に入ったぬいぐるみを凝視した。


「これ…さっき春がテレビで見てたやつや…」


 春が食い入るように見ていた、二頭身の猫やパンダ、ぞう等の可愛らしい動物たちが、春と同じ大きさくらいのぬいぐるみとなって、沢山積まれている。


 ――これ取ったら、春喜んでくれるんちゃうか…!?


 そう確信した松野は、お尻のポケットから急いで二つ折りの財布を取り出す。

 ちゃんとお財布を持ってきておいて良かった…と思いつつ、松野はクレーンゲームにお金を投入する。何分、クレーンゲームをするのが久しぶりなので、取れるかどうかは分からないが…せめて一つでも取ってあげたい。


「よっしゃ!春の為に頑張るで~」


 チャリンとお金を投入し、唇を一文字にする。ガラスに鼻を近付けた松野は、気合の入った眼差しでレバーを握りしめた。




「なんやこれ」


 漸く高田から解放されて帰ってこられた、17時58分。

 疲れ切った顔でリビングにやってきた浜ヶ崎は、おしゃれなホテルライクインテリアの真ん中に鎮座する、平和ボケした顔のぬいぐるみと目が合い、怪訝そうに眉を顰めた。


「お帰り~」


 ソファに座り、顔だけをこちらに向ける松野の元へ、浜ヶ崎は首を傾げながら近づいていく。


「なぁ、これどうしたん?こんなん家になかったやん」


 さては、春の為にネットで注文したな?と呆れながら、浜ヶ崎は足元に転がる大きな物体に視線を向ける。浜ヶ崎を見つめ返すのは、頭がやたらとでかい猫のぬいぐるみ――と、その周りに散らばる、犬や豚、パンダ、ゴリラのぬいぐるみたち。


「あぁ。これ、クレーンゲームで取ってきたんや」

「クレーンゲーム?誰が?」

「俺が」

「…は?誰だって?」

「だから、俺や、俺!」


 松野は二ッと歯を出して笑うと、突き立てた親指を自分に向ける。


 そう――帰り道に挑んだ、あのクレーンゲーム。

 1000円以内で一つ取れればいいや…と、期待せずに始めたのだが、なんと一発で猫のぬいぐるみが取れてしまった。


「!!」


 コロンと取り出し口に落ちてきたぬいぐるみを、松野は「マジか!」と興奮しながら取り出す。

 久々のクレーンゲームで一発取り…しかも、手に取ってみると春よりも若干大きい。こんな難しそうなぬいぐるみを、まさか一発で取るなんて。


 ――俺…もしかして、クレーンゲームの天才なのかもしれん…。


 予想外の成功体験は、自分に自信を無くしていた松野の心に、希望の光を灯していく。

 ああ。何だか、今なら何でもできそうな気がする。


「…よっしゃ!やれるだけ頑張ってみるか!」


 キラキラと目を輝かせた松野は、再びお金を投入する。


 やる気に満ち溢れた松野の勢いは止まる事を知らず。

 2回挑戦してまた一つ。店員さんに景品を移動してもらって、また一つ…と、あっという間にぬいぐるみを落としていく。そして、春が目を覚ました30分後。ご満悦の表情でお店を後にする松野の腕には、6個のぬいぐるみが抱えられていた。


「ほ!?全部松野が取ったん!?」

「そやで~」

「なんや、お前得意やったん?」

「いや、やり込んだことないから分からんなぁ~。90年代にさぁ、クレーンゲームのブームがあったやん」

「おお」

「あの時に流行に乗ってちょっとやって、それ以来や!」


 ドヤ顔で「ふふん」と笑う松野に、浜ヶ崎は信じられない…と円らな瞳を丸くする。


「ただいま戻りました~…って、何すかこのでけぇぬいぐるみ達!」


 遅れてやって来た吟も、ポップな世界が広がるリビングに目を丸くする。


「あーっ!これ、坊ちゃんが大好きなキャラクターじゃないっすか!」


 ズカズカと大股で歩きながら、転がっているぬいぐるみをキョロキョロと見る。


「すごいやろ~。俺が全部取ったんやで」

「取った?えっ、クレーンゲームっすか!?」

「そやねん~。しかも2000円かかってへんねん」

「えーっ!松野さんすげ~!」


 得意げに顎を擦る松野を、吟は尊敬の眼差しで見つめる。


「お邪魔しまーす」

「!」


 談笑するリビングにやってくる、凛とした声。松野はまさかと息を呑んで、声の主に顔を向ける。


「おお!雪や!」

「フッ…鳩みたいな顔」


 豆鉄砲を食らったような呆けた顔に、雪は思わず笑みを溢す。その楽しそうな笑顔を見て、松野はホッと胸を撫で下ろした。浜ヶ崎に「松野と仲良くするな」と忠告された雪が、また家に来てくれると思わなくて。松野は目尻に深い皺を刻むと


「いらっしゃい」


 と、穏やかな声音で出迎えた。


「うん」


 松野から醸し出す、包み込むような暖かさが気恥ずかしくて、雪は俯きがちに小さく頷く。


「お嬢!みて下さいよこのぬいぐるみ!全部松野さんがクレーンゲームで取ったらしいっすよ!」

「えっ!ゲーセン?一人で行ったの?」


 あんなに外出るの怖がってたのに?と、雪が目線で問いかける。


「おお。春と散歩してきた」

「へ~!凄いじゃ~ん!よく頑張ったね!」


 自慢げに胸を張る松野に、先生のように手をパチパチ叩いて褒める雪。そんな二人のやり取りを見て、


「なんじゃそら。幼稚園児のお使いでもあるまいに」


 と、浜ヶ崎は鼻で笑う。


 ――そう言えば、春の声が全く聞こえへんけど…。


 リビングにおもちゃが散らばっているが、そこに春の姿はない。しかも、何の物音も聞こえない。


「…なぁ、春は?どこにおるん?」


 腕を組み、首を前、後ろ…と伸ばして探していると、松野がちょいちょいと手招きをした。


「春、ソファの裏におるで」

「裏?」


 ゆったりと大きい黒革のソファ。そのひじ掛けの奥を差す松野の指を辿って、浜ヶ崎は歩く。すると、ソファに隠れるようにベビーチェアに座っている春が、自分の正面にクマのぬいぐるみを置き、喃語をブツブツと喋っていた。


「おい、春」


 微かに前後に揺れるふわふわの髪の毛に向かって、浜ヶ崎が話しかける。その瞬間、春は勢い良く父親の方を振り向くと


「あ――!!」


 と、眉を寄せて叫んだ。


「!?!?」

「春な、あのぬいぐるみがえらい気に入ってるみたいで、散歩から帰ってきてから、ずーっとああやって向き合って、一人で喋っとんねん。で、こっちが話しかけると『邪魔するな!』って怒んねん」


 お散歩から帰宅後。抱っこ紐から降ろされて目が覚めた春は、目の前に並べられたぬいぐるみを見た瞬間、「あうー!」と叫び目を輝かせた。

 テレビで見ていた大好きなキャラクターたちが、目の前に居る。

 その状況に大興奮の春は、いつもは嫌がりがちなベビーチェアに座ったまま、ぬいぐるみを抱きしめたり、時には噛みついたりと、兎に角手元から離そうとしなかった。


 ――あ~、頑張って取って良かった。


 春の喜ぶ姿を微笑ましく眺める松野。しかし、春は次第にチラチラと松野を気にするようになり、終いには松野に向かって手をバタつかせながら怒るようになってきた。

 もしかして、一人になりたいのかな?と思い、ソファの裏に移動させてあげる。

 すると、それが大正解だったようで、春は楽しそうに一人の世界に没頭していった。そして、今に至る。


「は~…変なアニメ見とるなーっていつも思ってたけど、そんなに好きやったんやな」


 「ほぉ」と口を窄めながら、浜ヶ崎は足元のゴリラを鷲掴みする。ジロジロといろんな角度から眺めてみる。なんともまぁ…鼻の穴がやたらと誇張された、ブサカワなぬいぐるみだ。


「うわ~!このゴリラめっちゃ親父に似てますね!」

「ブチ殺すぞお前」


 無邪気に笑う吟に、浜ヶ崎は光のない漆黒の目を向ける。


 ――わ!出た!深淵の瞳!


 一度捉えられたら一瞬で奈落の底に引きずり込まれそうな、恐怖しか漂っていない殺戮者の目。

 ブルッと松野は身震いするが、吟は余程ゴリラの顔がツボなのか、ゲラゲラと笑っている。


「…親父にこんなふざけた態度とるの、吟くらいだよ」


 雪は呆れたように肩を竦めると、キッチンに向かって歩いて行く。


「松野さん、コーヒー飲んでも良い?」

「おぉ、ええでええで。好きなグラス使ってくれ」

「只今戻りました」


 キッチンとリビングで会話する二人の間に、龍二がやってくる。


「お嬢、ありがとうございました」

「ん」


 龍二は移動の為に借りていた雪の車の鍵を、スラッと指先が伸びた形の良い手の上に乗せる。そのまま休憩することなく冷蔵庫に向かった龍二は、ドアを開け、色んな食材をキッチン台に置いていく。


「今日の夜ご飯何?」

「油淋鶏とクラゲの中華和えと上海焼きそばとサラダです」

「やった~。全部好きなやつだ」


 頬に入った氷をガリガリと噛みながら、雪が龍二の動きを目で追う。


「何時にできる?」

「19時過ぎくらいですかね」

「じゃあ一回、家に帰ってお風呂入ってこようかな」


 手際よく調理を進める龍二の横でマイペースにアイスコーヒーを飲む雪。傍から見ると、しっかり者の兄と甘えん坊の妹のようだ。


「風呂か…。吟、春も風呂に入れなあかん時間やけど、今日は一人でやるか?」


 いつでも入れるように、既にお風呂は沸かしている。吟と春の距離が縮まってきているし、そろそろ一人でもお世話できるんじゃないか?と思うのだけれど。

 吟は「うへぇ」と顔を歪めると、高速で手を振った。


「無理っす無理っす!今の坊ちゃんからぬいぐるみを離したら、絶対怒るじゃないっすか!」

「…確かに」

「そんな坊ちゃん、俺一人じゃ手に負えないですよ~~。松野さ~~ん」


 わざとらしく眉を下げた吟は、手を擦り合わせながら松野に近寄る。


「そうやな…。三人でパッと入ってパッと上がるか!」

「へい!」


 やった!と安堵で糸目を細めた吟が、満面の笑みを浜ヶ崎に向ける。


「親父!お先に風呂に入ってきやす!」

「おー、よく洗えよ」


 唾が飛んできそうな勢いの吟を適当にあしらいながら、浜ヶ崎はドカッとソファに座る。

 足を組み、スマートフォンの画面をタップしてニュースアプリを開く。

 その背後で二人がドタバタとお風呂の準備をする。


「春~、一旦遊ぶのやめようなぁ」


 準備を終えた松野が、ぬいぐるみと喋っている春をベビーチェアから離す。が、案の定春は


「ギャ――――!!」


 と泣き叫んでしまう。


「は、春っ!ほら、クマさんも一緒にお風呂行くから!な!」

「坊ちゃん!ほらほら、クマさんですよ~!」


 水圧に耐え切れずに暴れるホースのように全身を捩りながら、春は松野の腕から逃げ出そうとする。それを必死に二人がかりで抑え、急いで脱衣所に連れていく。クマをお風呂に連れ込もうとする春の手から何とかぬいぐるみを引き剥がし、慌てて三人で入ったのだが――。


「いってえええええええ!」


 と、叫ぶ吟の悲痛な声が、すぐさまリビングまで響き渡った。


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