第8話 二日目の終わり


 美味しい夜ご飯で満たされたお腹を突き出して、吟は幸せそうな顔で廊下を歩く。

 鼻歌を歌いながら洗面所に行く姿は、絵に描いたような上機嫌だ。乱雑に置かれた歯ブラシに手を伸ばし、歯磨き粉を付ける。そして大きく口を開こうとした瞬間、ピリッとした痛みが口の端に走った。


「いてて!」


 咄嗟に口元に指を添え、顔を歪ませる。

 指の下でザリッと感触を主張する赤いミミズ腫れ。お風呂場で春に引っかかれてできた、新たな傷跡だ。パッと見細長いだけの何てことない傷なのに、地味に痛いから困る。

 しかも、今日の夕食は吟が大好きな龍二お手製麻婆豆腐だったのに…傷口に触れただけで激痛が走るから、あんまりおかわりができなかった。


「もっと食べたかったなぁ~…」


 眉をハの字にしながら、そっと歯ブラシを口に含む。

 松野のアドバイス通り、春に優しく丁寧に接すると、嫌そうにしつつも抱っこをさせてくれるようになった。しかし、如何せん自分自身が丁寧な人間じゃないので、力の強さや触れ方、声の大きさを調整するのが難しく、すぐに怒らせてしまうのだ。


 ――はぁ~…。坊ちゃんと仲良くなるまで、まだまだ時間がかかりそうだなぁ~…。


 松野が居る間に、何としてでも春と距離を縮めなければ――そう思うけど、本当にできるか不安になる。

 ああ。昔、強さ自慢をするヤンキー達に絡まれまくって喧嘩三昧だった――あの時の方が、遥かに楽だ。

 小さな傷なんて全く気にした事がなかったし、何にも考えずに好き放題暴れられて楽しかった。


「いてててて…」


 傷口に当たらないよう恐る恐る歯磨きをして、口をゆすぐ。濡れた口元を適当に手の甲で拭うと、鏡の中の情けない自分と目が合う。“日本有数のヤクザ”という圧倒的強さに憧れて浜ヶ崎組に入った頃の自分が、今の自分を見たらガッカリするに違いない。


「はぁ~…」


 しょんぼりと肩を落とした吟は、トボトボと歩き、皆が集うリビングに行く。すると、入り口で壁に背を預けていた松野が「なぁなぁ」と吟に声をかけた。


「なんすか?」


 ヒソヒソ声で話す松野に合わせ、吟も声を潜める。


「…なんか三人共、元気がないように見えるんやけど…何かあったんか?」


 心配そうに尋ねる松野に、吟は「へ?」と言いながら三人を見る。

 ネイビーのサテン生地のパジャマを着た浜ヶ崎は、眠そうな春を抱っこして、窓の外の景色を見ながらゆらゆら揺れている。

 龍二は胡坐をかき、険しい顔でパソコンと睨めっこしている。

 雪はソファの上で体育座りをし、真顔でスマートフォンを弄っている。

 普段と変わらない姿ではあるが、松野が言う通り、どことなく重たい空気が流れているように見えなくもない。


「うーん…」


 吟は腕を組み、首を傾げる。

 吟と松野と春がお風呂から上がった時、龍二は料理を作っていて、浜ヶ崎と雪は少し離れた場所に座り、スマートフォンを弄っていた。食事中は基本的に会話をしないので、ただ黙々と食べていただけ。その後浜ヶ崎がすぐにお風呂に入って、龍二と吟で洗い物をして、雪は松野と一緒に春と遊んで――。

 振り返ってみても、特に引っかかることは無い。けど、あえて言うなら、僅かに龍二と雪の声が低かった気がする。…と、なると。


「…多分、二人が親父に怒られたんだと思いやす」

「!ほぉ」

「でも、親父は理不尽な事で怒ったりしないんで、大丈夫だと思いやすよ。きっと、寝て起きたら皆元通りです!」


 「いつもそうなんで」と言ってニカッと笑い、親指を立てる。

 絶対的な浜ヶ崎への信頼と、確信的な絆の強さ。

 それを吟の明るい声から感じ、松野は一瞬言葉を詰まらせた。


「…ええなぁ。ちゃんと信頼関係があるんやな」


 ポツリと零れた言葉が、悲しそうに消えていく。

 自分と部下達には無かった信頼関係。それが四人の間にはあるのだなと思うと、羨ましい。


「へい!俺も兄貴達も、親父の為なら命だって惜しくねぇっす!」

「…そうか」


 キラッキラの笑顔で鼻を掻く吟を見て、松野は眩しそうに目を細める。


 ――俺らも、最初の時は何でも腹割って話してたのにな…。


 もし、自分がもっとうまくやれていたら、四人みたいな絆ができていたのかな…と妄想しかけて、慌てて頭を振る。

 過去にしがみついても良い事は無いと分かっているのに、気を抜くとこんな事ばかり考えてしまう。


「…吟、春が寝そうやから静かにしてくれ」

「!!へいっ!すいやせん!」

「だぁかぁらっ…!もう少し声のボリュームを落とせって!」

「!!へ、へいっ」


 ギロッと鬼の形相で睨んでくる浜ヶ崎に、吟は小声で頷き、背を正す。


「…あたし、そろそろ家戻るわ」

「おー。はよ寝ろよ」

「うん。…おじゃましました」


 立ち上がった雪が、軽く松野に頭を下げる。


「お、おお。またいつでも来てな」

「…うん」


 慌ててニカッと笑うと、雪がフッと小さく笑う。そして浜ヶ崎の方へ歩いて行き、今にも寝そうな弟に「おやすみ、春」と微笑みかける。


「お嬢、おやすみなさい」

「おやすみ」


 パソコンから顔を上げた龍二に頷き、玄関に向かう。その雪の後ろを、吟がちょこちょこ付いて行く。


「お嬢!いい夢を!」

「ちょっと!春が起きたらどうすんの!」

「あっ、すいやせん…!」


 頭の横をペチンと叩かれ、糸目がギュッと潰れる。

 ぎゃあぎゃあと小声で怒る雪の声を聞きながら、浜ヶ崎は「雪もうるさいっちゅーの…」と呆れたように呟く。

 やがてパタンと扉を閉める音がして、吟がリビングに戻ってきた。


「お嬢、明日の朝も来るって言ってやした」

「おう」


 ポン…ポン…と小さな背中を叩きながら、浜ヶ崎は目線だけで頷く。そして、春がぐっすり眠りについた事を確認すると、浜ヶ崎は安堵の息を吐き、松野に顔を向けた。


「松野、春が寝たから俺も寝るわ。松野も寝たいときに寝てくれ」

「おお。分かった」

「龍二、すまんな。残りの仕事は明日の朝確認するわ」

「はい。おやすみなさい、親父」


 片手を上げた浜ヶ崎に、龍二が立ち上がって頭を下げる。


「吟、部屋とキッチンの片付けやっとけよ」

「へい!」


 元気よく頭を下げた吟に「頼むな」と言い、浜ヶ崎はリビングを出る。

 「ふあ~あ…」と廊下から聞こえてくる大きな欠伸。松野は目を丸くすると、声を追うように首を伸ばした。


「なんや…えらい疲れとるんやなぁ…」


 日中、長時間外出しているイメージはないけれど。

 こんなに疲れるまで、一体何をしていたんだろう…と、疑問に思う松野の呟きに、龍二と吟は、今日の高田と浜ヶ崎のやりとりを思い出す。浜ヶ崎は何度も仕事の話をしようとしていたのに、その度に高田が縁談話を被せていた。あれは相当ストレスだったに違いない――と、二人は唸る。

 しかし、それを松野に言う訳にもいかないので


「まぁ…大変な事は仕事以外にも色々あるんで」


 と、龍二は濁す。


「…松野さんも、もうおやすみになってください。俺達もやらなきゃいけない事済ませたら、寝るんで」

「おっ、おぉ…分かった」


 松野は相槌を打ちながら、チラリと時計を見る。今は20時5分。まだ寝るには早い時間だが、ここに自分が居たら、二人が気を遣うかもしれない。


「…じゃ、先に寝ようかな。おやすみ」

「はい。おやすみなさい」

「へい!おやすみなさい!」


 微笑む龍二と吟に手を上げて、松野はリビングを後にする。

 洗面所で歯磨きをし、寝室にやってきた松野は、綺麗にベッドメイキングされた掛け布団の上にボフンと体を沈ませる。

 吟が布団を干してくれたおかげで、雲のようにふわふわだ。


「はぁ~…」


 太陽の匂いを吸い込んで、幸せの溜め息を吐く。二日続けて清潔なベッドで寝てみると、引きこもっていた三週間が、如何に堕落した、且つ、不衛生な生活だったのかが分かる。掃除って大事なんだなぁ…と改めて思いながら、松野はゆっくり目を瞑る。


 ――…やばっ、寝そう…。


 寝るのにはまだ早いと思っていたのに。あまりにも気持ち良すぎて、布団に吸い込まれるように、意識が遠退いていく。


「あかん…アラーム、セットしないと…」


 確か、6時に起きないと怒られるんだっけ。

 松野はググッ…と体を起こし、無理矢理目を開く。ポケットを探り、入れっぱなしだったスマートフォンを取り出す。真っ黒の画面を付けようと、電源ボタンを何度も押して、ハッとする。


「電源…切れてたんや…」


 そう言えば、今日はスマートフォンが震えなかった。ただ連絡がないだけだと思っていたが、いつの間にか電源が切れていたようだ。


 ――…まぁ、切れたところで、どうせ誰からも連絡来てないだろうから、別にええけど…。


 と、思いつつも、万が一の時に浜ヶ崎と連絡がとれないのは困る。


「充電器、充電器…」


 ベッドサイドテーブルの引き出しから充電器を取り出し、ベッドについているコンセントにプラグを挿す。眠たい目を擦りながらスマートフォンを繋ぐと、充電不足のマークが表示された。


 ――しょうがない…目覚まし時計、使お…。


 長らく使っていなかった、木製の四角い目覚まし時計。

 ベッドサイドテーブルの上に置きっぱなしにしていたので、埃が被っていた筈だが、新品のように綺麗になっている。きっと、吟が綺麗にしてくれたのだろう。

 「ありがとう、吟」と心の中で感謝しながら、時計を手にとる。5時40分にアラームをセットし、テーブルに戻す。松野は小さく欠伸をすると、ボフッと枕に顔を埋めた。スゥッ…と勝手に瞼が閉じていく。


 ――……春が居ないと、広く感じるなぁ…。


 そう、ぼんやりと思いながら、松野は静かに寝息を立てた。


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