第10話 松野、外に出る


 「出かける準備してくる」


 と言って、ウォークインクローゼットに向かった松野。春と遊びながら帰りを待っていた雪は、戻ってきた松野を見た瞬間、思いっきり眉を顰めた。


「……えっ、その恰好…不審者じゃね?」


 松野の頭の先から爪先まで見て、躊躇いつつも指摘する。


「えっ!?…マジで…?若者っぽい格好にしたつもりなんやけど…」

「いや、服がどうっていうか…」


 白いTシャツに薄手のベージュのジャケットとベージュのチノパン。ここまではシンプルなので、別に良い。しかし、顔がすっぽりと隠れそうな黒のバケットハットと、昔の警察ドラマに出てきそうな、クセが強いサングラス。そして、鼻から下を覆うマスク。首から上だけ見ると、完全に指名手配犯だ。

 雪の指を握る春も、「この人は誰だ?」と、ポカンと口を開けて松野を見ている。


 ―…一緒に歩きたくねぇ~…。


 こんな格好で外に出たら、周りから変な目で見られそうだ。

 雪は額に手を当て、やべ~な~…と片目を瞑る。

 正直、隣を歩きたくない。

 でも、折角松野が外に出る決意をしたのだ。

 しかも、促したのは紛れもない自分。


「……」


 しょうがない。この鉄壁の装備をする事で、松野が少しでも安心して外に出られるのなら、多少の恥くらい我慢しよう。


 ―マジで嫌だけど…どうせ、一時間しか外に行かないし…。


「まぁ~…うん。何とかなるっしょ」

「……『何とかなる』って何?」


 「えぇ…」「不安やねんけど…」とブツブツ言う松野に「大丈夫大丈夫」と言いながら抱っこ紐を渡す。松野は不安気な顔でベルトを腰に巻き、春を抱っこして胸元にくっつける。


「後ろ止めるよー」

「おぉ…ありがとう」


 自信がなさそうな背中に垂れる、抱っこ紐のバックル。それをパチンと止めた雪は、


「ほら、行くよー」


 と言うと、松野の背中を後ろから押した。軽く抵抗を感じるその背中は、ホッカイロでも貼ってるんじゃないかと思うくらい熱い。


 ――発表会前の子供みたい。


 右手右足を一緒に出してピアノに向かう、緊張MAXの子供のような。強張った顔で靴を履く松野の背を、雪はポン!と強めに叩く。


「!」


 「大丈夫」と言葉にしなくても、雪の励ましが掌から伝わってくる。

 松野は目を閉じ、静かに深呼吸をする。

 そして「よしっ」と気合を入れると、意を決したように玄関のドアを開けた。



 久々の外は眩しかった。

 正確にはサングラスをかけているので眩しくないのだが、こもっていない空気の新鮮さや、3週間ぶりの日差しを肌で感じ、別世界に来たような感動を覚えた。


「こっちに行こ」

「おお」


 真っ黒な日傘を差し、黒革のマザーズバックを肩にかけた雪が人差し指を右に向ける。松野は言われるがまま頷くと、雪の後ろをヒヨコのようにくっついて歩いていく。


 ――「外に行こう」って言われたけど、どこに行くんやろう…。


 キョロキョロと目だけを動かしながら、辺りを見る。すると、雪はマンションのすぐ隣にある大きな公園に入って行く。この公園は都心の中心部にしては珍しく、遊具の広場の他に、キャッチボールやバトミントンができる広い芝生やウォーキングコース、管理事務所も設置されている。


 ――この公園、のんびり歩くなんて初めてやなぁ…。


 今までジョギングをしに来た事はあるが、ゆっくりと周りを見ながら歩いた事は無い。


 ――あれ…公園の入り口ら辺にも寺があったのに、出口の方にもあるやん。


 よく見ると、そのお寺の奥の方にも別なお寺の瓦屋根が見える。今のマンションに住んで15年以上経つのに、近所に沢山お寺があるなんて知らなかった。

 会社も順調だし、一度くらい高級タワーマンションに住んでみようかな…と、華やかな生活を夢見て借りたマンション。

 しかし、寝る場所が変わっただけで、特別心が満たされる事はなかった。

 寧ろどんどん忙しさが増し、近所を散策する余裕も持てなかった。


 ――平日も休日も、仕事ばっかりやったもんな。


 じんわりと額に浮かぶ汗を拭いながら、松野は天に向かって青々と茂る木々を見上げる。


「…外、こんなにあっついんやな」


 葉の隙間を縫って降り注ぐ陽の光に、目を細めてポツリと呟く。

 昨日、吟が汗だくになっていた理由がよく分かる。風は若干涼しいが、日差しは初夏と思えぬ程強い。


「まだ5月末なのに、嫌んなるよね…。春も暑いだろうから、涼しい所に行こうね~」


 雪が日傘から顔を出し、春に微笑む。すると、クマの耳が付いた黒い日除け帽子を被った春は、抱っこ紐からプラ~ンと出た足をバタバタさせながら「あうー!」と答えた。

 元気なお返事に「ふふっ」と笑う雪。

 その嬉しそうな笑顔には、安堵の色も滲んでいた。


 家を出るまでは、注目の的になるだろうと思っていた、松野の格好。

 しかし、時間帯が良かったのか、あまり通行人に出会わない。たまにすれ違う人がいても、スマホを見ているか、ギョッとしてすぐに目を逸らされる。

 思いのほか快適に過ごせている状況に、雪はとても喜んでいた。


 ――…なんや、えらい楽しそうやなぁ。


 日傘で隠れて顔の下半分しか見えなかったが、雪の口元が楽しそうに弧を描いていた。

 春と散歩ができて嬉しいのかな…と考えていると、春が「あきゃ~!」と叫びだす。春は今日、ずっとテンションが高い日のようだ。


「ね。あそこにカフェがあるから行こ」


 チョンッと人差し指を前に向ける雪。50m程先の、公園の出口の先にある洋風のお店。そのオシャレな店構えを見て、松野は「えっ」と声を上げた。


 ――…折角、誰にも声をかけられずにここまで来たのに…。


 “周りの人にバレていない”――この事実にホッとしているのは、雪だけでなく、松野もだった。

 お店の中に入ったら、定員と会話しなければいけなくなる。そうしたら絶対、「うわ、あの間抜けな社長じゃん」とバレるに違いない。


「……」


 ズンズンと前を歩く雪について行くものの、視線を伏せ、黙ってしまった松野。その神妙な顔付きを、雪が顔を後ろに向けて見つめる。

 不安。緊張。恐怖。そんな負の感情が、固く結ばれた唇や瞳から伝わってくる。


「…あのお店、テラス席あるんだ」

「…へ?」

「あたしが注文してくるから、テラス席で春と待ってて」


 そう言って微笑むと、雪は駆け足でお店に向かう。


「えっ、ちょっ」


 慌てた松野がその背を追って手を伸ばすも、雪はあっという間に店内へと消えていく。


「……早っ」


 宙で寂しく止まった手を下ろし、パタン…と閉まるガラス扉を見つめる。


「……」


 今すぐ帰ってしまいたい。でも、雪は注文しに行ってしまったし、このまま置いて帰る訳にはいかないし。

 松野は狼狽えながらも、雪に言われたテラス席を探す。そして、お店の横にウッドデッキの階段があるのを見つけると、重い足取りで段を上った。お客さんが居たらどうしよう…と不安が過ぎるが、幸い先客は居なかった。松野はホッと息を吐きつつ、開放感のあるテラス席を真剣に見つめる。


 ――店員さんに声かけないで、座ってええんかな…。


 ビニール屋根が付いた細長いウッドデッキには、2人掛けの木製のテーブルが12脚ある。その中のどこに座ろう…と考えて、一番奥にある目立たない席を選んだ。


「ふぅ~…」


 シンプルなブラウンの椅子を引き、ドギマギしながら座る。暑さと緊張で蒸れたバケットハットを取った瞬間、サアァッとそよ風が通り過ぎた。爽やかな心地良さに、松野も春も自然と目を閉じる。風が顔や肩を撫でる度、勝手に力が抜けていく。松野は静かに目を開けると、ボーッと目の前の景色を見た。

 眼前に広がる、大きな公園。心安らぐような緑のアーチと、小さな子供達がはしゃぐ声を聞きながら、ああ、自分はさっきここを通ったんだな…と、何となく思う。 

 春にTシャツを引っ張られながら、ボケーっと周りを眺めている松野。すると、


「ごめん。勝手にアイスコーヒーにしちゃった」


 と言いながら、雪がお店とテラスを繋ぐガラス扉を開けてやってきた。


「おぉ。全然ええで。…それより、いくらかかった?お金払うわ」


 散歩だけだよな?と思いつつ、念の為、お財布とスマートフォンは持ってきていた。


 ――良かった…あの時、玄関でポケットに突っ込んで…。


 若い子に奢られるという恥ずかしい事態にならなくて良かった。自分の勘に感謝して、パンツのポケットに手を入れる。雪は向かい側に座りながら、財布を取り出す松野に片手を振った。


「良いよ。別に気にしなくて」

「へっ?いや、でも…こんなおじさんが若い人にお世話になるのは…」

「いーの!あたしが来たいって言って無理矢理誘ったんだから」

「えぇ…でも…」

「ねぇねぇ。春、汗かいてるでしょ?飲み物飲ませてあげて」


 納得できず眉を寄せる松野に、雪はマザーズバッグからマグを取り出し、押し付ける。

 雪は絶対に折れないと悟った松野は、


「…今度絶対奢らせてな」


 と言うと、渋々マグを受け取った。春の背を支えながら、自分の背にあるバックルを外す。そして、抱っこ紐から出した春を雪の方に向けると、落ちないように優しくお腹を支えた。


「春~、お茶やで」


 マグの蓋をずらし、ぴょこんと飛び出てたストローを小さな唇に近付ける。すると、春は両手でマグを持ち、パクッとストローに嚙みついた。


「あー、ごくごく飲んでるわ…。すまんなぁ、暑かったよなぁ」


 手で支えているお腹の部分も、真剣にお茶を飲む小さな背中も、しっとりと汗ばんで暑くなっている。


「少ししか歩いてないけど、抱っこ紐の中だから暑かっただろうね。春、頑張ったねぇ。ごめんね~」


 雪はクマの帽子を取ってあげ、汗で変な癖がついてしまった髪を優しく撫でる。マグに集中していた春は、パッと視線を雪へ向けると、左手で雪の手をギュッと握った。


「!!きゃ~~!見て~!あたしの手ぇ掴んでる~!はぁ~~~、ほんっっっっとうちの弟可愛いわ~~!」


 お茶をゴクゴクと飲みながら、上目遣いで雪を見る。その大きな瞳は、わざと雪をキュンキュンさせているのでは?と思う程、可愛さが駄々洩れている。

 ああ、春は将来イケメンになるに違いない。周りの女の子達からさぞモテるに違いない――と、悶絶する雪に、松野は思わず笑みを溢す。


「はっはっは。雪って相当なブラコンよな」

「うん!だって、春、可愛いでしょ!?ま~~じで宇宙一可愛いと思うわぁ。あ~~~…親父、大阪に帰るのやめてくれないかな~」


 「はぁ~…」と溜め息を吐きながら、デレデレの表情で春を眺める雪。普段のクールさの欠片もない姿に松野が笑っていると、テラスの扉がキィッと音を立てて開いた。


「お待たせしました」


 黒いカフェエプロンを腰に巻いたお団子ヘアの女性が、柔らかな笑顔で丸いシルバーのトレーを運んでくる。

 思わずビクッとする松野の前に、店員がおしぼりとペーパーナプキン、アイスカフェオレとアイスコーヒーを静かに置く。


「…ありがとうございます」


 と、ボソッとしゃがれた声が零れて、松野はハッとする。

 まずい。喋るつもりなんてなかったのに。いつもの癖で店員にお礼を言ってしまった。


「……」


 咄嗟に自分の口に手を当て、店員を見上げる。すると、トレーを脇に抱えた店員は


「ごゆっくりどうぞ!」


 と言って、松野に笑いかけた。


「!」

「ありがとうございまーす」


 軽やかな雪のお礼にも気さくに頭を下げ、店員が店内に戻っていく。


「いただきまーす」


 ソッと春から手を離し、雪はストローを口に含む。冷たさに目を細める雪の向かいで、松野は暫し固まっていた。


 ――さっき、絶対目ぇ合ったよな…?


 サングラス越しだったけど、バッチリと視線が合ったのが分かった。恐らく彼女は20代。SNSが身近な世代だから、松野の事は知っているだろうに…全く何も言われなかった。


「……俺」

「ん?」

「もしかして、ブーム過ぎたん?」

「ブフッ」


 真剣な顔で自分を指差す松野に、雪はカフェオレを吹き出した。


「大丈夫か!?」

「ちょっ、あぁっ!溢しちゃったじゃん!」


 顎を伝うカフェオレを、慌ててペーパーナプキンで拭う。雪はおしぼりを袋から取り出して、テーブルに飛び散った汚れを拭く。一生懸命拭きつつも、頭の中から離れない「ブーム」という言葉。それが地味に面白くて、雪は静かに肩を震わせた。


「よ、良かったね…ブームが過ぎてっ」


 クククッ…と押し殺すように笑う雪に、松野はムッとして唇を尖らせる。


「…いや、冗談や無くてマジやねんけど」

「うんうん。そうだね。毎日ワイドショー賑わしてたからね~」


 テーブルが綺麗になったのを確認して、雪は再びカフェオレを飲む。

 「『ブーム』って自分で言うんだ…」とか、「ネガティブな話題を『ブーム』って言わなくない?」とか、「表現ダサッ…」とか。無限にツッコミが浮かんできては、また吹き出してしまいそうになる。


「そうやろ?だから俺、外に出たら絶対人からジロジロ見られて、陰口叩かれると思っててん」

「うん。で?」

「…でも、店員さんに嫌な顔されへんかったわ」

「ふーん。良かったね」

「いや、『ふーん』って、軽ぅっ…」


 散々ある事ない事言われたせいで、松野に植え付けられてしまった“日本中の皆が自分をバカにしているに違いない”という強迫観念。それが、さっきの店員のおかげで、少し和らいだ。まさに、途方もない暗闇に一筋の光が差したような――そんな記念すべき瞬間だったのだが、雪の返事は適当で。

 もう少し喜んでくれても…とシュンとする松野を見つめながら、雪はグラスをテーブルに置いた。


「人間なんてさ、人の不幸が楽しいから最初はワッと群がってくるけど、ネタが尽きればすぐに飽きて忘れるし、次の不幸に標的を向けるでしょ。あの報道からそろそろ一か月経つし…今でもグチグチ言ってる奴が居たら、それはただの暇人だよ」


 呆れたようにそう言って、雪は頬杖を突く。


「……そうか?」

「そーだよ。知ってる?最近は有名俳優と清純派女優の不倫報道でSNSは大盛り上がりだよ。…あっ、今朝は芸人が起こした深夜の路上喧嘩のニュースが話題になってたかな。…だからもう、松野さんがどこで何をしてても、皆気にしないと思うよ」


 フン、と鼻息を吐きながら淡々と告げる雪。その言葉に、


「……そうか」


 と松野は呟くと、ストローを噛んで遊ぶ春を抱いたまま、目を伏せた。

 もしかして、今までしていたエゴサーチは、自ら悪口を求めに行っていただけで、“世間皆の意見”では無かったのかもしれない。…だとすると、雪が言う通り、もう自分の事なんて、皆忘れているかも――そう思った瞬間、松野の目に輝きが灯った。

 報道後以降、ずっと自分をグルグル巻きに縛っていた得体の知れない苦しみから、やっと解放された気がした。


「……」


 松野はマスクを外し、背凭れに体を預ける。空を見上げて、目を瞑る。大きく息を吸うと、新しい風が体の中を駆け巡っていく。全身の細胞が入れ替わるような――生まれ変わるような感覚に、心も軽くなっていく。

 松野は静かに目を開くと、再び背を正した。


「…雪、ありがとな。雪のおかげでスッキリしたわ」


 そう言って、清々しい顔で松野は笑う。

 雪は恥ずかしそうに「ふふっ」と笑うと、


「……どういたしまして」


 と言って、残り少ないカフェオレに視線を落とした。


「あわー!」

「おっ。春、動きたくなったか~?」


 顔を松野に向けてテーブルを叩く春に、松野は優しく笑いかける。春の両脇に手を入れ、太ももの上で立たせると、春は楽しそうに足踏みを始めた。


「…もう少ししたら帰ろっか」


 ポケットからスマートフォンを取り出して、雪は時間を確認する。


「ってか松野さん、コーヒー全然飲んでないじゃん。春抱っこしとくから、ちょーだい」

「おお。ありがとう」


 立ち上がった雪が、松野に向かって手を伸ばす。


「あきゃ~!うや~!」

「は~い。お姉ちゃんとこおいで~」


 元気に暴れる春を、雪が慎重に受け取る。雪がちゃんと椅子に座ったのを見届けてから、松野はアイスコーヒーに口を付けた。


「!!うまっ!」


 ズッ…と吸い込んだ瞬間、コーヒー豆の香ばしい香りがスコーン!と鼻を突き抜ける。香りはとても豊かなのに、味は全然しつこくない。あっさりしていて、凄く飲みやすい。


「でしょ?たまに友達と来るんだ~」


 胸元にゴン!ゴン!と頭突きをされながら、雪は嬉しそうにニコニコする。どうやら、友達と楽しい学校生活を送れているようだ。


 ――良かった。本当に友達居たんやな。


 なんて、失礼な事を思いながら、松野も嬉しそうにコーヒーを啜る。

 あっという間に時間が過ぎていき、二人は談笑しながらマンションのエントランスに戻ってくる。このまま笑顔で別れると思ったのだが――


「こんな時間に戻ってきて、ちゃんと授業に間に合うのか?雪」


 と、二人の背後から声がかかった。

 聞き慣れたガサツいた声に、


 ――あっ、浜ヶ崎帰って来たんやな。


 と、松野は笑顔で振り返る。しかし、松野の後ろで一歩遅れて振り返った雪の表情は強張っていた。

 クールな目元が父親の姿を捉える。

 スラックスのポケットに手を突っ込み、仁王立ちをする浜ヶ崎。その顔は笑っているように見えるが、目の奥が全く笑っていない。


 ――ヤバい…ガチで怒ってる時のやつだ。


 射抜くような浜ヶ崎の目を雪もジッと見つめ返す。二人の沈黙を松野が不思議に思っていると、浜ヶ崎が「はぁ…」と小さく息を吐いた。


「…松野、悪いけど吟と龍二と一緒に家戻っててくれるか?」

「?おお」


 「別にいいけど…」と頷くと、浜ヶ崎に頭を下げた吟と龍二が、松野に「行きましょう」と声をかける。エレベーターに向かう二人について行こうと数歩歩いて、松野はふと足を止める。


「雪、今日はありがとな」


 スラッとした後ろ姿に、松野が嬉しそうに笑いかける。すると、僅かに顔を傾けた雪は「うん」と小さく頷いた。松野は「また後でな」と言い、扉が開いたエレベーターに足早に乗り込む。


 ――二人ともえらい真剣な雰囲気やったな…。きっと、大事な話するんやろうな。


 そう、ぼんやりと思いながら、ウトウトとする春の頭を撫でる。

 このまま春は、お昼寝タイムに突入するかもしれない。そうしたらお風呂は17時くらいになるだろう。その間に大学終わりの雪が来て、皆で夜ご飯を食べる。そして、食後のコーヒーを飲みながら、雑談をする。

 今日も賑やかな夜になりそうだな――と、想像する松野。

 しかし、30分後に雪が持っていたマザーズバッグを手にして帰ってきた浜ヶ崎は、どこか険しい顔をしていた。

 そして、その日雪が家に来ることは無かった。

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