第7話 雪、襲来・2

 

 傾いた太陽の眩い日差しに気付き、松野はレースのカーテンを閉めた。

 春は本日三度目のミルクタイム中。バウンサーにどっしりと座り、美味しそうにミルクを飲んでいる。

 皆が出かけた後の春は、終始ご機嫌だった。今日も離乳食を抵抗なく食べてくれたし、お昼寝もオムツ交換もスムーズにできた。グズッても長時間泣き続ける事は無いし、こちらの言葉にちゃんと反応してくれる。本当に育てやすい子だと、今日一緒に居て改めて思った。

 松野は春の前でしゃがみ、哺乳瓶に夢中のクリクリお目目を見つめる。この大きなまん丸の目は、母親譲りなのだろうか。…いや、あのゴリラ顔の父親も、子供の時は大きなお目目だったのかもしれない――なんて考えていると、松野の視線に気づいた春が、嬉しそうに「ふへへ」と笑い、哺乳瓶をブンブンと振り始める。


「ははは、ご機嫌やなぁ」


 と、松野が笑った瞬間、ピンポーンとインターフォンが鳴った。

 ビクッと松野の肩が震える。時刻は16時23分。三人が帰ってくる18時にはまだ早い。


「…宅急便か?」


 首を伸ばし、遠目に画面を見てみる。四角いモニターの中に、キャップを被った人が立っているのが見える。しかも、背景がエントランスではなく玄関の外だ。


 ――す…すぐそこにいるやん…!


 何でエントランスでチャイムを押さないんだ!と戸惑いながら、忙しなく視線を彷徨わせる。


 ――…どうしよ…。宛名と顔で、俺があの“無能社長”だとバレるかもしれへん…。


 このまま居留守を使った方が…いや、それだと再配達してもらう事になるし…。置いといてくださいってお願いしようかな…どうしようかな…と、うだうだ考える。すると、再びピンポーンとチャイムが鳴った。「居るのはバレてるぞ」と言われているような気がして、松野は思わず飛び上がる。


「はいぃっ!」


 画面越しに伝わる得体の知れない圧に逆らえず、松野は慌ててインターフォンに近寄る。

 ああ、せめてゴシップに興味のない配達員さんでありますように――と、祈りながらインターフォンの通話ボタンを押す。


「はっ、はい!」


 ドギマギしつつ呼びかける。すると、


「……どうも」


 と、聞いた事のある声が返ってきた。


「…えっ?」


 あれっ、この声って――。

 ポカンと口を開け、画面を見つめる松野。その視線の先で、インターフォンに映る人物が目深に被ったキャップを上にずらした。


「!!」


 ツバの下から出てきた、ハッとするような意志の強い瞳。

 何でここに…と、驚いて固まる松野に、痺れを切らした来客人――雪が気怠そうに息を吐いた。


「ねぇ…上がってもいい?」


 言葉こそ疑問形だが、形の良いアーモンドアイには拒否を許さぬ迫力がある。更に戸惑ってしまい言葉が出てこない松野を、雪はカメラ越しにジロッと睨む。松野はビクッと肩を跳ね上げると、「はっ、はいぃ!」と声を裏返らせながら、慌てて玄関へ向かった。



「……どうぞ」


 松野はおどおどしながらそう言うと、リビングのローテーブルにグラスを置いた。おもちゃで春と遊んでいた雪は、声に促され、グラスに目を向ける。そして、グラスに入っているのがミルクたっぷりのカフェオレであることに気付くと、「ふぅん…」と意外そうに呟いた。


「ありがと」

「いえ…」


 「ははっ…」と愛想笑いをして、松野はそそくさとキッチンに戻る。

 水切り籠で逆さまになっているグラスを取り、自分用のアイスコーヒーを作っていく。別に飲みたくもないけど、春の相手をしないとなると、やる事が無くて。スプーンでコーヒーとミルクを混ぜながら、松野はグルグルと頭を回転させる。


 何故、彼女はこの家にやってきたのだろう。

 「好きな時に弟さんに会いに来て」と言ったのは自分だが…まさか、身内が居ない時に来るとは思わなかった。


 雪の反応を見ていると、自分に良い印象を抱いている気がしないし、何なら喋りたくなさそうなのに。

 気まずくないのかな…と疑問に思うが、弟と楽しそうに遊ぶ姿を見る限り、本人は何も気にしていなさそうだ。


 ――うーん…俺、何してればええんやろ…。


 とりあえず、二人の邪魔にならないようにジッとしていた方が良い気がする。

 松野はススス…と忍び足でリビングへ移動すると、グラスを静かにテーブルに置き、ソファの端っこに座った。


「………」

「春、これにタッチしてごらん~」


 少し高く掲げてガラガラを振る雪を、松野は横目でチラリと見る。


「あうー」


 おもちゃの音につられて手を伸ばした春は、授乳クッションに包まれる中、何とか触ろうと指でおいでおいでをする。けれども、あと少しの所で触れない。ドスンドスン!とお尻を浮かせようとしながら必死に手を伸ばす姿に、雪がふふっと微笑む。


「あぶーっ!」


 春はもどかしさを吐き出すように叫ぶと、膝の前に手を付き、体を揺らし始めた。


「あ!あ!」


 遠くに座る松野に呼びかけるように、めいっぱい首を伸ばして声を上げる。


「あー!やー!」


 手を前に出し、四つん這いでハイハイしようとする。しかし、まだ腰が据わっていないので、上手にお尻を浮かせない。


「ふぇっ…」


 春は元のお座りの姿勢に戻ると、くしゃりと顔を歪ませた。

 上手におもちゃに触れないし、ハイハイもできない。何で?…と思うけど、何で思うように動けないのか、春にはまだ分からない。春は悔しそうに自分の膝を叩くと、


「や――――!!」


 と叫び、ポロポロと大粒の涙を流し始めた。


「はっ、春…っ!」

「あ――――!!」


 うわんうわんと泣き叫ぶ春の背中を、雪はあたふたしながら撫でる。

 春が泣く姿は何度も見てきたが、こんなに自分の感情を剥き出しにしているような泣き方は見た事がない。


 ――どうしよう…意地悪し過ぎちゃったのかな…。


 手をバタつかせる春を宥めようと試みるも、火に油を注いだように声がでかくなるばかり。


 ――あ~~~、どうしよ…。


 スマホで“赤ちゃん”“泣き止ませ方”と調べるべきか…と悩む雪の横に、松野がひょこっとやってきた。


「!」


 驚く雪の隣で膝を付いた松野は、腕をブンブンと振り回す春の両脇に手を入れる。そして


「そうかそうか。春、歩きたかったんか~」


 と、優しい声音で頷きながら抱き上げると、涙でべちょべちょの春に微笑んだ。


「うやー!あー!」

「お~、そうかそうか」

「ぶー!うー!」

「うんうん」

「だ~!あ~~!」

「そうやな。頑張ってたのに、悔しいなぁ」


 訴えかけるように太い腕をペシペシと叩く春に、松野は大袈裟に相槌を打ってみせる。しかし、それでも春は不満気だ。松野は体育座りすると、立てた膝の上に春を乗せ、顔を近付けた。


「春、大丈夫や。きっと春ならすぐお座りもできるし、ハイハイもできるようになるわ」

「あー、ぶー…」

「お~、本当や!ハイハイどころか歩けるようになるかもしれんで~」


 おでこをコツンと合わせ、ニコリと笑う。すると、春は


「ばー!」


 と言って、松野の服をギュッと握った。既におでこがくっついているのに、さらにグイ~ッと引き寄せようとする春を見て、松野の目尻の皺が深くなる。


「そうやなぁ。一緒に練習できるといいな」


 優しく包み込むような。そんな穏やかな声で微笑み、小さな春の頭を撫でる。その心地良い温かさに、春はふへへと笑うと、より一層手の力を強めた。


「…ねぇ」

「ん?」

「もしかして、春が喋ってること分かるの…?」


 くるんと綺麗にカーブされた睫毛を瞬かせ、雪が恐る恐る尋ねる。あまり物事に動じなさそうな雪にしては珍しく、魔法を目の当たりにしたかのように瞳が輝いている。


「いや、分からんなぁ」

「!!、なんだ……」


 はっはっは。と松野が笑うと、雪の目から、ふ…と光が消える。

 赤ちゃんの言葉が分かるなんてあり得ないのに、あまりにも普通に会話をしているから、もしかして…と思ってしまった。

 はぁ…と息を吐き、膝を立てる。

 雪は立てた足を抱きしめると、膝の上に顎を乗せ、二人を見つめた。


「……」


 顔中涙塗れになっている春と、春の顔をガーゼで拭ってあげる松野。自分の手が汚れるのを厭わずにお世話をする姿は、まるで愛孫を見守るおじいちゃんのようだ。

 皺が深く刻まれた穏やかな横顔を、雪は目を凝らして見つめる。


 ――…なんでだろ…。


 何故だか分からないのだが、この横顔を見ていると、懐かしい気持ちが湧いてくる。昔見た、誰かの姿と重なるのだ。

 でも、誰だっけ。松野みたいに、世界平和を願っていそうな、お人よしの顔をした人――。


「……あっ」


 雪はパッと顔を上げると、目を丸くして松野を見つめた。


「…ん?」


 自分に刺さる視線に気づき、松野は狼狽えながらも雪に微笑む。

 雪は暫し呆然としていたが、松野にべったりな春に視線を向けると、「そっか…」と納得したように呟いた。

 足を崩し、お姉さん座りをした雪は、テーブルの上で頬杖を突く。そして、再びジーッと松野を見つめ始める。その眼差しは、先程まで駄々洩れていた敵対心がすっかり無くなったような、そんな柔らかさを含んでいて。

 松野は雪の急な変化に戸惑いつつも、口を開いた。


「雪さ…」

「雪で良い。ウチの組に入った訳じゃないんでしょ?それなのに敬語使われると、なんか変な感じがするから」

「お、おお…」


 相変わらず切れ味の良い物言いに怯みつつも、松野は「あれ?」と首を傾げる。やはり、威圧感を感じない。


 ――もしかして、春を泣き止ませたことを評価してくれたんかな。


 だとしたら嬉しいけど…と想像して、思わず口元がニヤリと緩む。

 世間からの評価がボロクソの今、自分の印象がプラスに変わるという事に、過剰に嬉しさを覚えてしまう。

 松野は咳ばらいを一つして、雪に話しかける。


「ゆ、雪は大学生なんよな?」

「うん。大学一年生」

「へ~…どこの学校なん?」

「え?家の一番近くのとこだけど…」

「…えっ!?あそこ頭良い人しか入られへん、めっちゃ有名な学校やん!」

「別に…勉強頑張れば誰でも入れるでしょ」

「いやいやそんな事ないやろ!俺なんか高校入るのもギリギリやったから、ほんま尊敬するわ~!」


 ギョッとした顔で雪を見つめると、


「え?高校もギリギリってヤバくない?」


 と言って、雪が面白そうに笑う。

 そのあどけない笑顔を見て、松野の目がキラリと光る。


 ――や、やった…!普通に会話できてる…!!


 若干馬鹿にされている気もするが、それでも良い。さっきまで、ここは冷凍庫ですか?と聞きたくなる程冷えていた部屋の空気が、ほんのりと暖かくなっている。

 雪解けの手応えを感じた松野は、興奮気味に口を開く。


「いや、俺ほんまにバカやってん!だから大学生活ってもんが羨ましくて…。なぁ、大学って楽しいんか?」

「えぇ?…まぁ、普通に楽しいかな」

「おお、そうか!それなら良かったわ~!」


 軽く頷く雪を見て、松野の顔がパアァァッと明るくなる。


「?」


 何でそんなに喜んでいるんだ?と首を傾げる雪に、松野は満面の笑みで話し続ける。


「学校が終わるとすぐお父さんに連絡するやろ?だから、もしかして友達居らんのかもなぁ~って、心配しとったんや!」

「…へぇ~。あたし、怒ると怖いし?」

「おお!一匹狼みたいなオーラが出てて、みんなが近寄れないんじゃない、か、って……」


 と言いかけて、松野は「あっ」と頬を引き攣らせた。


 ヤバい。失言した。

 それも、相当失礼なやつ。


 松野はあわあわと唇を震えさせながら、雪からそっと視線を逸らす。横頬に、雪からの視線を痛い程感じる。でも、失言に気付いている筈なのに、何も言ってこない。それが余計に恐ろしい。


 ――ま、また怒られる…!


「……す、す…」


 急いで謝らなきゃと思うのに、恐怖で声がどもってしまう。

 肩を竦める松野を見て、まるで肉食動物に怯える小動物のようだなぁ…と、雪は思う。


 ――まぁ、出会い頭に怒鳴り散らかしたもんなぁ~…。


 松野の中ですっかり凶暴なイメージが付いてしまったらしい。しかし、あの時は買ったばかりのお気に入りのコートを汚されたからブチ切れただけで、そもそもそんなに激昂するタイプではない――と自分では思っている。

 親しい友達には「狂犬に見せかけたチワワだ」とよく言われるし、何なら頭をよしよしされたり、可愛がられる事の方が多い。


「……」


 とは言え。あのエレベーターの件が余程怖かったとしても、毎度毎度こんなに怯えるのは少し異常な気がする。ずっとしどろもどろしている松野を見かねて、雪は口を開く。


「…友達くらい普通にいるし。帰りに親父を呼ぶのは、親父が仕事で二週間だけこっちに居るから、普段会えない分、少しでも一緒に居てあげよーって思ってるだけ」

「!」


 「親孝行ってこと」と、特に気にする素振りもなく言う雪に、松野は驚いて顔を向ける。


 ――「あれ?怒られない…何で?」って、思ってそ…。


 あからさまにホッとした顔をする松野を見て、雪は頬杖を突いたまま「ふふっ」と笑う。


「そんな事よりさ、何で怒られそうになるとめっちゃ怯えんの?」

「!?えっ、お、俺!?」

「そ、俺」


 どこか楽しそうな雪の問いかけに、ギクッと松野の顔が強張る。まさか、自分のことを聞かれると思わなくて。


 ――どうしよう…。


 馬鹿正直に本当の事を言うのは恥ずかしい…だけど、中途半端に濁しても雪にバレそうだし。「あぁ、いやぁ…、その…」と視線を彷徨わせる松野を見て、ピンときた雪が半眼でニヤリと笑う。


「そっかぁ~。いじめられっ子だったんだ」

「うっ!!」

「あはは!分かりやすっ!」


 ドキーッ!と大きく肩を震わせる松野を見て、雪は大笑いしてテーブルを叩く。それを見た春も、「あやー!」と叫びながらテーブルを叩く。


「しょっ、しょうがないやないか!好きでいじめられとったんとちゃうんやから…!」

「そりゃそうかもしれないけどさぁ、やり返さないの?やられっぱなしってムカつかない?」

「えぇ?…ムカつくって言うか…『何でこんな事するんやろ』っていう感じというか…」

「へぇ~。根っからの受け身なんだね」


 「あたしだったらボッコボコにして、パンツ一丁で町内一周させるのに」と悪びれもなく言う雪に、松野の表情がピタリと固まる。

 泣きべそをかきながらトボトボと歩く少年達の後ろで、悪魔のような笑い声をあげて町内を練り歩く雪。そんな姿が容易に想像できて、松野はブルッ…と背筋を震わせた。

 思わず癒しを求めて春の頭を撫でていると、雪がテーブルに肘を付き、身を乗り出した。


「ねぇ」

「ん?」

「今まで何人彼女ができたの?」

「えっ…また俺の話?」

「そ」

「……興味ある?こんなおじさんのこと」

「うん。ある」


 雪の好奇心旺盛な眼差しに気圧されて、松野は「うーん…」と口籠る。暫し思案し、やがて観念したように息を吐くと、テーブルの角を見ながら小さく口を開いた。


「…付き合ったのは2人」

「へぇ~!」

「…付き合ってると思ってたのは5人…」

「……へ!?」


 予想外の返答に、雪から出たとは思えないような素っ頓狂な声が上がる。


 ――ああ、だから言いたくなかったんや…。


 …いや、最後のやつはわざわざ言わなきゃ良かったのか…と、馬鹿正直に答えてしまった自分に落胆して肩を落とす。

 恥ずかしそうに顔を伏せる松野に、雪が興味津々で話しかける。


「えっ、ちょっ、詳しく聞かせて!」

「えぇ…いや、俺の事はもういいやん…」

「だって気になるじゃん!『付き合ってると思ってた』って…実際は違かったってことでしょ?」

「そうやけど…」

「普通そんな勘違いしないじゃん!」

「う~~~~、あ~~~~~~~!も~~~っ…だって…しゃあないやん!二人だけで5回もご飯食べに行ったら、俺に気があるって思うやろ!」


 耳まで真っ赤にした松野は、春の背中に顔を付け、やけくそになって叫ぶ。背中から伝わる声の振動が楽しかったのか、春は垂れたほっぺを揺らしながら「あきゃきゃ」と笑う。


「でも『付き合おう』って言ってないんでしょ?」

「それは、まぁ、確かに…」

「じゃあ完全に財布扱いされたんだね」

「!!ゆっ、雪!はっきり言うな!」


 キュウゥッ…と痛みだした胸元に、咄嗟に手を添える。古傷を抉られて苦しむ松野に、雪は軽やかに「ごめんごめん」と言う。


「じゃあ学生時代、部活何してたの?」

「……こりゃまたえらい話題が飛んだな…」

「ばぶー!」


 パッと春の背中から顔を上げて、松野が目を丸くする。ハハハと笑った雪が「いーじゃん教えてよ」と言うと、松野は「えぇ?」と言いつつも、渋々答えていく。それにまた雪がリアクションをして、春も真似をする。そしてまた新たな質問が来て…と繰り返しているうちに、空はすっかり夕焼けに代わり、浜ヶ崎達が帰ってくる時間になった。


「おー?なんや、お前来とったんか」


 胡坐をかきながら松野と楽しそうに話している娘を見て、浜ヶ崎は円らな瞳をキョトンとさせた。


「おかえりー」

「あ~う~~」


 雪はぴょこっと片手を上げて、春はメリージムに寝っ転がりながら父親に声をかける。


「松野さん!坊ちゃんのバスチェア買ってきやした!これで良いっすか?」

「…おお!大丈夫や。ありがとう」


 大きなレジ袋から箱を取り出す吟に、松野はグー!と親指を立てる。

 ガサガサと鳴る袋に興味を持った春が、仰向けから腹ばいになり、袋に向かって動こうとする。しかし、ググッ…と首を持ち上げては力尽き。またググッ…と持ち上げては力尽き…を、繰り返す。


「うー…」


 床におでこをくっつけたまま、不満そうに唸る春。その悔しそうな姿を見て、松野は袋をしっかりと掴んだまま、端っこだけを春に近付けた。


「!!」


 ハッと目を輝かせた春は、すかさず袋をつかみ取り、再び仰向けに寝転がってはしゃぎだす。


「えうー!」

「ははっ。ガサガサ音がしておもしろいなぁ~」


 興奮してキックを繰り返し、袋をくしゃくしゃにする春に、松野の目尻の皺が深くなる。雪、松野、吟の三人で微笑ましく春を見ていたのだが――


「…いや吟、汗かきすぎじゃない?」


 雪がふと、吟が異様に汗をかいていることに気付く。ソフトモヒカンから頬に伝う汗の量は、まるでスポーツ後の様だ。


「お見苦しくてすいやせん…まだ6月前なのに、外がめちゃくちゃ暑くって…」

「…あー…そういや『今日は27度もある』って友達が言ってたかも」


 雪は外出時にヘッドフォン型の首かけ扇風機と日傘を必ず使うので、そこまで汗だくにならなかったが、講義室にやってきた友人は、「暑いー…」と言いながら溶けかけたスライムのように机に突っ伏していた。


「俺みたいな汗っかきには地獄ですよ…マンション前の大通りからエントランスまで歩いただけで、これですもん」


 ふぅ…と困り果てたように息を吐く。その瞬間、お風呂が沸いたお知らせ音がリビングに響き渡った。


「えっ!」


 糸目を小さな丸にした吟が、バッとキッチンへ顔を向ける。そこにはキッチンに寄りかかって子供達を眺める浜ヶ崎と、浜ヶ崎の為にアイスコーヒーを作っている龍二が居る。吟は慌てて立ち上がると龍二に駆け寄った。


「兄貴!」

「なんや?」

「ありがとうございやす!!」

「……は?」


 キラキラの瞳を向けてくる吟に、龍二が怪訝な顔をする。

 あ、この阿呆なオーラ全開の感じ。嫌な予感がする――と察した龍二に、吟は満面の笑みで口を開く。


「兄貴、俺が汗だくだから風呂沸かしてくれたんすよね!?」

「……は?」

「まじで兄貴は優しさの塊っす!!…ありがとうございやす!!」


 両膝に手を付き、ガバッと勢い良く頭を下げる。その汗粒が光る後頭部を、龍二は冷めた目で見下ろした。


 ――こいつ、マジか…。


 確かに風呂を沸かしたのは自分だ。しかしそれは、浜ヶ崎が汗をかいて嫌そうにしていたからだ。決して吟の為ではない。

 「そらお前は異次元の汗っかきやけども」「みんな汗かいたんやから、普通親父が先に入るに決まっとるやろ」「つかお前が俺より先に気付いて風呂沸かせや」――と、湧き水のように溢れる怒りが、龍二のスキンヘッドに青筋を浮かばせる。


「カッカッカ。俺は後でええよ。吟は汗臭いから先に入らせようや」

「……はい」


 龍二の心中を察して、浜ヶ崎は大きな背中を叩きながら笑い飛ばす。

 そんな龍二の葛藤もいざ知らず、吟は「ありがとうございやす!」と元気に言うと、軽い足取りで松野の元に戻った。


「松野さん!兄貴が風呂沸かしてくれたんっすけど、早速このバスチェア使ってみませんか!?」

「おお!使ってみるか!」

「ばぶー」


 名案だ!と言うように、松野と春が手を叩く。


「じゃ、お嬢。俺らは風呂に入ってきやすわ」

「はいはい」


 立ち上がる二人と、松野に抱えられた春に手を振って、雪はフフッと目を細める。三人でお風呂に向かっていく後ろ姿は、とても仲良が良さそうに見える。


「あ~、疲れたわ」


 騒がしい三人と入れ替わるようにリビングへきたのは、浜ヶ崎。ドカッとソファに座る父親の姿を、雪はテーブルの上で腕を組みながら見つめる。


「どうだった?」

「あん?」

「今日、高田さんの所に行ってたんでしょ。あたし行かなくて良かった?」

「おう、平気や」


 龍二が運んだアイスコーヒーに口を付け、ズズッと啜る。冷たい液体が喉を通り、熱が籠った体をゆっくりと冷やしていく。染みわたるような解放感。その心地良さに目を細めながら、今日は疲れたなと浜ヶ崎は思った。


 “高田さん”とは、浜ヶ崎組と兄弟盃を交わしている、東京を拠点とした暴力団組織、高田組の組長である。

 雪が住むこのマンションは、大学進学を機に雪が上京することを知った高田が


「それなら学校から近いし、雪ちゃん、ウチが借りてるマンションに住んだらどうだ?丁度空き部屋があるわ」


 と言い、用意してくれた部屋だった。

 白髪のオールバック。若い頃はさぞモテたであろう渋い顔立ちは“イケオジ”そのもの。頭の回転も速く、スレンダーで華がある高田の事を浜ヶ崎は気に入っていた。

 昔から雪の事を可愛がってくれていた高田は、家の用意だけでなく、一人暮らしにしては多すぎる引っ越しも、段ボールの荷解きも、舎弟を使って手伝ってくれた。本来なら、その時に事務所にお礼の挨拶をしに行くべきだったのだが、夏子が亡くなった後だったり、春のお世話問題があったりと、日々てんやわんやしていた為、挨拶が6月近くまでずれてしまった。

「申し訳ない」と言う浜ヶ崎に、高田は「そんなの気にするな」と笑ってくれていたのだが。久々の会話を楽しむ中で、また別の問題が浮上してしまった。


 ―—…あいつ、自分の息子と雪をくっつけようとしとるな…。


 黒革のエグゼクティブチェアにゆったりと座る高田の横で、仁王立ちをしていた小太りで父親似の男――今年30歳になる高田の長男、雪彦。彼との結婚をふんわりと、且つ、ねちっこく薦められたのだ。

 「そう言えば今、雪ちゃん彼氏いるのかい?」という探りから始まり、「雪彦もそろそろ身を固めないとと思ってるけど、中々良い人がなぁ…近くに居ないかなぁ~…」というあからさまなアピール…さらには「いや~二人とも名前に“雪”が付くなんて運命みたいだなぁ!」という無理なこじつけまで。

 関係上、無下に扱う事も出来ないので、「そうやなぁ~」「どうやろなぁ~」と濁したが、浜ヶ崎は内心、怒りを通り越して呆れていた。

 今までこんなに、雪の恋愛事情について聞いてくる事は無かった。

 きっと、高校卒業を機に一気にあか抜けた雪を見て、雪彦がほのじになったんだろう。そしてそれを父親に伝え、乗り気になった父親が「俺が何とかしてやる!」と息巻いたわけだ。


 ―—自分からはっきり「好き」と言えないような奴に、うちの大事な娘を渡すわけないやろ!


 高田の会話を聞きながら、恥ずかしそうにモジモジとしていた雪彦を思い出し、浜ヶ崎の眉間に皺が寄る。

 それに、だ。

 雪彦は単純に雪の事が好きなのかもしれないが、果たして高田はどうだろうか。

 雪と自分の息子が結婚することで、自分の立場を上げることを目論んでいるのではないだろうか。

 上下関係はあくまでも浜ヶ崎組の方が上。それを脅かすような不安要素が出た時は、仲が良かろうが、関係なく潰すのみ。


 ―—まったく…大事な仕事の話も進まんかったし、最悪や。…とりあえず、雪は事務所に近寄らせんようにしとこ…。


「はぁ…」


 口から気怠い息が漏れる。

 ソファーの背もたれに両腕を広げ、天井を見上げる。難しい顔で考え事をしている浜ヶ崎を見て、雪の眉尻が心配そうに下がった。余程大変な話し合いをしたに違いない――と思った雪は、わざと声を明るくして話しかける。


「ねね、知ってる?松野さん、世界記録持ってるらしいよ」

「ほ?なんの?」


 パッと首を持ち上げた浜ヶ崎に、雪がホッとしたように笑顔を作る。


「割りばしを一気に割る数だって」

「…なんじゃそりゃ」


「やってることゴリラやん」と、浜ヶ崎は笑う。その姿に微笑んで、雪はふと視線を落とした。


「…あのさ」

「ん?」

「松野さんって…光輝みつきおじさんと雰囲気が似てるよね」


 そう言いながら、雪は意味もなく右手の人差し指で左の肘を掻く。


「何で親父が赤の他人の事すぐ信用するんだろう…って思ってたけど…松野さんと話してみて分かった」

「……」

「…松野さんは身内じゃないけど…でも、それに近い物を春も感じてるのかもね…。私もそう思ったみたいに」


 アハハと伏し目がちに笑う雪。その笑い声がぎこちなく止まると、二人の間にシン…と沈黙が流れた。会話を聞いていた龍二も、何とも言えない表情でキッチンに佇んでいる。

 言わなきゃ良かったかな…と、雪は思った。

 ドキッドキッと脈打つ鼓動が、カチッカチッと響く時計の針の音と重なる。


 ―—気まず…。


 数秒が永遠のように感じる。

 空気の重さに思わず突っ伏しそうになった時、浜ヶ崎がぽつりと呟いた。


「……龍二もおんなじこと言うてたなぁ」


 目を瞑りながら首を回す。溜め息に混ぜて吐かれた言葉に、雪はパッと顔を上げ、龍二を見る。すると、視線が合った龍二が、バツが悪そうに視線を逸らした。


「お前らなぁ…松野のこと気に入るのはええけど、あいつは一般人やぞ。あんまり気を許して踏み込んだらあかん」


 腕を組んだ浜ヶ崎は、二人に言い聞かせるように続ける。


「こっちが踏み込んだら、その分あっちもこっちに踏み込むことになる。そしたら危ない目に合うのは松野やで」

「……」

「……」

「俺らとあいつは住む世界が違う。一線を引かなきゃダメや。松野をこっちの世界に関わらせたらあかんで」

「…わかりました」

「……はい」


 牽制するように語気を強めると、二人は気まずそうに小さく頷いた。


 ―—…まぁ、でも…確かに似てるよな。お人よしの雰囲気も、仏みたいな顔してるところも…。


 光輝――浜ヶ崎の一つ年上の兄も、気弱で平和主義の優しい人だった。

 龍二と雪は光輝が大好きだったから、松野に共通点を見つけて嬉しくなったのだろう。その気持ちは分かる。だが、あくまでも松野は一般人。たまたま一週間一緒にいるだけ。はっきりと線引きをすることが、松野を守ることに繋がる。


「ギャ―――!!」


 と、今日もお風呂場から吟の絶叫が聞こえる。

 きっとまた、春が気に入らないことをしたのだろう。


「ブハハハ!あいつ、まーた何かしよったんか!」


 吟が嫌がっているところを想像しただけで、可笑しくて笑いが止まらなくなる。


 すっかり通常運転に戻った父親を、雪は黙って見つめる。

 そして足を抱えるように体育座りをすると、膝に顔を埋めてこっそりと溜め息を吐いた。

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