第13話 挑戦・2
午前10時過ぎ。
三人がご飯を食べ終わっても、春が離乳食を食べ終わっても、浜ヶ崎は帰ってこなかった。
「……まだ帰ってこんなぁ…」
リビングの壁掛け時計を見上げて、松野はポツリと呟く。
雪の授業は既に始まっていると思うのだが、何故か浜ヶ崎は戻ってこないし、連絡もない。
――…いや、大学だから、毎日一限から始まる訳じゃないのか…?でも、一年生って普通は忙しいはずじゃ…?
佐々木は学生の時どうだったかな――と、過去に思いを馳せて、ハッとする。
ああ、嫌だ。何かにつけて佐々木を思い出して…これじゃあ、めちゃくちゃ未練がましい奴じゃないか。自制心が急いで記憶に蓋をしようとするが、若かりし頃の佐々木の姿がポワッと頭に浮かんでしまう。思わず感傷に浸りそうになる気持ちを掃うように、松野はブンブンと頭を振った。すると、松野と猫のぬいぐるみの引っ張り合いをしていた春が
「や~あ~!」
と、大きな声で怒り始める。
「…どうした?もう飽きたんか?」
ポイッと遠くに投げられるぬいぐるみ。それを拾って手渡すも、またポイッと遠くに投げられる。今まではこれを楽しそうに繰り返していたが、今日はお気に召さないようだ。
――こういう時って、どうやって遊んでたかな…。
困ったように顎を撫でる松野。取り合えず色んなおもちゃを渡してみるが、春は怒りながらポイ!ポイ!と投げていく。そして、
「やう!」
と叫んで投げたマラカスのおもちゃが、テーブルでパソコンを見ている龍二の胡坐にドカッと当たった。
「うわっ、龍二すまん!」
「いえ、大丈夫です。…坊ちゃん、機嫌悪いですか?」
「おお、そうやねん。ずっと家の中で遊んでたから、もう飽きたんやろうなぁ」
「う~、う~」とぐずり始めた小さな頭をよしよしと撫でる。すると、「適当にあやすな!」と怒った春が松野の足にガブリと噛みついた。
「い――でででで!!」
容赦なく足を噛み切ろうとする春に、松野は思わず絶叫する。ジーンズ越しとは思えない程、噛む力が強すぎる。痛い。ヤバい。兎に角痛い。
吟、今すぐ春を取ってくれ…!と思うも、吟はトイレに籠り中。涙目で悶える松野の姿に、龍二はどうしようとあたふたする。そしてハッと目を見開くと、テーブルに身を乗り出して松野に尋ねた。
「松野さん!このテレビ、ネットに繋がりますか!?」
「つっ、繋がる、で!!ひぃ~~!」
春の口の隙間に指を入れ、必死に開けさせようとするも、逆に力強く噛まれてしまう。痛みで白目を剥く松野。龍二はテレビ台にあったリモコンを急いで取ると、電源を押し、有名な動画配信サービスの名前が書かれたボタンを押した。
「坊ちゃん!坊ちゃん、こっちです!ほら!」
と、慣れない満面の笑みで春を呼び、テレビを指差す。すると、二頭身で描かれた色んな動物のキャラクター達が、陽気な音楽と共に歌い始めた。
「!?」
パッと顔を上げた春が、涎だらけの口をテレビに向ける。そして、
「あー!」
と叫んだかと思うと、キラキラした瞳でテレビを見始めた。
「大丈夫ですか!?」
「お、おお…助かったわ」
はあ、はあ、と荒い息を吐きながら、ティッシュを差し出す龍二に礼を言う。やはり春の力の強さは異常だ。あと少しで足の一部が無くなる所だった。
春に噛まれたジーンズや額の脂汗を拭きながら、松野は急に大人しくなった春の背中を見つめる。
「春…この動画?が好きなん?」
地上波やお店で全く見た事がないキャラクター達のアニメを、春は食い入るように見ている。
「はい。このチャンネルを流してると機嫌が良いので、手が付けられない時はこれに頼りながらお世話してました」
「松野さんに、もっと早く教えてれば良かったですね」と、少し申し訳なさそうに龍二が言う。
成る程。春は家族以外がお世話をすると暴れるのに、今までどうやって対応してきたんだろう…と思っていたが、この動画を見せていたわけだ。
――すれ違う親達が、何で子供にスマホ見せてるんやろって思ってたけど…こういう事か。
自分は春のお世話をするだけで、身の回りの事は吟や龍二がやってくれるからまだ良いいけど。世のお父さんお母さんは、子供を見ながら家事や仕事もしなくてはいけない。子育てって大変だなと、しみじみ思う。
「アイスコーヒーいれますけど、松野さんも飲みますか?」
「おお!ありがとう」
ニカッと笑って頷くと、龍二はフッと目を細めて笑う。その仕草に、
――出た、Vシネ俳優…!
と内心呟いて、キッチンへ向かう凛とした後ろ姿を見つめる。良いなぁ、自分もこんなに色気のある人になりたかったなぁ…なんて考えて、いや、俺には無理やな…と、すぐに諦める。
「春ぅ~…」
すっかりテレビの虜になっている春の顔を覗きこんでみる。今ならお腹をつついてもほっぺをつついても、何の反応もしなさそうだ。
「よいっしょ…」
ゆっくり春を持ち上げて、ローチェアに座らせてみる。途中、足が上手く入れられなくてひやひやしたが、春はぐずることなく座ってくれた。ホッと胸を撫で下ろす松野の前に、龍二はコトンとグラスを置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
松野がぺこりと頭を下げると、龍二は微笑みながら向かい側に腰を下ろす。キンキンに冷えたアイスコーヒーを美味しそうに飲んでいると、龍二がこちらを見ていることに気付いた。
「?」
なんや?と目で問いかけてみる。すると、龍二が躊躇いがちに口を開いた。
「…松野さん…深夜に親父と喋ってましたか?」
「えっ?おぉ…喋ったで。龍二も起きてたん?」
「はい。親父が起きたのが気配で分かって…その後、寝室の扉の音も聞こえたので、気になって起きてました」
「気配!?凄いなぁ」
まるで忍者のようだ!と松野は笑うが
「はい。俺らはいつカチコミがあっても対応できるように、常に神経を研ぎ澄ませてるんで」
と、真面目な顔で返される。
「……そ、そっか…」
“カチコミ”って、相手組織からの襲撃だよな――と考えて、笑顔だった松野の顔が一瞬で曇る。本当に、物騒な言葉がよく飛び交う世界だ。これ以上深く聞くまい…と口を閉ざす松野に、龍二は慎重に尋ねる。
「あの…二人でどんな話をしたんですか?」
「どんな話?」
「はい…長い時間部屋に戻ってこなかったので…」
テーブルの上で組んだ指が、もどかしそうにもぞっと動く。いつもどっしりと構えている龍二にしては珍しい、窺うような姿勢に首を傾げつつ、松野は腕を組む。
「うーん…そうやな…」
「……」
「確か、雪にもう俺と関わるなって言ったっていう話をされたかな…」
「!!、そうですか…」
僅かに目を見開いた龍二が、組んだ指にギュッと力を籠める。
「あと……そうや。光輝さんの話もしたかな」
「!!光輝さんの話ですか!?」
左斜め上を見る松野に、龍二は思わず身を乗り出す。いきなり顔を寄せる龍二に驚きつつ、松野は「おお」と言う。
「えっ、二人でどんな話を…」
「えぇ、どんな話って…えーっと…その光輝さんに俺が似てるとか…雪と龍二が、光輝さんの事大好きだったとか、そんくらいかなぁ…」
目を瞑り、ぼんやりと昨晩を思い出してみる。あの時、光輝が亡くなったことも聞いたけど、気軽に口に出して良いものなのだろうか。「うーん…」と眉根を寄せていると、龍二が
「…親父が、自分から光輝さんの話をしたんですね」
と、ポツリと呟いた。
「おお。光輝さんのこと、皆が大好きやったって言ってたで」
松野がニコリと笑って頷くと、龍二は小さく息を呑む。そして、昂る感情を抑えるように俯くと、静かに口を開いた。
「……はい。俺もお嬢も…皆、光輝さんが大好きでした。それに…光輝さんは俺に生きる選択肢をくれた、恩人なんです」
「!」
躊躇いがちに出てきた言葉。その重みを感じつつも、龍二の訴えるような、聞いてほしいと切望するような声を受け止めてあげたくて、松野は「恩人?」と聞き返す。
龍二は小さく頷くと、頬の十字傷を人差し指でカリっと掻いた。
「…俺、実家が中華料理屋なんです。うちの組のシマで開いてる店で…最初は調子が良かったんで、組の人達も良く食べに来てくれてたんですけど…不景気で段々経営が厳しくなっていって、みかじめ料が払えなくなったんです」
“みかじめ料”と聞いて、松野はドキッとする。今は少なくなってきていると聞くが、昔はヤクザの縄張りでお店を開く場合、場所代や用心棒代としてヤクザに毎月お金を渡さなければいけなかったという。それがみかじめ料。
「そしたら昼夜問わず取り立てが来るようになって…そんなんだから客足も減っていって…。『どうやって借金を返すんだ!』って詰められた時に、一人のヤクザが俺の方を見て言ったんです。『あっ、丁度いいじゃねぇか』って」
「…ちょうどいい?」
「はい。何でも、その時子供の心臓が必要だったらしくて」
「!?し、心臓?!」
「はい。人身売買です。で、その言葉を聞いて『それはあかん』って言って、止めてくれたのが光輝さんだったんです」
「……」
松野は目を見開いたまま絶句する。龍二は当たり前のように過去を語るけど。出てくるワードが衝撃的過ぎて、思わず龍二を凝視してしまう。
「ぶ、無事でよかったな…」
「はい。光輝さんのおかげです。じゃなかったら、俺は15歳で死んでました。その後も、金が無くて高校に進学できない俺の状況を知って、“俺が組に入る事を条件に店の借金をチャラにする”っていう体で、雇ってくれたんです」
「!」
「きっと汚い仕事ばかりさせられるんだろうなって思ってたら、俺がするのは事務的なことばっかで…。しかも、高卒認定試験を受けさせてくれたり、光輝さんが直接経営学を教えてくれたり…小さい頃からずっと忙しかった俺の親よりも、親っぽい事を沢山してくれました」
「……」
浜ヶ崎が言っていた通り――いや、想像を遥かに超える程優しい“光輝さん”に、松野は呆然としてしまう。
凄い。例え顔見知りの子供が困っていたとして、ここまで人生を背負ってあげられるだろうか。
「だけど光輝さんは、その…死んでしまって…」
「うん。聞いた…浜ヶ崎を庇ったんやろ?」
「はい…俺も凄く悲しかったんですけど、俺以上にお嬢と親父が落ちこんで、あまり感情を表に出さなくなっちゃったんです。でも、姐さんが妊娠したことで二人に段々笑顔が戻ってきて、良かった…って思ってたら、今度は姐さんが亡くなって…。また二人が落ちこんじゃって…」
グッ…と、悲しみを堪えるように拳を握る龍二を見て、松野の胸も痛くなる。
――そうか。浜ヶ崎は、死が身近な事を「こっちの世界では普通」って言ってたけど…やっぱり、相当落ち込んだんやな…。
そりゃそうだよな…と、思う一方で、「あれっ」と松野は首を傾げる。
「…でも、俺、浜ヶ崎は結構笑うイメージがあるんやけど」
大口を開けて「ガハハ」と笑う。その顔も高らかな声も、松野の記憶に新しい。
「それは、松野さんに出会ったからです」
「?え…俺?」
「はい」
龍二はきっぱりと言い切ると、戸惑う松野をまっすぐ見つめる。
「まずは、激務と子育ての両立で大変な中、一週間だけとはいえ、坊ちゃんを任せられる人が見つかって安堵したのが大きいと思います」
松野に初めて会った日。雪の汚れたコートをコンシェルジュに預け、松野の家に遅れて行った龍二は、驚いた。松野が春を抱っこしていた事も勿論だが、一番驚いたのは、嬉しそうな浜ヶ崎の笑顔。常にピリピリした空気を纏い、眉間に皺を寄せていた浜ヶ崎が、久しぶりに気の抜けた表情で笑っていた。
でも、その笑顔は単に“ベビーシッターが決まったから”というだけではなくて――
「もう一つの理由は、松野さんの人柄だと思います」
「!」
初対面の人に自ら連絡先を教えたり、辛い記憶である筈の光輝の話をするなんて、今まで一度もなかった。あっという間に浜ヶ崎と距離を縮め、自然体で過ごせる空気を作った松野だからこそ、あんなに楽しそうに笑えたのだと思う。
「いやいや…俺なんて別に、ただのおじさんだし…」
「いえ、そんな事ないです」
龍二は頭を振って立ち上がる。そして、松野の前で膝を付くと、真剣な表情で床に両手をついた。
「えっ…」
一気に緊張感が漂い、松野の視線が狼狽える。龍二は戸惑う松野を見つめると、ガバッと勢い良く頭を下げた。
「へっ!?ちょっ!」
――ど、土下座!?
何で!?と驚きながら、慌てて腰を浮かす。頭を上げさせようと肩に触れた瞬間、龍二が「松野さん!」と床に向かって叫んだ。
「無理を承知でお願いです!このまま、ベビーシッターを続けてもらえませんか!?」
「!!」
「松野さんと一緒に過ごしてから…親父、とっても楽しそうなんです!今度松野さんと別れたら…また親父は…っ」
「龍二…」
「それに、坊ちゃんも松野さんにこんなに懐いてますしっ…!お願いします!」
グッ…と床に額を押し付けて、龍二が叫ぶ。その声があまりにも切実で、松野は否定も肯定もすることもできないまま言葉を詰まらせた。
こんなに必要としてもらえて、とても嬉しい。ありがたいと思う。だけど――
――きっと、光輝さんの代わりなんやろうなぁ…。
皆が必要としていた光輝さん。その代わりを求められているだけなのではと思ってしまう…というか、事実そうなのだろう。
「龍二」
自分には荷が重すぎる。期待に応えられる自信もない。
断ろう――と、口を開いた瞬間、ガチャガチャッと玄関の鍵が開く音がした。
「あ…」
浜ヶ崎が帰って来た…と、音の方へ顔を向ける松野の手を、龍二が勢い良く掴む。
「松野さん」
「!」
「このこと、親父には内緒にしてください」
「お願いします」と切羽詰まった表情で言うと、慌ててパソコンの位置まで戻る。
「お、おぉ…」
松野は困惑しつつも頷くと、ドスドスと響く大きな足音がリビングにやってきた。
「は~~~…遅くなってすまん」
「お疲れ様でした」
首を横に振ってポキッポキッと鳴らしながら歩く浜ヶ崎に、龍二が頭を下げる。
疲れ切ったオーラを振り撒く浜ヶ崎は、片手を上げて答えるとソファにドカッと座った。足をだらしなくおっぴろげ、両腕をソファの背に広げる。顎を突き出して上を向く浜ヶ崎は「はぁ~~~~~~~~~~~」と、溜め息…というより嘆きのような声を上げる。
「雪…どうやった?」
全体重をソファに預け、ぐで~っと蕩けきっている無気力ゴリラに松野は膝立ちで近寄る。
「う~~ん?最初は不貞腐れとったけど、雪念願の
「お、おぉ…そうか。元気なら良かった」
「超」を強調して、上を向いたまま気怠そうに喋る浜ヶ崎。その横顔が何だか10歳くらい老け込んでいるように見えて、松野はぎこちない笑みで頷いた。
――雪の機嫌直すの、大変やったんやろうなぁ~…。
俺のせいで申し訳ないな…としょんぼりしながら、松野はすごすごとテーブルに着く。縁側で茶を飲むおじいちゃんのように丸まった背中で、松野はぬるくなったコーヒーに口を付ける。
沈黙の中、ズズズ…と啜る音と龍二がタイピングを叩く音が続く。
すると、浜ヶ崎が思い出したように顔を起こした。
「あれ、吟は?」
「トイレです」
「あ~、うんこか」
「!なぁ、吟トイレに30分くらい入っとるけど、大丈夫なん?」
吟がトイレに入った頃は唸り声が聞こえていたが、今は出かけているのかと思う程静かだ。もしかして、具合が悪くなったのでは…と、松野は不安そうに浜ヶ崎を見る。
「へーきへーき。あいつ極度の便秘やねん。酷いと一時間近く入っとるで」
へッ!と鼻で笑った浜ヶ崎は、上体を起こす。すると、その動きに気付いた龍二が立ち上がった。真っすぐキッチンへ向かい、アイスコーヒーを用意し始める。
「そうかぁ…あんまり酷いと痔になるから気を付けんと…」
「カーッカッカッ!あいつの尻はもう手遅れや!」
「カッカッカッカッカッ!」と嬉しそうに高笑いする浜ヶ崎。人の不幸を喜ぶ姿はさながら大魔王のようだ。
「そ、それは可哀想やな…」
おぞましいオーラにブルッと体を震わせて、浜ヶ崎から目線を逸らす。
ニヤニヤする浜ヶ崎の元へ龍二がグラスを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとさん」
浜ヶ崎はアイスコーヒーを受け取ると、豪快にグラスを傾けた。ゴクッゴクッと喉を鳴らすと、コロンッと口の中に四角い氷が転がってくる。それを奥歯で挟むと、バリッ、ガリッと砕き始めた。何度も細かく噛み砕きながら、意味もなく部屋の隅をボーッと見る。その疲れに染まりきった目が、ふと壁掛け時計に向けられた。
「…龍二。今日は高田の叔父貴と昼飯食う日よな?」
「はい」
「は~…だよなぁ。ぜんっぜん腹減らへん」
浜ヶ崎は一時間前の自分を恨み、天を仰ぐ。
当初、浜ヶ崎は殆ど食べないつもりでビュッフェに向かった。朝から沢山の料理を見ると胸やけがするし、雪の機嫌さえ直ればそれで良いと思っていた。
だが、雪があまりにも美味しそうにサンドウィッチやチーズオムレツを食べるので、浜ヶ崎も少しだけつまみたくなったのだ。
朝食なのに、一人7000円近くするビュッフェ。お手並み拝見やな…と、半信半疑でクロワッサンを食べる。
「!!うまっ!」
サクッと歯が当たった瞬間、ブワッと広がる濃厚なバターの香り。だけど、脂っぽくないし何個でもいけそうなくらい軽い。感動して目を輝かせた浜ヶ崎は、次はあれ…その次はこれ…と、色んな物に手を出した。その結果、小さい胃袋がパンパンになってしまった。
――あ~~~~、確か焼肉食いに行くって言ってたよな?後2時間で食えるようになる気がせえへん…。でも、勝手にめっちゃ注文するくせに残すと怒るしなぁ~…。
グラスをテーブルに置き、再びドスッ!とソファに体を預ける。ああ、お腹いっぱいで眠くなってきた。
ふあぁ…と口を大きく開けて欠伸をする。と同時に、トイレからジャー!と水が流れる音がした。
「は~!スッキリしたぁ」
ずっしりと溜まっていた重みが放出され、吟は解放感に満ちた顔でお腹を擦る。お尻はちょっと痛いけど、今なら空も飛べそうだ。晴れやかなオーラを振り撒きながらやってきた吟に、浜ヶ崎は苦しそうな顔を向ける。
「…吟、今日は叔父貴との昼飯やけど、お前仰山食べられるか?」
ゲフッ。と、胃の限界サインを吐き出しながら、浜ヶ崎が尋ねる。吟は
「任してください!今、腹空っぽなんで!」
と言うと、顎を突き出し、得意げに胸を張った。
「よっしゃ、頼りにしてるで~」
浜ヶ崎はニッと笑い、親指を立てる。重たい体を気合いで立たせると、ちょこんと床に座っている松野に目を向けた。
「松野。そろそろ俺ら出かけるから、春の事頼むわ」
「おぉ。気を付けてな」
首を縦に振る松野に頷き返して、浜ヶ崎はテレビに釘付け状態の息子に近寄る。
「春、良い子にしとけよ~」
春の隣にしゃがみ、綿毛のような髪を撫でる。テレビを眺めたまま微動だにしない春に浜ヶ崎は一瞬不満そうな顔をするが、すぐに立ち上がると龍二の名を呼んだ。
「行けるか?」
「はい。行けます」
カチカチッとマウスを鳴らした龍二はノートパソコンを閉じ、鞄にしまう。スマートフォンをポケットに入れて龍二が立ち上がると、吟もジャケットに袖を通した。
「じゃ、行ってくるわ。何時に帰るか分からんから、鍵借りるな」
と言うと、浜ヶ崎は玄関に置いてある合鍵をポケットに突っ込んで出て行った。
いつもなら、皆が外出するとシン…と静まり返るのだが、今日は元気なキャラクター達の声が聞こえる。
「春~。それ、そんなにおもしろいかぁ?」
「……」
置物の人形と化している後ろ姿に声をかけるが、何の返事も帰ってこない。春はとても真剣に、時折「フヘヘッ」と笑いながらジッとテレビを見つめている。
果たして、生後半年でどのくらい理解しているのだろう?と思いながら、松野はソファに座る。
―――春の相手をしないとなると、暇やなぁ…。
家事は吟がしてくれたし。春を置いて別の部屋に行くわけにもいかないし。
とりあえず、散らばったおもちゃをソファの横に集めてみる。が、すぐに終わってしまう。
「……」
――やばい。ほんま何しよ…。
松野は困ったように手を擦り合わせる。「う――――ん…」と困ったように唸り、特に策が浮かばないまま四つん這いで春に近寄る。
「なぁ、春。オムツ汚れてないか?」
「……」
「春~。お腹空いてないか~?」
「…うー…」
小さな背中を撫でたり、ほっぺをツンツンしてみたり。「お~い」と言いながら擽ってみても、春は体を捩るだけ。
―――あかん…。俺の話全然聞こえてへん…。
食い入るように見つめる春。その集中力の凄さに素直に驚く一方で、胸のあたりがモヤッとする。
何か…その、とても不安だ。このままだと、春はネット依存症になってしまいそうで。
――どうしよう…この前までの俺みたいになったら…。
ネットの言葉が気になって、四六時中スマートフォンに齧り付いていた、三週間。目が痛くなっても見るのを止められなかった、あの時の異常な依存っぷりを思い出し、じわじわと不安が込み上げてくる。
「……」
腕を組み、どうしよう…どうしよう…と忙しなく視線を彷徨わせる松野。
その視線がふと春の後頭部に止まる。歌に合わせて微かに揺れる春はとても楽しそうだ。とても楽しそうではあるけれど――。
「…よしっ!」
松野は唇を噛むと、パン!と膝を叩いて立ち上がった。
壁際に無造作に纏められている赤ちゃんグッズの中から、マザーズバッグを取り、その中におしりふきやオムツポーチ、マグを入れていく。
手際よく腰に抱っこ紐をつけた松野は、テーブルに置いていたリモコンを持つと、ピッと電源ボタンを押した。
「!?」
パッと暗くなった画面に、春の驚いた顔が映る。
「あう!あ!ぶー!」
テレビに向かって手を伸ばし、にぎにぎと指で掴もうとする。しかし、画面が付くわけもなく。松野は「ふえ~~~」と泣き始めた春を抱き上げると、ポンポンと背中を叩きながら窓辺に近寄った。
「春!ほら、見てみ!今日めっちゃ天気ええで~!」
「ば~う~」
明るい笑顔で、松野は春に笑いかける。初めはチラチラとテレビを見ていた春だったが、外から聞こえるプロペラの音に気付き、視線を外に向けた。
「おっ!ヘリコプターが飛んでるんかなぁ」
「うー…」
「どこやろうなぁ」という松野の問いかけに、春はキョロキョロと空を見つめ音の出所を探す。その無垢な瞳に松野はフフッと笑みを溢すと、
「なぁ、春。ヘリコプター見に行くか!」
と言って、指先で小さな頭を撫でた。
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