第3話 松野、家に乗り込まれる・2

 

 2時間ぶりにブルゾンを脱いだ松野は、浜ヶ崎のあぐらの上で楽しそうにおもちゃのティッシュを出し続ける春を見て、こっそり溜め息を吐いた。

 春を起こさないように抱っこし続けていたから、腕がパンパンに張って痛い。その上、着ていたブルゾンが厚手だったから、ずっと着ぐるみの中に入っているみたいに蒸し暑かった。


「…ちょっと服とか片付けてくるわ」

「お~」


 ベビーシッターの問題が解決したからだろうか。至極上機嫌な浜ヶ崎に声をかけると、松野は疲れ切った体を引き摺りながらリビングを出る。すると、濡れた洗濯物が入ったカゴを抱えた龍二が向かい側からやってくる。


「せ、洗濯してくれて、ありがとうございます…」


 松野はビクッと肩を揺らしつつ、頭を下げる。


「お世話になるんですから、当たり前ですよ。…それと、敬語はやめて下さい」


 サングラスを外し、パッチリ二重を露わにした龍二がフッと口角を上げて笑う。その棘のない笑顔を見て、松野は「おぉ…」と呟いた。

 エレベーターで会った時は緊迫した状況だったこともあり気付かなかったが、龍二はとても精悍な顔立ちをしている。落ち着いた声は聞いていて心地が良いし、スラッとした長い手足は、任侠映画から飛び出てきたような華やかさがある。頬の傷さえ龍二を引き立てるアクセントに見える――そんな、不思議な魅力を龍二から感じる。

 バッタリ芸能人に会ったようなドキドキ感を抱きながら、松野は「わ、わかった。そうするわ」と頷く。

 軽く頭を下げた龍二に手を上げると、松野はそそくさと歩きだした。

 いつの間にか額に浮かんでいた汗を拭い、ウォークインクローゼットの扉を開く。パタンと静かに扉を閉めると、


「はぁ~~~~~…」


 と、口から盛大な溜め息が零れた。

 まだ数時間しか一緒に居ないのに、まるで三日間徹夜をしたかのような疲労感がドッと襲ってくる。


「……はぁ」


 床に寝ころびたくなる体を律して、キャップとサングラスを棚に置く。そして、ゴールドのバーから黒いハンガーを取ると、ブルゾンをかけ、バーに戻した。


「う、ぐ、ぅっ」


 天井を押すように大きく背伸びをする。背骨がポキポキッと鳴り、少しだけスッキリした気分になる――が、今日から一週間彼らと暮らさなければいけない事を思い出し、またげんなりと肩が落ちる。


「はぁ~~~~~~…」


 前の彼女と同棲したのが何年前かも思い出せないのに。赤の他人――しかも4人も同居人が増えるなんて、どう対応すれば良いのか分からない。

 とは言え、今更逃げられないし。「やっぱりやめる」と言ったらどんな報復をされるか分からないし。


「……行くかぁ」


 松野は蹲りそうになる足をペチン!と叩くと、ウォークインクローゼットを後にした。

 のそのそと歩く松野の表情は覇気がない。歩いたところからカビが生えてきそうだ。


「戻りやした~!」

「!」


 松野の鬱々としたオーラとは反対に、景気の良い高らかな声が玄関に響く。ガチャッと鍵を閉める音がして、ドスドスドス!と無遠慮な足音が鳴る。はて、吟はいつの間に外出していたんだろう…と首を捻る松野の耳に、ドーン!と床を叩くような鈍い音が聞こえてきた。


「!?」


 ――なっ、何や!?喧嘩か!?


 慌てた松野が急いでリビングに走っていく。すると、スーツの袖を肘までたくし上げた吟が、荒い呼吸をしながら床にへたり込んでいた。


「いや~、この家なんっも食料がないから、買いに行くの大変でしたわぁ!」


 疲れ果てた様子でカウンターキッチンに凭れかかる吟。その足元には大量の食材が入った袋が6つ置かれていた。どうやら、音の正体はそれだったらしい。痺れを掃うようにプラプラと手を振る吟の指には何本も赤い線が刻まれており、相当重かったことが窺える。その痛々しさに目を細めた松野は、深々と頭を下げた。


「…すみません。お手数おかけして」

「え?あぁ、いやぁ別に…あんたの事、こっちの事情に巻き込んでるわけだし…」

「そやそや。それくらいで音ぇ上げる根性なしの方が悪いんや」


 カッカッカッと笑う浜ヶ崎に、吟は不貞腐れたように唇を尖らせる。

 最初は松野に突っかかってきた吟だったが、掃除を始めたあたりから、普通に接してくれている。何でだろう…と思う反面、ホッとしたのも事実。松野は冷蔵庫に食材を入れる吟の元へ行き、声をかける。


「…何か分からない事はありませんか?」

「あ~…フライパンってどこに…っつーか、敬語で喋るのやめてくれません?親父とはタメ口で話してるのに、俺には敬語って…変だし、恐ろしいですわ」

「恐ろしい?」

「へい。なんかこう…俺の方が親父より上みたいじゃないっすか」

「お!吟。ええで?お前が組長やるか?」

「!?勘弁してくださいよ~!冗談でもそんな事言ったら、俺、兄貴たちに殺されちまいますよ!」


 ニヤリと笑う浜ヶ崎に、吟は心底嫌そうに口をへの字に曲げる。

 北は北海道、南は沖縄まで勢力を伸ばしている浜ヶ崎組。まだ入って2年目の吟にとっては、その組員の殆どが兄貴に当たる。彼らは気の良い一面もあるが、怒ったら――特に、組長に対する不敬があった日には、リミッターのない、全力の暴力で相手を叩きのめすのだ。


 ――あ~…想像しただけで怖すぎる…。


 吟は恐怖を振り払う様に頭を振り、突っ立っている松野に話しかける。


「…で、フライパンってどこっすか?」

「あ、あぁ…こっちの棚の一番下や」


 急に疲れ切った声になった吟を不思議に思いつつ、松野は足元の引き出しを指差す。


「もしかして、今からご飯作るんか?」

「へい。皆の昼飯作りやす」

「!そっか…ありがとう。…フライパン、出しとくか?」

「あっ。お願いしやす」


 吟は首だけで返事をすると、袋に残っている食材を取り出し、人工大理石で作られたキッチンの天板に並べていく。立てかけられたまな板を目の前に置き、扉の内側から包丁を取り出す。テキパキと動く吟を見て、松野のお腹が「ぐぅ~」と鳴った。

 

 ――そういや、お腹空いてたの忘れてた…。


 そもそもこんな事になったのは、コンビニに食料調達しに行こうとして大失敗したからだった。

 とりあえず、水を飲もう――と、松野はキッチンラックからグラスを取り、蛇口を上にあげる。トクトクトク…とグラスに水が注がれていく。揺れる水面が9分目に達すると、松野は水を止め、一気にグラスを傾けた。

 ゴクッゴクッと、乾いた喉に冷たい水が流れていく。スポンジが水を吸収するように、どんどん体が満たされていく。

 自分が思っていた以上に喉が渇いていたらしい。

 最後の一滴を飲み干して、松野は「はぁ~~」と幸せの息を吐く。再びグラスに水を入れ、なみなみと注がれたグラスを満面の笑みで傾ける。美味しそうに喉を鳴らす松野の前。リビングの隅に寄せたローテーブルでノートパソコンを開く龍二が、春をあやす浜ヶ崎に画面を向けた。


「親父、この前の海外マフィアの件ですが…」

「ゴフッ!!」


 ゴキュッと変なところに水が入った松野は、思いっきり口から水を吹く。

 ゴホッ!ゴホッ!と咳を繰り返す松野に、吟が目を丸くして「大丈夫っすか?」と声をかける。


「だ、大丈夫…」


 ハハハ…と笑いつつも、体中がゾワッと粟立つ。

 “海外マフィア”――まさか、映画でしか聞いた事がない言葉を、目の前で聞く日が来るなんて。


 ――…一週間経ったら、なんとしてでも縁を切らんと…。


 ドギマギする胸を撫でながら、この人達は絶対に懐に入れないようにしなきゃ――と、松野は固く心に誓った。


「松野、すまん。仕事の話するから春の事見といてくれ」

「!!お、おぉ…!」


 手招きする浜ヶ崎に慌てて笑顔を作り、グラスをキッチンに置く。

 気付けば赤ちゃん用のおもちゃでいっぱいになったリビング。

 松野は床に散らばったおもちゃを踏まないように歩きながら、春を支える浜ヶ崎の後ろに回り込む。


「まだお座りが完璧じゃないから、倒れないように注意してくれ」

「分かった」


 立ち上がった浜ヶ崎に代わり、春の腰を支えながら足の間に挟んで座る。


「え~っと…坊ちゃん?」

「春でええわ」

「…じゃあ、春。こんな積み木もあるで」


 春のお腹に手を回したまま、遠くに転がっていた積み木に手を伸ばす。四角い木のブロックを二つ差し出すと、春は一個ずつ手に取り、自分の目の前で掲げる。


「うあー…えうっ!」

「おお、うまいやん!」


 カンカン!と積み木同士をぶつけて遊びだす春。その姿を嬉しそうに見つめる松野は、まるで愛孫を見守るおじいちゃんのようだ。

 動くたびに揺れる、春のふわふわの細い髪の毛を優しく撫でる。すると、


「ふへへっ」


 大きな掌から伝わるほわ~んとした温かさに、春が満足気に舌を出して笑った。

 瞬く間に打ち解けた二人を見届けて、浜ヶ崎は龍二の隣に腰を下ろす。


「待たせてすまんの」

「いえ。それで――」


 二人は真剣な表情で画面を見つめ、話し出す。時折小声の中に混ざる舌打ちに、松野の肩がビクッと跳ねる。

 きっと恐ろしい話をしているに違いない。絶対に聞かないようにしなくちゃ…と、怯える松野は、少し大きめの声で春に話しかける。


「春はえらいな~。おりこうさんやな~!」


 と、笑顔で話す松野に、春も


「あー!うー。ばあ~」


 と饒舌に喋って笑う。しかし、何故か急に真顔になり、ピタッと会話が止まった。

 じーっと積み木を見つめ始めた春。真剣なその表情を、松野は不思議そうに覗き込む。と同時に、春がガブッ!と積み木に嚙みついた。


「!?」


 小さなお口から、だらぁっ…と涎が溢れ出し、積み木、そしてお手々に伝っていく。


「ちょっ、春…待っ……!」


 ガジガジと噛む度にぶわっと勢いを増す涎。


 ――な、何か拭くもの…!!


 松野はあわあわしながら、吟に向かって高速手招きをする。


「ぎ、ぎぎぎ吟!あれっ、あの、ガーゼ!ガーゼどこや!?」

「えっ!?あっ、ガーゼ!?ガーゼは…えぇっと…」


 フライパンを振っていた吟は急いで火を止めて辺りを見渡す。そして壁際にグチャッと寄せ集められているバウンサーやベビーチェア、抱っこ紐やオムツの中から黒革のボストンバッグを発見すると、ガーゼを取り出し、手を伸ばす松野に向かって放り投げた。


「これです!」

「ありがとう!」


 上手にキャッチした松野は、ナイアガラの滝のようになっている春の顎にサッとガーゼを添える。


 ――あぁ、そう言えば赤ちゃんってよく涎が垂れるんやったなぁ…。


 遥か昔にお世話した赤ちゃんを思い出しながら、濡れてしまった首や頬を優しく拭う。


「すげ~…。なんか…松野さん、赤ん坊の世話手慣れてますね」

「あぁ、昔近所の子の面倒よくみてたから…でも、このくらい誰でもできるやろ」

「いやいやいや。他の赤ん坊なら何とかなるかもしれませんけど…相手は坊ちゃんですからね。俺なんて産まれてからず~っと一緒に居るのに、触ると怒られますから」


 「ほら!」と言って、春の前に勢い良く手を差し出す。すると、ムッと顔を顰めた春が吟の手をグ~ッと押し返した。プイっと顔を背け、今度は網目で作られたボール――オーボールを掴んで噛り付く。「吟はお呼びでない」と言いたげな春の態度を見て、松野は「ほんまや」と目を丸くした。


「ね。みんなにこうなんで、兄貴達は早々に根を上げちまって…。シッターさんもダメだし…しょうがないから下っ端の俺が何とか世話してるんですけど、全然懐いてくれないからめっちゃ大変なんですわ」


 と言うと、吟は腕と手の甲にある引っかき傷や痣を松野に見せる。


「はぁ~、この一週間は坊ちゃんからかいほ…、…平穏に過ごせるのかと思うとホッとしますわ~」

「…毎日大変やったんやなぁ」


 大きな溜め息を吐く吟の心中を察し、松野は深く頷く。吟は顎で頷き返すと、「あっ」と言って目を開き、春の顔を覗き込んだ。


「そう言えば…最近、涎の量がすげぇ増えてきて、顎の下の方がかぶれてるんすよね…何で急に増えたんかなぁ」


 じーっと顎を凝視する吟。その額を、春が嫌そうな顔で押し返す。


「…このくらいの時期なら、歯が生え始めてきたんちゃうか?」

「いててて…。歯?…あっ、確かに!」


 一心不乱にガジガジとオーボールを噛む春。その下顎から、うっすらと白い物が生えている。これ、歯か!と驚く吟に、松野は問いかける。


「離乳食はもう始めてるか?」

「いや、まだっす」

「ほんならええ機会やし、始めてみよか」


 松野はポケットからスマートフォンを取り出し、離乳食を検索する。

 何となく作り方は覚えているけど、昔と今じゃ変わっている事があるかもと思って。春のお腹に手を回したままふむふむと頷く松野を見て、吟の糸目がパァッと輝く。


「す…すげー!!松野さん、マジで心強いっす!」

「?」

「俺も離乳食のこと調べたし、辞めてったベビーシッターの人達も教えてくれたんすけど、準備が超面倒くさそうだし、一回始めたら続けきゃいけないじゃないっすか。だからめっっっちゃくちゃ腰が重くて」

「今は市販のベビーフードがたくさんあるんやから、使えばええやん」


 「ほら」と言いながら、レトルトの商品が沢山出てきた画面を吟に見せる。


「そうなんすけどぉ…最初の一歩がダルイっつーかぁ」

「うーん…。確かに分からんでもないけど…離乳食は絶対やらなあかんしなぁ。離乳食が終わって、ちゃんとご飯食べれるようになると一気に楽になるで」


 そう言ってスマートフォンをポケットにしまうと、松野はオーボールを握ったままの春を抱っこして立ち上がった。


「お米買ってきてくれてたよな?俺が春を抱っこしたまま指示を出すから、吟、おかゆ作ってくれへんか?」

「へい!」


 吟は大きく頷いて、松野と共に立ち上がる。

 キッチンへ行き、「鍋は…」「お米の量は…」と仲良く作業する二人を、龍二は感心したように見つめる。


「あの二人、もう仲良くなってますね」

「ほんまやな。吟だけやろうな~、あんなふざけた口調でも怒られへん奴」


 他人には猫のようにすぐに爪を向けるけど、一度仲間だと思ったら子猫のように懐いてくる。オーバーリアクションでうるさいけど、可愛げがあるから、憎めない。


「あっちはあいつに任せて、俺らはこの問題をどうするか考えよかー」

「はい。これはうちのシマの喫茶店のオーナーから聞いたのですが――」


 広い部屋の端と端。

 片や深刻な表情で、片や和気藹々としながら、それぞれの時間が過ぎていった。


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