第5話 松野、洗礼を受ける・2

 

 長い打ち合わせを終えソファに座っていた浜ヶ崎は、お風呂から上がってきた吟を見た瞬間、お腹を抱えて笑い出した。


「ブハハハハッ!!お前っ…ヒヒッ!これまた派手にやられたの~!」


 怒った猫にシャーッ!と爪でひっかかれたような、赤くて細いミミズ腫れが、吟の顔中にできている。膝をバシバシと叩きながら大笑いする浜ヶ崎に、吟はムッと唇を尖らせる。


「笑い事じゃないっすよ!坊ちゃん、松野さんが抱っこできない間、暴れに暴れまくって大変だったんすから!」


 ワイシャツを第二ボタンまで開け、人差し指で肌を指す。すると、痛々しいミミズ腫れが首筋にも沢山できていた。


「ヒーッヒッヒッ!やられたい放題やんけ!」

「いや、だから…。はぁぁぁ…」


 口から深いため息が漏れる。

 少しは心配してくれるかな…と、淡い期待を抱いていたが、よく考えたら、組長は人の不幸で永遠に爆笑できるタイプだった。


 ――はぁ~…。俺、一週間後大丈夫かなぁ…。


 親の仇を討とうとしているのか?と思うくらい、必死の形相で引っ搔いてきた春の姿が瞼の裏に焼き付いている。

 あんな状態の春と二人だけでお風呂に入るなんて、想像しただけで気が重い。


「吟、頑張ってくれてありがとなぁ」


 どよーんと肩を落とす吟の元に、パジャマ姿の春を抱っこした松野がやってくる。

 内に丸まってしまった背中を労うように叩くと、吟は尖った口先をモゴモゴと動かす。


「…俺、坊ちゃんと二人で風呂は無理です…。俺じゃ一生無理です…」


 すっかり卑屈になっている吟。確かに、あれだけ暴れられたらそう思うかもしれないが――。


「う~ん…吟だからってだけじゃなくて、慣れの問題な気もするけどなぁ…。春、初めての大きなお風呂にめちゃくちゃ怖がってたし」


 いつものベビーバスと違い、お湯の中で足や手がつかないという状況はとても不安だったようで。抱っこをしているにも関わらず、春は今にも溺れそうな表情で必死に手足をバタつかせていた。最終的に、松野の腕にガッシリとしがみつくことで落ち着いたものの、それからお風呂をあがる迄の間、春は片時も松野から離れなかった。


「すまんなぁ、春。俺がちゃんと一緒にお風呂に入ってやれてたら、風呂が怖くなかったかもしれんのになぁ」


 スッと手を伸ばす浜ヶ崎に、松野はゆっくり春を渡す。

 ぽっかぽかに温まってほっぺが真っ赤になった春は


「えうー」


 と笑うと、嬉しそうに父親の腕を掴んだ。自分に笑いかけてくれる可愛い我が子を、浜ヶ崎が幸せそうに抱き締める。


「…良いお父さんやなぁ」


 変顔をする浜ヶ崎と、それをキャッキャしながら見ている春。仲睦まじい二人の様子に、松野はポツリと呟いた。


「そう見えますよね。でも雪さんが子供の時は、ちーっともかまってくれなかったみてぇですよ」

「ほぉ」

「坊ちゃんが産まれた時、『私の時と全然違う…』って、しょっちゅう眉間に皺寄せてましたから」


 大爆笑された仕返しと言わんばかりに、吟はニヤニヤしながら告げ口をする。すると、浜ヶ崎は弧を描いていた目を細め、面倒くさそうに舌打ちをした。


「んな事言ってもあの時は今よりも忙しかったし、夏子も居ったし…第一、オンナノコなんて、どう接して良いか分からんやろ…」


 ゴリラのように下顎を突き出して、かったるそうに喋る浜ヶ崎。


 ――でも、男親なんてそんなもんちゃう?


 と、思った事をそのまま言いそうになって、浜ヶ崎は言葉を呑みこんだ。ぼんやりと思い出した幼い頃の雪が、何となく寂しそうだった気がして。

 浜ヶ崎は数秒押し黙ると、躊躇いがちに口を開いた。


「…悪かったと思ってるから、今はあいつの好きなようにさせてるし、望みは何でも叶えてやってる。…それでええやろ、別に」


 フンッと鳴らした丸い鼻先がそっぽを向く。一見不機嫌そうに見えるが、浜ヶ崎の耳の上が赤く染まっている。成る程、照れ隠し故のぶっきらぼうなんだなと悟った松野はフフッとと口角を上げた。


「…おい、なんやねんその顔」

「いやぁ~、別にぃ~」


 ギロッと浜ヶ崎に睨まれるが、怖さよりも可愛げを感じてしまう。ニヤける口元を手で隠すと、浜ヶ崎の方眉がピクッと上がった。


「……」


 松野の考えている事が手に取るように分かるが、ツッコんでも得をしない――と、判断した浜ヶ崎は、松野の相手をする事を止め、テーブルの上に置いていた春のマグを取った。


「春」


 湯冷ましが入ったマグを差し出す。


「えう!」


 春は勢い良く持ち手を掴むと、パクッとストローを咥え、ゴクゴクと飲み始めた。

 膝の上にちょこんと座る、春の綺麗な丸い後頭部を浜ヶ崎は優しく撫でる。そこへ、スマートフォンを片手に持った龍二がやってきた。


「親父、雪さんから連絡がきました」

「なんて?」

「『19時に予約した中華料理に行く前に、化粧品買いたいから学校まで迎えに来て』とのことです」

「はぁ!?昨日は服で今日は化粧品かいな!」


 「カァ~~~~~ッ!」と呆れた声を上げながら、浜ヶ崎は天を仰ぐ。


 昨日の雪との買い物は、それはもう地獄の時間だった。


「学校が終わったから迎えに来て」


 と、連絡が来たので、雪の愛車のSUVで迎えに行った浜ヶ崎達。大学の門の前で雪を拾い、そのまま家に帰ろうとしたら、「ちょっとだけデパートに行きたい」と、急に言い出したのだ。

 「ちょっと」という言葉に嫌な予感がしつつも、可愛い娘の頼みを承諾し、デパートに向かう。

 その結果、買い終わるまでにかかった時間は、なんと2時間半。

 雪が気に入ったものを片っ端から試着していき、その度に「どう?」「これは?」と聞いてきたからだ。

 買い物中、春がジッとしていられるわけもなく。抱っこしたりおもちゃを渡したり、ミルクやオムツ交換を挟んだり…と、あの手この手で何とかあやそうとしたものの、春は耐えきれずにギャン泣きしてしまった。

 デパート中に赤ちゃんの泣き声が響き渡る。そんなカオスな状態に、「もうネットで買うてしまえば?」と提案したのだが、「実物見たいから嫌」と、サラリと一蹴されてしまい。


 両手いっぱいの買い物袋を持ち、ホクホク顔の雪とは反対に、


 ――もう二度と雪の買い物には付き合いたくない…。


 と、三人の大人達は思ったのだった。


 現在の時刻は16時23分。

 大学までは、家から徒歩10分、車なら5分程で着く。

 一旦家に戻らずに迎えを呼ぶという事は、今日も沢山買い物をするつもりなのだろう。


「…雪の奴、春がいると大変なの分かっとるくせに」


 ボソッと疲れた声で呟く浜ヶ崎の髪の毛を、春はご機嫌な笑みで引っ張る。

 明らかに気落ちした様子で、されるがままになっている浜ヶ崎。その姿をジッと見て、松野は「なぁ」と声をかけた。


「俺が春のこと見とこうか?」


 自分を指差しながら松野が尋ねる。すると、円らな瞳がパッと大きく見開いた。


「えっ!マジで!?ええんか!?」

「ええよ、別に。あとやる事ってミルクとオムツ交換くらいやろ?」


 全く不安がないわけではないが、春はまだあっちこっち動き回ったりしないし、一人遊びが上手だ。

 数多の暴れん坊を世話していた松野からすると、春は“育てやすい子”という印象だ。


「助かるわ~!ほな、なんかあった時の為に俺の連絡先教えとくわ」


 春を抱えながら立ち上がった浜ヶ崎は、ポケットからスマートフォンを取り出して、タップする。


「親父、あまり人に連絡先を教えるのは…」

「松野なら大丈夫やろ。悪用しなさそうやし。な!」


 龍二の制止に、ニカッと歯を出して笑う浜ヶ崎。しかし、その笑顔の奥から得体の知れない圧力を感じ、松野の頬がピクッと引き攣った。


「お、おう。勿論…」

「これ、俺の番号や。登録してくれ」


 スッと目の前に差し出された画面に、松野はゴクッと喉を鳴らす。

 まさか、久々に登録する連絡先がヤクザの組長になるなんて。


 ――こんな状況で今更やけど…ヤクザの電話番号を知ってても、違法にはならんよな?知り合いってだけで捕まったという話は聞かんし…。大丈夫だよな…?


 バクッバクッと胸を騒がせながら、松野はポケットからスマートフォンを取り出す。

 ヤクザの仕事に関わるような事をしている訳ではないし、きっと問題ないはずだ――そう自分に言い聞かせ、震える指で連絡先を入力する。


「松野のやつも教えてくれ」

「お、おお」


 完了ボタンを押した松野は、戸惑いながらも自分の電話番号を伝える。


「あんがとさん」


 二ッと笑った浜ヶ崎にぎこちない笑顔を返すと、松野はスマートフォンに視線を落とした。きっと大丈夫、大丈夫…と心の中で呟きながら、“浜ヶ崎”と登録された文字を凝視する。その強張った横顔に、吟がそろりと近寄ってくる。


「あの~…松野さん」

「?」

「俺、親父の護衛なんで、一緒に行かなきゃいけないんすけど…」


 「大丈夫っすか?」と申し訳なさそうに頭を掻く吟。浜ヶ崎は「はん!」と馬鹿にしたように笑うと


「いや、お前がおらん方が、春がぐずらんし松野も楽やろ」


 と言って、吟を肘で突いた。


「うっ!!確かに…」


 ガーン!と大袈裟に肩を落とす吟に、固くなっていた松野の表情が僅かに緩む。


「松野」

「ん?」

「春はいつも19時半頃には寝るんやけど、俺らが帰ってくるのは遅いと思うから…」

「…寝かしつけとけばええんやな?」

「おっ!話が早くて助かるわ~!」


 浜ヶ崎は上機嫌に頷くと、春を抱えたままゲストルームに向かう。1分後、リビングに戻ってきた浜ヶ崎の肩には半円の形をした薄い鞄がかけられていた。


「なんや?それ」


 松野が目を瞬かせて尋ねると、浜ヶ崎は得意げに鞄を掲げる。


「これなぁ、春のベッドやねん」

「へ!?こんな薄いのが!?」


 松野は思わず大きな声を出し、鞄をジロジロと眺める。

 厚みが7cmくらいしかないように見えるのに、一体これがどうやってベッドになるのだろう。

 興味津々の松野の前で、浜ヶ崎は鞄を吟に渡す。すると、吟が二人から少し離れ、カバンのチャックを開けた。出てきたのは半楕円の形に折り畳まれた敷布団と、丸い形に折り畳まれた平干し用ネットに似ているもの。そのネットを斜めに捻ると、あっという間にワイヤーが広がり、楕円形のドーム状のフレームができあがった。


「えっ!?何やこれ!?」

「カッカッカッ。すごいやろ~。これが柵代わりで、中に敷布団入れたら完成やねん」

「マジか!」


 「は~…」と感嘆の息を漏らしながら、松野はマジマジとベッドを見る。

 赤ちゃんが寝るのに十分な大きさの楕円型のドーム。その支えはワイヤーなので、ぶつかっても痛くなさそうだ。天井部分には赤ちゃんを出し入れする為の大きな入口。周りを覆う生地はほぼメッシュだから、赤ちゃんの様子がちゃんと見えて安心だ。


「しかもこれ、上のファスナー閉めたら蚊帳になんねん」


 浜ヶ崎は出入り口についているチャックを閉める。すると、天井部分のメッシュ生地がピッタリと出入り口を覆っていき、蚊が侵入を諦めそうな、立派な蚊帳付きベッドが完成した。


「いや~、今の時代って凄いなぁ…」


 折り畳める洗濯カゴや、平干しネットがある事は知っていたけど、まさかベビーベッドまで薄型に畳める時代になっていたとは。


「ほんまやで。雪が赤ん坊ん時にはこんなの無かったわ」

「俺も見た事ないわ。なぁ、これって――」


 わいわいと昔話に花を咲かせるおじさん達。

 とても楽しそうで何よりなのだが、もう家を出ないと、雪が待ちくたびれて怒りだすに違いない。


「親父、そろそろ行かないと雪さんが…」


 焦った龍二が、コソッと浜ヶ崎に耳打ちする。


「あぁん?…はぁ、しゃあないな…」


 浜ヶ崎はチッ!と舌打ちをすると、春をゆっくりと松野に渡した。


「春は一回寝ると朝まで起きんから、ほっといても大丈夫やと思う」

「おお」

「玄関にある鍵借りてくな。じゃ、すまんけどよろしく頼んます」


 手を上げる浜ヶ崎と、会釈する吟と龍二。松野も軽く手を上げると、三人を玄関で見送った。

 父親が居なくなったら、流石に泣いてしまうのでは…と懸念していたのだが、玄関のドアが閉まっても、春は全然平気だった。


「春、何して遊ぼうかー」


 嬉しそうに松野に抱き着く春の背中を撫でながら、リビングに戻る。時刻はもうすぐ16時40分。

 そろそろ次のミルクの時間だなと手を叩いた松野は、春をメリージムに寝かせてキッチンへ向かった。

 目の前でユラユラ揺れるおもちゃに夢中の春を気にかけつつ、缶に書かれた分量のミルクの粉を消毒した哺乳瓶に入れていく。ウォーターサーバーのお湯で粉を溶かし、冷水で温度を調整すればあっという間にミルクが完成した。


「春~、ミルクできたで」

「あうっ」


 パッと松野に笑顔を向けた春を抱っこして、背凭れを斜めにしたバウンサーに座らせる。落ちないようにベルトを締めて、温かい哺乳瓶を春に渡す。春はしっかりと両手で持つと、「待ってました!」と言わんばかりの勢いでゴクゴクとミルクを飲み始めた。


 ――良かった。美味しそうに飲んでくれた。


 と、ホッとすると同時に、自分の夜ご飯がないことに気付く。


「…そう言えば、吟が沢山買ってたけど…」


 色んな物が入っていた袋の中に、レトルトの箱があった気がする。

 外には買いに行きたくない。宅配も嫌だ。

 お願いだから何かあってくれ~!と、縋るようにパントリーの中を覗く。朝はスッカスカだった棚。その寂しかったスペースに四角い箱が陳列されているのを見つけ、松野はパアァッと顔を輝かせた。


「おっ!10個もあるやん!」


 カレーにハヤシライス、親子丼や中華丼。色とりどりの箱の他に、パスタソースも用意されている。

 浜ヶ崎達が東京に居る間は会食をする事が多いので、その間松野が食べ物に困らないようにと、吟が買っておいたのだ。

 松野は何度も指を彷徨わせ、レトルトカレーを一つ取る。


 ――春が寝たら食べよう。


 嬉々としてパッケージを眺めると、大事そうに抱え、軽快な足取りでキッチンの天板に置いた。


 春がミルクを飲んでいる間は、それはもう静かで。

 さっきまで騒がしかったのが嘘のように、部屋がシーンとしている。


「美味しいか~?春」


 …と、無駄に何度も言ってみたりして。

 しっかり飲み切った春から哺乳瓶を受け取り、カウンターに置く。バウンサーから春を抱き上げると、松野の肩に寄りかからせて、背中をトントン叩いてあげる。暫くして「ゲフッ」とゲップが出たのを確認すると、


「おっ、ちゃんとゲップ出してえらいなぁ」


 と褒めながら春の頭を撫で、ゆっくりとしゃがんだ。

 赤ちゃん用のローチェアに座らせて、周りにおもちゃを用意してあげる。


「あ~!う!」


 と叫びながらおもちゃで遊び始めた春を見て、今のうちに…と、哺乳瓶を洗いに行く。しかし、椅子に座ったことで思ったように動けない春は、不機嫌になりぐずり始めてしまった。


「ふぇっ、えっ、や~~~~!!」

「お~、春、ちょっと待ってな!」


 A4くらいのプラスチック箱の中に水を入れ、分量通りの消毒剤を入れる。


「あわ~~~~~!!」

「わ~、すまんすまん、春」


 更に大きくなる泣き声に焦りながら、消毒液の中に洗った哺乳瓶やキャップを入れる。浮いてこないように中蓋を入れて蓋をして、松野は急いでリビングに戻る。ローチェアの前で膝を付くと、顔をくしゃくしゃにして泣き喚く春を椅子から降ろした。


「椅子イヤだったかぁ。ごめんなぁ」


 ソファに移動し、春を膝に乗せて背中を撫でる。すると、春は松野のシャツをギュッと掴み、固いお腹に顔を埋めた。

 泣き続ける小さな背中を撫でて、松野は「よしよし」と声をかける。

 確認しなくても分かるほど、服に春の涙と涎が染みこんでいる。

 泣き止まない春を抱えて立ち、松野は家の中を歩き回る。カーテンを開けて夕暮れの街並を見せてあげたり、高い高いしてみたり。

 自分が考えられる策を全て試し、何とか泣き止んだ頃には時計が一周回っていた。


「ふぅ~~…」


 ずっと動き回っていたから、また汗だくになってしまった。腕の張りの痛みも強くなっている。

 大人になった今の方が筋力はあるはずなのに、子供の時の方が赤ちゃんのお世話が楽だった気がするのは何故だろう。歳をとったなぁ…と悲しくなりつつ、額の汗を手の甲で拭う。


「はぁ…あっ、お茶飲むか?春」


 スン…スン…と鼻を鳴らす春のお口がもぐもぐと動いている。床に座って胡坐をかき、その中に春を座らせる。テーブルに置いていたマグを取り、ストローをちょんっと唇に当ててみる。すると、春はマグを持ったまま松野に凭れ掛かり、パクッとストローを咥えた。流れた涙を補うように、ベビー麦茶を飲んでいく。これで少しは落ち着けるかな…とホッとしたのも束の間、春の足の間が山のように大きく盛り上がっていることに気付く。


「あ~…。すまんなぁ…オムツパンパンだったんやなぁ」


 重たくなったオムツは赤ちゃんの体には負担が大きいと聞く。早く変えてあげないと可哀想だ。


「ゲフッ」


 と、満足気に春がゲップをしたのを見て、松野は壁際に置かれたオムツのパッケージの中から新しい物を一枚取る。授乳クッションの上に防水のオムツシートを敷き、春の頭が少し高くなるように寝かせる。ロンパースの足のスナップを外し、新しいオムツをお尻の下に敷く。ずっしりと重たいオムツを手際よく丸め、綺麗なオムツに交換してあげると、春は嬉しそうにニコッと笑った。


「良かったな~。スッキリしたな~」


 パチンパチンと足のスナップを留めると、春は楽しそうに手足をバタつかせる。

 春を寝かせたまま、松野は急いでオムツを捨て、手を洗う。さて、これから19時まで春と何をしよう――と、松野は考えていたのだが。


「…おやすみ、春」


 春は授乳クッションに包まれたまま、ウトウトと目を閉じかけていた。

 大泣きして疲れたのだろう。

 眉間を優しく撫でてあげると、春はすぐに眠ってしまった。


 ――あかん、俺もめっちゃ眠くなってきた…。


 春が寝た事で、「しっかりお世話をしなきゃ!」と張っていた緊張の糸がプツリと切れたようだ。意識がグンッと地下に引っ張られるような感覚に襲われ、松野はヤバいと目を擦る。


 浜ヶ崎は、春が寝たら放っておいても大丈夫だと言っていたが、目の届くところに居てくれないと心配だ。

 今はとりあえず、自分の寝室で寝かせよう。そして、皆が帰ってきたら春をゲストルームに連れて行けばいい。

 松野は欠伸をしながら、寝室にベビーベッドを持っていく。

 クイーンサイズのベッドの真ん中にベビーベッドを置き、出入り口を開けておく。静かに寝息を立てる春を起こさないよう、慎重にクッションから抱き上げると、足音をたてないように静かに歩き、そっとベッドの中に降ろした。

 ジジジ…と小さく鳴るジッパーの音に、春が起きてしまわないかドキドキしながら、天井部分を閉めてあげる。

 メッシュ生地越しに春を覗き、寝ていることを確認すると、松野は吸い込まれるようにベッドに身を沈めた。


 ――めっっっちゃ疲れた…。


 ふぅ~…と天井に向かって息を吐く。完全に電池切れだ。体が鉛のように重い。

 昔赤ちゃんのお世話をしていたし、一人でもなんとかなるだろうと軽く考えていたけど、とんでもない。

 赤ちゃんには「ちょっと待ってて」が通じないし、当然“良い悪い”の概念もない。事故や怪我をしないか常にハラハラするし、食事も…トイレすらも好きな時にできない。

 大変だ。これを毎日熟す世のお父さんお母さんも、保育士さんも、幼稚園の先生も。尊敬しかない。


 ああ、そう言えばお腹空いたな…と、キッチンに置きっぱなしのカレーを思い出しながらお腹を擦る。今すぐ食べたいけど、瞼が重くて重くて仕方がない。


 ――皆が帰ってくるまで…少しだけ、仮眠しよう。


 深い海の底へ導かれるような眠気に誘われて、瞼を閉じる。

 この日、松野は三週間ぶりにスマートフォンを握りしめずに眠りに落ちた。


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