第2話 松野、家に乗り込まれる・1
「はぁ?話し合い?私の家に知らないおっさんが入るとかマジでありえないから、そのおじさん家で話してよ。私もう少ししたら大学行くし」
「家を貸せ」と言う父親に心底嫌そうな顔を向けると、雪は春の頭を一撫でして、一人で自分の家がある23階へと向かってしまった。
「カ~~ッ。わざわざ大阪から来たのは、あいつの為でもあるのに…わがままに育ったのぉ」
パンチパーマをガシガシと掻くゴリラ…否、浜ヶ崎は呆れたように溜め息を吐く。そして、戸惑う松野からコートを雑に奪うと、スキンヘッドの男に差し出した。
「龍二、お前が代わりにコート出してこい。元社長はん…って、めんどいな…。自分、名前は?」
「ま、松野です」
「お~~お~~、松野はん。松野はんの部屋番号は?」
「…3502です」
言いたくない…と思いつつも、有無を言わせぬ迫力に負けて勝手に口が動いてしまう。
「やって。龍二、終わったら3502に来い」
「はい。分かりました」
コートを抱いたまま頭を下げ、龍二はコンシェルジュの方へ歩いていく。浜ヶ崎はおどおどする松野に体を向けると、ニタッと胡散臭い笑みを浮かべた。
「ほな、松野はんの家まで行きましょうかぁ~」
突き出した親指でエレベーターを指す。
指の先の、高級感溢れる艶やかな黒い扉。
見慣れたはずのその扉が地獄の入り口のように見えてきて、松野はぶるりと身を震わせた。
正直、家に上げたくない。1ミリたりとも侵入してほしくない。しかし、赤ちゃんは依然松野の服の裾を掴んだまま。断ったら何をされるか――。
「…分かりました」
松野は意を決して頷くと、浜ヶ崎と吟と共にエレベーターへ乗り込んだ。
そうしてやってきた松野の家。
「松野はん、春のこと抱っこしといてくれへん?」
浜ヶ崎はベビーカーのベルトを外すと、「へっ!?」と驚く松野をスルーして勝手に家へあがり込む。
「親父が『抱っこしろ』って言ってんだから早く抱っこしろや!…ま、抱っこできるもんなら、やけどなぁ」
吟は戸惑う松野を睨みながら、顎をしゃくらせて煽る。
「はっ、はぁ…」
こういう人達はいちいちメンチを切らないと喋れないのだろうか。
それに、「抱っこできるもんなら」ってどういう事だろう。普通の抱っこじゃダメなのか?組長の子供だから、丁重に扱えという事だろうか。
物騒な視線に半泣きになりつつ、松野はそっとベビーカーに手を伸ばす。
大人しい春の両脇に手を入れ、優しく持ち上げる。すると、あんなに離そうと思っても離れなかった小さな手が、パッと開いた。
「よいっしょ」
「!?」
されるがままの春を松野の肩に引き寄せ、縦抱きで抱っこする。落ちないようにお尻と背中をしっかり支えると、春が松野を見てニコッと笑った。
――あ、可愛い。
ふわっと周りに花が咲くような。穢れのない純粋な笑顔に、サングラスの奥の松野の目尻が優しく緩む。
こうやって赤ちゃんを抱っこするのなんて、いつぶりだろう。
思わず「ふふ」と微笑む松野。
ニコニコと笑い合う二人を見て、吟の視線が激しく彷徨う。
「や、やるじゃねぇか…」
と言う吟は何故か悔しそうだ。
松野は吟の言葉の意味が分からず、「はぁ…」と、とりあえず呟いた。
「なんやなんや、埃っぽいの~この部屋!」
リビングの方から、豪快にカーテンを開ける音と共に浜ヶ崎の呆れ声が響いてくる。
吟は慌ててベビーカーを畳むと、ズカズカと部屋に入って行く。顎を前に突き出しながら歩く吟は、リビングを見た瞬間「ウゲッ!」と顔を歪ませた。
「なんすかこの部屋!?親父の趣味部屋並みにやばいじゃないっすか!」
「お前は一言余計じゃ!」
「いてぇっ!すんません!」
スパァン!と勢い良く頭を叩かれ、吟の目はトンカチで殴られたようにチカチカ光る。「だってあの部屋ただのガラクタ置き場じゃないっすか!」と喉元まで出かかった言葉を何とか呑みこみ、ヒリつく後頭部に手を添える。
慌ててリビングにやってきた松野は、ブエックシュン!と大きなくしゃみをする浜ヶ崎と苦悶の表情をする吟を見て、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません…最近何もする気が起きなくて、全然掃除をしていないんです…」
ペコペコと何度も小さく頭を下げる――が、松野は内心、首を傾げていた。
――3週間で、部屋ってそんなに汚れるっけ…?
一人暮らしで…しかも、必要最低限の動きしかしていないのに、汚れる要素なんてないだろう。
そう思いながら辺りを見渡した松野は、すぐに自分の考えが甘い事に気付く。
モデルルームのように配置された、自慢のオシャレな家具たち。そのあちこちに、ふわふわの綿埃が沢山積もっている。空気中には、明るい光に照らされてキラキラと輝く埃が舞っている。
息を吸うのも躊躇うような状況に、松野はギョッと目を見開いた。
「クシュン!」
愕然とする松野の腕の中で、春が小さな鼻を震わせる。
これは酷い。ずっと窓もカーテンも開けずに過ごしていたから、全く気付かなかった。
――そ、そうか…今まではハウスキーパーさんが掃除をしてくれていたから…。
だから、毎日快適に過ごせていたけど。誰にも会いたくなくて解約してしまったから、こんな事に――。
「ブエッッックシュン!」
まるでコントのような大きなくしゃみをする浜ヶ崎。その爆発音に驚きながらも、松野はどうすれば良いか分からず立ち尽くす。
「あ~、鼻痒っ…。やる気が出ないって言ってもなぁ~、掃除はせにゃいかんだろ~」
「そうっすね~、これは親父の部屋以上ですわ!」
「ああん!?」
手で顔の前をパタパタと扇ぐ吟に、浜ヶ崎が顔を顰める。
ぶっ殺すぞ。と言いたげな猟奇的な視線に、吟の肩がギクッと揺れた。
――ヤ、ヤバい…このままじゃまた殴られる!
吟は逃げるように顔を背け、冷や汗をかきながらキョロキョロと辺りを見回す。そしてパチッと松野と目が合うと、新しい標的を発見したように、「あ~~っ!」とわざとらしく声を上げ、指を差した。
「っつーか、ア、アンタ!いつまで帽子とかサングラスしてるんすか?親父の前で失礼だと思わないんす…いてぇっ!!」
松野を突くように人差し指を動かす吟の頭を、浜ヶ崎はスパァン!と叩く。
「だぁかぁらぁ!人を指差すなって言うとるやろうがぁ!!」
「はっ、はいぃ!」
強面で唾を飛ばす浜ヶ崎に吟は涙目で背を伸ばす。まるで取り立て屋のような姿を目の当たりにし、松野は「ヒィッ!」と声を裏返らせた。
「す、すみません…失礼でしたね」
と、松野は怯えながら言うと、春を落とさないようにしっかりと片腕で抱き、キャップに手を伸ばした。
ボトッ、ボトッ…と、ソファに置かれていくキャップとサングラス。
その様子を苛立たし気に見ていた吟だったが、段々と露わになっていく松野の顔を見て、次第に目が丸くなっていく。そしてマスクが外れ、完全に松野の顔が見えた時。
「…えっ」
吟はぽかんと口を開け、呆然とした。
ニュースでよく見る松野の姿。それは目を細めて笑っている、穏やかで仏のような写真ばかりだった。
しかし、今はどうだ。
皺だらけのおでこ。自信がなさそうに下がった眉。二人を見る怯えた瞳。無精ひげ。ブルドッグのように垂れた頬。
覇気のないその姿は、写真と同じ人物だとは思えない。
「……」
体型がテレビで見たまんまだし、さっき「泣き虫マッチョゴリラ」と言った時も笑っていたから、一流企業の社長ともなると、あんなニュースなんて気にしないんだな…と思っていた。
――なんか、怖えな…。
闇金でお金を借り、返せずに追い詰められていく債務者を見ても何とも思わないが。自分が招いた悪ではなく、赤の他人の言葉でここまでやつれてしまったのでは…と思うと、得体の知れない恐怖で胸がざわざわする。
狼狽える吟の後ろで、浜ヶ崎が松野の風貌をジッと見つめる。そして「おい」と吟に声をかけると、溜め息を吐きながら腕を組んだ。
「…このままじゃあ俺は座れへん。吟、すぐに部屋の掃除しろ」
「……へい」
顎で指示を出す浜ヶ崎に頷いて、吟は壁に立てかけられているコードレスクリーナーを手に取る。
「あ、ありがとうございます…」
窓を開け、ブイィィンと掃除機を動かし始めた吟に、松野は戸惑いつつも頭を下げた。申し訳なさそうに佇む松野の元に、浜ヶ崎は腕を組みながら近づいてくる。
「…春は随分、松野はんに懐いてますなぁ」
「えっ?…そう、ですかね…」
松野の腕の中をジーッと見る浜ヶ崎につられて視線を落とす。
居心地良さそうに松野に凭れ掛かる春は、「大人の会話など知ったこっちゃない」と言わんばかりに、くあぁ…と大きな欠伸をしている。
「松野はん、赤ちゃんの抱き方が慣れてるように見えますけど、何でですか?」
「えっ…あぁ…小さい頃は近所に年下の子が多かったので、よくお世話をしてたんです」
松野は数秒左上を見つめると、緊張していた目尻をふと緩ませる。
「私の地元は共働きの家が多い割に、保育園が少なくてですね…。うちの母は“近所は皆家族”みたいな考えの人だったので、赤ちゃんから小学生まで、色~んな子を預かってたんですよ。だから、家がいつも託児所みたいになってて…」
懐かしいなぁ…と、当時の光景を思い出す。
小学生の頃の松野は「なよなよしているから」というだけで、毎日同級生や上級生にいじめられていた。ただ普通にしているだけなのに――と、理不尽な攻撃に何度も泣きそうになったけど、家に帰れば小さい子達が「武蔵お兄ちゃん」と言って慕ってくれたから、何とか笑顔でいる事ができた。
一緒に遊んで、おやつを食べたり。ニコニコしていたかと思えば急に吐いたり。オムツからうんちが漏れていたり。大変な事もあったけど、あの時間があったから、自分の居場所があると思えた。
「ほぉ~~ん、そうでっかぁ」
退屈そうな相槌に、松野はハッとする。
まずい。自分語りをしすぎたかもしれない。
慌てて浜ヶ崎の顔を見た松野はギョッと目を見開く。
こちらをジ―――ッと見る浜ヶ崎。その眉間が、喧嘩前のゴリラのように険しく寄っている。
――えっ!?何で!?…何か、変な事言っちゃったのか…!?
サァッ…と顔を青ざめさせる松野。しかし、その勘は外れたようで。
浜ヶ崎は「ん~?」と言って顎を撫でると、首を傾げた。
「松野はん」
「はっ、はい!!」
「…自分、出身関西やろ」
むつかしい顔をする浜ヶ崎に、松野は「へっ?」とまぬけな声を出す。
確かに松野の出身は大阪だ。高校卒業後、ジムへの就職を機に上京したが、それまでは大阪の田舎町でずっと暮らしていた。
物騒な話ではない事にホッとしつつ、何で分かったんだろう?と疑問を抱く。
「そうですけど…」
と控えめに頷くと、浜ヶ崎は「やっぱり!」と、食い気味に話し出す。
「自分、無理して東京弁喋ってるやろ。喋り方気持ち悪いねん!」
「!?き、きもちわるい!?」
嫌そうな顔をして体を仰け反らせる浜ヶ崎に、松野は素っ頓狂な声を上げる。その声に驚いた春も、腕の中でお目目をびっくりさせる。
「お~~、気持ち悪い気持ち悪い。きっっっしょくて仕方ない」
「き、きしょい…」
自分の体を抱き締めて震える浜ヶ崎。その姿を、ガーンとショックを受けた目が見つめる。
――そ、そんな事言われたって…。
今でこそ関西弁は世に浸透しているが、昔は関西弁を話すだけで笑われたり、馬鹿にされる事が多かった。なので、周りに溶け込む為に…より話を聞いてもらえるようにする為に、若かりし頃の松野青年は一生懸命東京弁を覚えたのだ。
しかし、細かいイントネーションまでは直せなかったのも事実。喋ろうとする度に、頭の中で慣れ親しんだ関西弁が流れてしまい、邪魔をする。
これでも結構頑張ってるんだけどな…と、肩を落とす松野を見て、浜ヶ崎はガハハと笑った。
「自分、下の名前なんて言うん?」
「…武蔵です」
「おお、武蔵か。かっこえぇの~」
ニヤリと口角を上げた浜ヶ崎は、黒革のソファに向かって歩いて行く。そして、積もった埃をパンパンと手で掃うとドスン!と深く腰を掛けた。
「歳は?」
「…58です」
「おっ、俺とタメやん。じゃあ敬語はいらんな」
機嫌よく顎を撫でた浜ヶ崎は、ソファをバンバンと叩き、隣に座るよう促す。
いや、ここウチの家なんだけど…と、家主のように振る舞う浜ヶ崎に内心ツッコミつつ、春に衝撃を与えないようソッと座る。
「なぁ、お願いがあるんやけど」
「!!」
座るなり、ズイッと顔を寄せる浜ヶ崎。
眼前に迫るギラついた瞳には、首根っこを掴まれるような緊迫感がある。息をするのも躊躇う。そんな迫力に、ただただ固まってしまう。
緊張でグッと力が入る肩。その上に、節くれだった小麦色の指がポンと置かれた。
「…松野、うちのベビーシッターになってくれへんか?」
ニカッと笑った歯が、太陽の陽に当たり白く輝く。
「……へ?」
浜ヶ崎から飛び出た予想外の言葉に、松野はポカンと口を開けた。
――「ベビーシッター」…?
松野は僅かに眉を顰め、頭の中で言葉を反芻する。
ベビーシッターって、あの、赤ちゃんのお世話をするベビーシッターだよな…と、松野の頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。
「あのぉ…それは一体どういう…」
「背中痒うなるから東京弁使うな!俺とタメなんやろ?敬語も使うな」
「は、はぁ…。…ベビーシッターって、えぇっと…誰、の?」
日本有数のヤクザの組長にタメ口で話すなんて、どう考えても怖すぎるが。怒られたくない松野は、たどたどしく口を開く。
「そんなん決まっとるやろ。うちの春や」
「!?えぇっ!?…この子!?」
ギョッとした松野は腕の中に目を落とす。
話題の中心人物は、「ふぁ~」と大きな欠伸を繰り返し、眠たそうに瞬きをしている。
「おお、そうや。半年前に春が産まれてから、色~~~~んなベビーシッター達がお世話しようとしてくれたんやけどなぁ…何が気に入らんのか、触ろうとするとギャン泣きして暴れだすんや。ほんでまた、こいつの力が赤ん坊と思えんくらい強くてのぉ…みーんな傷だらけになって辞めてくんや」
はぁ~…と大きな溜め息を吐きながら、今にも目が閉じそうな春の顔を覗きこむ。
「雪と俺が近くに居ったら、大人しくなるんやけどなぁ…。雪は学校があるし、そもそも東京に住んどるし…。俺も仕事があるから、ずっと付いてあげられんしで…ま~~~一日中泣きっぱなし暴れっぱなしで、お手上げ状態なんや」
静かに寝息を立て始めた柔らかな頬をちょんっと人差し指で突く。どんな夢を見ているのだろうか。むにゃっと気持ち良さそうに動いた唇を見届けて、浜ヶ崎は背もたれに体を預ける。
ふぅ~…と天井に向かって息を吐く。その疲れ切った姿を見て、松野は「成る程…」と心の中で呟いた。
春は家族以外が触ろうとするとギャン泣きする。それなのに、何故か松野には泣かないどころか、自ら服を掴んできた。その上大人しく抱っこされ、腕の中ですやすやと寝ている。
理由は分からないが、春にとって松野は特別な存在らしい。
まぁ、たまたま今泣いていないだけで、暫くしたら泣くかもしれないけど――と考えて、あれ?と気付く。
「…あの、奥さんはどうしたんで…」
「敬語やめろ」
「……奥さんはどうしたん?」
スパッと切るような声音にビクッとしつつ、松野は恐る恐る尋ねる。
10年前にパーティーで見かけた、浜ヶ崎の奥さん。
浜ヶ崎夫妻が放つ裏社会全開のオーラが怖かったので遠目でしか見ていないが、ガッハッハと大きく口を開けて笑う奥さんの姿は、古き良き肝っ玉母さんのような豪快さがあった。
出産についてはよく分からないが、高齢出産はリスクが高いと聞く。今、赤ちゃんのお世話をできていないという事は、何か問題が起こってしまったのだろうか。もしくは、愛想をつかして出て行った?…いや、小さな赤ちゃんを残したまま家を出ていくような人には見えなかったけど――と、松野は考えこむ。
すると、浜ヶ崎は天井を見ながら「ああ」と口を開いた。
「出産した時に、死んだわ」
パンチパーマを人差し指で掻き、あっけらかんと言う。
「…えっ」
と、松野の口から乾いた声が零れた。
瞬きもせずに自分を凝視する松野を、浜ヶ崎は横目でチラリと見る。そして徐に体を起こすと、広げた足に頬杖を突いて話し出した。
「…俺も病院のせんせーも、言ったんやで?『もう53歳の超高齢出産だし、出産せん方がええ。母子共に負担が大きすぎる』って。でも、『あと20年くらいしか生きない自分よりも、これから新しい時代を生きていく子供の方が大事や…その為なら自分が死んでもええ』…って言って、譲らなくてのぉ…しょうがないから夏子の希望通り出産する事になったんや」
ふぅ、と鼻から息を出す。前のめりになって丸まる背中には、妻――夏子のことを淡々と話す口調とは違い、寂しさが漂っている。
「高血圧になりながらも、臨月まで頑張ってなぁ…『そろそろ予定日やな~』って話してたら、いきなり破水したんや。急いで病院に行ったけど、子宮口が硬くて赤ちゃんが出てこんから、帝王切開する事になってなぁ。出産した後、夏子は笑顔だったし、春も元気に泣いとったから、良かった~二人とも無事や~って思ってんけど…段々夏子の呼吸がおかしくなっていって…大量出血までし始めて…あれよあれよという間にポックリや」
「羊水が血液ん中入って悪さしたんやって。よう分からんけど」と、自嘲気味に言う。
「ま~、せやから、急に一人で赤ん坊を育てにゃならんことに…って、えっ?」
「う、っ、ううぅ~~~~~~~」
「…何?自分、何でそんなに泣いてるん?」
まるで麵を啜っているかのような。ズルズルズルッ!と、勢い良く鼻水を啜る音が隣から聞こえ、浜ヶ崎は目を丸くする。
「…マジで“泣き虫マッチョゴリラ”やん」
ゴリラのような分厚い胸板を持つ筋肉ムキムキのおじさんが、顔をくしゃくしゃにして、鼻水と涙を垂れ流している。
終いには嗚咽まであげ始めたおじさんのマジ泣きに、浜ヶ崎は思わず笑ってしまう。
「だ、だってぇ…っ、あ、あんなに仲良さそうなぁ夫婦やったのにぃ~~!」
「ほ?どこかで俺ら会うてたんか?」
「うぅっ、じゅ、10年位前、にぃ、おっ大阪のぉ、飲食店の社長が開いたパーティーでぇ、ふっ、二人の事見かけとんねん~~~!」
「10年前?……あぁ~…ウチのシマで店開いたやつか?」
うっすらとしか覚えていないけど、確かにそんなパーティーがあった気がする。
「自分、あの時おったんか」
「あ…あの社長ぉ、うちのジムの会員やったからぁ、俺も呼ばれてたんや~~」
グスッグスッと鼻を鳴らし、松野は手の甲で真っ赤な目を擦る。そして、唇を噛んで涙を堪えると、ぐっすりと眠っている春のまんまるな額を優しく撫でた。
「君のお母さんは、凄い人やなぁ…。いやぁ、ほんと、世のお母さん達って凄いわ…。君もよく無事に生まれて来てくれたなぁ。…偉いなぁ。頑張ったなぁ」
穏やかな目元で笑いかけ、眉間を撫でる。すると、春が眠ったままニコッと笑う。
その様子を嬉しそうに見つめる松野に、浜ヶ崎は真剣な表情で口を開いた。
「…俺はな、雪が産まれた時も仕事ばっかりしとったから、赤ちゃんの世話なんてした事ないねん。紙オムツもミルクも、とりあえず病院で言われたものを用意して使っとるだけやし、お風呂は未だにベビーバスでしかいれてない。…流石にもう新生児の扱いじゃあかんし、かと言って、忙しい俺に変わって他の奴が世話しようとすると暴れるから、ほんまに困っとんねん」
そう言うと、浜ヶ崎は膝に手を付き、頭を下げた。
「俺が仕事でこっちにいる、あと一週間の間だけでええ!俺が仕事で相手できない時だけでええから、春の世話を手伝ってくれへんか?勿論、ちゃんと礼もする!」
切羽詰まったような声と共に、グッと深く下がる頭。
そのクルクルのパンチパーマを、松野は戸惑いながら見つめる。
「…でっ、でも…俺…ベビーシッターの資格とか持ってへんし…」
「それでもええ!子供ん時みたいに、近所の子の世話するくらいの感覚でやってもらえたら十分や!」
「いや…もし怪我とか病気になっても…俺、対処できる自信ないし…」
「大丈夫や!いつでも相談に乗ってくれるベビーシッターさんの連絡先を教えたる!」
「!!ちょいちょい…そんなに何度も頭下げんでええって…!」
膝よりも下に頭を下げようとする浜ヶ崎の肩を、松野は慌てて起こす。
あぁ、どうしよう。赤ちゃんのお世話をした事があると言っても、遥か昔のことだ。人様の大切な子供を、あの時と同じようにお世話できる自信なんて全くない。
だけど、さっきの話を聞いて…そして、腕の中で幸せそうに眠っている春を見て、助けてあげたいと思ってしまった。
“会社をクビにされただけでなく、ヤクザの子のベビーシッターをやる事になった”なんて母が知ったら、きっと卒倒するに違いない。でも、目の前で困っている人を放ってはおけない。
――…母ちゃん、心配ばっかりかけてごめんな。
と、目を瞑り心の中で謝る。
「俺…」
松野は浜ヶ崎の真っすぐな瞳を見つめ返す。
そして、大きく息を吸うと
「…ベビーシッターやるわ」
と言って頷いた。
「ほんまか!?」
「おぉ、ほんまや!」
「そうかそうか~!ありがとなぁ~!」
パアァァッと顔を明るくさせる浜ヶ崎につられ、松野も笑みを浮かべる。
張り詰めていた緊張感が解け、笑い合う。温かい雰囲気が流れる部屋に、ピンポーンとチャイムが響いた。
「へいへい~」
片手に濡れ雑巾を持った吟が、玄関に走っていき、扉のロックを開ける。
「おう、龍二お疲れさん!」
リビングにやってきたのは、コンシェルジュにクリーニングサービスを頼んできた龍二。片手を上げる浜ヶ崎に、龍二は45度に腰を折る。
「すみません。遅くなりました」
「かまへんかまへん」
「こちら領収…!?うわっ!坊ちゃんが人に抱っこされて…えっ!もしかして、寝てます!?」
松野に目を向けた龍二は、腕の中でスヤスヤと眠る春を見つけ、あんぐりと口を開けた。「すげぇ…」と感慨深げに言いながら、口を開けたまま松野に近寄る。
「春が他人に懐かない」――その言葉を信じていなかった訳ではないが。大袈裟な喩えじゃなく、本当だったんだ――と、まじまじと春を見つめる龍二を見て、松野は実感する。
「そうやねん~!凄いやろ?だからこちらの松野さんに、春のベビーシッターを頼むことになったんや」
「おぉ!ほんまですか!ありがとうございます!」
慌てて太ももに手を付いて頭を下げる龍二に、松野は恥ずかしそうに会釈する。
「せやから、俺らが泊まってる…ほら、マンションの…」
「ゲストルームですか?」
「お~お~そや。そこから荷物取ってきて、全部奥の部屋に運んどいてくれ」
「はい。分かりました」
「…へっ?」
「奥の部屋」と聞き、松野は目を瞬かせる。
そう言えば、どこでベビーシッターをするのかは聞いていなかったけれど。
――もしかして…ウチでベビーシッターするんか…?
家主の断りもなく?と、ポカンとする松野。その状況についていけていない様子を見て、浜ヶ崎が口を開く。
「この家、雪のと同じ作りに見えるんやけど…3LDKあるんちゃう?」
「え?まぁ…」
「ほんなら一人暮らしやし、部屋あまっとるやろ?」
「いや、まぁ…そら、あるけど…」
寝室と、ちょっとしたトレーニングルームの他にある、ほぼ使われていない10畳の客室。ベッドは一つしかないものの、両親が泊まりに来た時に買った布団があるので、大人三人が転がり込んでも何とかなるかもしれないが。
知り合って間もない人と一緒に生活するのは、流石に抵抗が…と、狼狽える松野を無視して、浜ヶ崎はポン!と手を叩く。
「ほんなら何の問題もあらへんな!な?ええよな?松野」
ニカッと歯を出して笑う浜ヶ崎。
「!!」
優しそうに弧を描く瞳。その目の奥が深淵のように暗く濁っている。
ここで断ったら、この深い沼に引きずり込まれて、二度と地上には出られなくなってしまう――そんな恐怖心に駆られ、
「お、おう」
と、松野は引き攣った笑顔で頷いた。
「ほな移動させようかー」
「……」
一瞬垣間見えた闇の恐ろしさに、松野の心臓がバクッバクッと早鐘を打つ。
実はヤクザも普通の人と変わらないのかも…と、少し心を開きかけていた自分の間抜けさにゾッとする。
やっぱりヤクザはヤクザ。裏の世界で生きる人間なのだ。
――俺、とんでもない人達に関わってしまったんや…。
そう後悔するも時すでに遅し。
どんどん部屋に運び込まれていく荷物――そして、あっという間に赤ちゃん用品で埋め尽くされていくリビングを、松野は薄ら笑いで見つめる事しかできなかった。
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