【完結】松野さん、極道ベビーシッターになる

櫻野りか

第1話 はじまり

 

 東京都の中心にある某オフィス街。

 背を競うように立ち並ぶ高層ビルには、多くの一流企業が集まっている。

 時刻は朝7時。今から起床する人や、家を出る人が多い中、この街では既に仕事が始まっていた。雑踏の音とクラクションの音。それがこのオフィス街の朝のBGMだ。

 ある人はヘッドフォンをしながら。またある人は大きな欠伸をしながら。各々が、当たり前のように大きなビルに吸い込まれていく。空に凸凹を描く数多のビルの中で、一際大きいオフィスビルがあった。

 ガラス張りで、声が響きそうな程天井が高いエントランス。エレベーターに進む前に置かれた、入館証を翳す改札機のようなゲート。デカデカと掲げられたシルバーのテナント案内板。そして、そこに名を連ねる、有名企業たち。

 毎年好業績を収める圧倒的強者のみが集うそのビルの最上階に、長年鎮座している会社がいた。

 その名も“M.Mジム 株式会社”。

 ここ数年急速に増えたパーソナルトレーニングジムの先駆者であり、トレーニンググッズや健康食品の大ヒットを連発している上場企業だ。

 最上階のフロア全てが“M.Mジム 株式会社”のエリアになっており、エレベーターホールをコの字で囲むように、受付、応接室、執務室、小会議室、大会議室、社長室が並んでいた。

 7時半を過ぎ、出社する人が段々と増えていく中、とある一室から苦しそうな息遣いが聞こえ始める。

 それは大きな観音扉――達筆な文字で“社長室”とドアプレートに書かれた扉の奥から聞こえてきた。


 きっと、立派なビルの最上階にいる社長だから、高級スーツに身を包み、フッカフカの革張りの椅子にどっしりと腰を掛けているのだろう…と、思うかもしれない。もしかしたら、様々な賞状や美術品に囲まれているのでは?と、想像する人もいるだろう。しかし、この社長室にいる“M.Mジム 株式会社”の社長――松野武蔵まつのむさし58歳・独身は、坊主頭に大粒の汗をかきながら、ベンチプレスをしていた。


「フッ、フッ、フッ」


 大きな鼻筋と大きな垂れ目を歪め、天井に向かってバーベルを上げる。その重さは120kg。

 今の時期、窓から外を見下ろせば、桜の花びらが舞う東京を一望できる最高のタイミングなのだが。散っていく花びらの儚さなど気にも留めず、松野はただひたすら熱い息を吐き出していく。


「フッ、クッ」


 ギュッと眉間に皺を寄せ、もう一回、もう一回と上げ続ける。まるでゴリラのようにムキムキな上半身と、苦悶の表情をする姿は、よく言えば金剛力士像。悪く言えば裏社会の住人のようだ。

 そんな松野を、寂しそうに見守っている人――否、物がある。

 壁際に置かれた、プレジデントデスクだ。

 この部屋に来た当初は、ちゃんと入り口の正面に置かれていた。なのに、いつしか端に追いやられ、代わりにフィットネスバイクやラットプルマシンにランニングマシン、懸垂マシン等、沢山のトレーニングマシンが部屋を占拠するようになってしまった。

 昔は絨毯が敷かれていた床には、トレーニングマットが敷かれている。これでは社長室というより、トレーニングルームと呼んだ方が正しいだろう。

 「自社が監修したマシンを眺めたいから」という理由で置き始めたはずなのに、今では机の自分よりも沢山使われている。それが悲しいと、デスクはしょんぼりしていた。

 しかし、松野がそんな事に気付く訳もなく、今日も今日とて日課のベンチプレスを熟していく。


「フッ…!」


 目標回数は10回。達成まではあと2回。腕がプルプルと震えそうになるのを堪えながら、松野はゆっくりと胸元に下げる。そして、再びバーベルを上げていく。

 重い。辛い。苦しい。でも、楽しい。


「ウッ…フッ!」


 白い歯をグッと食いしばり、下げたバーベルをもう一度上げる。無事に目標回数を達成すると、松野は慎重にバーベルをラックへ戻した。

 ふぅ~…と、安堵の息を吐く。すると、それまでの厳つい雰囲気から一転、仏のような穏やかな表情に変わった。


「よいしょっ」


 腹筋を使い、軽やかに上体を起こす。朝から体を動かすと、気持ちが良い。

 松野は床に置いていた真っ白なタオルへ手を伸ばし、額に滴る汗を拭う。


 ――あ~…ふわふわで最高だなぁ…。


 自社製品の、汗をよく吸うふわふわタオル。“何回洗ってもヘタレない”がウリなだけあって、もう半年は使っているのに、繊維が柔らかくて肌触りが良い。思わずタオルに顔を埋めて心地良さに浸っていると、コンコンコンと扉をノックする音が聞こえた。


「はい」


 首にタオルをかけながら、扉に向かって返事をする。


「失礼します」


 背筋が伸びるような凛とした声が、扉の向こうから聞こえる。一拍置いて、ガチャリとドアノブが回された。そこに居たのは七三分けをヘアワックスで綺麗に固め、黒縁眼鏡をかけた切れ長の目の男性。男は松野に向かって一礼すると、社長室に足を踏み入れた。

 程よく鍛えられたスレンダーな体にグレーのスーツ。茶革のスケジュール帳を脇に抱え、如何にも仕事ができそうなオーラを纏い、キビキビと歩く彼の名は佐々木。松野の二歳下の56歳で、知り合ってから37年になる友人――そして、会社のブレーンを担う副社長だ。

 佐々木は、額にうっすらと汗が残る松野の前で立ち止まる。


「おはよう、佐々木君」

「おはようございます、社長」


 にこやかに挨拶をする松野とは反対に、佐々木は無表情で腰を30度曲げる。無駄のない動きと喋り方はまるでロボットのようだ。初対面の人なら、思わずたじろぎそうなくらいの冷たさだが、松野は全く気にしない。佐々木は出会った時からずっと、ポーカーフェイスなのだ。


「今日の予定はなんだったかな?」


 頭の汗をタオルで拭きながら、松野は尋ねる。

 普通、社長には秘書がいるのだが、“秘書”という存在がこそばゆくて苦手な松野の為に、佐々木がスケジュール管理を行っていた。佐々木は眼鏡の奥の瞳をスケジュール帳に向けると


「本日は、ゴールデンタイムに全国放送されている“成功者の軌跡”を追ったドキュメンタリー番組の撮影がありますので、10時からテレビ局に移動していただきます」


 と、文字を指でなぞりながら言う。


「おお!あれ、今日だったか」


 松野は「了解~」と言って、気さくに親指を立てる。

 余裕そうな態度に見えるが、内心は緊張で心臓がバクバクだ。

 今までにもテレビや雑誌に出る事は多々あった。が、それはワンコーナーの特集程度。今回は一時間丸々“M.Mジム”を特集する事になっている。

 「開業から35年目に突入する記念に、ぜひお話を…」と言われ、気軽な気持ちで引き受けてしまったのだが。もう少しちゃんと検討した方が良かったかもしれない…と、忙しない胸元を掌で撫でる。


 ――やばい。緊張で喉が渇いてきたな…。


 松野は床に手を伸ばし、電動シェイカーを手に取る。持ちやすいようにスリムな設計になっているこのシェイカーも、自社で開発した商品だ。そして、中に入っているプロテインドリンクも、これまた自社で開発した商品。最近、「プロテインなのに美味しい!」とSNSで話題になったおかげで、4月の現段階で去年の売り上げ数を大幅に越えるという大ヒットを記録した。

 松野は大好きなココア味を口に含み、ゴクッゴクッと飲んでいく。

 ああ。慣れ親しんだ味のおかげか、緊張が和らいでいく気がする。

 松野は一気に飲み干すと、満足気に膝を叩き、床にシェイカーを置いた。

 次のトレーニングに取り掛かろうと腰を浮かす松野を制するように、佐々木が「社長」と口を開く。


「ん?」

「…先日お話しした、新規事業の件についてですが…」


 そう慎重に尋ねる佐々木に、松野は「あっ」と手を叩く。


「あ~、良いよ良いよ。この前も言ったけど、全部佐々木君に任せるから」

「しかし…」

「私は難しい事を考えるのは苦手だし…ほら、いつも会議に出てもさ、数字とか戦略的な話になると、結局佐々木君に判断してもらうだろう?」

「でも、他にもご相談したいことが…」

「大丈夫大丈夫!私は最終的な結果を聞ければ良いよ。君が決めた事なら、何でもGOを出すから」


「今までもそれで成功してきたしね」と、柔らかな目元を下げて、朗らかに笑う。


 松野が圧倒的信頼を置く副社長――佐々木とは、松野がトレーナーとして働いていたジムで出会った。


 以前から、佐々木がお客として来ていた事は知っていた。トレンディ俳優のような爽やかなオーラがあり、目を引く人だなと思っていた。しかし、受付で挨拶をする程度で、会話らしい会話をしたことは一度もなかったのだが、ある日佐々木がベンチで暇そうに休んでいたので、何となく話しかけてみたのだ。

 気まぐれに始めた世間話。だが、話していくうちに、佐々木の頭の回転の速さと豊富な語彙力に気付く。

 こんなに聡明な人、出会った事ない――と、松野の胸が高鳴った。


「佐々木君って…大学生?」


 ドキドキしながら松野は尋ねる。そして、佐々木が有名大学の経済学部に通う成績優秀な学生だと知った瞬間、松野は「これは運命の出会いだ」と思った。


 ――と、言うのも。


 松野は自分でジムを開業する事を夢見て上京したのだが、頭が悪すぎて――と言うか、文字や数字を見ると頭が拒否反応を起こしてしまい、開業に関する規約や書類が理解できず、困っていたのだ。


 幼少期はいじめのせいで学校が楽しくなかった。そんな自分から脱却しようと、中学入学を機に筋トレを始めたら、今度は筋トレにハマりすぎて勉強が疎かになってしまった。

 テストは前日に一夜漬け。最終学歴は「名前を書けば受かる」と言われている低偏差値の高校。

 勉強どころか、本を読むことすらしてこなかったので、文字が呪文のようにしか見えない。


 こんな自分じゃ、絶対にいつまでたっても開業できない。

 でも、この人と一緒なら、どんな目標でも叶えていける気がする。


 そう直感した松野は「一緒にジムを開業してください!」と言って頭を下げた。勿論、「僕、大手銀行に勤めたいので無理です」と即却下された。

 しかし断られた翌日も、そのまた次に会った日も、雨の日も雪の日も。ジムで…時には大学の前でストーカーのように頭を下げ続けた。

 「自分の知識で、誰かの役に立ちたい」「悩んでいる人が変わるきっかけになってあげたい。勇気を与えたい」

 そう佐々木に向かって訴え続ける。すると、最初は怒っていた佐々木が少しずつ話を聞いてくれるようになった。

 そして出会ってから1年半が経った時。


「二人で日本で一番有名なジムを作ろう!絶対に後悔させないから!」


 と頭を下げた松野に


「…約束ですよ」


 と言い、佐々木は頷いてくれた。


 佐々木が大学卒業後借金を抱えて始まった小さなジムは、1980年代当時では珍しいパーソナルトレーニング専用ジムだった。


 佐々木の巧みな戦略により、あっという間に人気に火が付き、瞬く間に店舗が増えていく。バブル崩壊の辛い時期を乗り越え、今や“M.Mジム”は、全国で100店舗を超える日本でも有数の大手ジムになった。自社開発したトレーニンググッズや食品は大好評。年商2000億円を誇る大企業に成長したのは、間違いなく佐々木のおかげだ。

 筋トレ以外何の取り柄もなく、頭の中に描いた物を言葉にするのが下手な松野の意図を、何度も佐々木が汲み取り形にしてくれた。佐々木がいなければ、とっくのとうに“M.Mジム”は潰れていただろう。


「いつも任せてしまってすまないね」

「はぁ…」


 ははは、と明るく笑う松野。だが、佐々木の返事は心許なく表情も少し曇って見える。しかし、それも束の間。すぐに顔を引き締めると、


「それでは、本日もよろしくお願いいたします」


 と言って頭を下げた。


「あっ、そうだ。茨城の工場の社長から、明日の朝9時に迎えに行くって連絡が来たんだ。私の明日のスケジュール表に、終日外出って書いておいてくれ」

「…承知いたしました」


 「よろしくね」と目尻に皺を作る松野に会釈をし、佐々木は踵を返す。

 コツコツと真っすぐドアに向かっていく後ろ姿。振り返る事なく遠ざかる背中を見ながら、松野の口元がふと寂し気に下がる。


 昔は始業前に世間話の一つや二つしたのだが。

 ここ数年は必要最低限の仕事の話しかしなくなってしまった。


 いつからこんな風になったのだろう…とぼんやり考えていると、クルッと佐々木が振り返った。ドアの前で深々と頭を下げる佐々木に、慌てて笑顔を作り、手を上げる。

 静かに閉まったドアを見つめながら、松野は小さく溜め息を吐いた。


 何だろう…最近の佐々木はどこか元気がない気がする。

 無表情の目の奥や、何かを考え込む姿に悲しさが漂っているのだ。


 うーん…と松野は首を傾げる。従業員の…しかも大事な腹心が悩んでいるとなれば、社長としても友人としても見過ごすわけにはいかない。


「…あっ」


 そうだ、久々に食事に誘ってみたらどうだろう。

 以前はよく二人で食事をしながら、今後について朝まで話し合ったじゃないか。あの時のように、美味しい物でも食べながらゆっくりと話そう。

 そうだ、そうだ、そうしよう――と頷く松野の顔は名案が浮かんで満足気だ。

 幹のようにゴツゴツした太い足が、軽やかにマットを歩いて行く。

 佐々木は牛肉が大好きだったはず。


 ――この前、デザイン会社の社長と行った最上級ランクのお肉が食べられるとこ…あそこに連れていったら、きっと佐々木君も喜ぶぞ。


 佐々木が喜んだ時に見せる、僅かに口角を上げる表情を想像しながら、松野は懸垂マシンに手を伸ばした。





「いやぁ、改めて振り返ってみると、長年トップを走り続けるという事がいかに大変だったのかがよく分かりますね」


 何も装飾されていない真っ白なスクリーンに囲まれたスタジオ。その壁に大きく映し出された松野の歴史を振り返る再現VTRを見終えた若い女性アナウンサーは、大きな目を大袈裟なくらい丸くした。


「はっはっはっ。そうですね」

「今年で“M.Mジム”は35年目を迎えるという事ですが…何故ここまで順調に続けて来られたのか!その秘訣をぜひ、教えてください!」


 膝の上に両手を乗せ、優等生のように背を正して松野に問いかける。

 ゴールドで装飾されたアンティーク調のひじ掛け。肌触りの良い深紅のベロア生地で作られた、王様が座りそうな気品溢れる椅子に腰を掛ける松野は、腹の前で手を組み、柔らかな目尻を下げる。


「お客様が“今”何を求めているのかという事を常に考えて向き合っていたら、有り難い事にここまで続いてきた…という感じですかね」

「なるほど~」

「…な~んて偉そうに言ってしまいましたが、VTRを見て頂いたら分かるように、私は殆ど何もしていないんです。ここ数年は会社にもあまり居ないかな…。経営戦略を練るよりも、人脈を広げる方が得意でして…」

「へぇ~!人脈作りですか」

「はい。人脈作り…と言う名のただの会食ですね。はははっ」

「あはは、なるほど~」


 互いに顔を見合わせて笑いながら、楽しそうに会話が続いていく。


「僕はアイデアを出すだけで、細かい戦略だ何だは、うちの副社長の佐々木が全部考えてくれています」

「あっ!長年社長と苦楽を共にされている、右腕の佐々木さんですね!」

「そうです。彼が居なかったら、絶対にここまで大きな会社にする事はできませんでした。…この番組、インタビューする人を間違えたんじゃないですか?今から佐々木を呼びますか?」

「いえいえそんな事は!」


 お道化て肩を竦める松野に、スタッフから笑いが起こる。

 和気あいあいとした雰囲気で進む中、収録は終盤に差し掛かる。


「それでは最後に、今後の抱負を教えて下さい」


 再び膝に手を置き、頭を下げるアナウンサー。松野は鼻から大きく息を吸うと、カメラに向かってにっこりと笑いかけた。


「いつもご利用していただいている皆様のおかげで、今年35年目を迎える事ができました。まだまだ皆様に喜んで頂くために、近々新たな発表をさせていただきます!どうぞ、楽しみにしていてください」

「おぉ~、何か発表があるんですね?」

「はい。この放送がされた後、明らかになると思いますので…ぜひ、これからの“M.Mジム”にご期待下さい」

「わ~!どんな事が起こるのか、とっても楽しみです。本日の“成功者”は“M.Mジム”の松野武蔵社長でした!ありがとうございました~!」


 パチパチと沸き起こる拍手。

 松野が深く頭を下げると、「OKで~す!」と明るい声が飛んだ。



「お疲れ様でした」


 地下駐車場に停められた黒塗りセダンの横で、短髪のツーブロックをやんちゃにセットした男――川島が、松野に頭を下げる。2時間に渡る収録を終えた松野は、クタクタの表情で手を上げた。


「いや~、緊張したなぁ。上手く喋れてたかなぁ?」

「はい。私もスタジオの隅で少しだけ見学させてもらいましたが、とても良かったと思いますよ」


 川島は後部座席の扉を閉めながら、相槌を打ち、運転席に座る。松野はホッと胸を撫で下ろすと、


「そうか。そうか。それなら良かった」


 と言って安堵の息を吐いた。


「お電話ですか?」


 スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出す松野に、バックミラー越しに話しかける。


「うん。佐々木君にね」


 “佐々木”と聞いた瞬間、バックミラーの中の男の目が僅かに瞠った。「へぇ、普段副社長に電話なんてしないのになぁ…」と言いたげな、鏡越しの視線が恥ずかしい。

 車に乗る前に電話をすれば良かった…と後悔しつつ、連絡先をタップする。電話番号を押して耳に当てると同時にブオォンと低いエンジン音が鳴った。グン…と車が動き出す。薄暗い迷路のような駐車場を抜けると、フロントガラスに陽の光が差し込んでいく。その眩しさに松野はゆっくりと目を細めた。

 プルルルル…と耳元で鳴る呼び出し音が、大舞台を終えたばかりの心臓を再びドキドキさせる。

 佐々木を食事に誘うのも久しぶりだが、自分から電話をするのも久しぶりだ。じわりと掌が汗ばんで、勝手に喉がゴクリと鳴る。出てくれるかな~忙しいかな~…と、そわそわしながら耳を傾けていると、プツッと呼び出し音が消えた。


「はい、佐々木です」


 淡々とした声が耳に響く。その瞬間、「出た!!」と鼓動が騒ぎ始めるも、松野は平静を装って口を開く。


「お疲れ様。今撮影が終わったから、15時の会議に間に合うよ」

「承知いたしました。お待ちしております」

「………」

「……?どうかされましたか?」


 急に訪れた沈黙に、佐々木は不思議そうに尋ねる。

 「あ~っと…」と言いながら頬を撫でる松野は、内心とても焦っていた。


 ――……やばい。そう言えば、なんて言って誘うか決めてなかった…。


 しょっちゅう色んなお偉いさん達とご飯を食べに行っているのに、こういう時に限って上手く言葉が出てこない。

 「実は美味しいお店を見つけてさ~」か?いや、その前に「最近調子どう?」と聞くべきか?…いや、それじゃあ不自然すぎるか。


「え~っと…その~…」


 と口篭りながら、松野はキョロキョロと視線を動かす。

 まずい。どうやって佐々木を食事に誘おう。


「……要件が無いなら切…」

「あ~~~~!っと…あの!」


 溜め息交じりの声を松野は慌てて引き留める。


 ――ええい、しっかりしろ!食事に誘うだけだろ!何をごちゃごちゃ考える必要があるんだ!


 鼻から息を吸い静かに吐き出した松野は、拳を握ると、膝を叩き自分に喝を入れた。


「さ、最近さぁ!」


 あ、声が裏返った。と、思わぬ失態に顔を真っ赤にしながら、松野は腹を括って話し続ける。


「二人で食事とかしてないと思うんだけど」

「…そうですね」

「あの~、佐々木君ってお肉好きでしょ?美味しい焼肉屋があるんだけど、今日の夜、久々に二人で食べに行かないかなぁ~…なんて、思ってるんだけど…」


 「どうかな…」と、窺う様に問う松野。すると、耳を澄ませるスピーカーの奥から、スッと息を呑む音が聞こえた。


 ――さ、誘っちゃった…。


 バクンバクンと、ドラマの緊迫シーンで流れそうな大きな鼓動音が体中で響いている。口から勢い良く心臓が飛び出てきそうだ。手が自然と口元を抑える。真っ赤な耳をジッと傾けるが、返答はない。

 いつもならすぐに返事をしてくれる佐々木が、ずっと黙っている。

 予想外の出来事に、相当驚いているのだろう。


 ――急すぎたよな。やっぱり前もって話した方が良かったよな…。…でも、善は急げと言うしな…。思い立ったが吉日という言葉もあるしな…。


 重い沈黙が気まずくて、よく分からない言い訳ばかりがポンポン頭に浮かんでいく。

 緊張と不安。そんな感情が占める脳裏に、ポワッと一つの絵が浮かぶ。二人が昔のようにテーブルを挟んで向かい合う絵だ。

 網で肉を焼きながら、おじさん二人が今後について語り合う。

 楽しそうだな…と思った瞬間、想像が湧き出て止まらなくなる。

 確かチョレギサラダが好きだよな。最初に特上ハラミと特上カルビを頼もうかな。まずは「仕事はどう?」って話から始めて、「最近悩み事あるんじゃないの?」っていう方向にもっていって――。

 とめどなく溢れ出す妄想に、自然と頬がにやけていく。


「…社長」

「ん?」


 漸く聞こえた声に、松野は緩んだ口元を手で隠して返事をする。しかし、それでもワクワクが抑えきれず、明るい声音になってしまう。佐々木は一瞬言葉を呑みこむが、目を伏せると


「…申し訳ありません。本日は予定がありまして…」


 と、躊躇いがちに言った。


「えっ?…あっ…そうなの?」

「…折角誘っていただいたのに、申し訳ありません」

「いっ、いやいや!逆に申し訳ない!…急に誘っちゃったからね…うん!」


 予想外の返答に慌てつつも、佐々木が落ち込まないように空元気な声を出す。


「社長」

「あ~、全然気にしなくて良いから!ね!じゃ、また会社で」


 そう捲し立てるように言うと、松野は佐々木の返事を待たずに通話を切った。

 「ふぅ~…」と大きく息を吐きながら、スマートフォンを内ポケットにしまう。


 ――……恥ずかし…。


 急だとは思いつつも、断られるわけがないと思っていた自分が恥ずかしい。


「はぁ~……」


 何だか、ドッと疲れた。

 重力が二倍になったのかと思うくらい、体がズシンと重みを感じる。

 背もたれに体を預け、ボーッと空に浮かぶ雲を見つめる。バックミラー越しに川島の視線を感じるが、今はどうでも良い。

 日を改めてもう一度誘おうかな…と考えるも、また断られたら…という不安が過ぎり、怖くて二の足を踏んでしまう。

 まぁ、こっちの気持ちは伝わってるわけだし…その内、佐々木の方から空いてる日を教えてくれるだろう――そう自分に言い聞かせながら、松野はボーッと空を見続ける。


 しかし、その後食事の誘いが来る事はなく。

 あっという間に一ヵ月が立ち、番組放送当日を迎えた。





 ゴールデンタイムの番組という事もあり、放送直後の反響は凄かった。

 普段連絡を取らない友人や親戚から「テレビ見たよ~!」と沢山のメッセージが届き、通知音が鳴りやまなかった。シャワーのように降り注ぐ優しい言葉たち。まさに今が人生のピークだと思った。

 あまり民法のテレビを見ない80歳の母も番組を見てくれたようで、電話口で物凄く喜んでくれた。


「今まで沢山頑張ってきたんだね」


 と母に言われた時は、泣きそうになった。

 小さい頃から心配ばかりかけたし、ムキムキになったと思ったら無計画で上京するし、一人息子なのに、“孫を抱きたい”という夢を叶えてあげらなかったし、父の死に目にも会えなかった。

 そんな、とんでもない親不孝者だったけど、やっと少しは安心させられたかもしれないと思えた。


 ――今まで沢山大変なことがあったけど、諦めないで頑張ってきて良かった…。


 体の奥から湧き出る嬉しさと高揚感が、節くれだった指先を震えさせる。喜びで震えるなんて、生まれて初めてだ。


「…佐々木達のおかげだな」


 こんな感情を知れたのも、こんな経験ができたのも、全ては今まで支えてくれた佐々木や部下達、そしてお客様のおかげだ。


 明日の朝礼で、皆に感謝の気持ちを伝えよう。


 松野は年代物のワインを注いだグラスを片手に、リビングの大きな窓へ歩いて行く。家賃115万円。都心の一等地に建つ高層マンションの35階から見える夜景は、もうすぐ次の日を迎えようとしているにも関わらず爛々と輝いている。開業時はボロアパートに暮らしていた自分にとって、まさか自分の家からこんな景色を見る事ができるようになるなんて、思ってもみなかった。

 ガラス窓には、松野の部屋が反射して映っている。4人掛けの黒の革張りのソファと、木目が美しい大きなローテーブル。毛のみの良いベージュのラグと、一人暮らしには大きすぎる75インチのテレビ。そして、オシャレな間接照明と生き生きと枝葉を伸ばす観葉植物。知り合いのデザイナーに頼み、ホテルライクインテリアでコーディネートしてもらった自慢の部屋だ。


 松野はワインを一口飲み、はぁ…と味わうように息を吐く。

 美味い。今日の一杯は格別に美味い。


 大きな掌で、分厚い大胸筋を労うように撫でる。

 会社を始めて、本当に良かった――と、幸せに包まれる松野。


 その日松野が見た夢は、皆が嬉しそうに笑っている、ただただ楽しい最高の夢だった。





 心地良い気分で目覚め、リビングのテレビをつけた松野の目に飛び込んだのは、衝撃的なニュースだった。


「国内大手のパーソナルトレーニングジム、“M.Mジム”の松野社長が退任する事になりました」


 真剣な表情で原稿を読む女性アナウンサーは、先日一緒に番組の収録をしたアナウンサーだ。


「………えっ?」


 スウェット姿で立ち尽くし、戸惑いながらテレビを見つめる。


 ――どういうことだ?“M.Mジム”ってうちの会社だよな…?


 揺れ動く瞳の中で、画面がパッと変わり、男性アナウンサーが映る。アナウンサーの横には大きなボードがあり、各社の朝刊がパズルのように貼られている。


「え~、“M.Mジム”の広報の方によりますと、今年35年目を迎えるにあたり、若手の活躍を促進すべく、社長自ら勇退されたという事です」


 “退任”“世代交代”“勇退”“変革期”等、様々な目を引く見出しと、その隣に載る自分の笑顔の写真が、テレビの画面いっぱいに映っている。


 ――何だこれ…。聞いてない…。


 松野はリモコンを握りしめたまま、呆然とテレビを見つめる。

 ちょっと待ってくれ。退任?えっ?何だ?ドッキリか?――と、混乱する松野を置いてけぼりにして、アナウンサーが今話題の若手IT社長兼コメンテーターに話を振る。


「いやぁ~。昨日の夜、ちょうど松野社長が出ていた番組を見たところだったのでぇ、この発表は驚きましたけども…」

「はい、はい」

「まだ50代なのに、後進に道を譲るという決断をされたのは素晴らしいなと思いますね」

「…と、言いますと?」

「単純にまだお若いというのと、“M.Mジム”の業績は今も伸び続けているわけですし、『今退任するの?松野社長、まだまだいけるんじゃないの?』って、僕は思ってしまうんですよねぇ。それなのに、新しい時代の人達に次を託す…という考えができる松野社長は、視野が広く、決断力のある方なんだなと思いましたね」

「なるほどぉ」


 続けて次のコメンテーターへ。さらに次のコメンテーターへ――と続いていくやり取りが、狼狽える松野の頭の中に呪文のように流れ込んでくる。


 みんな、何を言っているのだろう。

 今が現実なのか、夢なのか。

 そんな事さえ分からない。


 鼓動が知らぬ間に早くなり、足先から背筋までを冷たい何かが駆け抜ける。その瞬間、ガクッと膝から崩れ落ちそうになり、慌ててソファの肘掛けに手を付いた。艶やかな黒革の上を、手汗をかいた掌が滑る。


「……」


 意味が分からない。何で、何でこんなニュースが――と疑問を繰り返しながら、重たい体を持ち上げ、何とかソファに腰を掛ける。回転したわけでもないのに、視界がぐるぐるして気持ち悪い。

 目を覆って項垂れる松野とは反対に、アナウンサーは明るい声でニュースを締めくくる。


「来月からはトレーニングをしている人向けのレストランがオープンするそうです!今後の事業については、新しく社長に就任した佐々木氏が進めていくそうです。楽しみですね」


 ニカッと白い歯を出したアナウンサーの声に、松野の目がみるみる大きくなっていく。


 ――「新しく社長に就任した佐々木氏」…?


 あの佐々木が、新しい社長…?

 ぽかんと口を開けた松野は、固まったままテレビを見つめる。しかしハッと息を呑むと、慌ててポケットにあるスマートフォンを手に取った。

 佐々木に聞かなければ…佐々木に電話をして確かめなくちゃ――と焦る指が、何度も打ち間違えそうになりながら、パスワードを入力する。目の前までスマートフォンを近付け、電話の履歴を開く。動揺で瞳を揺らしたまま、松野は佐々木に電話をかけた。

 最新のトレンドを紹介するVTRに混ざって、プルルルル…と無機質な呼出音が響く。


 佐々木が何の相談もなしに社長交代なんてする訳がない。

 何かの間違いに違いない。


 スピーカーに耳を澄ませながら、額に冷や汗を浮かばせる。

 キュウッと絞られるような胃の痛みに顔を顰めると、聞き慣れた「はい」という声が聞こえた。


「おっ、さっ…佐々木君!」

「はい、なんでしょう?」

「いや、『なんでしょう?』って…どっ、どういう事だよ!あのニュース…俺が退任なんて…う、嘘だよな!?」


 出てくれたことへの安堵と、困惑した感情がごちゃ混ぜになって上手く言葉が出てこない。唾を飛ばしながら必死に問いかける松野に、佐々木は呆れたように口を開いた。


「本当ですよ…。松野さんは昨日付けで会社をクビになりました」

「クっ…クビ!?」

「なので、我が社の事を聞かれましても、守秘義務がありますので関係のない方には何もお答えできません」

「かっ…関係ないって、そんっ…」

「はい。もう関係ありません」


 ピシャリと断言する佐々木。その突き放すような物言いに、戸惑いが大きかった松野の中でカッと怒りが芽生える。


「なっ…何で社長の俺が勝手にクビにされなきゃいけないんだ!俺は了承もしてないし、書類もっ、手続きもなんもしてない!!お前がやってることは違法だぞ!?」


 普段は優しい目尻をつり上げて、顔を真っ赤にしながら叫ぶ。

 こんなのあり得ない。ふざけてる。経営を担っている副社長とはいえ、勝手にこちらの進退まで決めて良い訳がない。長年、二人三脚で苦労してきた中なのに。相談もなしにこんな酷い仕打ちをするなんて、絶対に許せない。


 裏切られた。


 その事実が、さっきまで冷えていた体を瞬く間に怒りで熱くさせる。


「…松野さん」


 我を忘れて激怒する松野に、佐々木は冷静に語りかける。


「この前私に、美味しい肉を食べないかと…食事に誘ってくれましたよね?」

「それがなんだよ!今関係ないだろ!?」


 こめかみに青筋を立てる松野。しかし佐々木は数秒黙ると、ゆっくりと口を開いた。


「……私はもう肉が好きじゃないんです。8年前から、殆ど食べていません」

「……は?」


 何を言い出すんだ――と思いつつも、“8年前から肉を食べていない”という情報に、松野の視線が僅かに揺れる。


「ご存知ないですよね?松野さん、10年前から取引先や色んな会社のお偉い方達とばかり会食するようになりましたもんね」

「……」


 確かに、佐々木の言う通りだ。

 約10年前――世間ではトレーニングブームが巻き起こっており、一気にトレーニング施設が乱立した。このままでは他の同業者に追い越されてしまうと危惧した松野は、事業や人脈を広げる為に、頻繁に色んな人と会うようになった。その結果、自社製品という強みもできたし、声をかたらすぐに応じてくれるような関係性も築けた。

 外出ばかりしていたので、佐々木や社員達に負担がいくことがあったかもしれない。

 けれど、すべては会社の為。

 会議に出ても、笑顔で座っているだけ――そんなポンコツだから、せめて会社の代表という立場を活かして、足を動かすべきだと思った。

 今度のレストランのオープンだってそうだ。腕の良いシェフも、農家さんも、インテリアコーディネーターも、自分が率先して集めてきた。

 それは佐々木だって分かっているはずだ――と、眉を寄せる松野の思考を察したように、佐々木は重たい声で続ける。


「松野さんが会社の為に奔走されていたのは勿論知っています。…でも、外出されている間、ずっと仕事の話をしていた訳ではないですよね?」

「?…そりゃぁ、少しくらいは世間話も…」

「ゴルフにサーフィン、スノーボードにキャバクラ」

「!!」

「昼夜問わずに日本中遊び歩かれていましたよね。しかも、業務時間中に堂々と…」

「いや、それは…」

「松野さんは知らないでしょうね…私が今までに何度も何度も週刊誌に記事を出さないように頼んできたのを」

「…えっ?」


 “週刊誌”?と、松野の寄っていた眉がピクッと上がる。

 何だそれ、聞いてない――と言うか、自分が週刊誌に撮られる意味が分からない。

 確かにゴルフもスキー場もキャバクラも行ったけど、あくまでも仕事の延長線上の付き合いだ。そんな事、色んな人がやっているだろうに。何が問題になるというのか。

 言葉を上手く消化できない松野に、佐々木は一呼吸おいて口を開く。


「…その場に、仕事とは関係ない女性が居ませんでしたか?」

「…そりゃあ、居たこともあるけど…」


 「二人だけだと寂しいからさ」と言われ、仲の良い女性の社員さんや、知り合いの可愛い女の子達が来ることが多々あった。このご時世なので、あまり距離が近くなりすぎないように気を付けていたつもりだが。


 ――えっ、もしかして…俺、お酒に強くないし…何かやらかして…!?


 松野はハッとして口元を覆う。

 どうしよう…よく考えたら、記憶がない時もあるかもしれない。朝起きたら、何故か家に帰っていた時もある。

 まさか、まさか…と嫌な予感にゾワッと鳥肌を立てる松野に、佐々木は小さく溜め息を吐く。


「…あなたはやましい事はしていないのでしょう。“自由奔放な社長”“社長の連日夜遊び”“見た目に反した初心な社長の実態”…そんな馬鹿馬鹿しい記事がすぐに揉み消せたのも、あなたの行動にインパクトが無かったからだと思います」


 やましい事はしていない――と聞き、松野はホッと胸に手を当てる。が、その安心を打ち消すように、佐々木は努めて冷静に話し続ける。


「…でも、揉み消す度にかかる無駄な時間と費用は…大変な仕事は全部丸投げして、社長がやらなければいけない業務すらやらず…そのせいで、深夜も早朝も関係なく仕事の対応をして、しかも…あなたの我が儘で、社長秘書の業務もしなければいけない…自分の時間なんて無いも同然の私にとって、本当に苦痛で苦痛で仕方ありませんでした」


 ギリッと奥歯が悔しそうに鳴る。一度溢れ出した怒りは、淡々と話そうと努める佐々木の語気を強めていく。


「業績が良いとみんなに賞与をくださったり、社員旅行をプレゼントしてくださいましたよね。私達を労ってるつもりだったんでしょう…でも、いつもあなたの尻拭いをしている私や役員達にとっては『こんなにしてやってるんだから文句を言うな』と言われている気分でした」

「!!そんなことっ」

「分かってますよ!あなたがそんな人じゃないことくらい!…でもっ…でも、そう受け取ってしまう程、ずっと、ずっと…!私達は身も心も疲弊していたんです!」


 感情のまま荒げた声が、松野の胸に突き刺さる。

 佐々木が怒鳴る事なんて、今まで一度もなかった。

 漸く、深刻な状態になっていたのだと気付いた松野は、しどろもどろになりながら口元を手で隠す。


「そ、れは…申し訳なかった。…でも、相談してくれれば、一緒に…」

「何度もしようとしましたよ。でも、あなたは全部私に任せると言って、鼻から話を聞いてくれませんでしたよね。会社の実印まで私に預けて、日々の書類に目を通しもしませんでしたよね」


 辛かった。しんどかった。苦しかった。

 そんなやるせない気持ちがスピーカー越しから伝わってくる。

 戸惑い、目線を彷徨わせる松野の脳裏に、一ヵ月前の二人の会話が浮かぶ。

 テレビの収録があった日の朝、佐々木は何かを言いたそうにしていた。

 他にも相談したい事があると言っていた。もしかしたらあれが、最後に話を聞いてあげられるチャンスだったんじゃないか?

 もし、あの時少しでも寄り添ってあげていたら――


「8年…いや、それ以上前から、あなたと私の間には埋められない距離ができているんです」


 はぁ、と吐かれた息が、ぐちゃぐちゃと言い訳ばかりする松野の思考をピタリと止める。


「他の役員達も、あなたの退任に全員賛成しています。株主の皆様も、喜んで次期社長に私を選んでくださいました。取引先の方々にも、社長交代の挨拶状を発送済みです」

「……」

「本当は、あなたの今までの姿を世間に言ってしまいたかったですよ…。…でも、仮にもお世話になった方なので…最後の情けとして、“勇退”という事にして報道してもらったんです。…感謝してください」

「……」


 ――ああ、本当に取り返しのつかない事をしてしまったんだ。


 淀みなく話し続ける佐々木の言葉は、歩み寄ろうとする松野を容赦なく突き放す。

 佐々木の事なら何でも分かっていると思っていた。可愛い弟のように思っていた。

 だけど、佐々木を…会社の大切な仲間達を、身も心も疲弊する程に追い詰めてしまっていた。

 他でもない自分のせいで。


「もう、あなたから解放させてください」


「お願いします」――と、告げる佐々木の声は切実で。


 嫌だ。

 そう言いたいけど、言えるわけがない。


「……わ…った」


 かさついた喉から、微かに声が零れ落ちる。佐々木は静かに息を吸うと、


「…今までお疲れ様でした」


 と、抑揚のない声で言い電話を切った。

 プツッと耳元で音をたてたスマートフォンを、松野はゆっくりと膝に下ろす。そして、ドサッと倒れこむようにソファに身を沈めた。

 奈落の底に向かって背を押され、抗えずに落ちていく。そんな脱力感が全身を襲う。


 ほんの数時間前、幸せに包まれていたのが嘘のようだ。


 ぼんやりと目の前を見つめていると、佐々木や社員達との思い出が走馬灯のように浮かんでくる。

 二人で色んなビルを内見したこと。駅前で朝から晩までチラシ配りをしたこと。初めてのお客さんに喜んで、二人でこっそりガッツポーズしたこと。どんどん仲間が増えていく一方で問題が多発し、二人で頭を下げに回った事。

 皆で色んな案を出し合って、たまに「無謀すぎる」と口喧嘩したりして。「この会社を日本一にしよう」と、一致団結して会社を創っていた、あの時間がとても楽しかった。学生時代を謳歌できなかった自分にとって、間違いなくあれが青春だった。


 ――いつから、こんな他人行儀な関係になってしまったんだろう…。


 思えば、皆の笑顔を久しく見ていない。あまり会話らしい会話もしていない。

 あの楽しかった頃に、戻りたい。

 一生のお願いだから、あの頃に戻って、今度は失敗しないようにやり直したい。


「……う、っ…」


 ぶわっと溢れ出す涙が、目尻からソファへと流れていく。


 後悔してももう遅い。


 そんな事分かっているけれど、あまりにも展開が急すぎて――いや、急じゃなかった。サインをちゃんと出してくれていたのに、自分が馬鹿すぎて気付けなかった。


「うっ…うぅっ…ふぐ、うっ」


 顔中涙と鼻水で汚れているのに、手で拭う事すら億劫だ。

 陽気なテレビの音が響く中、松野は顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくった。





 今の時代、隠し事をする方が難しい。


 最初は“勇退”と報じられた松野の退任だったが、SNSで内部告発者が発言したことを切っ掛けに、“実は無理矢理解雇されたらしい”という噂が一気に広まった。


 ― あの社長、会社の事は全部下に任せて、自分は会食ばっかりしてたらしいよ

 ― こいつ俺が働いてるゴルフ場で一週間に3回見たことあるよ

 ― 3回も!?

 ― えっ、ヤバ。全然仕事してないじゃん

 ― 経営者としてクズ

 ― こマ?

 ― マ。知人が本社の事務で働いてるけど、朝礼以外で社長見たことほぼ無かったらしい

 ― 社長が色んな人と飯食ったりゴルフするって普通じゃねーの

 ― そりゃするだろうけど、どう考えても行きすぎだろ

 ― 私が通ってる店舗のトレーナーさんは「社長は良い人だ」って言ってたけどな~

 ― 頑張ったら頑張った分ボーナスくれるらしいね

 ― 最高じゃん!

 ― 現場で働いてる方は不満なんてないのにさ~。社長交代なんていい迷惑だわほんと。あ~あ。今度から全額社長持ちの社員旅行なくなっちゃうんだろうな~

 ― 全額!?エグッ!!

 ― 旅行の飲み会で社長絶対泣くらしいねww

 ― 酒に弱いんだってねww

 ― 酒弱いなら会食ばっかすんなや

 ― 俺生で見た事あるけど腕ぶっとすぎてゴリラかと思った

 ― マジかww泣き虫マッチョゴリラじゃんww


 朝10時にも関わらずカーテンを閉め切った薄暗いリビングの中、好き勝手に言いまくるSNSを松野は無気力な表情で見つめる。

 他人の転落した姿は、余程面白いらしい。

 ここ3週間、世界中で大きな事件が沢山起こっているのに、ワイドショーでは連日松野の話題を取り上げている。


 “仏社長の裏の顔”“数年前から続いてた!?プライベートなのか?仕事なのか?奔放すぎる衝撃行動”

 “「無能すぎ…」役員からこぼれた本音”


 過激な見出しが並ぶニュースを、コメンテーター達は分かったような顔で聞いている。

 こっちの気持ちも知らないくせに―—そう心の片隅で思うけど、「一度悪役になってしまった自分の声なんて、どうせ誰にも届かない」と、もう一人の自分が口を噤む。

 報道後からひっきりなしに来る連絡は、心配を装った野次馬ばかり。

 だから、いつも使っている仕事用のスマートフォンは電源を落としてクローゼットの中に封印した。

 今使っているスマートフォンは、開業前の知り合い数人と母親しか連絡先を知らない、プライベート用だ――と言っても、解約の仕方がよく分からなくて長年放置していただけなので、知り合いも母親も仕事用のスマホに連絡してくるくらい、使っていない物なのだが。

 まさか、今になって役に立つとは。


 ――いや、こうやってSNSばっかり見てしまってるんだから、全然良くないか…。


 きっと、あっちのスマートフォンには母親からの着信履歴が溜まり続けているに違いない。

 折角親孝行できたと思った途端、こんな事になってしまった自分が情けなくて、申し訳なくて。ずっと、電話に出られずにいる。


「はあぁぁぁぁ…」


 重い溜め息を吐きながら、指はスワイプし続ける。こんなの見たって落ち込むだけだと分かっているのに、エゴサーチがやめられない。

 退任報道が出て以降、一歩も外に出ていない。長年雇っていたハウスキーパーを解雇したので、人が来ることもなくなった。あんなに大切にしていた日課の筋トレを止め、今は起きている殆どの時間をテレビとSNSに費やしている。洗濯カゴには山積みの服。コードレス掃除機は壁のオブジェと化している。


「……」


 薄暗闇の中、画面の明かりにぼんやりと照らされる松野。遠くから見たら顔だけ浮かんでいる幽霊のようだ。その虚ろな瞳に、ある一文が留まる。


 ― 松野の運転手してた奴が友達なんだけどさ、この前出てたテレビの収録が終わった後、機嫌が良かったのか、現社長の佐々木さんをご飯に誘ったみたいなのよ。でも速攻で断られたらしくて、笑い堪えるの超大変だったらしいwww


 運転手?と松野は目を細める。その瞬間、テレビ局の駐車場で頭を下げていた若い男性――川島がパッと頭に浮かぶ。

 そう言えば、あの時バックミラー越しにチラチラとこちらを見ていた。

 まさか、あの視線が人を小馬鹿にした視線だったなんて。


 ――あいつ…!余計な事言いやがって!


 カッと怒りが込み上げるも、「ぐぅぅぅうぅ~~~」と腹の虫が悲鳴を上げる。それに合わせて、松野の怒りもしゅるりと萎んでいく。

 悲しいかな。毎日必要最低限の動きしかしていないのに、どうしてもお腹は空いてしまう。

 松野は気怠げな目を、一人暮らしには広すぎるカウンターキッチンへ向ける。

 何か食べたい…と思うけど、食料のストックは尽きている。引きこもっている3週間で、食べられる物はすべて食べ尽くしてしまった。


「はあぁぁぁ…」


 買い物に行かなくちゃいけないけど、外に出たくない。万が一誰かに気付かれたら、悪口を言われる気がして。人には極力会いたくない。…けど、かと言ってデリバリーもしたくない。名前を見たら、自分がここに住んでいるとバレてしまうから。偽名を使っても、偽名を使ったことがバレたら恥ずかしいから使いたくない。そもそも家に近付いて欲しくない。家だけが、今唯一安心できる場所だから。

 ネガティブの沼に嵌る松野を急かすように、再び「ぐうぅぅぅ~~~」と腹が鳴る。

 松野は「はぁ…」と溜め息を吐くと、のっそりと立ち上がった。

 希望を込めて、キッチン横のパントリーを覗いてみる。が――


「……」


 やはり、カップ麺の一つも残っていない。

 松野は大きく肩を落とすと、仕方なくウォークインクローゼットへ歩きだした。

 扉を開けて見えたのは、10畳の広さの壁一面に備え付けられた木製の棚と、所々に輝くゴールドのバー。そして、大きな姿見。棚には帽子や時計などの小物が。バーには黒で統一されたハンガーに、洋服が色ごとに分けてかけられている。まるでブティックのように陳列された服の中から、松野は紺色のスウェットに手を伸ばした。

 のっそのっそと着替える姿はとても憂鬱そうだ。

 太い腕を隠す為に厚手のブルゾンを羽織り、黒いベースボールキャップとサングラス、大きめのマスクで顔を隠す。その出で立ちを姿見でチラリと確認すると、


「はあぁぁぁぁぁ…」


 と深い溜め息が漏れた。

 どこからどう見ても怪しい雰囲気満載だが、一ミリも顔を見られたくないので仕方ない。


 ―あ~~~~行きたくない…。でも、行かないとご飯が…。


 松野はうだうだと足踏みをして、項垂れる。が、パン!と腰を叩いて喝を入れると、重たい足を引き摺って玄関に行き、ゴールドのプレートの上に置いていた二つ折り財布と鍵をポケットに入れた。


 目的地は歩いて2分の所にあるコンビニ。

 できるだけ沢山の食料を買って、会話をせずにレジを終える。

 パッと選んでパッと買ってパッと帰る。

 そんなイメージトレーニングを、下降するだだっ広いエレベーターの中で一人黙々と続ける。

 集中しすぎたからだろうか。

 一階につき扉が開いた瞬間、俯いたまま歩き始めた松野は、入り口に立っていた若い女性に気付かず勢い良くぶつかった。


「うわっ!」

「キャッ!」


 驚いた松野は、足を縺れさせながらエレベーターの中に戻っていく。何が起こったのかと目を白黒させていると、ぶつかられた女性が思い切り顔を顰めた。


「ハ~~~~!?ありえないんですけど!!」


 耳を劈くようなバカでかい声が、高級感溢れるエントランスに響き渡る。ビリリ…と揺れる大きなシャンデリア。大理石の上で足を止める住人。ギョッとするコンシェルジュ達。人々の視線を一身に集めながら、女性は自分の胸元を怒りの形相で見つめている。


「あっ…」


 女性が纏う、見るからに上品な真っ白なトレンチコート。その初雪のような綺麗な生地に、彼女が持つカップから零れたコーヒーが、茶色い染みを描いていた。


「す、すみませ…」

「オイ!!」

「ヒィッ!!」


 慌てて謝ろうとする松野を、鋭い瞳がギロリと睨み付ける。

 小ぶりながらも整った目鼻立ち。チッ!と大きな舌打ちをする派手なローズピンクの唇。ブラックレザーのミニスカ、白のロングブーツ。

 長いストレートヘアを苛立たし気に掻き上げる姿は、一見普通のギャルなのに、呼吸するのを躊躇うような威圧感がある。


 視線を逸らしたら殺られる。


 そんな本能的危機を察知し、勝手に体が硬直してしまう。


「どうかしましたか、雪さん」


 立ち止まる女性の後ろから、野太い声と共に黒いスーツを着た男が顔を出す。


「~~~~~~ッ!」


 その男を見た瞬間、松野は声にならない声を上げた。

 30代くらいだろうか。長身で細身だが、体幹をしっかり鍛えているであろう体つき。ツルツルのスキンヘッド。頬にできた斜めの傷。大きめのサングラス。その風貌は、どこからどう見ても、あっちの世界の人物だ。


 ――やばい…。選りによって、まずい人にぶつかってしまった…。


 サアァッ…と顔から血の気が引いていく。早く謝らなくちゃと思うのに、出口が塞がれている状況も相俟って、頭の中がパニックになっていく。


「あ、あああのっ…その…っ」


 ダラダラと冷や汗をかきながら、突き刺すような視線に唇を震わせる。まるで子ウサギと虎。エレベーターの隅で怯える松野に追い打ちをかけるように、さらに誰かが口を開く。


「おいおいなんやねん。雪、何で中に入らんのや」


 コテコテの関西弁を話す小柄な男が、厳つい男の後ろからエレベーターを覗きこむ。

 その不機嫌丸出しの顔を見た瞬間、松野がギョッと目を見開いた。


 クルクルのパンチパーマ。数多の戦いを潜り抜けたような浅黒い肌。人を睨み過ぎてパーツが中心に寄ってしまったのでは…と思う程のゴリラ顔。グレーの高級ハイブランドスーツを纏う、小さくも厚みのある体。


 間違いない。

 この人は日本で有名なヤクザ、“浜ヶ崎組”組長の浜ヶ崎雅はまがさきみやびだ。


 ゴクリと松野の喉が鳴る。

 10年前に、大阪で開かれた知人のパーティーで見かけたことがある。極道映画に出てきそうな和装姿で奥さんと二人で参加していたから、はっきりと覚えている。

 松野は直立不動のまま、険しいゴリラ顔を凝視する。


 ――あれっ…浜ヶ崎組の拠点って、大阪のはずだよな…。


 何で東京に居るんだ…と眉を顰めてハッとする。


 この「雪」と呼ばれた女性。

 実は浜ヶ崎の愛人なんじゃないだろうか。


 浜ヶ崎は愛人に会う為に東京にやってきた――と、すれば。

 自分は、日本一怒らせてはいけない人物の愛人を怒らせてしまったという事になるんじゃ――…


 あ、終わった。


 フッ…と、膝から崩れ落ちそうになる体を、何とか壁に手を付いて支える。

 やばい。どう考えても、無事に帰れる訳がない。

 プルプルと震えながら顔面蒼白になる松野をよそに、雪はくるりと振り返る。


「ちょっと見てよ!コレ!このおっさんが急にぶつかってきて汚れたんだけど!」

「お?…ああん!?おいおいおい…これ、俺が昨日買ってやったばっかりのコートやのに…なんちゅーことしてくれんねん!」


 大砲を撃ったような大声に、松野の肩がビクッと跳ね上がる。


 ――ど、どどどどうしよう…。


 昔、浜ヶ崎組にみかじめ料を払えなくなった会社の社長が、山に連れていかれて消息不明になったと聞いた事がある。何とか…何とか穏便に事を済ませなければ。

 恐怖で冷や汗も動悸も震えも尋常じゃない。けれど、松野は必死に身振り手振りしながら口を開く。


「す…すみません!大事な彼女さんのコートを…」

「あぁ!?彼女じゃねぇわ!!娘だわ!」

「ヒィッ!すみませんッ!」


 ギュンと眉をつり上げた雪が、ドスン!ドスン!と足音を立てて松野に詰め寄る。

 鼻と鼻がぶつかる距離でメンチを切られ、松野は堪らず顔を背ける。

 流石組長の娘。

 怒気も啖呵も怖すぎる。

 ガルルルル…と狂犬の唸り声が聞こえてきそうな迫力に、でかい図体をキュッと縮こまらせながら、何とか言葉を絞り出す。


「こっ…コートは私が責任を持って綺麗にしてお返しします!」

「あったりめぇだボケェ!!」

「ウ゛ゥッ!!な、なのでっ…コートをお借りしても良いですか?コンシェルジュに頼んでクリーニングに出すのでっ…ふっ、2日後に受け取ってください!」


 58歳の大の男が、若い女性にペコペコして恥ずかしい。

 でも、背に腹は代えられない。一歩対応を間違えれば、山か海に連れていかれるのだから。

 エントランスを通る人々の好機の視線に耐えながら、ギュッと目を瞑り、頭を下げる。その深く下がった後頭部を見下ろした雪は、チッ!と舌打ちをすると、スキンヘッドの男にコーヒーを渡した。


「…汚れが落ちなかったら弁償させるからな」

「!!」


 溜め息交じりでコートを脱ぎ、松野の胸に押し付ける。


「わっ、分かりましたぁぁ!」


 パアァァッと顔を明るくした松野は、コートを大事に抱え、勢い良く頭を下げる。

 ああ、やっとこの場から解放される。

 ホッと胸を撫で下ろした松野は雪と男に深々と頭を下げ、逃げるようにエレベーターから降りる。このまま走ってしまいたいが、まだ後ろには浜ヶ崎が控えている。

 ここで粗相をしたらおしまいだ。

 殺気むんむんで睨んでくる浜ヶ崎に怯えつつ、目を合わせないように何度も頭を下げて横を通る。 

 「チッ!!」というクラッカー音さながらの大きな舌打ちに肩をビクつかせるも、無事通り過ぎようとした、その時。グッと何かが松野のブルゾンの裾を引っ張った。


「へっ!?」


 服が引っかかったような感触に、松野は目を白黒させる。

 えっ、なんで?エントランスに何か引っかかるような物なんてあったっけ?と、松野は手探りで腹回りを触る。


 ――ああ、もう!早くここから立ち去りたいのに…!


 会社の件と言い、この状況と言い。

 何でこんなに不運が続くんだ…と、泣きそうになりながら辺りを見回す松野。すると、


「うぁー」


 と言いながらジッと松野を見つめる、くりくりの瞳と目が合った。


「……えっ」


 生後半年くらいだろうか。ベビーモデルさながらの大きな瞳と柔らかそうにぷっくりと膨らんだほっぺをした、愛らしい顔立ちの赤ちゃんが、クマの着ぐるみのような服を着てベビーカーに座っている。そして、ベビーカーから精一杯腕を伸ばして、松野のブルゾンを掴んでいる。

 松野は無言のまま、赤ちゃん、そして赤ちゃんが乗るベビーカーを押している人物へと目線を向ける。


「!!」


 ――ぜ、絶対浜ヶ崎組の人だ…。


 ソフトモヒカンを頭上で固め、鋭い糸目をした若い男。

 スーツをだらしなく着崩し、怒ったらすぐに襲い掛かってきそうなオーラを放つこの男が、一般人な訳が無い。


 松野はギギギ…と音が鳴りそうな程ぎこちなく目線を逸らし、もう一度赤ちゃんを見る。

 早く通り過ぎたくて下ばっかり見ていたから、まだ後ろに人が居る事に気付かなかった。

 気付いていたら、絶対に避けて歩いたのに――。


 ――…この状況、どうしたら良いんだ…?


 ドッドッと早鐘を打つ鼓動に吞まれそうになりながら、松野はただただ赤ちゃんを見つめる。すると、松野の元にコツコツとヒール音が近づいてくる。


「ん~?どうしたんでちゅかぁ?春~?」


 長い髪を耳にかけながら、先程とは打って変わった満面の笑みで雪がベビーカーを覗きこむ。その朗らかな笑顔に赤ちゃん――春も、嬉しそうに目を細めた。


「……」


 ――え…もしかして、この人の子供…?


 幸せそうな二人を横目で見ながら、マスクの下でゴクリと喉を鳴らす。

 大変だ。さっき、コートを汚して怒られたばかりだから、今度は怒られないよう、細心の注意を払わないと。


「…ハハッ…可愛いお子さんですね。女の子ですか?」


 ――とりあえず、当たり障りのない会話をして、赤ちゃんの手を離すタイミングを探ろう…。


 松野は今できる最高の笑顔、人当たりの良い声色で話しかける。

 願わくばこのまま何となく良い雰囲気で話が進み、赤ちゃんの手を外してもらえたら…なんて考えていたのだが、甘かった。

 穏やかな雪の表情は一変し、般若のような目で松野を睨み付ける。


「はぁ~!?娘じゃねぇわ!弟だわ!」

「ヒィッ!!すみませんッ!!」


 「ぶっ飛ばすぞ!!」と凄む雪に怯えつつも、「弟」という言葉に驚く。

 春が雪の弟なら、つまり、浜ヶ崎の子供であるという事。

 浜ヶ崎はどう見ても自分と同年代。

 奥さんも、あまり歳が変わらないように見えたのだが。

 今時高齢出産が珍しくないとはいえ、本当なのだろうか?と、松野は浜ヶ崎をチラリと窺い見る。すると、ゴリラのような円らな瞳はジッと春を見つめていた。

 春は未だに松野の服を掴んでおり、手を離そうと服を引っ張ると、「えうー!」と言って唇を尖らせてしまう。


 はあ、どうしたものか。

 松野はキャップを外し、止まらない冷や汗を手の甲で拭う。その仕草を見ていたソフトモヒカン男は、松野を指差すと


「あっ、こいつ“泣き虫マッチョゴリラ”じゃん」


 と言って目を丸くした。


「!!」

「吟!おっ前…人を指で差すなって何度も言うとるやろうがぁ!」

「いてぇっ!すんません!」


 スパァン!と勢い良く頭を叩かれた男――吟は、涙目で背筋を正す。

 「お前はいつもなぁ…」と小言を言う浜ヶ崎に背を向け、松野は慌ててキャップを被る。


 ――バ、バレた…!どうしよう…恥ずかしい…逃げたい…!


 カッと体が熱くなり、キュウゥッ…と胃が絞られるように痛む。それに加えてバクッバクッと騒ぐ心臓。体の中が大パニックすぎて、頭がおかしくなりそうになる。


「ほんで?『泣き虫マッチョゴリラ』ってなんやねん?」


 方眉を上げて尋ねる浜ヶ崎。ああ、教えないでくれ!と、ハラハラする松野の祈りも通じず、吟は「ほら、あれですよ」と口を開く。


「最近ニュースになってるじゃないですか。なんちゃらジムを解任された無能な社長ですよ」

「?…あ~~!あ~あ~、あれな!そーいや今日の朝もニュースで見たわ」


 どこか楽しそうに話す二人を見て、松野のざわめく思考がスッと静まる。


 「泣き虫マッチョゴリラ」「無能な社長」

 そんな言葉と自分が結びついてしまうのが、とても悲しい。

 けれど、周りからそう思われていたことは事実。

 言い返したくても言い返せない。そんな自分が、情けない。


「ははは…じゃあ、急いでるんで失礼しますね…」


 松野は無理矢理空笑いをすると、四人に軽く頭を下げる。そして小さなお手々をソッと触り、優しく裾から離そうとする――が。


「…あっ、あれ?」


 小枝のような細い指のはずなのに、何故か指を剥がせない。


「えっ、ちょっ、あれっ?」


 赤ちゃんの力は意外と強いと聞いた事があるけれど、松野は長年体を鍛えていたわけで。


「とっ、とれな…なんで!?」


 どうにかしようとすればする程、春は“絶対に離すまい”と言うように指の力を増していく。

 テンパる松野と、不服そうな顔でジッと松野を見る春。

 まさに静と動。

 正反対な二人の様子を、浜ヶ崎は「ほ~ん…」と呟きながら見つめる。


「……社長はん…あっ、元社長か」

「!?はっ、はい!?」


 地を這うような浜ヶ崎の声に、松野はピョン!と飛び上がる。


 やばい。

 浜ヶ崎の息子ということは、大事な跡取り息子だという事。

 いい加減、大切な組の宝から離れろと怒っているに違いない。


 ――もう、何でこんな事ばっかり…!


 松野は怒鳴り声に備えて歯を食いしばる。すると、浜ヶ崎は


「……クビにされたっちゅう事は、暇って事だよなぁ?」


 と言って腕を組んだ。弛んだ皺だらけの顎を撫で、値踏みするように松野を見る。


 ――あ……なんか、嫌な予感がする。


 そう自分の直感が告げている。

 「いえ、新しい事を始めるので…」とでも言って、さっさとここから去った方がいい――と。

 それなのに、根が気弱な自分は圧倒的な強者を前にすると、いつも頭を垂れてしまう。

 幼稚園でも、小学校でもずっとそうしてきたように。


「……そ、うですね…」


 声を詰まらせながらも答える松野。

 完全降伏――そんな言葉がピッタリな。

 従順に白旗を上げる松野を見て、浜ヶ崎は面白そうにニヤリと笑う。

 まるで地獄の門を開く悪魔のような笑みに、ゾワッと全身に鳥肌が立つ。

 恐怖で固まったまま動けない松野に、浜ヶ崎はゆっくりと顔を近付ける。そして、


「ほんなら…ちょーっと面かしてくれませんかねぇ」


 と言うと、口角をさらに吊り上げた。


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