第6話 雪、襲来・1


 瞼の裏に明るさを感じて、松野は眉を顰めながら目を開けた。


「あ、え…?朝…?」


 カーテンの隙間から漏れる光に目を細め、額に手を当てる。


 ――何でベッドにいるんだっけ?


「……」


 ダメだ。思い出そうと思っても、寝起きで頭が働かない。でも、久々にぐっすり眠れた気がする。

 暖かいお風呂に揺蕩うような心地良い眠気に身を委ね、松野は再び目を閉じる。このままもうひと眠りしようかな…と微睡んでいると、遠くからカチャカチャと何かがぶつかる音が聞こえてきた。


「?」


 何の音だろう。

 この家には自分以外誰も――と、考えて、松野はハッと目を見開く。


 ――そうや…昨日から人が増えたんやった!


 ガバッと起き上がった松野は、困惑しながら辺りを見回す。

 そして、横にあるベビーベッドを見た瞬間、一気に昨夜の記憶が蘇った。


「…そうか…俺、春を寝かせて…ほんで、自分も眠くなって…」


 仮眠をしようと思ったのに、そのままぐっすり眠ってしまったのか。


「…起きるかぁ」


 まだまだ寝ていたいけど、客人が来ているのに、自分がぐーたらする訳にはいかない。

 「キュルルルル~」とお腹を鳴らしながら、枕もとにあったスマートフォンをポケットにしまう。


 ――春も起こさないとやな…。


 四つん這いでベビーベッドに近寄った松野は、中を覗いてピタリと固まる。


「…あれっ?」


 閉めたはずの出入り口が、何故か空いている。しかも、中に居たはずの春が居ない。

 春が自分でチャックを開けられるわけがない――ということは。


「えっ…もしかして、閉め忘れた…?」


 口元に手を添え、昨夜の事を思い出す。


 ――いや、あの時確かに閉めたはずや…。


 でも、もしちゃんと閉める事が出来ていなくて、春が隙間を広げたのだとしたら――そして、その隙間から春が出て、ベッドの上を歩き、そのまま床に落ちてしまっていたら――。


「!!は、春っ…!!」


 恐ろしい事故を想像し、松野の顔がサァッと青くなる。


「春…っ、どこや!?」


 慌てて立ち上がり、春が寝ていた側の床を見る。でも、春は居ない。足元側にも、自分が寝ていた方にも居ない。枕の下。布団の下。色んな物を退かしながら、松野は必死に探していく。

 だけど、全然見つからない。


 ―――どどど、どうしよう…!


 自分に懐いてくれていた、可愛い春。

 もし、春に何かあったら――と、松野の顔が半泣きになった時。


「あ、松野さん起きたんすか?」


 と、吟が笑顔で寝室の扉を開けた。


「ぎ、ぎぎぎ吟!!はっ、春がっ…!」

「?坊ちゃんがどうかしたんですか?」


 キョトンとした顔をする吟に、松野が縋るように走り寄る。すると、


「あー!うー!」


 と、元気に喋る愛らしい声が、リビングの方から聞こえてきた。


「坊ちゃんなら今、あっ…」


 話す吟を振り切って、速足でリビングに向かう。その足音に気付いた浜ヶ崎が、ソファに座ったまま顔だけを後ろに向けた。


「おはようさん」

「!お、おはよう…」


 軽やかな朝の挨拶に、松野は強張った表情で頷く。


「昨日は遅くなってすまんかったなぁ」

「いや、それは全然…」


 「ええんやけど…」と声を尻すぼみさせながら、松野はリビングをキョロキョロ見渡す。すると、浜ヶ崎の膝の上に春がちょこんと座っていることに気付く。


「春…!なんでっ…!」

「?ああ。春はなぁ、大体いつも7時前には目ぇ覚めんねん。松野はぐっすり寝とったから、起こすの可哀想やなー思て、春だけこっちに連れて来たんや」


「なー」と言って春と顔を見合わせる。

 楽しそうに笑い合う二人を見て、松野はへなへなと床にへたり込んだ。


 ――良かった…。俺が出入口を閉め忘れたわけでも、春がベッドから落ちたわけでもなかったんや…。


 「は~~~~…」と深い深い溜め息を吐く。

 安心したら腰が抜けてしまった。

 リビングの入り口で体育座りをし、ふぅ、と呼吸を整える。


「なんや。朝なのに、もう疲れた顔しとるのぉ」


 どこかげっそりしている松野を、浜ヶ崎は不思議そうな目で見つめる。


「はは…」

「今9時過ぎやで?」

「えっ!俺そんなに寝てたん!?」

「おお」


 親指で壁掛け時計を指す浜ヶ崎。時刻は9時10分。

 吟も浜ヶ崎も、スーツを着て身支度を終えているし、ベランダを見れば洗濯物が風にそよいでいる。とっくのとうに皆起きて動いていたのに、全く気付かなかった。


「俺には6時までに起きないとめちゃくちゃ怒るのに…」


 ポカンとする松野の後ろで、吟が聞こえるか聞こえないかの声で呟く。しかし、耳聡い浜ヶ崎は鋭い目つきで方眉を上げる。


「そりゃ松野は昨日急に春の世話する事になって大変やったんやから、しょうがないやろ!」

「へ、へいっ!すいやせん!」


 ビクッ!と肩を跳ね上げて、吟は慌てて背筋を正す。


「明日からはちゃんと、松野も6時に起きるに決まっとるわ。なぁ~、松野」


 ニカッと、浜ヶ崎は胡散臭い笑みを作る。

 案の定、瞳の奥は底なし沼のようにドス黒い。


「お、おう…」


 有無を言わせぬ圧迫感と不気味さに、松野はブルッと体を震わせる。そして「ちょっと顔洗ってくるわ」と言って立ち上がると、逃げるように洗面所へ向かった。


「はぁ…」


 ザアァァ…と流れる水の音を聞きながら、松野は小さな溜め息を吐く。

 当たり前と言えば当たり前なのだが、浜ヶ崎の言葉や仕草の端々に、裏の世界の雰囲気を感じる事がある。常にそうなら慣れるのかもしれないが、予告なく急に出してくるので、その度に驚き、キュウゥッと胃を掴まれたような気分になる。


 ――でも、あと6日間だけやから…。


 6日間さえ我慢すれば、この不意打ちの緊張感と付き合わずに済む。

 …よし、気合いだ。気合を入れるんだ。今まで仕事で窮地に陥りそうな場面は沢山あった。けれど、その度に何度も乗り越えてきた。たったの6日間くらい、自分なら乗り越えられる――。


「…よし!」


 鏡の中の自分に向かって頷くと、松野はガシガシと力強く歯磨きをし、バシャバシャと浴びるように洗顔をする。濡れた顔をフカフカのタオルに沈めれば、憑き物が落ちたようにサッパリとした気分になる。松野は清々しい表情で前を向き、鏡に向かって再び頷く。


 ――気合や!気合!


 自分のメンタルにそう言い聞かせ、しっかりした足取り廊下を歩く。

 意気揚々とリビングに戻ってきた松野に声をかけたのは、キッチンに居る龍二だった。


「松野さん、キッチンにカレーが置きっぱなしになってましたけど…」

「…あっ、そうやねん!昨日食べようと思って用意してたんやけど、食べずに寝てしまってやなぁ…」


 龍二が持つレトルトカレーの箱を見て、ペコペコのお腹が「グウゥゥゥ…」と鳴る。


「ハハッ…皆の朝飯用にサンドウィッチ作ったんですけど、食べますか?」


 腹の虫に笑った龍二が、真っ白な四角い皿を松野に差し出す。お皿の上には綺麗な断面が見えるハムレタスサンドが2つ並んでいる。


「えっ!こんなお店みたいなやつ、君が作ったん!?」

「はい。朝から焼きそばは嫌なんで。それと、龍二って気軽に呼んでください」


「ハッハッハッ」と渋い声で笑い、カウンターの上にお皿を置く。


「アイスコーヒーで良いですか?」

「お、おお…ありがとう」


 軽く頭を下げると、龍二はフッ…と口角を上げる。

 冷蔵庫からコーヒーを取り、グラスに注いでいく。それだけなのに、映画のワンシーンのように見えてしまうから、龍二は凄い。


「夜ご飯食べてないなら、お腹空いてますよね。まだサンドウィッチ余ってるんで、2つ追加しましょうか?」

「うわ~、食べる食べる!」


 赤べこのように何度も頷くと、龍二はまた静かに口角を上げる。

 冷蔵庫からお皿を取り出し、余っていたサンドウィッチをカウンターのお皿に乗せていく。喫茶店のマスターのようにテキパキ動く龍二を、松野はジーッと見つめた。


 ――龍二って、何でヤクザやってるんやろ…。


 人を惹きつける華やかさがあるし、料理も上手。パソコンの扱いも凄く得意そうに見えた。わざわざ裏の仕事をしなくても、充分表で活躍できそうだが。


 ――きっと、ヤクザにならなきゃいけない理由があったんやろうなぁ…。


 と、勝手に想像して頷く松野の前を、お皿とグラスを持った龍二が通り過ぎる。


「サンドウィッチとコーヒー、テーブルに置きますね」

「!あっ、ありがとう」


 ハッと目を瞬かせた松野は、キッチンへ戻る龍二に慌ててお礼を告げる。

 「グゥゥ~~!」と急かしてくる腹の虫に導かれるままテーブルへ向かった松野は、朝から春が遊びつくしたのであろうおもちゃを適当に退かすと、浜ヶ崎の向かい側で腰を下ろす。そのまま「いただきまーす」と気軽に食べそうになって、ふと昨日の三人の姿を思い出した。


 ――そう言えば、両手を合わせて目を瞑ってたっけ…。


「…いただきます」


 記憶の中の三人の真似をして、頭を下げる。すると、視界の端で浜ヶ崎が小さく頷いた。

 良かった。これで正解だった――とホッとして、サンドウィッチに噛みつく。


「…ん!?うまい!!」

「ほんまですか?それは良かったですわ」


 目を輝かせる松野を見て、龍二が嬉しそうに目を細める。松野は満面の笑みで飲みこむと、またガブリと噛みついた。ふわふわの食パンに薄く塗られたマヨネーズ、その間に挟まれたシャキシャキのレタスと柔らかなハムの組み合わせが、シンプルだけどとても美味しい。

 幸せそうな顔で頬張る松野を、春が「わー!あー!」と嬉しそうに言いながら見ている。


「兄貴の作る料理ってマジで美味いっすよねぇ~!」


 スマートフォンを弄りながらリビングに来た吟が、何故か得意げに頷いている。その姿を龍二は呆れ顔で見ながら、「いや、お前もこのくらい作れるようになれや…」と、傾けたグラスの中に呟いた。


「おお!お店で食べてるみたいや」

「ですよねぇ~。今、お嬢からも『準備できたから、サンドウィッチ食べに行く』って連絡が来ましたわ!みんな兄貴のサンドウィッチが好きなんっすよ~」


 吟は嬉しそうに腕を組み、大きく頷く。と同時に、松野の手がピタリと止まった。


「…えっ?…だっ、誰が来るって?」


 …聞き間違いだろうか。今、“お嬢”と聞こえた気がする。

 吟を捉える松野の瞳が、激しく動揺する。

 しかし、吟は無邪気な笑顔を浮かべると、


「お嬢っす!あれ?昨日会いましたよね、松野さんがコーヒーぶっかけた、雪さん!」

「!?」

「朝飯もですけどー、なんか松野さんに会いたい?らしくて、来るみたいっす!」


 と言って、親指を立てた。


「なっ…!えっ…!?」

「カーッ…あいつはいつも自分勝手やのぉ…」


 呆然とする松野の前で、浜ヶ崎が思い切り顔を顰める。


 ――ど、どうしよう…。


 怒鳴っていた雪の姿を思い出し、松野はブルッと身を震わせる。

 怒られるのは苦手だ。またあんな風に睨まれたら…と思うと、胃がギュウッと痛くなる。

 さっき、「気合いだ!」と何度も自分に言い聞かせたのに、もう怖くてたまらない。


「……」


 ずっしりと肩が重くなり、サンドウィッチがちょっとずつしか喉を通らない。


「急にすまんなぁ、松野」

「…はは」


 「無理です」と言えたら楽なのに…言えない自分が情けない。

 大体、「松野さんに会いたい」って何だ?どう考えても怒られる姿しか想像できないのだが。

 考えれば考える程、どよ~んと負のオーラを纏う松野。その丸まった大きな背中に追い打ちをかけるように


「あっ、お嬢着くみたいっす」


 と、吟が言う。松野から「ヒィッ!」と声にならない声が出た瞬間、ピンポーンとインターフォンが鳴った。

 パッとインターフォンのモニターが付く。目深にキャップを被った女性が映り、松野の肩がドキッと跳ねた。


「はーい、今行きやす!」


 玄関に向かう吟の足音が、判決までのカウントダウンのように聞こえる。松野は汗をかいたグラスに手を伸ばす。

 何とか気持ちを落ち着かせようと、アイスコーヒーを口に含んだ。

 ああ、一体何を言われるのだろう――と、憂鬱な溜め息と共にコーヒーを喉に流し込んだ、その時。 


「おじゃましまーす」


 低空飛行するような間延びした声がリビングにやってきた。


「へぇ、オシャレじゃん」


 と言いながら、雪は物珍しそうに部屋を見渡す。品定めをされている。そんな緊張感で目がバキバキになっている松野の目と、余裕綽々の雪の目がパチッと合う。


「…いらっしゃい」


 キュウゥゥッ…と痛みを増す胃の主張に耐えながら、何とかぎこちない笑顔を作る。

 クールな顔立ちを引き立てる薄化粧。胸元に有名ブランドのロゴが書かれたオーバーサイズの白Tシャツ。黒革のショートパンツをラフに、かつオシャレに着こなす雪は、見るからに挙動不審な松野を見つめると


「どうも」


 と言って、ニヤリと笑った。



 こんなにもウキウキしない来客は初めて――いや、昨日ぶりだ。


「……」


 周りが和気藹々と話す中、松野はチビチビとサンドウィッチを食べながら、人知れず肩を落とす。バレないように、向かい側をチラリと見る。松野の目の前で体育座りをした雪が、父親の膝の上に座っている弟に、手を伸ばしていた。


「春~!」


 低空飛行とかけ離れた、天に上りそうなメロメロ声で、優しく春を抱き上げる。


「あうー!」


 春もお姉ちゃんに会えて嬉しいようで、満面の笑みで手足をバタつかせている。その愛らしい姿に目元を緩めた雪は、春の両脇をしっかりと支えたまま、立てた自分の膝の上に春を乗せ、小さなおでこと自分のおでこをくっつける。


「お前、学校は?」

「え?あと一時間後くらい」


 父親に適当に返事をしながら、春と仲良く笑い合う。

 楽しそうにキャッキャする二人の姿は、それはそれはとても微笑ましく。

 どうかこのまま穏便に時が過ぎますように…と、松野はこっそり願いながら、最後のサンドウィッチのかけらを口に入れた。


「雪さん、どうぞ」

「あっ、ありがとー」


 お皿とグラスを持ってやってきた龍二が、コトン、と雪の目の前にサンドウィッチを置く。切りたてのハムレタスサンドを見て、雪が「おいしそ~」と微笑んだ。


「はい、春抱っこしてて」

「!?なんやねんお前、も~!」


 やっと春が離れた…とホッとして立ち上がりかけた浜ヶ崎に、雪が春を押し付ける。

 ブツブツと言いながらも仕方なく春を抱っこした浜ヶ崎は、自分の膝の上に座らせると、近くにあった鈴の音が鳴るぬいぐるみを掴み、手渡した。


「やーうーうー」

「いただきま~す」


 リンリンリンリンとぬいぐるみを振りまくる春と、幸せそうにサンドウィッチを頬張る雪。二人を交互に見た浜ヶ崎は、疲れ切った顔でポキッと首を鳴らした。


「…ほんで?お前は何しに来てん」


 面倒くさそうに天井に顔を向け、問いかける。その瞬間、松野の目がギョッと見開いた。

 ああっ!わざわざそんな事聞かなくても良いのに!と狼狽える松野の前で、雪はミルクたっぷりのアイスカフェラテに口を付ける。


「え?昨日言ったじゃん」

「…なんて?」

「はぁ?だから!『春が人に懐くなんてあり得ないから、私が松野さんて人は本当に大丈夫な人なのか確認しに行く』って言ったじゃん!」

「!?」


 ダン!とグラスを強めに置いた雪が、目を丸くする松野に視線を向ける。

 まるで市場の魚になったようだ。ジロジロと値踏みするような雪の眼差しに耐え切れず、松野は何とも言えない表情で顔を背ける。


「いやいや、それは大丈夫やって言うたやろ。実際、昨日も松野から何の連絡もこぉへんかったやないか」

「そんなの関係ない!春は20時前には絶対寝るじゃん!もしかしたら、春が泣いてたのに、ベッドに入れてほっといてたのかもしんないじゃん!」

「そりゃそうやけど…」


 綺麗な眉をつり上げて怒鳴る雪に、浜ヶ崎は大きな溜め息を吐く。


 昨日、学校に迎えに来た浜ヶ崎達を「遅い!」と怒りながら出迎えた雪は、春が一緒に居ないと気付いた瞬間、大パニック状態に陥った。

 「今すぐ家に帰る!」「何で知らない人に預けるの!?」「今、春が危ない目に合ってたらどうするの!?」と騒ぐ雪を、通行人達が横目で見ながら通り過ぎていく。これはヤバいと慌てた三人は、学校の門から雪を移動させ、落ち着かせる為に松野の偉業を説明した。それでも尚反論していたが、ずっと松野と一緒に居た吟が一生懸命言葉を紡いで説明すると、雪は「信じられない」と言いながらも漸く落ち着きを取り戻してくれた。


「…皆が信用してるのは分かった。でも私は春が人に懐くなんて思えないから、“松野さん”が本当に大丈夫な人なのか確認したい」


 そう、ボソッと呟く雪に


「まあまあ、折角春を見といてくれてるんやから、今日はゆっくり買い物しようや」


 と言って、浜ヶ崎は強引に雪の両肩を押して歩かせた。

 その後暫く納得のいかない顔をしていた雪だったが、色んなお店を回っている内に段々と笑顔が増えていき。夜ご飯を食べる頃にはいつもの雪に戻っていた。


 だから、てっきり松野への不安は薄れたのだと思っていたが…まさか、まだ納得していなかったとは。

 松野に向かってガルルルル…と威嚇する雪を見て、


 ――はあ…こういう頑固なところ、ほんまに夏子そっくりやなぁ…。


 と、妻の姿を重ねてげんなりする。


「ま~、雪さんの気持ちは分かりやすよ!だから、実際に見てみてくださいよ!ね、親父!」

「あ?おう…?」


 ふんふん!と息巻く吟に気圧されて返事をしたものの、どういうことだ?と浜ヶ崎は首を傾げる。


「松野さんが坊ちゃんを抱っこするんっす!坊ちゃんが大人しく抱っこされてるところを見たら、お嬢も納得できると思うんで!」


 吟は掌を上に向けると、春と松野を交互に指す。その動きに釣られた浜ヶ崎の目が、ピタリと松野を捉えた。目が合った松野は、ゴクリと喉を鳴らす。緊張を隠しもせずにこちらを凝視する姿は、面接中の学生のようだ。


 ――良い歳したおっさんが、何ちゅー顔してんねん。


 ブハッと吹き出した浜ヶ崎は、俯いて笑いを噛み殺す。


「は~。おかし」


 浜ヶ崎は春を抱っこして立ち上がり、


「ほい」


 と言って松野の前で春を差し出す。


 ――と、とりあえず抱っこすればええんかな?


 松野は「おっ、おお」とぎこちなく頷いて、春にそろりと手を伸ばす。小さな温かい体を優しく受け取り、肩に寄りかからせるように抱っこをする。そして、大きな掌で春の背中をそっと撫でると、


「あうー」


 と春が嬉しそうに笑った。そのご機嫌な声を聞いて、松野も自然と笑みが零れる。


「あー!やー!ぶー!」


 楽しそうに松野の顔をペタペタと触る春を見ながら、吟が笑顔で雪に話しかける。


「ほら~!坊ちゃん、松野さんは平気なんすよ!凄いっすよね!」

「……ほんとだ」


 吟の声を聞きながら、雪は呆然とした表情で春を見る。

 昨日、三人から松野の話を聞いた時、「皆がこれだけ必死に言うなら本当なのかも…」と思う反面、「春のお世話が大変だから、皆、春から離れたくて嘘をついてるんじゃないの?」と、心の片隅で思った。だって、他人に抱っこされる春の姿を想像できなかったし、吟が毎日大変な思いをしているのも知っているから。

 だけど、本当だった。

 春は松野が触っても平気なのだ。


 ――…なんで、春はこの人には気を許してるんだろ。


 ぽかんと開いてしまう口元に手を添えて、雪は考える。


「良いなぁ~、松野さん。俺は坊ちゃんに嫌われ続ける未来しか想像できないっすよ~」


 吟がしょぼーんと大きく項垂れると、松野は「いやぁ…」と首を傾げる。


「…昨日春の事見てて思ったんやけど…多分、吟の事嫌いじゃないと思うねんなぁ…」

「えっ!?…坊ちゃんがっすか?」

「おお」


 春に胸元を頭突きされながら呟く松野。その真剣な横顔を、吟は素っ頓狂な声を出して見つめる。


「いやいやいや、それはないっす!だって見ましたよね?俺が坊ちゃんにボコボコにされたり引っかかれたりするところ!」


 吟は自分を人差し指で差しながら、松野に近寄る。すると、楽しそうに松野に頭突きしていた春が、嫌っそうな顔で吟を見た。「ほら、この顔見て下さいよ!」と目で訴えてくる吟に、松野は「うーん…」と唸る。


「多分やけど…春は目の前にバッ!て手ぇ出されたり、急に持ち上げられたり、大きい声で話しかけられるのが嫌なんやと思うわ」


 吟の行動を見ていると、春に目線を合わせたり、言葉遣いに気を付けてはいるが、人一倍声とリアクションが大きいし、接する時の力や勢いがありすぎると思う。そして、その迫力に春が引いているように見えるのだ。

 本当に吟が嫌いだったら、近寄るだけでも泣いて嫌がるはず。だが、そういう訳ではないところを見ると、“嫌い”というよりは“苦手”なんじゃないかと、松野は思う。


「ほぉほぉ、つまり吟のガサツな部分が嫌いっちゅーことやな」

「えぇーっ!?うーん?…そう、なんすかねぇ…?」


 相槌を打つ浜ヶ崎とは反対に、吟はポリポリとソフトモヒカンを掻く。

 「嫌いじゃない」――そう松野に言われても、今まで散々春に殴られたり蹴られたりしてきたわけで。腑に落ちない顔をする吟に、松野が優しく笑いかける。


「大丈夫やって。試しに、そーっとゆっくり春の頭撫でてみ?」


 ほら、と春を抱いたまま吟の方へ向ける。吟は一瞬躊躇うも、言われた通り、ゆっくりと頭に手を伸ばしてみる。いつもなら、触れる直前でペシッと手を叩かれるはずだ。しかし、春は怪訝そうな顔をしながらも、割れ物に触れるように撫でる吟の掌を、ただ黙って受け止めた。


「ほお!」

「えっ、あっ…!?え―――っ!?撫でさせてくれ、っ、イテ―――ッ!!」


 興奮して大声を出した瞬間、春が冷めた目で手の甲をギュウッと掴む――否、抓る。


「ああ、だから声が大きすぎるんやって!」


 涙目の吟から、慌てて松野が春の手を離す。


「ひぃ~っ…坊ちゃん容赦ねぇっすわ」

「けど、ちょっと頭撫でれたな。こりゃ試してみる価値ありやわ」


 赤い跡を擦る吟に、浜ヶ崎がカッカッと笑いかける。そしてチラッと壁掛け時計を見ると、「お、時間や」と呟いた。


「松野。すまんけど、今からちーっと行かなきゃいけないとこがあってやなぁ」

「おぉ、春を見とけばええんやな」

「そやねん!松野は話が早くて助かるわぁ~」


 パン!と両手を叩き満足気に頷くと、浜ヶ崎は「よいしょ」と腰を上げる。


「昨日、吟から風呂用のベビーチェアが必要やって聞いたから、ついでに買うてくるわ。あと必要なものあるか?」

「…いや、ないかな」

「りょーかい。ほな、18時前には帰ってくると思うから…よろしゅう頼んます。雪、ちゃんと遅刻せんように学校行けよ」


 軽く手を上げた父親に、雪は「歩いて10分かからないのに遅刻しねーわ」と、心外そうに目を細める。そのままムッとした顔で黙る雪を見て、吟が不思議そうに声をかける。


「どうかしやしたか?お嬢」

「……いや、別に」


 別に、何でもない――訳じゃないけど。

 春が他人に懐く姿を目の当たりにして…しかも、いつも春に拒否されていた吟が、松野の助言で頭を撫でることに成功している姿を見て、何となく、唯一無二の居場所を奪われたような――そんな子供みたいな嫉妬心を抱いているなんて、恥ずかしくて言いたくない。


「…あたしも家に帰って学校の準備するわ」


 残ったサンドウィッチを口に放り込み、カフェラテをグイっと飲み干す。今は見たくないのに、目が勝手に松野と春を見てしまい、胸の奥がモヤッとする。


 ――しんど…。


 すっかり打ち解けている二人とこのまま一緒に居たら、胸のモヤモヤが大きくなって、いらない暴言を吐いてしまいそうだ。

 雪は小さく息を吐き、立ち上がる。どことなく落ち込んだ様子の雪に気付き、松野は「あの…」と声をかけた。


「…何?」


 長い髪の毛がサラリと揺れ、曇った表情を僅かに隠す。松野を見下ろす雪の目線は冷たく、思わずビクッと肩が震えてしまう。だけど、ここで引き下がってはいけない気がして。


「すっ…、すすすッ…!」

「?」


 何とか言葉を伝えようと唇を突き出す。が、緊張して「す」しか出てこない。

 訝し気に顔を顰める雪のオーラに、松野の焦りは最高潮になる。でも、言いたいのだ。きっと、雪は急に現れたおじさんに戸惑っているはずだから。

 松野は意を決したようにゴクリと喉を鳴らすと、雪の目を真っすぐ見つめた。


「すっ、好きな時に!弟さんに、あっ、会いに来てくださいね!」

「!」


 皺だらけの額に汗を浮かばせて、松野は必死に言葉を紡ぐ。その眼差しは誠実で、少年のように純粋で。何だこのおじさん…と、雪は目を瞬かせる。


「……どうも」


 何と返せばいいのか分からず、とりあえず小さく頭を下げる。


「じゃ、俺も行ってきますわ!」

「松野さん、坊ちゃんをよろしくお願いします」

「おお、気を付けてなぁ」


 会釈する吟や龍二と共に、雪も松野の家を後にする。

 四人でエレベーターに乗り込み、雪一人だけが自宅のフロアで降りていく。


「ほな」

「うん…」


 手を上げる父親と頭を下げる二人を見送って、雪は自分の部屋へ向かって歩く。神妙な顔をする雪の頭の中には、先程の松野の顔が浮かんでいた。

 産まれた時から強面の男性達に囲まれて育った雪にとって、おじさんは見慣れているし、身近な存在でもある。けれど、あんなにキラキラした目をするおじさんは見た事がない。


 ――ま、ヤクザのおっさんの中にキラキラした人なんて居る訳ないか。


 ショートパンツのポケットに手を突っ込み、家の鍵を取り出す。今はおじさんの事よりも学校の事を考えないと。

 玄関を上がり、ブルックリンスタイルのインテリアで統一されたリビングへ入っていく。テーブルの上に散らばっていたノートや筆記用具を纏めると、通学用の大きなトートバッグに乱雑に詰め込んだ。

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