第15話 冷たい目

「有栖、起きろ」

「起きてるし」

「降りろ、重い」

「はー?おにいが抱っこしてくれただけでしょー?!いいもん、言われなくても降りるからー!」

「さっさと降りろつってんだよ!」

「姫様に何たる口を聞いておるか馬鹿者め!」


 教室を出て、廊下を歩いて、下駄箱までの道のりはとても静かだったのに、下駄箱に到着した途端に騒ぎ始める樟葉と有栖。それに乗っかる桜華、という何ともカオスな光景に、裕翔は目を丸くした。


 樟葉はこんなにも賑やかだっただろうか。

 桜華もこんなに表情豊かなのだろうか。


 そんなことよりも。


 有栖は、こんなにもくるくると表情が変わるのか。


 長く艶やかな、一目見てしっかり手入れされていると分かる黒髪。ぱっちりとして少しつり目がちな茶色の目と、均整の取れた体。


 あの時はまじまじと顔を見ることはしていなかったけれど、こうして見ると有栖がとんでもない美少女だということくらい、分かる。分かりすぎるほどに、だ。


 くるくると表情が変わり、兄に対してと玲に対して、そして桜華に対して笑顔を浮かべ、笑いあって、ふざけ合っている。

 さっきの殺伐とした雰囲気でもないし、玲だってあれだけ怒っていたにも関わらず、有栖に対して、そして樟葉に対しては兄である自分が見たことないくらいに笑いあっている。


「……え……」


 思わず裕翔の口から漏れた声に、はっと有栖が気付いた。


「……」


 騒いでいたのがぴたりと止まり、有栖の雰囲気があっという間にひんやりとした空気を纏う。

 そして、笑顔は消え失せ、何も興味を示していないような、まるでガラス玉のような目になってしまった。


「あ、あり、す……」


 裕翔が名前を呼んでも、聞こえていないような雰囲気のまま、ふい、と視線をそらされてしまう。


「有栖」


 樟葉が呼ぶと、そちらを向いて兄の制服の裾をぎゅう、と掴んだ。


「帰るぞ」


 樟葉の言葉に有栖はこくりと頷き、裕翔のことなど見向きもせずに上履きからローファーに履き替える。

 上履きを下駄箱にしまってから、無言のまま歩き出す有栖に手を伸ばそうとした裕翔だが、玲が裕翔の手首を掴んだ。


「お兄ちゃん、やめて」

「玲…?」

「…やめて、あげて」


 裕翔の手首をぎゅう、と掴んだままで玲は顔を顰める。


「有栖のことは、しばらくそっとしておいて」

「けど…!」


 謝りたいんだ、そう続けたけれど有栖が立ち止まってから振り返り、冷たい視線のまま口を開いた。


「……あなたに、謝られる意味が、私には分からないです」

「っ」


 温かくなく、ただひたすら冷たい声音。

 聞きたかったはずなのに、聞いてしまったらその声に温度が欲しいと思ってしまう。

 どうしようもなく、胸が締め付けられてしまう。


「僕は、君に酷い暴言を!」

「だって、あなたは私のことをハズレだ、って、そう…んでしょう?」


 何かを知っているかのような、意味ありげな有栖の言葉の意味が分からず、裕翔は顔を顰めた。

 だが、裕翔が口を開いた途端に姿を消していた桜華が、またすぐに姿を現した。

 桜華は呆れたような目を裕翔に向けており、裕翔が戸惑っているとすい、と近寄ってからそっと耳打ちする。


「そなた、哀れにも狐に化かされておる」

「え…?」


 自分は九尾狐の異能を持っているのに、とは何なのか。


「僕が?」

「まぁ、自覚などしておらんじゃろうて」


 この千年桜の精霊は、余程のことが無ければこうして姿を現したりはしない。

 それこうして姿を現しているのだから、今回のことは余程なのだろうが、一体何がどうなって、という感覚にしかならない。


「そもそも僕を化かせるなんて、そんな奴がいたらそいつが当主に」

「己を過信しすぎておる馬鹿か、あるいは化かす側が一枚も二枚も上手か」

「は…?」


 ふむ、と考え込んだ様子で、桜華はするりと有栖の元へと戻っていった。

 一体何がどうなって、しかも自分が化かされているだなんて誰が信じられるものか、と裕翔は大きな溜息を吐いた。


「お兄ちゃん」

「あ、玲」

「桜華様と何の話?」

「ああ…何だかよく分からないことを言われてね」

「え?」


 桜華は有栖の元に戻ると、有栖の小柄な体を抱き締めて、樟葉と有栖と三人でじゃれ合っている。

 有栖が『桜華、抱き着かれたままだと歩きにくい』と言えば、『姫様に負担をかけぬようにしておる!わらわの癒しの時間を奪うなど殺生な!』ときゃんきゃん叫んでいる。

 そんなじゃれ合いの様子を見ていると、さっきの桜華の言葉の意味は尚の事意味が分からなかった。


「僕が、化かされている、って」

「…」


 裕翔の言葉に、玲は一つだけ思い当たることがあった。

 あまりにも有栖のことを裕翔が否定し続けるから、両親に相談したことがあったのだ。


 両親は揃って『祖父母の偏った思考回路に染まりきっているのだろう』と言い、きちんと自分で自分のことを考えられるようになれば、いつかはそんなことはなくなるだろうから、と言っていた。


 もし、それが桜華の言うという状態だったとしたら…?


 有栖のことにだけ、過剰ともいえる拒絶反応を示すのは、もしかして…。


「(いや、そんなわけない。化かされるっていうよりも、お兄ちゃんがおじいちゃんとおばあちゃんに言いくるめられて偏った思考回路の持ち主になっちゃってるだけよ)」


 さすがに考えすぎか、と玲は自分自身に言い聞かせるようにしてゆっくり深呼吸をする。

 そして、じゃれている有栖と桜華のところに歩いて行く。


「有栖」

「あ、玲。ごめん、桜華とじゃれてた」

「いつものことでしょ。先生には私が伝えておくし、…見られたから少し…休んでおいた方がいいよ」


 下駄箱に来るまでの間に、一度玲は引き返して有栖の最低限の荷物を持ってきてくれていた。

 恐らくスマホは有栖自身が持っているだろうし、最低限の荷物が入ったカバンさえあれば、特に問題ないかと判断したのだ。

 玲が持ってきてくれたカバンを見て、有栖は問題ないと言わんばかりににっこりと笑う。


「ありがと」

「それだけで足りる?」

「うん、教科書は基本学校に置きっぱなしだし、迂闊に色々持ってくると壊されちゃうし」

「カバンが軽いはずね」

「えへへ」


「ほう」


 悪戯っぽく有栖は笑ったが、すぐさま樟葉が背後に立って有栖の頭をわし掴む。


「…おにい、こういうときは耳ざとい」

「この前持ったお前のカバンがやけに軽いと思ったが、そうか」

「しょうがないじゃん、落書きとかされちゃうんだからー」


 あっけらかんと言われた内容に、樟葉は手を離してそのままの流れで有栖の頭をわしわしと撫でる。

 学校での出来事を積極的に話さなかったのは、こういうことかと納得したが、桜華や玲がついていてくれていたから大丈夫だったのだろう。


 しかし、翡翠眼が発現したことはクラスの人間に見られていただろうから、今度は別の意味で有栖が大変なことになってしまうことが安易に予想できる。

 これまで有栖を虐めていた人たちが手のひらを見事にひっくり返すに違いない。


「…まぁ、今日はもう帰るぞ。母さんと父さんに相談する必要がある」

「はぁい」

「有栖、後でメッセ送るね」

「ありがと、玲」


 ばいばい、と手を振る有栖に何か言わなければ、と思った裕翔だが、体は動いてくれそうにない。口だって、うまく動いてくれそうにない。


「…っ、あ」


 今度、話したい。

 そう言いたかったのに、何も言えないままの裕翔の前を有栖はすっと横切る。


 まるで何も見えないような勢いですたすたと歩き、そのまま樟葉と校舎を出て行ってしまった。


「お兄ちゃん」

「…何も、言えなかった」

「いや、そこそこ会話してたから」

「けど」

「お兄ちゃんが、自分の言いたいことを言えなかった、っていうだけでしょう?自分の気持ばっかり押し付けようとしないで」

「…っ」


 自覚はしていなかったが、そうか、と裕翔は妹に言われてようやく気付いた。


「僕は…」


 どこまでいっても、自分勝手だ。

 裕翔は言葉を呑み込んで、ぐっと拳を握る。


 そんな裕翔を見て、玲は帰宅次第また、両親に相談しようと決めた。

 兄が言っていた、『化かされている』の意味を、きちんと確認しなければいけないから。

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