第11話 密談

 

 暗闇の寝室に、カチ、カチ、と時を刻む針の音だけが聞こえている。

 「ぐぅー…」と寝息をたてながら、松野は気持ち良さそうに足でシーツを撫でる。ごろんと寝返りを打ち、さらに深い眠りの中へ意識が沈んでいく。その途中で、突然誰かに名前を呼ばれた気がした。


「…ん、んん…?」


 誰だろう。頭の片隅で、「松野さーん」と呼ぶ女性の声が聞こえる。

 折角良い所まで来たのに。まだまだ寝ていたいのに…と思いつつ、松野は静かに瞼を開ける。

 しかし、ぼんやりとした視界に映るのは壁だけで、女性どころか誰もいない。


 ――…?夢か…?


 焦点の合わない瞳で、松野はボーッと壁を見つめる。脳が夢と現実を行ったり来たりしていて、上手く事態が呑み込めない。とりあえず、目線だけをカーテンに向ける。隙間が暗いので、まだ夜なのだろう。

 もう一回寝ようかな…と、寝返りを打ってみる。だけど、眠いはずなのに何故か寝付けない。


「……」


 松野は目をシパシパさせながら、時計を見る。時刻は2時。起きるにはまだ早い時間だ。


 ――昨夜も22時前に寝たしな…。


 もしかしたら、寝るのが早すぎたのかもしれない。


「んー…」


 松野は首をガリガリ掻きながら唸る。そして大きな欠伸を一つすると、布団をよけ、立ち上がった。

 寝室の扉を開け、ペタペタと裸足で廊下を歩く。少し喉が渇いたので、水を飲もうと思って。

 キッチンへ行き、水切り籠からグラスを取る。ウォーターサーバーのレバーを押し、グラスに水を注いでいく。適当なところでレバーを離し、冷たくなったグラスに口を付ける。ゴクッゴクッと喉を鳴らしながら、松野はブルッと体を震わせた。

 水を飲んでホッとしようと思ったのに、冷たすぎて逆に目が覚めそうだ。

 最後の一滴を飲み干して、グラスを軽く水洗いする。


「ふぅ…」


 松野は水切り籠にグラスを置くと、濡れた手をタオルで拭いた。


 ――もう一度布団に潜ってみるか…。


 すぐに寝られるかは分からないけど…と頭を掻きつつ、寝室へ戻ろうとする。が、リビングを出る直前で松野の動きがピタッと止まった。


「……」


 皆が寝静まり、誰も居ないはずのリビング。なのに、視界の端でカーテンがふわりと躍っている。

 松野はギギギ…とブリキのおもちゃのようにぎこちなく首を回し、カーテンを凝視する。自分が寝た後に、誰かがベランダを開けて、閉め忘れたのだろうか。


 ――って事なら良いけど…もしかして、泥棒…だっ、たり、して…。


 さっき女性の声が聞こえたのも、実は夢じゃなかったのでは――と考えて、松野の顔がサァッ…と青くなっていく。

 いやいやいや、ここは35階だぞ?普通に考えたらありえないだろ…と頭は否定するものの、高層階でも泥棒に入られた事件を知っている。


 ――…とりあえず、誰か隠れてないか、確認しないと…。


 力比べだったら自分の方が負けない筈だ。

 まずはベランダ、そこに居なかったらパントリー、洗面所、ウォークインクローゼット…と、一つ一つ確認しなければ。


「…」


 ドッドッドッドッと早くなる心臓を落ち着かせるように深呼吸をして、松野はリビングにあるコードレスクリーナーを手に持つ。

 ゆっくりと足音を立てないように忍び寄り、ひらひらと揺れるカーテンにそっと触れる。

 もし、人影が見えたらどうしよう。まずは声をかけるべきなのか?いっその事、威嚇するのはどうだろう。…いや、そんな事したら、慌てて逃げようとした泥棒が、ベランダから落ちてしまう危険性がある…のか?


 ――えっ、じゃあどうすれば……えぇい!いいや!もう行ってまえ!


 纏まらない思考を掃うようにブンブンと頭を振った松野は、掃除機を持つ手にグッと力を入れると、勢いよくカーテンを開けた。その瞬間、目の前の暗闇にポウッ…と浮かぶゴリラ顔が現れ、松野は


「ヒョ――――――ッ!!」


 と、声にならない声を上げた。

 勢い良く飛び跳ねた松野は、足を滑らせて掃除機を持ったまま後ろにひっくり返る。昭和のコント番組のような大袈裟なリアクションに、闇夜のゴリラ――基、浜ヶ崎はゲラゲラとお腹を抱えて笑った。


「おっ、お前っ、『ヒョーッ』ってなんやねん!しかもそのこけ方!イヒヒッ…大袈裟にもほどがあるやろ!」


 「ヒーッヒッヒッヒ!」と甲高い声を上げて、大爆笑する浜ヶ崎。


「!?…!?」


 しかし、状況を把握できない松野は、はてなマークをいっぱい浮かべた表情で、ひっくり返ったまま天井を見つめている。


「はぁ~、腹痛い」

「……!?その声っ…お前、浜ヶ崎か!?」

「そらそうやろ!!何言うとんねん!」


 「ヒーッヒッヒッヒ!」と再びお腹を抱えて笑い出した浜ヶ崎を、松野はムクッと起き上がって見つめる。


「……ほんまに浜ヶ崎やん」

「だからそう言うとるやん。何や、泥棒でも居ると思ったんかいな」

「おお…。泥棒やと思って開けたら、ゴリラの生首がおってビックリしたわ」


 神妙な顔で人差し指を向ける松野。その指は浜ヶ崎が手にするスマートフォンを差している。きっと、スマートフォンの光に当たった顔だけが、暗闇に浮かんでいるように見えたのだろう――とは言え。


「おい、誰がゴリラじゃ」


 目を半眼にした浜ヶ崎が、しゃがんで松野と目線を合わせる。一瞬ピリッとした空気が走るが、まだ呆けたままの松野を見て、浜ヶ崎はフッと表情を崩す。そしてスマートフォンをポケットにしまうと、立ち上がり、ベランダの柵に肘をついて凭れ掛かった。


 ――泥棒じゃなくて、浜ヶ崎やったんか…。


 漸く状況を呑みこんだ松野は、ホッと安堵の息を吐いて、立ち上がる。クリーナーを元の場所に戻すと、松野は寝室に戻らずベランダに向かった。


 ――あれっ、サンダル増えとる。


 今まで一足しかなかったはずなのに、いつの間にか二足に増えている。吟が勝手に置いたのかな…と思いながら、サンダルをつっかける。


「風さむっ」

「…部屋戻りーや」

「う~ん、目ぇ覚めてしもうたしなぁ…」

「……風邪ひいても知らんで」


 隣で同じように柵に凭れ掛かる松野に、浜ヶ崎は口角を上げて笑う。


「…何でこんな時間に、ここにおったん?」


 サァッ…と頬を撫でる風の冷たさに体を震わせながら、松野は尋ねる。真夜中にも関わらず、相変わらず煌びやかな街並みを見下ろして、松野はクシュンと小さなくしゃみをする。


「別に…眠れなかっただけや」

「ふ~ん…。そう言えば…雪、夜ご飯の時来ぉへんかったな」


 松野は思い出したように言い、顔を隣に向ける。浜ヶ崎は、横顔に刺さる悪意のない瞳を一瞥すると、数秒夜景を眺めてから口を開いた。


「…あぁ。松野に懐くなって言ったからな。怒ったんちゃう?」

「……え?」


 何てことないように言う浜ヶ崎。その口元を見ながら、松野は目を見開く。


「……なん、で?」


 何で、わざわざそんな事言うんだ?と、戸惑う松野に、浜ヶ崎は体を向ける。


「…松野と俺らの住んでる世界は違う。本来気軽に関わっちゃいけない。…でも、雪がお前に興味持ち始めてるから、昨日注意したんや。…にも関わらず、雪はお前と出かけたやろ?だから、これ以上松野と距離を詰めるなってしっかり怒ったんや」


 「…まぁ、納得してなさそうな顔してたけど」と、眉間にエベレスト級の皺を作っていた雪を思い出し、鼻で笑う。


「それは、分かるけど…でも、そこまで言わんでも…。ほら、一週間経ったら、どうせさよならする訳やろ?その間くらい仲良くしとった方が、えぇっと…色々スムーズにいくんちゃうん?」


 身振り手振りを交えて話しながら、松野は空笑いする。浜ヶ崎が言っていることは分かる。でも、あと数日で終わる関係だし、気にしなくても良いじゃないか――というのは建前で、本当は雪と一緒に居る事を制限してほしくなかった。

 雪のおかげで外に出られたし、雪のおかげで前向きな気持ちになれた。雪は言葉が強いし、強引なところがあるけど、その強引さが今の自分には心強いのだ。

 雪にまだまだ背中を押してほしい。

 その一心で必死にフォローする松野に、浜ヶ崎は「はぁ…」と息を吐く。


「…松野のその、お人好しで、頭ん中がお花畑なところ…ほんま、光輝に似とるわ」

「……みつき?」


 サラッと馬鹿にされたのも気になるが。聞き慣れぬ名に、松野は首を傾げる。


「俺の一つ上の兄貴や」

「へぇ!兄ちゃんおったんや」

「おう。5年前に死んだけどな」

「!し、…」


 松野はハッと息を呑むと、戸惑いながら視線を逸らした。


「…あっ、えぇっと…」


 こういうデリケートな話は、どう反応するのが正しいのか、未だによく分からない。

 自分達の一個上の年齢なら、病気かな。事故もありえるけど…深く聞いて良いんだろうか――と、口をまごつかせる松野を、浜ヶ崎はジッと見つめたまま口を開く。


「光輝は…血気盛んな奴が周りに多い中で、異質の存在やった。…勉強が好きで、穏やかで、争いごとが大嫌いで……なのに、自分の舎弟が粗相すると、例え相手が敵対組織でも一人で謝りに行くような度胸と責任感がある、まぁ~~~俺なんか足元にも及ばんくらい、できた男やったわ」


 何かを思い出したのか、浜ヶ崎が楽しそうにフフッと笑う。


「あぁ、そや。その阿呆みたいに垂れてる、お前の警戒心皆無の目。光輝によう似とるわ」

「はぁ?」


 真剣な顔で聞いていた松野は、カチンときて目を細める。母親譲りのこの目元を「優しそうだね」「何だかご利益がありそうな顔してるわね」と褒められることはあったけど、馬鹿にされるなんて初めてだ。

 明らかにムッとしている松野に、浜ヶ崎はヒラヒラと手を振ってみせる。


「すまんすまん。馬鹿にしたつもりじゃないねん。マジで二人とも仏顔で似てんねん」

「そんなん知らんし…」

「ははっ、悪かったって。…龍二も雪も、みんな、光輝が大好きやったんや。雪なんか、俺が親父なのに、『うちの親じゃ一般人との感覚が違いすぎる』とか言うて、相談事は殆ど光輝にしとったからな」


 呆れてるけどどこか嬉しそうな口ぶりに、松野は尖っていた目尻を下げる。


「…浜ヶ崎も、兄ちゃんの事好きやったんやな」


 光輝の事を話す声は、とても軽やかだ。浜ヶ崎は気恥ずかしそうに口を噤むと、パンチパーマをガシガシと掻いた。


「…おぉ、そうや!一度も兄弟喧嘩したことないしなぁ。自慢の兄貴やったわ!」

「おっ、素直でかわええやん」


 ハハッと笑いながら相槌を打つ松野に、浜ヶ崎は「でもな」と言う。


「あいつ、撃たれそうになった俺を庇って死んでん」

「!」

「それだけは今も許せへん。…俺なんかより、皆から慕われとる光輝が生きとった方が、良かったのに…」


 「馬鹿や、アイツ」と呟く声が、煌びやかな街に落ちていく。二人の間に訪れる沈黙。その気まずさを埋めるように、クラクションの音が響き渡った。


「……」


 浜ヶ崎の兄は、病気でも事故でもなく、事件で亡くなった。しかも、銃で撃たれて。そんな漫画や映画のような事が、本当に起こったんだ――そう思った瞬間、松野の背筋にゾワッと寒気が走り、表情が強張った。


「…怖いか?」

「……」

「普通、怖いよな。…でもな、これがこっちの世界の“普通”やねん」


 月の光のように真っすぐな目で、浜ヶ崎は淡々と言う。


「俺からベビーシッターを頼んでるのに、矛盾しとるけど…間違っても、松野はこっち側に来るなよ。一度こっちに来たら、中々前のような生活には戻れへん。だから…一週間経ったら、綺麗さっぱり終いにしような」


 目を伏せ、黙ってしまった松野の肩をポンと叩く。松野は肩に置かれた手、そして浜ヶ崎へと視線を向ける。すると、浜ヶ崎は二ッと歯を出して笑い、ギュッと指先に力を入れた。その大きな掌がとても暖かくて、何故か鼻の奥がツンとした。


「……」


 松野は無言で柵の上で腕を組み、街の景色を見渡す。

 「浜ヶ崎達が居るのは常に死と隣り合わせの世界なんや」という恐怖とか、「雪は俺を通して光輝さんと会話してたんかな」という寂しさとか、色んな感情が一気に松野に襲いかかる。


 ――はぁ、頭パンクしそうや…。


 難しい事を考えるのは苦手だ。悲しい、切ないという感情を、部外者の自分が抱いて良いのかも分からない。


 ――そう…同じ家で暮らしてても、俺だけ部外者…。


 一週間限定の、ただのベビーシッター。


 この契約が始まった時は、早く終わってくれと思ったのに…何でこんなに胸がモヤモヤするんだろう。


「……」


 どう感情を処理して良いのか分からなくて、自然と顔が顰め面になっていく。その不細工な横顔を見て、浜ヶ崎は思わず笑いを溢した。


 ――アホが一生懸命考えとるわ。


 ククッと肩を揺らしながらポケットから煙草を取り出して、カチッとライターを鳴らす。すると、松野は苦虫を噛み潰したような顔のまま、ジトッと浜ヶ崎を睨んだ。


「…うちのベランダ、禁煙なんやけど」

「あ、そうなん?はぁ~、たまに吸うと美味いわぁ」

「いや、止めへんのかい」


 浜ヶ崎は美味しそうに息を吸い、フーッと白い煙を吐く。夜空に浮かぶ小さな雲。風に吹かれて細く長く伸びたそれは、ふわふわと夜空を漂って、静かに姿を消していく。そしてまた新たな雲がフーッと作られ、風に吹かれて消えていく。松野はその移ろいを暫し見つめ、徐に口を開いた。


「俺は…浜ヶ崎も十分優しいと思うけどな」

「……は?」


 浜ヶ崎は煙草を咥えたまま、肩眉を上げて松野を見る。


「ほら、ヤクザって、利益の為ならどんな手でも使う極悪非道人のイメージがあるやん?」

「おまっ、……ほお」


 おいおい悪意のなさそうな表情でキツイ事言うてくれるやんけ…と、浜ヶ崎は面白そうに目を細める。


「でも、浜ヶ崎はちゃうやん。俺の事心配して、ちゃんと一線引こうとしてくれてるやん。そういう優しさ見せられるとさ~、何かやくざのイメージ変わっちゃうよね~~~」

「うぅわ、何やそのキショイ喋り方」


 女子高生の世間話のような、間延びした声とやたらと波打つ語尾。ドン引きした表情で仰け反る浜ヶ崎を一瞥して、松野はフフッと笑う。


「あはははは」


 還暦近いおじさんの無邪気な笑い声が、爽やかな夜風に乗る。

 何がそんなに面白いんだ?と疑問に思いつつ、浜ヶ崎は再び煙草を咥えた。


「…うちの組は基本カタギを巻き込まないのが信条やねん。お前、どこのヤクザも一緒だと思って気ぃ許すと、痛い目見るから気を付けろよ」


 このお人好しの場合、知らぬ間に事件に巻き込まれていた――なんて事になりかねない。


 ――まったく…こっちは本気で心配してんのに…。


 お気楽そうに笑う松野を見ていると、心配するだけ損な気がしてくる。

 はぁ…と肩を落とした浜ヶ崎は、柵に腕を乗せ寄りかかる。

 ゆっくりと煙を吸いこみ、フーッと長い雲を作る。

 春が産まれてからはすっかり吸う事のなくなった煙草。だけど、雪と揉めてイライラして、コンビニで久しぶりに買ってしまった。


「みっちゃん、体に悪いんだから煙草やめなきゃダメよ」


 そう口癖のように言っていた夏子の声が、ふと聞こえた気がした。


 ――ええやん。今までちゃんと我慢してたんやから、一回くらい。


 と、心の中で反論する。

 すると、


「だーめ。あなたの事だから、一度吸い始めたらまた吸いたくなっちゃうじゃない!」


 と、強気な目をさらに吊り上げて、パシン!と浜ヶ崎の背を叩く。

 そんな記憶の中の夏子が浮かび、浜ヶ崎はバツが悪そうな顔をした。


「……はぁ~~…」


 深い海に沈むような溜め息を吐き、ポケットのズボンをゴソゴソと探る。そして小さいポーチ型の携帯灰皿を取り出すと、蓋を開け、煙草をギュッと押し込んだ。まだ煙草は残っていたけど、仕方ない。最愛の人が、止めろと言うのだから――なんて言ったら、「だったらあたしが生きてる時に言う事聞きなさいよ!」と怒られてしまいそうだが。


 ――失ってから気づくこともあるんやで~。


 と、誰が聞いている訳でもないのに言い訳をして、柵に肘を置き、頬杖を突く。


「なぁ」

「…あ?」


 窺うような松野の声に、浜ヶ崎はぶっきらぼうに返事をする。


「その…雪の事やけどさ」


 不貞腐れ顔の浜ヶ崎を、松野は気まずそうにチラリと見る。


「あんま怒らんといてあげてな。…俺、雪が居なかったら、まだ外が怖くて出られなかったと思うし…」

「……」

「あっ!…ちゃんと!一週間経ったら、雪ともう関わらないようにするしっ…それに、俺、そろそろ引っ越ししようかな~って思っててん!」

「…引っ越し?」

「おお。俺、もう社長じゃなくなったから、東京に住む意味ないし…。じ、実家の方とか…田舎に住むのもええかな~って考えててん。だから、な!マンション内でばったり会った~…なんて事も無くなるから…うん」


 ははは、とぎこちなく笑いながら言う松野。急な思い付きのように聞こえるが、嘘じゃない。クビになってから、この場所に拘る意味はないよなと思っていた。


 ――…なんで松野がそんなに必死になんねん。


 雪が怒られたのは自業自得なんだから、気にしなきゃいいのに。

 しどろもどろな松野の様子を、浜ヶ崎はじーっと眺める。


「…松野」

「お、おお。なんや?」

「お前…社長辞めた時、『辞めろ』って言われるがまま辞めたやろ」

「えぇっ!?…も、も~…何ぃ?急に…」


 ドキッ!と肩を跳ね上げた松野は、勘弁してくれよ…と言いたげに浜ヶ崎を見つめる。不意に図星を突かれると、非常に心臓に悪い。バクバクと脈打つ胸に、松野はげっそりした表情で手を添える。


「どうなん?」

「いや…そんな事よりも、俺は雪をやなぁ…」

「あ~~それや、それ。お前、いーっつも人の事ばっかり考えとるから、きっと辞める時も、周りの意見を尊重して、大して抵抗せず受け入れたんやろうな~って思ったんや」

「ぐっ…!」


 「おい、違う」「俺は意志の弱い男じゃない」

 そう言いたいけど、思い当たることしかなくて言い返せない。

 ぐぬぬ…と、不服そうに言葉を呑みこむ松野を見て、浜ヶ崎は鼻で笑う。


「お前の人生なんやから、もっと自分中心の考えで生きたほうがええんちゃうん?」

「…自分中心の考え?」

「そ。…ま、俺の人生やないしぃ~?知ったこっちゃないけど~~」


 さっきの松野を真似するように、間延びした声で浜ヶ崎が言う。


「うわ、その喋り方キッショイわぁ~」

「がはは」


 大口を開けて笑う陽気なゴリラを見て、松野は顔を顰める。「なんやねん」と言いつつも、頭の中では浜ヶ崎の言葉が繰り返されていた。


 「自分中心の考えで生きたほうがええ」


 そう浜ヶ崎は言っていたけど、自分中心って、今と何が違うんだろう。


 ――よく分からん…って、顔しとるなぁ。


 街に視線を向けた松野の、目の奥が僅かに揺らいでいる。

 思いのほか、自分の言葉が心に引っかかったようだ。


 ――ま、俺には関係ないけど。


 ふあぁ…と大きな欠伸をしながら、ポケットに手を伸ばす。指先が煙草に触れて、パッと夏子の顔が浮かぶ。吸いたい、けど――。


「……」


 浜ヶ崎は名残惜しそうに指を離すと、持て余した手をもじゃもじゃの頭にのっけた。口寂しいけど、今からお酒を飲む気にもなれないし、今日も早く起きなきゃいけないし。


「…そろそろ寝るわ」


 無理矢理寝るしかないと決め、頭を掻きながら気怠そうに言う。すると、松野も「あ、俺も寝るわ」と言って柵から体を離した。


「じゃ、また6時にな」

「おお」


 「ふあぁ~~~」と大きな欠伸をする浜ヶ崎に釣られて、松野も大きな欠伸をする。

 松野はベランダの鍵を閉めながら、先に歩いて行く浜ヶ崎の背を見つめた。


 ――こんな丸まった背中で、沢山の人数を仕切ってるんやなぁ。


 ポケットに両手を突っ込み、堂々と廊下を歩く。

 その後ろ姿は、「何でもドンと来い!」と言っているような頼りがいと安心感があって、ただのお飾り社長だった自分とはえらい違いだなぁと思う。

 浜ヶ崎はヤクザだけど、話しやすいし、意外と優しい。だから部下達も慕っているんだろう。

 さっきの会話も楽しかった。もし、浜ヶ崎がヤクザの組長じゃなくて普通の一般人だったら、友達になれたのかな――と考えて、ハッとする。


 ――…ヤクザに気を許すなって言われたばっかりなのに。…あかんな、俺。


 浜ヶ崎に知られたら、馬鹿にされるに違いない。


「……早く寝よ」


 大きな背中をしょんぼりと丸め、寝室のドアノブに手を伸ばす。音がしないよう静かに扉を閉めると、ボフンとベッドに倒れ込んだ。


 日付が変わって、今日は4日目。

 あと残りの時間を、ちゃんと自分は線引きしたまま過ごせるだろうか。


 ――いや…しっかりしなきゃいかんな。“自分の為”にも。


 そう自分に言い聞かせて、松野はゆっくりと目を閉じた。


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